9.告白とさよなら  
 
 ――何やってんだ、俺は。  
俺の眼球は、いびつに切り取られた視界の中で、空の青が延々とスクロールしていく様を虚ろに  
映し出していた。  
こんな予定は無かった。  
ちょっとからかって、それでまあ、何だかんだ言いつつも隣に座らせて終わりにするつもりだった。  
時として現実は想像を超えるものだと、半ば身にしみて理解していたはずなのに。  
 全く馬鹿みたいに見事なタイミングで転びなすった彼女を、その手前にいた俺が受け止めた。  
そこは認めよう。  
だが、そこに至るまでの間に、仰天、戦慄、安堵が一挙に襲来し、目くるめいたそのダメージで  
起き上がれないまでの事態になるだなんて、誰が想像できようか。  
情けないことに、俺の精神力は今やゼロに近かった。  
 残されたのは、ただ流れ行く静謐な時間。  
俺も彼女も、彼女が転んでから向こう、口を噤んだままだった。  
確かに気まずい。何か言わなくては。しかし何を?  
焦燥に駆られるだけで、時間だけが過ぎていく。  
様々な打開策を考える内に、俺の心にある疑念が浮上した。  
受け止めてからそれなりに時間は経っている訳で、これだけの時間、彼女から何らかの反応が  
無いということは、気絶した可能性も考えられないだろうか。  
俺がほぼ緩衝材の役割を果たしていたとは思うが、どこかをぶつけて気絶していないとは限らない。  
胸の内を駆け巡った最悪な予想に不安を覚えつつ、俺はついに口を開いた。  
「……相川」  
「…は、はい」  
彼女は身じろぎとともに、か細い声で俺の呼び掛けに答えた。  
気絶したということは無さそうで安堵する。  
俺はちょっと考えて、それから彼女を抱き上げ、シートの上に下ろした。  
 
「怪我は?」  
「無い、です……」  
ぼんやり答えたかと思うと、急にはっとしたように顔を上げ、  
「すみませんでした……あの、藤沼くんこそ、お怪我はありませんでしたか?」  
凄い音が、と付け足した彼女は、立ち上がる前とは一転、憤慨色をすっかり無くし、俺の様子を  
心配そうな顔色で覗き込んでいる。  
「んぁ、あー、石頭だから心配するな。問題無い」  
尋ねられて一通り撫でさすってみたが、こぶになりそうな気配は無い。  
衝突の弾みで落ちたキャップが足元に転がっているのが見えた。  
俺としては現状を正直に答えたつもりだったのだが、今の言葉をやせ我慢だと受け取ったのか、  
彼女の顔色は曇ったままだ。  
「ほら、触ってみろって。――こぶになってるか? なってないだろ? こんな事くらいで、頑丈に  
生まれついた俺の頭がどうにかなるかって」  
彼女の手を取り、俺の後頭部に這わせてみた。  
実際、これより強く打ち付けた教室での一幕においても、一時的な痛みだけで済んでいる。  
しばらくして俺は手を離したのだが、彼女の手はそのまま後頭部に残り、心配そうにさすっていた。  
「子供の頃、木から落ちたことがあるが、全く怪我をしなかったぞ」  
――駄目か。  
「あー、実は落ちたのは1度だけじゃなくて何度かあるんだが、いずれもかすり傷ひとつ負って  
ない」  
彼女は一瞬呆けたような表情で俺を見つめた後、身を屈めて小さく噴き出した。  
軽やかな笑い声がゴンドラ内に満ちる。  
「藤沼くんって、随分と腕白だったんですね」  
「小学生男子なんてそんなもんだ」  
「そうなんですか」  
「そうだ」  
「でも、ちょっと意外です」  
俺はどういう風に見えてるんだか。  
彼女は目尻に涙を溜めつつ尚もくすくすと笑い続け、ひとしきり笑った後、溜息とともに呟いた。  
「……良かった。本当に……」  
心底安堵する様は、俺が彼女に傷一つ負わせていない事による安堵に酷く似ているのだが、  
それはそれとして。  
 
