7.死か服従か 
 
 一ノ瀬は笑んでいた。 
だが、眼鏡の奥の瞳は、今朝方覚えた違和感を消し去るような、獲物を捕らえんとせんばかりの 
ギラギラ光る色へと瞬く間に変化した。 
「へー、取引ねえ」 
俺はなるべく興味が無いような素振りで相槌を打った。 
空転していた思考がやや戻り、併せて頭の中を支配していた頭痛と混在し始めて、鬱陶しい事 
この上ない。 
俺は奥歯を噛み締め、頭痛と視線をやり過ごそうと試みた。 
「俺と何を取引したいんだ?」 
「さあ…何だと思います?」 
おちょくるつもりなのか。 
一ノ瀬は思わせ振りに小首を傾げる。 
すべて丸く収める。そんな事が可能なのだろうか。 
彼女に諦める様子は無い。従ってファンクラブの連中は俺を敵だと認定したままだろうし、そんな 
状況で新聞部が面白がらない訳が無い。 
どう考えても不可能だと思うのだが。 
「わたしからの条件は簡単です」 
一ノ瀬は笑顔で告げた。 
「藤沼さんに一度、鈴音とデートしてもらいたいんです」 
「はあ!?」 
思わず腑に落ちない気持ちが口を衝いて出た。 
デート? 何だ? 一ノ瀬は彼女の味方なのか? 
今朝見た態度ではてっきり―― 
「聞き入れてくだされば、ファンクラブや新聞部、生徒会長も抑えてみせます」 
「生徒会長?」 
っておいおい、さっきより項目増えてるじゃないか。 
生徒会長も何か企んでるのかよ。 
生徒会長がどんな経歴の持ち主なのかは、以前述べた。 
「生徒会長もです」 
俺の独り言にも近い言葉にも、一ノ瀬は律儀に相槌を打つ。 
「……それぞれどうやって抑える気なのか、それを話してもらおうか」 
「分かりました」 
コホン、と一ノ瀬は空咳を落とした。 
「まず一つ目。わたしが生徒会執行部の役員だという事をご存知になれば、大体の想像は付く 
でしょう。その生徒会長を近くで見てきた立場で言わせてもらえば、色々な意味であなたに干渉 
してもおかしくない心理状態であることは間違いありません。校内秩序や風紀の乱れなどを理由に 
挙げて召喚しかねない勢いもありますが、詰まるところの本音としては、嫉妬でしょう。会長が 
どういう方だったかはご存知ですよね。――まあ、生徒会長まで務めておいて問題を起こすかとの 
疑念も浮かぶでしょうが、あり得なくは無い状態です。あなたに手出しすることで、誰かさんからの 
信用を落とすことになるのかも知れない、と諭せば、今は煮えている頭も少しは冷えて、思い留まら 
せることも可能かと思われます。最終学年という状況を併せて考えられない方でもありませんし」 
「それから?」 
「二つ目。これは一つ目に関連しますが、最近度が過ぎると新聞部の活動に非難が集まって 
います。我々生徒会もこれを憂慮し、何とか軌道を修正させ、まともな活動をさせようとしていた 
のですが……。あなたもご存知の通り、生徒のプライバシーを侵害する行為は続いていて、 
今回の件に関して、殊に生徒会長はお怒りなのですよ。見たくない事実を見せられた、という事も 
含めて。この後ある生徒会の集まりは、是正勧告の内容についての話し合いです」 
「それで、最後は。ファンクラブも生徒会の力で何とかなるのか?」 
「いいえ。そちらは生徒会として動く事はありません。あくまでわたしの人脈の中で話を付けます」 
人脈。およそ高校生に似つかわしくない言葉だ。 
「そもそも、彼らを野放しにしておく、というのはあり得ない話です。外からでは活動内容も漏れ 
聞こえてくるだけに過ぎません。ですから、わたしは彼らが活動してよい見返りを与える代わりに、 
彼らの行動を報告するように契約を交わし、少々行き過ぎた活動にも目を瞑っています。わたしが 
活動にノーと言えば、彼らは大手を振って歩けないのですよ」 
それではつまり、連中、非公式ではなく、公式のファンクラブだったってことか。 
「なるほど」 
ぽつりと呟いた俺の言葉に、一ノ瀬が声を出さずに笑んだのを視界の端に見た。 
でも何故。何故、ファンクラブの公認を一ノ瀬がするんだ? 
「それで?」 
一ノ瀬は瞬く。 
「それで、そちらのメリットは?」 
「もちろん、鈴音が喜びます」 
意外な質問をされた、とでも言うように一瞬目を丸くしながら、それでも一ノ瀬は即答した。 
ああ、そりゃそうだろうな。目を輝かせながら喜ぶ姿が目に浮かぶ。 
「それだけじゃないだろう。俺の聞いてるのはそこじゃない。おまえは、俺と、相川をデートさせる 
事で何を得る」 
どくん、と再び鼓動が重く震え出す。 
一ノ瀬がわざわざ渦中の人物達に話を付け、行動を抑え付ける理由は何だ。 
「幼馴染の恋を応援するのに、メリットも何もあるんですか?」 
返事はさらりと、あらかじめ予測されていたかのように滑らかだった。 
「じゃあ聞くが、幼馴染の恋を応援するのに、普通取引なんかを持ち掛けるか?」 
瞬間、一ノ瀬の表情は変わらなかった。しかし、間を置いた後、その顔に笑みが一層濃く 
刻まれる。 
いっそ清々しいとさえ言える、酷く満たされた笑みに見えるのは俺の感覚が狂ってでもいるの 
だろうか。 
大体、彼女とデートしなければならない時点で俺の望む未来と違っている。 
彼女を増長させる気なぞ更々無い。 
「……取引は不成立だ。多分、これ以上話していても埒が明かないだろう」 
俺は早口で捲し立ててから踵を返し、入り口にある上履きを履き直す。 
踵の違和感を直してから、扉の縁に手を掛けた。 
「行かない方がいいと思いますよ」 
唐突に掛かった言葉に、俺は一ノ瀬を振り返った。 
一ノ瀬は、いつの間にか窓辺の教職員用の机に浅く寄り掛かりながら足を組む姿へと姿勢を 
変えていて、乾いた眼差しで俺を見据えていた。 
「まさか、彼らの靴の裏を舐めるほうがマシ、だなんて仰いませんよね」 
「何の話だ」 
「さあ?」 
取引に応じない者には興味無し、とばかりについ、と視線を逸らし、先ほどまで揺れていた 
模造紙に目を遣る。 
模造紙は、窓を閉じられた時から微動だにする気配は無かった。 
しばらく逡巡した後、それ以上の反応の見込みが無い事を悟り、踵を返した。 
廊下へ一歩踏み出したと同時に、妙にひんやりとした廊下の空気が纏わり付いて、俺は息を吐く。 
「藤沼さん」 
思わず戸に掛けた手を止めた。 
「考えてみてください。そんなに悪い話では無いと思います」 
俺はそれには応えず、ぴしゃりと後ろ手に戸を閉めた。 
 
