4.キス・パラドックス 
 
 うちの学校では、誰が決めたか、告白と言えば裏庭の樫の木前が定番である。 
まあ、確かにほとんど人が立ち入らない奥まったところにある場所だし、打って付けと言えば 
打って付けだ。 
最初からここを指定してくれればこんな混乱も起きなかったのに、という気持ちもあるが、今更 
言ったところで始まらない。 
果たしてその場合、俺が呼び出しに応じたかどうかも怪しい。 
 さて、俺の彼女に対する評価だが、崇拝する以外の一般人とさして変わらないと思う。 
――綺麗だけど近寄りがたい。 
それがいいと言う人間がこの学校には大勢いるが、埋没人生万歳主義者である、ただ人生を 
平穏に過ごすことを望む俺には、どう言葉を繕っても持て余す存在と言う他無い。 
 食堂の事件以来、彼女の名前は以前にも増して全校に轟き、何となく敬遠されがちだったクラス 
メイトの輪から更に二回りくらい溝が出来てしまったように見えた。 
導師達の吹聴もその一端を担っていると言えるだろうが、彼女がそれを知っているか定かでは無い。 
 周囲に人を寄せ付かせず、内心ひれ伏してまで秋波を送る男なんぞ道端の石ころ状態で見向きも 
しない、常に硬い表情でいるその姿から、彼女は「氷姫」――なんて渾名されるようになった。 
厚いベールで覆われ、誰も彼女には辿り着けない。 
そんな意味も含まれているかのような渾名だというのが、聞いた当時の印象だった。 
それをぶち壊す人間がいるとも、ましてやそれを打ち砕く要因そのものになるとも想像した事すら 
無かった。 
 
 濃い緑の匂いがする茂みから身体を起こすと、音に反応したのか彼女が振り返った。 
「藤沼くん……? どうしてそんなところから……」 
「すまん。諸事情で遅れた」 
匍匐前進でここまでやって来たのだが、時間が掛かって仕方なかった。 
腹這いになっているところを捕らえられたら元も子もないため、慎重にならざるを得なかった俺は 
究極にびびりだとは思うが、労力を掛けるだけに見合う状況に俺は今立ち会っている。 
――すなわち、彼女との対面。 
これを逃したら、次はいつになるのか見当も付かない。 
「それは構いません。来ていただけただけでも嬉しい…ですから……」 
制服や身体に付いた草や乾いた土を払いながら顔を上げる俺とは対照的に、彼女の目は泳ぎ 
俯いていく。 
今この目で、片思いの相手を前に立つような態度を見ても未だに信じられん。夢かと思う。 
本当に、何故俺なのか。 
告白された夢でも見た方がまだ有り得そうな有り得なさ。 
――例えば、見込みの無い片思いをしていて、それが叶えられそうに無い場合。 
――例えば、ごく最近こっ酷く振られて、振った相手をぎゃふんと言わせたい場合。 
そんな状況なら、たとえ気持ちが無くても気紛れに彼女の手を取る事もあるかも知れない。 
だがしかし、別に俺は今、傷心状態でも何でもない訳で、そんな可能性は万に一つも無い。 
いくら彼女が美人で、虚栄心を満たせるのに充分な逸材だとしても、そんなものに興味の無い 
人間だってこの世には少なからず存在する。 
どんなに美辞麗句を並べ立てたところで、彼女は俺に平穏を与えてくれない存在で、つまり、 
特別にはならない。そういう事だ。 
「相川、告白の返事なんだが……、」 
「……はい」 
一瞬ぎこちなく身体を震わせたが、顔を上げる気は無いらしい。 
「断る」 
俺は短く言い切った。 
近くに立つ樫の木が一斉にざわめき、そよぐ髪で更に彼女の表情が隠される。 
「告白は嬉しかった。だけど俺は相川のことをよく知らないし、何より……、その、痴女は、ちょっと 
な……、趣味じゃない」 
彼女は固まったまま動かない。 
言い過ぎたか。いや、今日俺が遭った目に比べたらマシな方だと思うんだが。 
振られたところで矢印を向けている男はたくさんいるし、失恋に浸る余裕も無い勢いで次の出会い 
もあるだろうよ。 
逆にこれで男嫌いに戻って拍車が掛かる事もあるかも知れないが、俺の知ったこっちゃ無い。 
それより、男にいきなりキスをする方をよっぽど反省してもらいたい。切実に。 
あれのお陰で、俺はしばらく身辺の注意を怠れない生活を送ることになりそうだしな。 
「それじゃ。返事が遅くなって悪かったな」 
何か言うかとしばらく待ったが、その期待も空振り、俯いたままの彼女を置いて俺は帰宅した。 
 