「ま、それに俺の負けだし、気にするな」  
「え?」  
「すごいよな。タイミングといい、フリといい、完璧だった」  
視線を上げた彼女には答えず、代わりに俺は両手の指を組む。――彼女の腰の辺りで。  
分かりやすく俺の意図を伝えるために、俺はニッとわざとらしく貼り付けた笑みを彼女に向けると、  
優しく問い掛けた。  
「隣より、膝の方が良かったんだよな」  
「っ――!」  
指摘されるや、彼女は声にならない悲鳴を上げて飛び上がろうとして、思惑通りに柵代わりの  
腕に引っ掛かり、強制的に尻餅をつかされる。  
「ちが――」  
「おっと、動くな。後ろのキャップ踏むぞ」  
床に足を下ろそうとした彼女を引き寄せ、その逃走を阻止する。  
「違います!」  
「何が?」  
頬を紅潮させながら俺に掴み掛かった彼女は、完全に目が泳いでいた。  
「わ、私は最初から隣に座るつもりでした!」  
「へえ」  
「それがっ……足を取られて…転んでしまって……今、私がここにいるのは、事故なんです!」  
「いいんだぞ、俺の事を気遣ってそんな嘘を吐かなくても。見事なフェイントに引っ掛かった俺は、  
甘んじて敗北を受け入れようと――」  
「違います! 私は本当に――!」  
言葉と同時に、ぐらりとゴンドラが揺れた。  
「分かった分かった、落ち着け。これ以上暴れてゴンドラごと落ちたらどうする」  
剣幕に押され、さすがにこれ以上は遊ぶ気にはなれなかった。  
「ひ、膝の間に、座るつもり、なんか……」  
「無かったんだよな?」  
「はい……」  
ようやく大人しくなった彼女の頭にポンと手を乗せて労った後、俺はだらりと後ろにもたれ掛かる。  
気付けばとっくの昔に下降を始めており、てっぺんからの景色を眺める暇も無かった。  
 
「――藤沼くん……!」  
「ん?」  
外の景色から振り返ると、鋭い目つきで睨み付けるその顔は、静かに怒りを湛えていた。  
「からかったんですね……っ」  
「あー、悪かった。ほら、今度こそ隣空けるから」  
隣へ促そうと脇を目で指すと、彼女は俯いてかぶりを振った。  
さすがに向こうに戻るか。  
彼女の邪魔にならないように、今度こそ塞いでいた両手を脇に除けた。  
掴まれたままだった俺の腕から彼女の手が離れる感触がして、俺はその衣擦れの音の正体を  
何とはなしに確認して、目を逸らす気でいたのだが――、  
「っ!?」  
異変に気付いて振り返った俺の視界にいい笑顔の彼女が飛び込んできたと思う暇もあらばこそ、  
俺はまたしても後頭部を打ち付けた。  
驚きのあまり一瞬止まった呼吸は、次の瞬間には空気で無い香りを吸い込む。  
首に腕を巻きつけた彼女は、俺の耳元で声を弾ませた。  
「私、離れませんから! ひとの事、二度もからかった罰ですっ」  
いやいやいやいや、罰って、おい。  
引き剥がそうと肩に手を掛けると、ぎゅっとしがみつく力を強められ、更に密着される。  
「ちょっ…こら、はな……放せ!」  
「嫌ですっ」  
「…っ、放しなさい」  
「駄目です」  
「放してください」  
「無理な相談です」  
偉く強気で言い切られ、振り落とそうとすればするほどに縋り付かれる対応になす術も無く、  
いたずらに体力が消耗していく。  
「それとも、今ここで出来る別の罰がいいですか?」  
「別の罰って――?」  
その問いに、彼女は剥がされないようにか背に深く手を回し直し、俺に見せつけるように悪戯っぽく  
唇をちょんちょん、と笑って突付いてみせたがために、俺は天を仰ぐ羽目になった。  
 
「……下から見えるようになるまでだからな」  
観念して身を投げ出すと、してやったりと喜ぶ気配とともに、飛んでもない言葉が降ってきた。  
「ええ。抱き締め返してくれたらそうします」  
「――!」  
固まった俺を打ちのめされたものと判断したのか、彼女の満足そうな笑声は、逆襲完了、と  
告げていた。  
 柔い体温を感じながら、俺は知らず知らずの内に溜息を吐き漏らしていた。  
彼女は何か勘違いしている。  
俺が彼女に何を提案されても嫌がる訳は、奴らが監視する中であれやこれやをすると命を  
狙われるからであって、湧き出でる感情から生じる拒否である一方、我が身可愛さが理由の  
大よそを占めている。  
しかしながら、ここは学外であり、尚かつ空中。  
従って、見られたとしても、相手は見知らぬ他人に当たる。  
と言うことはつまり言い換えれば、監視の目が無い中で少々羽目を外すくらい、構いやしない  
のだ。  
この状況で彼女を掻き抱くことくらい、どうすれば罰になると言うのか。  
俺を舐めているんだか、はたまた買い被ってるんだか。  
ま、弄られて憤った辺りが正解だとは思うがな。  
結論は出ているものの、俺は行動を起こすことを躊躇った。  
何故なら、この逆襲返しの最大にして唯一の欠点が、傍から見ればバカが付くカップルの行動で  
あるからだ。  
さりとて、やられっ放しも性に合わない、この究極の二択。  
これ以上誤解が生まれる行為も慎みたいというのに、まいったね。  
「ひゃっ!?」  
引き寄せた途端、彼女は間抜けな声を上げて身を竦めた。  
「じゃ、そういう訳で、自分の発言は死んでも守れよ」  
「えっ嘘、あの……っ」  
うろたえた素振りで腕の中を蠢き、慌てて身を捩じらせようとも、放すまいとして押さえ込まれた  
俺の上腕からの脱出が容易なはずも無く。  
 
