6.違和感、みたいなもの 
 
 俺は追いつめられていた。 
RPGの中で、倒したはずの魔王が哄笑と共に復活する光景を愕然と見つめる主人公パーティーの 
気持ちが痛いほど分かる。 
彼らは再び立ち向かわねばならない。魔王を凌駕する力をもって―― 
 
「何ボーっとしてんだよ」 
 笹川愛用のキャラクター物シャーペンの一撃により、俺の思考は断ち切られた。 
「別にいいだろ。自習なんだから」 
思いの外ウサギの耳の突きが深く、痛かった眉間を擦りながら俺は笹川を睨み付けた。 
テスト対策のための質問時間、という名目で我が2のBは自習中であるが、古文の遠野の人柄に 
よってか、ある程度自由な空気のままにさざめくことを許されている雰囲気があり、机を寄せて 
集まったり、質問だか雑談だかを遠野に仕掛けに行ったりと、級友達は思い思いに自習時間を 
過ごしている。 
その中でひとりくらい呆けている奴がいても、別段おかしくはあるまい。 
「放っといてやれよ。満腹で眠いんだろうから」 
分かり易すぎる挑発だと分かってはいたが、俺の両目は安堂を睨み付けた。 
安堂は何が楽しいんだか、意地の悪い笑みを惜しげも無く晒している。 
こいつのこういう顔がどんな表情よりよく似合っている事を俺は教えてやるべきなんだろうか。 
どうにも安堂は俺の置かれた状況が面白くて仕方ないらしく、肝心の写真を売った人間が誰なのか 
口を割ろうとしない。 
睨み付ける俺に、愉快なものでも見ているかの如く、更ににやにやと笑ってみせる。 
部外者様にはさぞかし愉快な状況なんだろうよ。俺はひとっつも楽しくないが。 
俺は苛立たしく溜息を落とすと、苛々の元から窓の外に目を背けた。 
 断り方がまずかった、という結論に至ったものの、回避する手立てを模索する俺に、彼女は 
難問を突きつけた。 
――自分の事を知って欲しい、と。 
これを言われてしまっては、今のところ誰とも付き合う気は無い、という、こうなるなら最初の時点 
で言っておけば良かったであろう返事も、今朝の態度と併せて鑑みるに、断る理由にならない 
予感が付き纏う。 
俺はもう一度嘆息した。 
「思いつめると心身ともに良くないぜ? 何つーか、適度にガス抜きしないと、いらんトコロで 
爆発しそうだ」 
こちらは不機嫌な状態が続く俺を多少なりとも心配しているのか、件のシャーペンで腕を突付き 
ながらも顔色を窺うような素振りを見せ、一瞬、ちらりと目線だけを背後に動かす。 
「例えば?」 
安堂が椅子の前脚を浮かせて、ゆらゆらと揺らしながら問うた。 
「あまりに思うように行かない事態に腹を立てて、相川を襲うとか?」 
俺が間髪入れずに答えた――刹那。 
ガッターンと背後でけたたましく椅子を倒したような音とほぼ同じくして、にわかに揉めている 
気配が弾けた。 
「…ャメロ!」 
「落ち着けっ」 
「挑発に乗るなッ!」 
「お前ッ、藤、ぐぁッ」 
俺より前に座る級友達の視線が斜め後ろへと集約され、身を乗り出すようにして事態の行方を 
見据えようとしている。 
西森がプッと噴き出したのが見えた辺りで振り向きたい衝動に駆られたが、それより先に笹川が、 
「襲うってどっちの意味よ」 
と真顔で尋ね、 
「やっぱり男ってケダモノなんですねって言われる方」 
と勝手に安堂が掛け合いを続けた事で、俺の自制心は背後を無視する方に傾いた。 
そんなに俺を追いつめて楽しいのか、安堂よ。 
「そこ、うるさいぞ」と遠野が騒いだ4人組に声を掛け、未だ憤る1人を除いた3人は、へいこら 
頭を下げながら、拘束具よろしく席に着いた。 
