5.ふる新聞 
 
 早起きは三文の徳、と言うが、本当に全く、昔の人は良い事を言うものである。 
幸い、混雑のピークよりも早めに来たために、出回っている、もしくは出回りかけている紙片を 
粗方押さえることに成功し、局地的パニックによって踏み潰された紙面をよもや拾ってまで読もうと 
する人間は存在しないことにし、それでも環境破壊の恐れがあるために全て回収し、裂けるだけ 
裂いて焼却炉に放り、ようやく平穏が訪れたかと思いきや、下駄箱から漫画でしかお目に掛かれない 
ような手紙の雪崩落ちを見るに至っては、乾いた笑いしか出て来なかった。 
「お前と相川さんのキス写真、いい値段で売れたとよ」 
「ほほう」 
 俺は眼前の手紙から目を離し、自分の席に跨った安堂に視線を移した。 
「――凄いな、それ」 
安堂は本当にそう思っているのかと問いたくなるほど平淡な口調で感嘆し、俺はパンクな筆致で 
幾重にも書き殴られた「死ね」で埋め尽くされている紙片を再度一瞥すると、溜息を吐いた。 
「そうか? どいつもこいつも似たような事しか書いてないから、斜め読むにも値しないぞ」 
くしゃりと握り潰したそれをゴミ箱に落下させる。 
最後の一通、机の中にまで入っていたそれらを全て捨て終えると、どこからか舌打ちの音がした。 
朝っぱらからこのゴミの量は我ながら感心できないと、重さで沈んだゴミ袋を見て嘆息する。 
今日のゴミ捨て当番には悪いとは思うが、後は頼んだ。 
怨念、怨嗟入りの手紙は殊の外よく燃えるだろう。というか、燃やし尽くしてくれ。 
「――で、それは誰が新聞部に売ったんだ?」 
俺がまさに核心に迫ろうとしたその時、 
「ウーッス、おはよう勇者。見たぜ号外、すっごいはハケてたな」 
勇者って何だ。勇者って。 
聞き覚えのある声に振り向くと、教室の戸口に立っていた笹川が軽い足取りで薄っぺらい紙束を 
片手に俺達の元に近づいてくる。 
歩く動きに合わせて蝶が舞うようにひらひら揺れて、近くまで来るとそれが何なのかが――って、 
おい。 
「何だ、それ」 
「何ってお前、知らないの? じゃーん」 
やっぱり俺が先ほど完全抹殺したはずの校内――! 
「どこで手に入れた!?」 
「何だよ、当の本人がもらってねーのかよ。ほら、取っとけ」 
笹川はこの事をまるで俺が知らないと勘違いしたのか、明らかに興を殺がれたと言わんばかりの 
口調で新聞を押し付けてきた。 
己の手で全て処分したはずだと思っていたのに……何かの呪いか、これは。 
手が馴染んだ紙の感触を再度認識する。 
目に飛び込んできたのは、『相川 鈴音 白昼堂々とキス! お相手は2−B 藤沼 秀司』の文字。 
「な・ん・だ・こ・れ・は!」 
「何って校内新聞の号外。新聞部がさっき校門前で配ってたぞ」 
「そういう事を聞いてるんじゃない! 俺はさっき――ああっ もういい! ちょっと行ってくる!」 
机に号外を叩き付け、立ち上がって笹川の脇を走り抜けた背中に安堂の声が刺さった。 
「やめとけって。大勢の目にお前自身が晒されるのがオチだぜ?」 
もっともな指摘に足が止まる。 
廊下に目を遣ると、ニヤニヤと笑いながら通り過ぎる者や、噂するようにこちらを見ている女子など 
がいて、そのいずれにも手に号外が握られている。 
思い切り気勢を殺がれて、すごすごと自分の席に引き返した。 
嗚呼、今日も眉間の皺が深くなる。 
「さすがに色気があるな。あ、お前じゃなくて相川さんな」 
「そうそう。あの時ちょっと代わって欲しいとさえ思った。これ舌入ってんの?」 
「あー、確か入ってたような……どうだったっけか」 
そういや、笹川は席が離れているからいざ知らず、安堂、おまえは特等席で見てたじゃねーか。 
自分でつっこんでおいて、今更その事で悲鳴を上げたくなる。俺に振るな。 
襲い来た虚無感と羞恥が絶妙に混ぜられた衝動を抑え込むのに数秒を要し、何とか立ち直った 
俺は、平静を装って向かいの机に腰掛ける笹川を見上げた。 
「笹川。これ、わざわざありがとな」 
安堂が見入っていたそれを奪い、笹川に笑んでみせる。 
「えっ、渡しといてなんだけどさ、受け取るの? お前にしちゃ珍しいじゃん」 
笑顔の俺に引いたのか、はたまた、らしくない行動に引いたのか、笹川は怪訝そうな表情を浮かべる。 
「いや、1部でも多く手元にあるって事は、それだけ誰かに見られる確率が減るって事だろ?  