「ふ、藤沼くん、放してくださいっ」  
「まさか、どうして」  
「だ、だって……」  
口籠ってから彼女はしばらく独り相撲を繰り広げていたのだが、もがき暴れる背中につつ、と  
手を滑らすと、悲鳴を上げて抵抗が止んだ。  
「……藤沼くん」  
泣きつくような弱々しい声音で、彼女が俺を呼ぶ。  
「何だ」  
俺の返事に逡巡するかのような沈黙を続けていた彼女だったが、やがて振り絞るような声色で  
言葉を継いだ。  
「わ、私、藤沼くんの事、好きなんです……っ」  
知らないとは言わないが。  
「だから……だから、こんな事されたら、私――」  
言葉が途切れたのと同時に、背中側のTシャツが掴まれる。  
彼女はそれきり黙り込んだ。泣いているような気配は無く、ただ俺に体重を預けているようだ。  
手持ち無沙汰になった俺が何気無く外の景色に目を遣ると、つい先ほどまで眺めていた気がする  
悲鳴発生装置が目の前に広がっており、その現状に驚いて下を見ようと窓側に身体を傾ける。  
地面が近い。と言うか、係員の顔が見え――  
その光景に目を奪われていた途端、腕が勢いよくはね除けられた。  
ご丁寧にも帽子を踏み潰すことなく向かいに移った彼女は、へたり込んで荒く息を吐き、俺を変態、  
とでも言わんばかりに睨み付けて縮こまっている。  
あーあー髪がぐちゃぐちゃだぞ。あんなに暴れるから。  
何はともあれ、ようやく手が空いた俺は、床に落ちた帽子を払い目深に被り直す。  
地上は目の前だった。  
 
ガチャンと錠が外される音がして、開け放たれた扉から流れ込んだ外気がやけに涼しく頬を撫でる。  
「はい、お足元、気をつけてお降りください!」  
係員が溌剌(はつらつ)とした声で降りる先へと誘導する。  
まず彼女が地面に降り立ち、続いて箱を抜け出した俺は、階段のところで彼女に追いついた。  
取りあえず、その気も無いのに尋ねてみる。  
「…もう1周するか?」  
「しませんっ」  
 
「相川」  
「……」  
「………相川」  
 近づけばそっぽを向かれ、視線の先に回り込めば逆方向へと早足で逃げられてしまうので、  
仕方なく適度に距離を置いて付いていく。  
通り過ぎようとしている傍らで、日の光を浴びた池の水面がほのかに煌めきを放っているのだが、  
彼女はそんな現象には目もくれず、ひたすら離れようとするかのように観覧車から遠ざかっている。  
「藤沼くんはずるいです!」  
靴音を鳴らすように、前のめりに歩いていた彼女が突然叫んだ。  
「へー、どういうところが?」  
「私ばっかりいいように翻弄されて、赤くなって、やり返してみてもひっくり返されたりして……っ  
なのに、藤沼くんは何ともないところです!」  
いや、俺もあなたに散々翻弄されまくってると思うのですが、それはこちらの思い違いなんでしょうか。  
「聞いてますか!?」  
返答の無いことに焦れたのか、くるりと勢いよく振り向いた彼女に、  
「もうしない」  
と返事をすると、あからさまにがっかりして見えるのは目の錯覚だろうか。  
正直者め。  
「な、何でしょう……?」  
「いや、別に何でも。――さて、次は何に乗ろうか」  
 
