3.チェイス 
 
 思わず時計を確認したのがまずかった。 
一拍遅れて気配を察知したため、反射的に動いた身体が鞄をぶん回して相手を叩き落とし、 
続けて勢いよく蹴りを回し入れてしまった。 
「ぐぁッ……!」 
横っ腹に蹴りを入れられた相手が、床との摩擦音を立てた机らとともに力無く押し出されていく。 
まずい。今のは「咄嗟に手が出ちゃいました」で済ませられる範囲だろうか。 
振り返って身構えると、予想外の反撃だったのか、うろたえた風に連中の動きが止まっていた。 
俺はそのありがたいチャンスを棒に振る気など更々無い訳で、駆け出し、引き戸を叩き付けて 
教室を飛び出した。 
背後では苦々しげに机の間を掻き分けて飛び出すような気配がしたが、1ミリたりとも振り向く 
余裕は無い。 
嫌と言うほど廊下に足音を利かせて一気にストレートラインを駆け抜け、突き当たりを左へと、 
今度は駆け上がる。 
なるべく奴らの想定の裏へ動きたい。 
カンカンカン、と甲高い音が勢いよく響き、遅れて同じ音が出鱈目に鳴らした鐘のように後に続く。 
「――おい! 上に逃げたぞ!」 
逃げている時に聞きたくないベスト5に入りそうな声を耳にして、否応無しに心は逸る。 
鞄が邪魔だ。 
殺気が追ってくる階段を5階まで上り切り、6階には向かわず廊下へ折れようとして、俺はやむなく 
足を止めた。ちらりと背後に視線を遣る。 
「藤沼ァ……!」 
中央階段を避けた時点で来るかも知れないと案じていたが、物の見事に追っ手に回り込まれた。 
にちり、とした口調で俺の名を唸った相手は、教室にいた10余名の内の1人だったか、どうだか 
覚えが無い。 
「テメェ、ハァ…予定に無い、ハァ…こと、してくれてんじゃ、ハァ…ねーよ……!」 
そっちの都合など知るか、と叫び返したいところを、俺は喘鳴で応える。 
追うと追われる立場の場合、その強いられる緊張と疲労度は格段の開きがある。 
迫り来る足音とともに、影が背後の踊り場に映った。 
目の前の奴は足留めか!? 
1対10+α。俺の脳は導き出される予想事態に警鐘を鳴らす。 
俺は走り出し、鞄を大きく掬い上げて―― 
「ってオイ、テメェ! 人の話――ぐおっ」 
俺はせめてもの弔いに、どさりとその場に倒れ伏した姿を一瞬だけ網膜に焼き付けるために 
振り返った。 
やっぱり鞄はあった方がいいな。 
念のために入れておいた辞書が、威力強化に多大なる功績を上げている。 
再び走り出した俺は、勢い余って壁にぶつかりながらも右に折れ、踏み越えられる屍を尻目に 
最後の階段を駆け上った。 
 あと少し、という時が一番もどかしく感じる。 
埃舞い散る薄暗い階段の、小さな窓から差し込む弱い光でさえ光明に見えて、俺はへばりそう 
になりながら目の前のノブに手を伸ばした。 
続くのは最上階、屋上。 
転がるように、実際に空足を踏みながら数歩進み、慌てて体勢を立て直す。段差を忘れていた 
ため、今のはかなり両脚に来た。 
深呼吸する間を惜しんで萎えた脚に鞭打ち、俺は柵へと駆け寄ると、がむしゃらにフェンスを駆け 
登った。合間に鉄扉が跳ね飛ばされる音がする。 
身体が浮遊感を味わう間に目に映った空は、まだ端が青く澄んでいた。 
――俺はゆっくりとその場から立ち上がった。 
轟々と流れる風が、汗が吹き出る身体を心地よく包む。 
圧倒的なまでに聳(そび)え立つフェンスの向こう側は、マラソン大会完走直後のトラック内に 
累々と屍る風景によく似ていた。 
思わず休戦でも唱えたくなるような清々しい心地で口を開こうとして、それを止(とど)める。 
連中の眼は死んでいない。柵さえなければ、余力のある者から飛び掛って来そうだった。 
時間も無い事だ、とっとと暇を告げよう。 
「じゃ、お疲れ!」 
さすがに疲れて引きつってはいたが、俺は男達に向かって笑みを作ると、ひょいと縁から宙へと 
身を躍らせた。 
へたばった面々の強張る顔が飛び降り様に見えて、ひとりほくそ笑む。 
――下には勿論、床がある。 
「〜〜〜っ!」 
ダスン、と音がして、足裏に掛かった圧に声にならない悲鳴が漏れる。 
ここで振り返ると次々と影が降ってきて――と、いうような展開を一瞬想像したものの、見えたのは 
琥珀色に染まり行く空だけで、俺はほっと胸を撫で下ろした。 
心臓に良くない一日だ。 
コンクリートの階段を駆け下り、最後に追っ手が無い事を前後確認すると、俺は非常階段を 
後にした。 
 