――と、ここで話が終われば良かったのだが、そうは行かなかった。 
   話は翌朝の事だ。 
 
「――先に行くからな!」 
 俺は返事を待たずに玄関に向かって言い放ち、家の門扉を閉めた。 
「おはようございます」 
落ち着いた声が背後から掛かり、俺は聞き覚えのある声にのけ反った。 
肌が粟立ったのも構わず振り返り、その存在が想像通りの者なのか確認しようと目を凝らす。 
「……おはよう」 
相川鈴音は淡く微笑んでいた。 
昨日、何だかんだで彼女の魅力に毒された俺は、思わず付き合うなどと寝惚けたことを言って 
しまったのか、と一瞬混乱したが、昨日の行動を振り返り、きっぱりと断った記憶が現れ安堵した。 
「何の用だ」 
出来るだけ警戒心を露わにして俺は尋ねた。 
しばらく俺の顔を見たくないと思わせるように、結構、いや、とても酷い事を言った自覚はあるぞ。 
「はい。一緒に登校させていただこうと思いまして。構わないでしょうか?」 
「俺は昨日、断ったよな」 
「はい」 
それがどうしたのか、というような顔をされて、俺は面食らう。 
「お断りされた理由が、私をよく知らない、とのことだったので、私の事を知っていただくことに 
致しました」 
意外にしたたかだ。そう来るとは。 
「俺は知りたいと思わなんだが」 
「そうおっしゃらずに、どうかチャンスを。知っていただく機会を設けなかったこちらに落ち度が 
ある事は百も承知です」 
擦り寄られて壁まで後ずさると、悲しげに瞳が揺れた。 
哀願から目を逸らし、しばし次の言葉を逡巡する。 
「それじゃあ、昨日までの事はどうなる。俺は断ったんだぞ。そこに至る結果全てを無かった事に 
するのか?」 
「無かった事にするのは難しいでしょうが、私と藤沼くんが出会うきっかけだと思えば」 
「痴女呼ばわりしたことは気にしてないのか?」 
「私に振り向いてくだされば、それも無意味な言葉に変わります」 
ええと、つまり、もし俺がこの先彼女に惚れるような事態になれば、たとえ過去に無理矢理キス 
され、その時点では痴女行為だと見なしたとしても、未来で恋人になればそれもいい思い出の 
一部になる、という事だろうか。 
「取りあえず行きましょう。遅刻してしまいます」 
彼女は身を翻すと、駅に続く道を歩き始めた。 
 