 
 その後と言えば、途中で見かけたワゴンでアイスを奢り、罰と称してメリーゴーランドに向かわ  
された頃にはすっかり機嫌は良くなっていたとは思うのだが、それでも時折何かを見つけて誘導  
されそうになる(実際連れられていくと、大抵ろくでもない事態になった)ので、慌てて土産物屋に  
押し込み、ぬいぐるみを買い与えてみたりして、ひたすら気を逸らすことに尽力した。  
 店から外に出てみると、オレンジ色の夕焼けとは対照的な冷たい風が吹き付ける。  
「寒くないか」  
「平気です」  
いつまでいると決めていた訳ではなかったが、俺達は揃ってあまり遅くまでいられるような装備を  
して来てはいなかった。  
俺は突如響いた、はしゃいだ歓声に釣られて振り返る。  
まだ帰路に就くには早すぎるためか、入場門近くの土産物屋の周囲は人の姿がまばらで、辺りは  
賑やかな雰囲気からぽつんと取り残されていた。  
ふと彼女に目を遣れば、周りの物寂しい空気に感応したかのように、どこか憂いを帯びた視線を  
彼方に送っている。  
遠くを見たまま立ち尽くす彼女の髪が、沈みゆく夕日と時折吹く風に煽られ、銅(あかがね)色に  
煌めいていた。  
声を掛けるのがはばかれる雰囲気で佇む姿の、揺れ動く髪の先を俺は目で追い掛ける。  
沈黙は不思議と嫌では無かった。  
「藤沼くん、あの…私……」  
彼女が寂寥感を湛えた瞳で振り返ったと気付くのに、風が頬を撫でさらうだけの間が生じた。  
「…ああ、そうか。あんまり遅いと家の人が心配するよな」  
「いいえ、あの、違うんです……」  
言い淀んだ彼女は、何かを思い詰めたように表情を強張らせている。  
 
「何だ、どうした」  
あまりにも言いにくそうにしているのを見て、俺は口調を和らげて相槌を打つ。  
「お話しなければ、ならない事が……」  
「話? だったら、冷えるからどこかに」  
「――いいえ、ここで結構です」  
彼女は俺の言葉を遮るように強い調子で言い放ち、かぶりを振る。  
 口を開くまで、彼女は最後の最後まで踏ん切りがつかないようだった。  
「すみません。今日が本当はどういうデートだか、私、最初から知っていました」  
「えっ……?」  
「真歩に脅されていたからですよね。――でなければ、今まで断られていたのに、藤沼くんが  
急に私とデートしたいだなんて言い出すはずありませんよね……」  
彼女は自嘲めいた笑みを零す。  
――ちょっと待て。……知っていた? 初めから?  
うろたえ戸惑う俺に構わず、彼女の告白は続いた。  
「誘われてすぐ、それが真歩の差し金だと気付いたのに、私は結局、気付かない振りを選びました。  
私の中でデートが出来る喜びの方が勝ってしまったんです。自分が最低の選択をしたと、真歩の  
策略に乗っていると自覚しながらもです。  
――それに、こうも思いました。私さえ黙っていれば、もしかしたら楽しい一日に出来るかも知れない、  
そうしたら藤沼くんも脅迫されていることなんか忘れて、いい思い出だと思ってくれるかも知れない、  
だなんて……そんな風に自分を正当化して、身勝手な理由で藤沼くんを騙す後ろめたさを頭から  
追いやって来ましたけど……  
やっぱり無理です…駄目です、こんなの……楽しければ楽しいほど、どんどん苦しくなって……」  
まるで縋るようにバッグの柄を握り締めて、彼女は震える。  
「わ、私は自分が許せないです。藤沼くんの傍にいる資格がありません。ですから、今日で――  
これで付きまとうのも終わりにします。  
本当に今頃、こんな謝罪をされるのも腹立たしいでしょうけど、今日まで楽しかったです。今まで  
ご迷惑をお掛けしました」  
 