「どうにかして、友達から始めてくださいってのを諦めさせられんもんだろうか……」 
「何とも…、ゼイタクな悩みだな」 
と、ガス抜きタイムが終了した中、俺は独りごちたつもりだったのだが、笹川が未だガタガタ 
やっている隣の列を眺めながら応えた。 
「人には何事も向き、不向きがあるからな。――それに、相川に関して解せない点がある」 
何だ、と2人が視線で問うた。 
「相川って男嫌いで有名だったよな。何故、俺は好きだと言われたんだろうか」 
そう疑問を口にした途端、2人は顔を見合わせ、片方は溜息を吐いた。 
「……どこからツッコめばいいのか分からん」 
安堂は呆れ抜いた口調で呟いた後、笹川に顎で合図を遣ると軽く袖を捲って腕を掻いた。 
何故匙を投げたと言わんばかりの態度を取られたのか分からず、俺は問いの答えを託された 
笹川に内心の動揺を押し隠して視線を振った。 
「――正直、オレも安堂も今の今まで思ってたけど、あえて言わなかった事がある」 
「何だ」 
声を落とし、普段は見せない真面目な表情になった笹川に合わせ、俺も声のトーンを下げる。 
「お前はよぞくのコトに関心なさすぎだ」 
「せぞく」 
「そう。世俗!」 
安堂がつっこみ、笹川は得意気にウサギの耳を突き付ける。 
まあ、世俗なんて言葉、普段の笹川から出てくるもんじゃないし、話の流れから行って茶化す 
場面ではないので、弄くるのは勘弁してやろう。 
「お前多分、浦島太郎並に情報が遅れてる」 
笹川だけに任せるのが不安になったのか、安堂が口を挟んだ。 
「どういう事だ」 
「――あ〜、去年の冬よりちょい前、くらいだったかなあ」 
記憶を手繰り寄せるような仕種で笹川が顎に手を遣り、唸る。 
「生徒会選挙の頃だったな」 
「そう。――何だかずいぶんとふいんきが変わったって、ある女子が噂になりましたなあ」 
笹川は芝居めいた言い回しで安堂に目線を送り、それを受けた安堂は、心得たと言わんばかりに 
わざとらしく頷く。 
「そうそう。以前と比べて話しやすくなって、クラスの女子の間に溶け込んでるって耳にしたな」 
「一説では、学校行事で自然と絡む事が多くなったからだと言われたけど、それよりマコトしやかに 
囁かれたのが、恋でもしてるんじゃないかって説で、あの時は男達の間で相手探しが行われて、 
探り合いや推理合戦で、それはもうすさまじい量の情報が飛び交ったものだった……」 
笹川は当時を懐かしむかのように儚げな笑みを浮かべた。 
「その時は相手は誰だ、くらいにしか思ってなかったけど、こんなにも身近に騒動を知らない 
当事者のバカが存在しようとは、ゆめゆめ想像すらしなかったぜ」 
交互に喋っていた両人が、それぞれ横目で俺を振り返った。 
「お前、こういう噂、全っ然知らなかっただろ」 
「顔色がまずいぞ、噂のバカ」 
頷くのも癪に障るので一切のリアクションを取らなかったが、俺はある種のカルチャーショックを 
食らっていた。 
確かにあの頃、やけに生徒会選挙が盛り上がっているな、とは思いはしたものの、校風だろうかと、 
さして気にも留めなかった(のが過ぎ去った記憶の中にある)。 
誰に一票を入れる、などの話を誰かから振られた事もあったが、選挙なぞどうでも良かった俺は 
適当にはぐらかし、適当に過ごしたため、これといって情報戦に巻き込まれたという記憶が無い。 
(思い返せば、あいつは安パイだ、というような態度を取られたような気がせんでもない。) 
過去の事実を語るような顔をして俺を見つめるふたりは確かにそんな時を過ごしてきたようで、 