可能性は潰せるだけ潰しておかないと、な!」 
「なっ 俺まだ全部読んでないって!」 
「読むな、読ませるな、知ろうとするな」 
「ハイ……」 
「――安堂、おまえもだ。持ってるなら寄越せ」 
「アホらしい。どこの風紀委員様だ、お前は」 
すかした顔で、呆れたと言わんばかりに肩を竦める。 
「おまえも案外ミーハーだからな」 
「誰がお前のキス写真なんか欲しがるか」 
確かにこいつはわざわざ配っている只中に寄り、手を伸ばすような奴ではない。 
高校生をターゲットにした駅前の試供品配りにさえも、差し出されても面倒臭そうな眼でスルー 
するのが常である。 
俺は睨み合った平行線を解消した。 
縒(よ)れてくしゃくしゃになった号外を握り締め、更にそれを雑巾のように絞り上げる。 
「大体、全部捨てたのに何で増えてるんだよ……」 
「処分した以外にも刷ってあったんだろ。あれじゃね? お前に蹴られたのを根に持ってるとか。 
何が何でも復讐する気と見た」 
……それは大いにあり得るかも知れん。撤収していく際、「覚えてろよ!」と捨て台詞も残して 
いった―― 
「――あ!」 
「な、何だよ?」 
至近距離から出された大きな声に驚いたのか、ビクリと笹川が飛び上がる。 
「あー、しまった。相川が持ってたやつを捨てるの忘れた……」 
俺は呟いてから手の平で顔を覆い隠した。 
俺が真っ先に向かったのは災いの源泉の新聞部部員へで、彼女の事などすっかり頭から 
消え去っていた。 
回収直後の現場に彼女が残っていたかどうかも定かでは無い。 
ああ、やっぱ止めだ。止めやめ! 
これ以上彼女に関わってはいけない。俺の平和な日常はどこへ行ってしまったんだ。 
 そんな訳で、彼女が昼休みに訪ねてきた時、俺はにべも無く一緒に昼食を取ろうという誘いを 
断った。 
「えっ……どうしてですか?」 
彼女は心底驚いた顔で、胸に包みを抱えたまま俺を見上げた。 
身じろいだ拍子に腕の中の巾着袋同士がコツン、と音を立てた。 
「もう既に食い始めてる」 
俺は背後の、彼女もよく見知っているであろう自分の席を親指で示した。 
彼女が視線だけでそれを追い、再び俺を見た。 
「私を知ることを了承していただけたのでは無いのですか?」 
「無い。と言うか俺は、あの時点で挨拶と、問い掛けと、拒否しか発していないはずだ。おまえが 
自分で話を流したんだろ」 
「でも、その後、『こっち』だと呼んでくださったじゃないですか! あれは私と通学することを 
認めてくださったからでは無いんですか!?」 
「あれは慣れない道を歩いてるだろうおまえが、迷いでもしたら寝覚めが悪いからだ!」 
寝覚めが悪い、と虚ろな口調で反芻した彼女は顔色を曇らせ、しばし沈黙した。 
「……そこまで考えてお声を掛けていただいたことは大変嬉しいのですが、こんな風に最初から 
断るおつもりでしたら、あの場で無視してくださった方が良かったです……」 
感情を抑え込むかのように、彼女は柳眉を震わせて俯いた。 
今朝のやり取りが頭を過ぎる。 
『良かった。もうお傍に寄ることすら適わないかと思っていました』 
――それはそういう風に受け取ったのか。 
「相川、」 
「でしたら!」 
ほとんど被さるタイミングで俺達は言い掛け、俺は向けられた瞳の意思の強さに呑まれて 
たじろいだ。 
「――改めてお願いします! 私の事を知ってください!」 
動揺を隠す暇も無いままに俺の視点は彼女で固定させられ、潤む瞳の中に星が散るのを認識 
する頃にはどうすれば忘我から脱却できるのかを思い出し、ようやく振り解いた視線の先に集う 
野次馬の群れを見て、俺は我に返った。 
「断る」 
「知ってください!」 
「嫌だ」 
「どうしてですか?」 
「……おまえを知ったところでいい事が無い」 
すぐ近くから伸びる、炎天下のアスファルトから立ち昇る陽炎のような念波が大いに関わって 
いることを知らせておくべきだろうか。 
「それこそ、どうしてですか? そんなのまだ知りもしないのに、分からないじゃないですか」 
「いや、もう実害が出てるしな……」 
独り言のつもりだったが彼女の耳には届いたようで、難しい顔をして沈黙している。 
心当たりが多すぎて薮蛇を避けたのか、それ以上食い下がっては来なかった。 
「――とにかく。俺はおまえに関わる気は無い。中途半端な優しさがお嫌いなようなので、はっきり 
断らせていただいた。これで文句無いだろう?」 