 大体俺には、人に囲まれながら告白の返事をするなんて趣味は無い。 
彼女は返事が無いことに焦れたから現れたのだろうと想像が付くからいいとして、連中は一体 
どういうつもりだったんだ。 
再会現場を押さえるつもりなら彼女に張り付いていればいいものを。何故、俺をマークした。 
――と、独り疑問を浮かべたところで答えてくれる人間は周りに存在しない。 
尾行を撒くことに成功し、現在捜索されている真っ最中、で見つからない状況であることを祈る 
ばかりだ。 
しかし、追い掛けてきたのが連中の全部では無い訳で……てな具合に願望と疑惑が纏わりついて 
頭から嫌な想像が離れない。実は俺の動きを見極めるための陽動だった可能性もあるからな。 
自分で考えておいて、俺は更に息を潜める。 
……俺は今、本当にひとりだろうか。 
振り返り、振り仰ぐ。 
特に何も視界に変化は無かったが、今の行動で意味も無く疲労が溜まり、溜息が零れた。 
 一体全体、何がどうしてこうなってしまっているのか。 
きっかけは、俺達の入学式の少し後辺りの話になる。 
 
 昼休みは、腹を空かせた生徒で賑わう食堂での事だった。 
彼女は友人と昼食を取るため、食堂へとやって来た。 
入学式後の騒ぎはようやく小康状態へと向かい、気分転換に来た――かどうかは定かでは無い。 
何にせよ彼女達は運良く角の席を確保し、その場で二言三言会話した後、ちょうど背後を通る人が 
いるとかで、彼女がテーブルの外へ一歩身体を出していた時の事だった。 
ガツンと前方不注意の輩が後ろからぶち当たり、彼女はよろめいた。 
彼女の真新しいブレザーにお茶が掛かるが、男は舌打ちし、零れた湯のみを直すと悪態を吐いて 
踵を返した。 
もし、この衝突した・されたのが彼女とこの男では無く、あるいは片一方だけでも違っていたならば、 
この先の展開は違っていただろう。 
 しかしながら、運命の神様なんだかは次の状況をこの世界に齎(もたら)した。 
「お待ちなさい」 
ぽたりぽたりとブレザーから雫が垂れるのも厭わず、彼女は男を呼び止めた。 
「あぁ?」 
呼び止められた男は、有り体に言えば、人相の宜しくない人間だった。 
男は柄が良くないことで有名な2年生で、当時の3年も避けて通る感じだったらしい。 
「お待ちなさいと言ったのです。ぶつかっておいて詫びもせず、更には聞くに堪えない言葉で 
人を謗(そし)り、去ろうとするのは一体どういうおつもりなのですか」 
「高潔な姫君」という言葉がぴったりだったと、現場に居合わせた人物は後に評した。 
怒気を孕んだ彼女の挑発に、顔だけ振り返らせていたその男は、ゆらりと身体を彼女の方に 
向き直らせる。 
1年の華奢な総代vs2年のがたいのいい不良。 
どう見ても勝負は明らかだった。 
不穏な空気が渦巻く状況に気付いたであろう周りも、止めるか否かでうろたえたのが容易に想像 
できる。 
だが、既に剣呑漂う雰囲気は、一触即発の事態にまで差し迫っていた。 
「おめー1年だろ」 
「それが何です」 
「俺のこと知らねえなら、知っておいた方がいいのかもな」 
と、持っていたトレイを傍の机に置き、男は乱暴に彼女の腕を掴んだ。 
周りは退避済みで、止められるような人間はその机の近くにいなかったらしい。 
まずいと誰もが思う中、彼女は動じもせずに言葉を発した。 
「謝罪するつもりは無いのですか」 
男はその言葉を無視して彼女の腕を引いた――その時。 
「痴れ者!」 
彼女は空いていた右手で、雷光の如き張り手を食らわした。 
バチンと凄い音がして男は後ろのテーブルまで吹っ飛び、そのまま床に崩れ落ちる。 
完璧に入ったと誰もが息を呑んだ――そこに彼女の怒涛の口撃が始まった。 
「この、戯け者! 人を侮辱し、不快感を与えるような言動が罷り通って当然などとお思いですか!  
その上、注意が気に入らないと人を脅迫するような振る舞いまで! その分だと、どなたからも 
注意を受けずに今まで過ごされて来られたようですけど、そんな事ではこの先どんな人生を 
歩まれるか目に見えています。今なら己の傲慢かつ不遜さに気付き、更生するのに充分な時間が 
あります。人に尊敬されたいと思うなら、まず自身が尊敬されるべき態度を示さなくては――」 
 長いのでここらで省略させてもらう。彼女も鬱積していたのだろう。 
とにかく、彼女は男を罵倒し、更に素晴らしい肺活量でもってこんこんと説教を与えた。 
誰にとってもこんな場面は人生に一度有るか無いかの出来事だろう。いや、あっても困るが。 
 張り手を食らい、ピクリとも動かずにいた男は、引き続き説教中の彼女のある言葉に身じろいだ。 
「――さっきから黙ってばかりですけど、聞こえているのでしょうね? 黙ってないで、何か仰い」 
男は虚ろに顔を上げる。 
「……はい、俺が、俺が間違っていました…女王様……」 
断言できる。 
その場にいた全員の頭の中が、「え」で覆い尽されていただろう事を。 
何故そこで「女王様」が出てくる。説教はプレイなのか。 
 何かのスイッチが入ったらしい男は、がばりとその場で土下座をする。 
「お許しください……俺は未熟で、今まで人を尊敬したことがありませんでした……しかし、今――」 
同じく略。男は悔恨の涙を流して跪き、当事者以外は金縛りにでもあったかのように、その不幸な 
奇跡の寸劇を硬直したまま見続けていた。 
 