これまで同じ時間を共に過ごしてきたはずなのに、俺はその欠片でさえ知らなかった。 
(それはつまり、俺がいかに彼女に興味が無かったかを示すデータだが、それはそれとして、) 
世間は俺と同じ世界で暮らしているようで、別世界を築いていたという事にならないだろうか。 
……この場合、俺が世間と同じ世界で過ごしているようで、別世界で生きていたのは俺、とも 
言い換えられるが。 
何だろう、まるで平行世界の向こう側の自分の様子を垣間見てしまったような奇妙なこの感覚は。 
向こうでは世界の中心的人物だった、くらいの居た堪れなさを感じる。 
「もったいない。今からでもオッケーして来いよ」 
授業中だ。 
「相川さんも可哀相に。一番イメージが変わって欲しかっただろう人間がこれじゃあねえ」 
遠い目をして窓の外を見るな。 
「ま、何も知らないお前でいるのも見てて面白かったけど、それは今日で卒業ってコトで。俺は 
いいと思うぞ、相川さん。色々大変そうではあるけど、美人だし、頭はいいし、貧乳が好きなら 
ベストだな、うん」 
笹川は厄介事を一言で纏めた挙句軽く流し、更に俺が何気に触れなかった情報をさらりと 
付け加えた。 
「逃した魚になる前に、彼女いない歴の更新に歯止めを掛けろ。健闘を祈る、バカ浦島」 
さすがに言い返そうとした時、タイミングよくチャイムが鳴って気勢を殺がれた。 
そのまま突っ掛かるのも馬鹿らしくなり、言おうと思った文句を引っ込める。 
号令が掛かり、だらだらと生徒達が立ち上がって礼をすると、あっという間に教室内は開放感で 
満ちた。 
相川と付き合ってみる、ねえ…… 
「でも――」 
机を元の位置に戻す、机と床が擦れ合う怪音があちこちでする中、安堂が振り返った。 
「お前が相川さんを何も知らずとも、これから知っていけばいいんだから別にいいのか」 
少しばかり彼女の事に意識を遣ったのがばれたのか、安堂の眼は精々足掻け、と揶揄するように 
笑った。 
 
――てな事を話した水曜日の午後だったが、どうにも俺は気が乗らないでいた。 
   (俺だけに)振って湧いた事実に動揺していたのか。 
   どちらにしろぐだぐだと断る理由を悩んでいたのだが、その間にも事態は動き出していた。 
   金曜日。正直、ここからしばらく先は語りたくない。 
 
「――おはようございます」 
「……おはよう」 
 昨日の朝、当たり前のように家の前で待たれ、常習化と近所の目が気になり始めた俺は、 
ここまで来てまた駅まで引き返すのも面倒だろうから駅で待ってみてはどうか、と提案し、それに 
同意した彼女と共に学校へ向かっている。 
彼女と関わる時間を少しでも減らす事が出来たのは成果と言えるのだが、俺は新たに頭の痛い 
問題を抱えていた。 
 
 その1、相川鈴音。 
弁当作戦は1度で済むと思いきや(持ち帰って洗い、包みも洗濯してアイロン掛けまでしたという 
のに)、翌朝、新たな包みを渡されてしまった。 
用意された弁当箱は1つでは無かったのだ。 
昨日は朝に(渋々)受け取ったお陰で昼休みに押しかけられはしなかったが、放課後に現れた。 
弁当箱を取りに来たのかと思い教室の戸口に向かった俺だが、向けられた笑顔に続く言葉に 
俺の口元は引きつった。 
『これから我が家にいらっしゃいませんか』 
おいおい、いくら何でも一足飛びもいいところだろ、と瞬時に胸の内を駆け巡った言葉が口から 
飛び出す予定では合ったが、突如襲い来た眩暈により発言を見送る羽目になった。 
『……一緒に帰ろう、とかそういう事じゃなくて?』 
力無く尋ねる俺に、彼女は首肯した。 