 何かが繋がった気がした。とても嫌な予感がする。 
すぐそこにあった図書室が目に入ると、急き立てられるようにして中に飛び込んだ。 
しん、としていた廊下同様、図書室にも人の姿は見当たらない。 
奥の窓辺に移動し、べたりと窓ガラスに張り付くようにして外を見下ろす。 
俺の目論見は外れた。 
ここからでは見通せそうに無い。 
反対側へ駆け寄り、椅子を用いて下を覗いた。 
いる。 
掃除にしては箒も持たず、不自然な位置に数人張り付いている。 
分かりやすく裏門付近に立ち、きょろきょろと見回す者、言葉を交わす者などが視認できた。 
恐らく他の場所で確認すれば、乗り越えやすい箇所の前にいるのだろう。 
今までの行動が裏目に出て、捕まらずにいたツケがここで回って来たのだろうか。 
袋の鼠という言葉が頭を過ぎる。 
なるほど、これでは連中の靴の裏を舐めざるを得ないのかも知れん。 
ここまで来ると、鞄を取りに行くのも無理なんじゃなかろうか。 
一ノ瀬が呼びに来て俺がここまで来れたのが奇跡というか。 
いや。一ノ瀬は先ほどの話を信用するならば、計画を知っていた可能性が高い。 
――俺に選べる選択肢は少ない。 
迂闊だった。嵌められた。 
俺は気付かぬ内に一ノ瀬の巣に踏み込み、あっさりと身動きの取れぬ状態にさせられてしまった。 
警戒に警戒を重ねなければいけない時期だったというのに。 
果たして一度デートさえすれば、本当に煩わしい事から開放されるのだろうか。 
俺と彼女をデートさせるためだけに一ノ瀬は罠を張り巡らしたりするのか等、疑問は尽きない。 
旨い話には裏がある。それは分かっている。 
 俺は懐に手を入れると踵を返した。 
声を掛けずに扉を開ける。どうせ現れるのが俺しかいないのは、相手も分かっているはずだ。 
「この怪しいラブレターもどき、おまえが書いたんじゃないだろうな」 
本立ての中にあったのであろう、教科書か何かに目を落としていた睫毛が上を向いた。 
「まさか」 
ふっと笑みを零す表情からは、謀っているようには見受けられない。 
「わたしは状況を利用しただけです」 
パタン、と本を閉じると、一ノ瀬はキャスター付きの椅子から立ち上がった。 
「取引に応じるのは今からでも有効だろうな」 
「無論です」 
眼鏡の蔓に手を掛けたその顔には、全て予定通りと書いてある。 
俺は今、どんな顔をしているのだろうか。 
「じゃあ乗った」 
かくて不可視の罠に嵌まった俺は、無残にも蜘蛛の巣に搦(から)め捕られた。 
 

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