 こうなると誰が予想したであろうか。 
未だ呆然の体から抜け切れない俺だが、それでも足は駅へと向かう。 
夢なんじゃないかと幾度となく頬をつねってみても覚めやしないし、そもそも夢の中ではそうそう 
それが夢だとは疑わないものだ。 
現実の悪夢。 
悪夢はあれから一度も振り返らず、ただ陽に透かされて茶色に艶めく髪を優しくそよがせ、淡々と 
歩を進めている。 
プリーツスカートの裾は淡く波打つように揺れ、ちらりとでも太腿の裏側を見せることは無い。 
「――相川、こっち」 
振り返った彼女が小首を傾げた。 
「そっちだと遠回りになる」 
あ、いや、別に今のは一緒に行こうという意味合いの言葉じゃなくて、次の電車に乗るつもりなら 
こっちから行かないと間に合わ―― 
「良かった。もうお傍に寄ることすら適わないかと思っていました」 
まあ、いいか。放っといて万が一道に迷われでもしたら困るし。 
俺は返事の代わりに溜息を落とし、近道の公園へと身体を方向転換させる。横に並んだ彼女も 
続いて公園の敷地に足を踏み入れた。 
ツツジが咲き乱れ、ブランコ、鉄棒、ジャングルジムなどが立ち並ぶ、その名もまんま「つつじ 
公園」を、彼女はもの珍しげな表情で見回している。 
「この公園がそんなに珍しいのか?」 
「い、いえ、そんなことは……あ、あの、そうです、何か私に関して聞きたい事はありませんか?」 
「聞きたい事?」 
「はい。趣味、特技、家族構成など、分かる範囲であれば、何でも答えさせていただきます」 
その問いに、俺は電柱の上を飛び去るスズメに目を遣りながら思考を巡らす。 
聞きたい事……聞きたい事、ねえ。 
特に無いと切り捨てたい衝動にかられる一方で、その要望を看過し切れない問いが2つ、胸の 
内に燻っている。 
悩んだ末に、俺は口を開いた。 
「じゃあ、聞くが。何で俺なんだ? 今まで話した事も無し、関わりがあった訳でも無し。どうして 
俺を知ってるんだ? 正直、相川が俺を知っているってだけでも驚いたくらいなんだが、そんな 
俺のどこが良かった?」 
「き、聞きたい事というのは、そういう事では無くて……その……」 
矢継ぎ早に畳み掛けた俺の質問に、彼女はあからさまにうろたえて目を伏せる。 
俺が尋ねた姿勢を崩さずじっと視線を振っていると、観念したのか一瞬当惑顔をこちらに向けた。 
「ええと、……一目惚れです」 
顔で惚れられるほどの容姿じゃないのは、本人が充分に承知しているんだが。 
「去年の体育祭、リレーに出られてましたよね」 
俺の視線をどう受け取ったのか、彼女は俺を窺うように覗き見る。 
くじ運の悪かった俺は、体育祭の種目決めで最も揉めに揉めた4×100メートルの選手に 
なってしまっていた。それを思い出して肯定する。 
「よくよく考えてみるとそうなんだと思います。ちょうど私の目の前がバトンを受け渡す地点で、 
トラックに立つ走者一人ひとりの眼差しがよく見えて……、中でも藤沼くんが一番、…一番格好 
良かったです」 
「…それはどうも」 
ああ、そういう事か。それなら納得が行く。 
でかい行事の時に罹りやすいある種の興奮状態の中だと、普段の3割増しくらい異性が良く 
見えたりするもんだ。 
修学旅行の最中にカップルがよく出来たり。んで帰ってきて1ヶ月も持たなかったりとかする 
ような。 
……あれ、それならそんな効果とっくに切れててもおかしくないはずだが。 
話題を変えよう。 
「そう言えば、相川はどこに住んでるんだ? まさか、学校の反対側からわざわざここまで来たって 
事は」 
「いえ、それは。玖桜ですから通り路です」 
「へー、玖桜か……」 
って、さらっと言ってくれるが、玖桜というのは、すんごい金持ちだけしか住んでいない、ごく 
限られた世帯を指す言葉で、外周に住む人間がそこに住んでいると見栄で口にするものなら 
たちまち嘲笑されるような、それはそれは立派な屋敷が立ち並ぶ異次元空間だ。 
おいおい。いいとこの人間だとは立居振る舞いから想像は付いたが、ここまでなんて聞いてない。 
何でそんなお嬢様が普通の私立校なんぞに通ってるんだ。 
身に釣り合う高校なんて他にいくらでもあるだろうに。 
……いや、深入りするほど彼女に興味がある訳では無いし、道すがらの話の種とする程度で 
ここは流しておこう。 
「そ、そんなに凄いところに住んでるって事は、ここまでは車で?」 
「いえ、電車です」 
金持ちって移動は基本、車でするもんだとばかり思っていたが…… 
と、そこまで聞いて、はたと疑問が浮かび上がった。 
「なあ、相川」 
「何でしょう」 
「どうして俺の家を知っている」 
朝、当たり前のように現れたが、俺は家の場所を教えた記憶が無い、というか、初めて喋ったのも 
ここ一週間ほど前の事である。 
「ええと、…調べました」 
誰が、いつ、どうやって? 
それ以上は黙して語らない彼女を見て、何か恐ろしい相手に目を付けられたんじゃないかという 
不安が、俺の中でもたげ始めていた。 
 
 「新聞部の逆襲」――心境を目次タイトルにして表すと、こんな感じだろうか。 
 道中、質問することで、だんだんと己の首を絞めている気分になり、詰まって逆に尋ねる権利を 
譲ると、ますます己の首が絞まることとなった。 
彼女は見た目が放つ印象よりもよく喋り、物怖じしない。 
 傍目にはどう映ってるんだろうなあ、この状況。 
「一部貰ってきました」 
棒立ちになってしまってぴくりとも動けない俺を尻目に、彼女は俺に駆け寄り、手元の紙を 
見せてくる。 
「でも、振られたって書いてあります。事実と言えば事実ですけど……」 
なあ、相川。俺の背中に千本くらい矢が刺さってないか? あと、足にも何か絡み付いている 
ような気がするんだが。 
目の端、右にも、左にも群がる人、人、人。 
バナナの叩き売りのテンションで号外!と喧しく叫ぶ輩のせいで、先月の新入生の部活勧誘時 
よりも活気溢れる学校の玄関口は騒然としていた。 
新聞部。得意気に新聞をばら撒くな。おまえらはそんなにも俺を殺したいのか。 
ああ、そこの厄介そうな雰囲気を纏う男はあれだな。更に厄介事を運んでくる気満々だな、おい。 
その電話で援軍でも呼ぶ気か? 
「……この写真、誰が撮ったんでしょうね」 
 誰だ、この写真を新聞部に渡したのは。 
撒き散らかされているその新聞の一面には、俺と彼女が唇を重ね合わせている画が、見ように 
よっては俺が彼女を引き寄せていると取られかねない瞬間の画が、くっきりと印刷されていた。 
「欲しいな……」 
世界が廻る。 
 
 以下、発狂する数秒前にて、この先見苦しい事この上なく、これにて失礼仕り候。 
 

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