『何で』 
何故それに期待できるのかが分からない。 
一週間ほど前に初めて話し、それ以降も決して前向きな間柄でない関係で、それを期待される 
のはどういう事だろう。 
『えっ それは…その……駄目ですか?』 
『駄目』 
何をするんだよ。目的を言え、目的を。わざわざ茶でも飲みに来いってか。それとも別の事か。 
何にせよ、問われてうろたえるような用件はお断りだった。 
『えっ あっ、待ってください!』 
教室を出た俺をパタパタと足音を響かせて、彼女は追い縋ってきた。 
『そんな事を言わず、是非寄って行ってください!』 
俺も無視しておけばいいものを、 
『おまえん家は俺ん家より遠いだろうが! ちょっと寄ってくとかそういう距離か!』 
思わずつっこみを入れてしまい、結局口論をしながら学校を後にする事になった。 
――取りあえず、断ることに成功した、とだけ記しておこう。 
 その2、私設ファンクラブ団体。 
恐ろしい事に、更に増すだろうと予想したのとは裏腹に、手紙の襲撃はぱたりと止んだ。 
それがいっそ不気味で落ち着かず、それすらも作戦なのかと考えている内に、水曜日の集会で 
何かが決まったという噂を小耳に挟む。 
相も変わらず針の筵(むしろ)で居心地悪し。 
体育の時間に飛んできたボールが何度か頭を掠めていったのは、きっと偶然。 
舌打ちもシュートが外れた事に寄るもの。きっと偶然。 
何はともあれ、嵐の前の静けさ、と言ったところだろうか。 
 その3、……はやめておこう。あの騒ぎは思い出すだけでも頭が痛くなる。なぁにが「ペンは剣 
より強し」なんだか。ふざけるな。 
 
「あの、藤沼くん。昨日のお話なんですが……」 
「昨日の話?」 
 俺はうんざりしているのを隠そうともせずに相槌を打つ。 
昨日は家に行く、行かないの綱引きから弁当の話になり、俺はいい機会だからと注意した。 
相手に確認もせずに勝手に作ってくるな。大抵は昼食の目処は付けてから学校に来ている 
ものだ、と。 
それに対し、彼女は不躾でした、と謝り、続いて、でしたら今後、私にお弁当を作らせていただけ 
ないでしょうか、と俺の弁当作りに立候補してきたのだ。 
「はい。昨日は断られましたけど、それとは関係無しにデートしていただけませんでしょうか」 
ああ、そっちか。 
俺は思わず振り返り、学校の道すがら、他の生徒がいようとお構い無しの彼女を見つめ返した。 
俺は弁当を作る申し出を普通に断る、と切り捨てるつもりだったのだが、思いの外説教混じりの 
言葉が効いたのか、凹み気味の表情に、ただで作ってもらうのは心苦しい、何か返しをしなくては 
ならなくなる、と拒否の言葉に婉曲的変換を施したのが悪かったのだろうか。悪かったのだろう。 
彼女は途端に瞳を輝かせて叫んだ。 
『でしたら、明後日デートしてください!』 
今思い返せば、本当に俺の知るクールさは微塵も感じられませんね。 
俺は再来週から中間考査が始まる事を理由にそれを断ったのだが…… 
「昨日も言ったが、テストが近いから無理だ」 
「その事なら考えました」 
妙に強い視線で、彼女は自信を覗かせる。 
「何を」 
「来週から放課後、一緒に勉強しましょう」 
地面が揺らいだ――ような気がしただけで、実際のところは俺の足が脱力した際に縺れてよろけた 
だけだった。 
「わ、私を利用していただいて構いません! 幸い上位3番から落ちたことはありませんし、お役に 
立てると思います」 
「…………断る」 
随分頭がいいんだな。まあ、総代まで務めたくらいだから当然か。 