 と、このように彼女の行為は1人の男を更生らしき方向へ導いただけではなく、思わぬ波及 
効果を生み出した。 
この事件を目撃し、感銘を受けた男達がいたのだ。 
彼らは導師となってあちこちで彼女の所業を説いて回り、その感動を余すことなく伝えることで 
ぽつりぽつりと洗脳者を増やしていった。  
(かどうかは不明だが、)その口伝えで、被洗脳者数は非公認ファンクラブの設立へと至る規模 
まで拡大し、ついに彼女は隠れながらも崇め奉られる存在になった。 
まあ、元々潜在的需要はあったとは思うけれども。 
現在その会には、全校男子生徒の半数近くが所属しているとの噂だ。 
勿論の如く、俺は正確な会員数なぞ把握していないし、活動内容についても知らん。 
少しは知っておくべきだったと、今、懊悩する羽目になっているが、世の中知らない方がいい事も 
あるからなあ。 
 ちなみに、この叱責された人物は今の生徒会長だというのだから、本当に人生とはどう転ぶか 
分からない。 
生徒会長は、彼らのカテゴリーに属する人の中で最もラッキーだと言われてきた。 
何せ彼女は、今まで男嫌いだと目されてきたのだから(ただいま絶賛看板撤廃中)。 
以後、彼女に触れた男は皆無らしい(今日の午前8時57分までの記録より)。 
蛇足的後述ながら、咬(か)まされた平手は跡が残らなかったそうだ。恐るべし、相川鈴音。 
 
 さて、そろそろ行動を起こさねばまずい。 
初っ端から殴りかかられ、押し合い圧し合いの中、イカれ狂った男どもに捨て身の間接キスを 
挑まれ(教科担任が入って来なければ危なかったかも知れない)、情報が伝播していくにつれて 
集まる耳目で気分が悪くなり(中には殺意の眼差しもあり)、至る所から投げ込まれる白手袋代用 
の軍手をことごとく躱し続け(ここは日本だ)、俺はよく頑張ったと思う。 
でも、そんなものは今日で終わりだ。 
「……1・2の3…っと!」 
勢いを付けて後ろ向きに身体を投げ出し、人気の無い、特別棟2階のトイレの外壁から飛び降りる。 
生い茂った草のお陰で、着地は先ほどより悪くない。 
先に落としておいた靴を探し、履き替えた。上履きは仕方ないが、持って出る他あるまい。 
うっかりトイレで履き替えて、その足跡を発見されることまで想像した俺を笑いたければ笑うがいい。 
ここから北に行けば裏庭に行き当たるのだが、念のため遠回りしていけば安全だろう。 
俺が若干汗臭いのを嫌がられなければいいのだが。 
周囲に人の気配が無いことを確認すると、俺は狂信者溢れる校舎から離れた。 
 

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