「いいえ!」 
 幾度目かの睨み合いに突入し、それが数瞬続いたが、先に折れたのは彼女の方だった。 
「……分かりました。昼食をお誘いしたのは確かに性急でしたね。今日はこれで帰ります。 
――諦める替わりにこれを受け取ってください。私が作りました……」 
「えっ ちょっ…、おい!」 
引き上げ宣言に油断した俺は、押し付けられた巾着をつい受け取ってしまい、振り返る頃には 
慌てて通りすがりを装おうとする周囲の動きに彼女は紛れてしまっていた。 
何たる付き纏い宣言。いやいや、それよりも何でこんな事になっているんだ。 
俺は昨日、断ったんじゃなかったのか。 
いつの間にかあんぐりと開いてしまっていた口の両端を引き結び、手の中に収まってしまった 
包みに視線を落とした。 
これも知ってもらう一環、のつもりなのか。 
意思を持たない巾着袋がその問いに応えてくれるはずも無く、俺が諦めて踵を返すと、磁石に 
引き寄せられる砂鉄のように、ぞろぞろとその場に留まっていた者達が教室の桟を潜って付いて 
くる。 
自分の席に戻ると、友人と呼ばれる物体がにやにやしていた。 
「……何だよ」 
「お前にビビらず、逆に圧倒した相川さんってすごいなって」 
「あんなにしゃべってる姿、オレ初めて見た」 
俺はそれらの言葉を無視して席に着き、巾着袋を机の端に置いた。 
「で?」 
「で?って何だ」 
「食わないのかよ。手作り弁当」 
視界の端をうろつくゾンビどもの目がぎらつき、一斉に近づく気配がする。 
既に広げられた持参した弁当と、視界の隅に追いやった青い袋を見比べる。 
食ったら食ったで面倒な事になるし、逆に食わずに突っ返すのも何だか酷い奴になる。 
振る舞ったら喜ばれそうだが、それはそれで冷酷人間の烙印を押されるだろう。 
無意識の内に寄った眉間の皺に気付き、指で伸ばす。 
「いいから食えよー」 
「どんなもん入ってるか見たいから中開けろ」 
それ以外にも、貴様に食わせるなど100万年早いが、どんなものをお作り遊ばすのかが気になる、 
といった安堂に追随するような視線も多数寄せられた。 
俺以外の総意は、取りあえず開示。 
……分かった分かった。開けるぞ。 
巾着の赤い紐を緩めて、袋の口を覗き込む。 
中からは袋と同じ手の平大の布が見えたので、まずは箸箱を取り出し、包みを留めてあった 
バンドを外して布を開いた。 
「ピンク!」 
誰かが上ずった声で叫び、おおーっというざわめきが沸き起こる。 
おまえら、何をそんなに感動してるんだ。ただの弁当箱だぞ、これ。 
「早く早く!」 
笹川が待ちきれないと言わんばかりに声を弾ませる。 
要望に応えるため、2段重ねの上蓋を開けた。 
おお!と一際ざわめきが大きくなり、……いつの間にか取り囲む人垣の密度が濃くなっているん 
だが。 
その誰もが、高だか10数センチの弁当箱に視線を注ぎ込んでいる。 
 上段中身の一覧。 
鶏肉とブロッコリーの照り焼き、卵焼き、金平ごぼう、海鮮サラダ、プチトマト。 
冷凍食品らしきおかずが見当たらない。 
まー何と彩り豊かで美味しそうなんでしょう。うちの弁当担当にも見習ってほしい出来栄えだ。 
「美味そう!」 
「食いてー」 
誰もが涎を垂らさんばかりに口が開いているが、誰も手を出さないのは何となく分かる。 
ノリで誰かの彼女の手作り弁当を掻っ攫うのとは少々訳が違う。 
これに手を付ければ、次にイカれた連中に捕捉されるのはそいつに間違いないからだ。 
取りあえずおまえ死ね的な無言の呪い光線がうざい。 
「食うのに邪魔だ、散れ!」 
しっしっと手を振って、恨みがましく見ている連中を解散させた。 
下の段を確認する。 
錦糸玉子を散らした混ぜご飯。 
どうするんだ?と視線を寄越す、にやにやした生き物がうるさい。 
 結局俺は、日の丸弁当並に恥ずかしい思いをしながら弁当を平らげた。2つとも。 
 
 その日の放課後、朝見たものより明らかに急ごしらえな号外2号が校門前で乱舞していたが、 
没収して検閲した中の、『どうなる目が離せない! 次号校内新聞にて総力特集!』の文字に 
本気で立ち眩みを起こし、その足で新聞部に殴り込んだことを、詳しく述べるまでも無い事項として 
摘記しておく。 
 
 
(第1章・おわり) 

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