昨日は応酬が続いた末に、結局どうでもよくなって弁当作りは了承した。 
更にデートまで許してなるものか。 
ちょうど昇降口を潜ったのをいいことに、説得し損ねに焦れたような彼女を残して俺は下駄箱へ 
向かう。 
――今日も何事もありませんように。 
最悪な事態へのイメージトレーニングを済ませた俺は、覚悟の後下駄箱の蓋を開けた。 
ギッと金属の摩擦音を立て、光を取り込む靴箱を恐る恐る覗きこんだ俺は「それ」を見つけ、 
しばし硬直した。 
手を伸ばすべきか迷う。 
またしても手紙だった。 
「藤沼秀司様へ」と書かれたピンクの封筒が、たった一通ではあるが上履きの上に鎮座している。 
靴箱を見回したが、他に目に見えた異変は無い。 
気が乗らないながらも手に取り、裏を捲る。 
金縁加工の赤いハートのシールが貼ってあるだけで、差出人の名前は無い。 
思わず辺りを見回すが、既に入れた人物など見つかろうはずも無く、朝の喧騒が昇降口から 
廊下の先へと反響している風景しか無かった。 
宛名の字を読み返す。 
ちまちまとした細い線で書かれている字は、一見むさくるしい連中の内の誰かが書いたようには 
見えず、果たして書道部にまで敵勢力は拡大の一途を辿っているのかに思いを巡らせている時 
だった。 
「何かお困りですか?」 
俺は反射的に靴箱の奥へ手紙を押し遣り、声のした方を振り返った。 
まるで学級委員が呆然と立ち竦むクラスメイトに掛けるような口調で話し掛けてきたのは、眼鏡を 
掛けた、やや背の高い女子だった。 
いや、事実、第一ボタンをしっかりと留め、校則通りのスカート丈を伴う姿はどこの学級委員かと 
見紛うほどの出で立ちだ。 
思わず目を引く窮屈そうなブレザーのボタンの上で視線が止まっている事に気付いた俺が 
決まり悪く視線を上げると、茶色掛かった肩まで伸びた緩いウェーブの髪が、薄く笑んだ際に 
ふわりと揺れた。 
既視感が頭を過ぎる。 
「どちら様ですか」 
「ごめんなさい。わたしは2年C組の、一ノ瀬真歩と申します」 
「はあ」 
「すごく難しい顔をしていたので、何だか心配になってしまって」 
俺は何と返そうか惑って、一ノ瀬と名乗る女生徒をまじまじと眺めていた。 
纏う雰囲気、話し振り、そして校則通りの制服の着方。 
俺の中で予感が maybe から probably にまで上昇したため、口を開くのが躊躇われる。 
自ら予感確定の拳を握りたくない。 
「それともう一つ、あなたが」 
「――真歩!」 
裏の下駄箱から現れ、厳しい声で一ノ瀬を呼び放った相川鈴音その人は、立ち所に俺の疑念を 
氷解させた。 
「あら、おはよう、鈴音」 
気安い笑みと共に一ノ瀬が彼女に挨拶する。 
それに対して、彼女の態度は厳しいものだった。 
「おはようじゃないわ。どうして藤沼くんに話し掛けてるの!」 
言うや否や、あっという間に俺と一ノ瀬の間に割り込み、俺を庇うようにして一ノ瀬の前に立ちはだ 
かった。 
怒気を帯びた鋭い声に呆気に取られる。 
俺の前でこんな風に鬼気迫る感情を露わにした彼女を見ていない所為かも知れない。 
俺が疑問を差し挟む前に、一ノ瀬が笑い声を立てた。 
「ただ挨拶してただけよ。やあね、鈴音ってば」 
こつり、こつりとしなやかな足取りで、一ノ瀬は俺達に近づいてくる。 
一層身を固くする彼女と笑顔の一ノ瀬を見比べて、どう動くかの判断に迷った。 
「ごめんなさいね、藤沼さん。この娘ったらヤキモチ焼きみたいで。わたしはただ、鈴音の好きな 
人と話がしてみたいって、思っただけなんだけど」 
まるで姉が愛すべき妹を見つめるような慈愛の笑みを彼女に湛えた後、その笑みを俺にも向けた。 
何だか酷く違和感を覚えたが、それを上手く説明できない。 
一ノ瀬がツン、と彼女の頬を突付いた時、たちまち硬直が解けた彼女が振り返った。 
「藤沼くん、あの、彼女は私の幼馴染みで、」 
「さっき自己紹介は済ませたわ。いきなり名乗りもせず話し掛けるだなんて失礼な事しちゃった 
から」 
同意を求めるかのように一ノ瀬は俺に笑い掛け、言葉を断たれた彼女は押し黙った。 
振り返った彼女は、怒っていると言うより色を失っている。 
何故だ。 
「鈴音」 
一ノ瀬は、優しい声色と共に彼女に手を伸ばして引き寄せた。 
彼女は眉根を寄せたまま黙って身を任せ、そのまま耳元で何事かをこしょこしょと囁かれている。 
通りすがりの男子どもがその光景にうっとりと腑抜けた面を晒し、鑑賞会の様相を呈してきた。 
俺はもはや湧き起こる疑問を尋ねる気など無く、邪魔なオブジェだと睨み始められる前にさっさと 
この場を立ち去りたくなっている。 
やがて、黙って耳打ちに聞き入っていた彼女は、一ノ瀬が離れると俺を見上げた。 
「すみません、藤沼くん。今朝はここでお別れです」 
何を聞いたのかは知らないが、それはとても助かる。 
ポン、と上履きを下駄箱から落とし靴を仕舞うと、無駄ににこやかな表情と、片や残念そうな 
表情に暇を告げてその場を去った。 
一応、手紙を彼女に見られなくて正解だったのか? 
一ノ瀬に声を掛けられなかったら、俺はしばらくあの場でフリーズし続けていたかも知れない。 
先ほど2人が耳打ちに入った隙に、俺はそれとなく鞄に手紙を移していた。 
外面はラブレターなこの手紙を見られたら、彼女はどんな反応を示すのやら。 
既に曲がり角を過ぎ、若干遠くなった下駄箱付近に目を遣った。 
元いた場所に彼女達はおらず、思わずどこに消えたのかと視線を巡らすと、人気の少ない 
特別室棟に続く廊下に場所を移動させていた。 
彼女は何やら一ノ瀬をなじる様相を見せていたが、当の本人はそれを気にした風でもなく、 
受け流すように笑顔で宥めるジェスチャーをしている。 
何を揉めているんだか。 
俺が教室へ向かおうと、2人から視線を外さんとした時だった。 
ふと、何の前触れも無しに一ノ瀬が明らかにこちらを向いた。 
一瞬で背筋に戦慄が走る。 
驚いて立ち竦んだ俺とは逆に、一ノ瀬は視線が合うや、戯(じゃ)れ付くように彼女を抱き締めた。 
ギャラリーのどよめきが、離れたところにいる俺の方にまで打ち寄せる。 
俺を見つめたままの一ノ瀬の口元が、何かを告げるように動いた……気がした。 
まるで数秒間の白昼夢。 
俺の目の錯覚かと見紛う対面は、一ノ瀬が気まぐれで起こした悪戯であると判断したかのように、 
すぐさま抵抗した彼女によって、呆気なく終了した。 
なおも一ノ瀬に詰め寄る彼女を見つつ、俺はその場を後にした。 
 
 さて、本日の弁当なのだが……、さすがに今日は持参しなかった。 
普段は腹が減れば購買に行くし、何となく弁当にまで手をつけるのは気が引けるので、昼食時 
以外に弁当箱を開けるような真似はしない。 
しないが故に、今までは弁当2つを平らげていたのだが、それもきつくなってきた。 
諦めて俺は弁当の製造担当――こと妹に、明日からの弁当がいらない旨を告げると、それだけで 
何かを察したらしく、勘違い連続の尋問を受けたのが未だに耳の奥に残っている。 
 今日は弁当をひとつだけ机の上に出すと、ヒソヒソと「3日目で陥落」という声が聞こえたので、 
それ以降2人とは口を利いていない。 
 
 週最後のリーディングの授業が終わると、教室は途端に週末の空気になる。 
ただし、今週は近々中間考査がある事もあって、空気は2層に分かれていた。その人物の 
性格が出るところである。 
 ホームルームは再来週からのテストに付いてと、来週からの部活動の一週間停止を告げ、 
終わりを迎えた。 
 「藤沼くーん。お客さん」 
 入り口の傍にいた西森に呼ばれて振り向くと、そこには予想と違う人物がいた。 
どくん、と心臓が嫌な感じに鳴る。 
掃除後すぐの事なので、彼女の来なくてはいい迎えにしては早いとは思ったが。 
しかし、予感が無かったとは言わない。 
「こんにちは、藤沼さん」 
「…こんにちは」 
にこりと微笑む一ノ瀬の顔には一分の隙も無い。微笑む顔を見て、再び大きく鳴った心音が 
聞こえたような気がした。 
何かがおかしい。いや、ただこんなに早く会う事になるとは思いも寄らなかっただけだ。 
「話があるんです。ちょっと外でお話出来ませんか」 
返事をしようとする喉の奥が、急に熱を帯びたように引きつれた。 
「……構わないけど」 
やや遅れてそう答えると、ふふ、と眼鏡の奥が楽しそうに笑った。 
「行きましょう」 
促されて教室の外へ出る。 
清掃時間直後の時間帯の所為か、さほど目立たずに俺は教室を離れた。 
「警戒されてますね」 
「そんな事も無いです」 
ちらちらと辺りを見回したことまで見られている事に気付き、肺腑を衝かれた。 
ちゃんばらごっこと、それを囃し立てている一角を避けながら進む。 
心臓が警鐘を鳴らしまくっている。その痛みが移ったかのように、頭痛までもがし始めていた。 
何故だかは分からない。彼女の幼馴染みだろう、まずい事は無いはずだ。 
言い聞かせるのとは裏腹に足は鉛のように重くなり、肺は酸素を欲する。 
行くのはC組のある4階では無いらしい。一ノ瀬は5階に続く階段に足を掛けた。 
どこに行くのかの質問を躊躇っていた頃、6階への階段を上り始めたところで大体の想像が付き、 
俺は無意味に話し掛けようとする努力をやめた。 
「今、掃除を終えたところなので誰もいません」 
 しん、と静まり返った廊下に、一ノ瀬の柔らかい声が響く。 
扉を開けて中に入った一ノ瀬を追って、俺も中に入る。 
案内されたのは、視聴覚準備室だった。恐らく2年C組の担当区域なのだろう。 
上履きを脱いで上がっているのを見て、仕方なくそれに従う。 
固い踏み心地の絨毯の上を歩き、機材の置いてある部屋を見回す。 
大きく開けられた窓からは涼しい風が入り、窓の傍の一ノ瀬の髪がそよぐ。 
留め布から上が風を孕んでカーテンは膨らみ、壁の模造紙に刺さるピンは四隅の内の一つが 
取れている所為で、風になびいてはたはたと音を立てていた。 
「密談にはお誂(あつら)え向きな場所だ」 
鍵の掛かっている棚に並ぶビデオの背表紙を見ながら、渇いた口が軽口を叩いた。 
すぐ自分の後ろに退路があるのに、俺にはそれが絶たれたかのような錯覚に陥っていた。 
風がじとりと湧く汗を撫でる。青い空が遥か遠くに感じた。 
カラカラと音を立てて窓が閉まる。凪が止んだ。 
 そのフレーズが気に入ったのか、一ノ瀬はくすりと笑うと一拍置き、俺に向かって口を開いた。 
「藤沼さん、わたしと取引をしませんか。あなたの身に降り掛かっている出来事、ファンクラブや 
新聞部の暴走も、全て収めてみせます」 
微笑む顔には、今朝方見た、あの慈愛にも似た笑みが浮かんでいた。 
 

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