深々と下げた頭から流れ落ちた髪が、冷たい風に煽られて棚引く。  
「――俺の方こそ、ごめん」  
人はなかなか自分の欲望には打ち勝てないものだ。  
俺でさえ、自分が助かりたいがために彼女を踏み台にしようとした。  
騙していたのは俺も同じで、尚の事彼女に謝られる資格は無い。  
彼女は耐え切れなくなるほどに苦しんだのだ。  
果たして、俺も同等の罪悪感を覚えていたかと言えば、その感情を欠片でも持つことは無かった。  
なぜなら、それは――  
「謝らないでください! 悪いのは何もかも、……っ」  
言葉は嗚咽で掻き消され、代わりに瞳からはらはらと涙が溢れ出した。  
何もかも悪かったはずが無い。誘いを受けたことで自分の欲望に負けたのだとしても、その一部は  
俺の事を考慮してくれた末の行動のはずだ。自分の行為が何を齎(もたら)すか考えてくれたお陰で  
俺の首の皮一枚は繋がっていた訳だし、俺はそれについてとても感謝している。  
しかし、そんなネガティブな謝礼を述べたところで下手な慰めにもなりはしないし、それどころか、  
彼女はますます自分を責めるだろう。  
ならば、俺は――。  
「――相川」  
この期に及んでもまだ躊躇するもうひとりの自分を黙殺する。  
「確かに、最初はおまえの言う通り、一ノ瀬に強制されて誘った。人の気持ちを弄ぶような真似を  
した事を謝る。すまなかった。  
――だけど今日一日、嫌々付き合って、俺はつまらなそうに過ごしてたか? それとも、全部演技に  
見えてたのかよ」  
「それは……」  
ジェットコースターの類に乗ったことが無かった彼女を空中ブランコに乗せたがために、通り過ぎる  
前に5回は誘ったウォーター・フォールを拒否されてはを繰り返し、お化け屋敷は全会一致で可決に  
必要な賛同が得られること無く否決され、ショーを間近で見てはしゃぐ姿を「お子ちゃま」だとからかう  
のを、「夢が無い」と反論され、――それらが全て、  
「俺は今日、楽しかったぞ。おまえは楽しくなかったのか?」  
「わ、私も楽しかったです。……じゃ、じゃあ、これで最後にしなくていいって事ですか?」  
「ああ」  
「…今、ここで抱きついたとしても怒りませんか?」  
「それは怒る――おわっ」  
遅まきながら、土産物屋から出てくる客などから注目を浴びてる事に気付き、引き剥がそうかとも  
思ったのだが……  
今日のところは不問にしておこう。  
 
 
 薄闇色に空が染まる頃、俺達は彼女の住む地の最寄り駅へと到着した。  
自宅まで送っていこうかと申し出たものの、徒歩で送っていくには遠すぎるらしく、それを往復させる  
のは申し訳ないから、と断られた。  
彼女が迎えの車を呼び、俺達は駅前のロータリーにてその車を待っている。  
「藤沼くん」  
「ん?」  
泣きやんだとは言え、未だ目の周りは赤い。  
「今度は正真正銘、本当のデートをしましょうね」  
「……断る」  
「どうしてですか? ……やっぱり、今日楽しかったって言ってくれたのも、私を宥めるための  
その場しのぎの嘘だったんですね……!」  
いや、それは――  
再び潤みを帯び始めた瞳にうろたえ、弁解の言葉を探している俺の横で震え始めた彼女は、  
くつくつと忍び笑いを漏らし始めた。  
まんまと一杯食わされたらしい。  
「それは、俺がまた一ノ瀬に脅されるのでも期待するんだな」  
「そんな事言われると、けしかけたくなっちゃいます」  
彼女は冗談っぽく、おどけた口調で拗ねる真似をした。  
睨むと彼女は楽しそうに両手で笑みを隠してみせる。  
――今のは、両者間で手打ちが済んでいるからこそ出来るやり取りなのだが。  
 結局のところ、彼女は自らが招いた責任だと俺との関係を断ち、一ノ瀬に“処断”を下すつもりで  
俺に全てを告白したのだが、それぞれの事情を考慮した結果、一ノ瀬の脅迫に気付いていたこと  
自体を秘密にしよう、という事になった。  
つまり、俺は約束を破ることなくデートを終えて一ノ瀬との取引を履行したことになり、契約違反を  
起こすと発生する災厄を回避できるのだ。  
彼女曰く、それが俺に対する罪滅ぼしだと。  
 
 大よそ過ぎてみれば、積み上がったのは秘密だけである。  
彼女との間に、前述の一ノ瀬に対する秘密を。一ノ瀬との間には、彼女に対し俺が脅された材料の  
秘密を(彼女は何を使って脅されたか、ということについて、聞かずにいてくれた)。  
ああ、そうそう、世間に対し、彼女とのデートを隠すという秘密も拵(こさ)えたな。  
彼女の語ったところの幼馴染み――表現は間違っては無いのだが……  
「諦めませんからね」  
やっぱり飛んでもないのに目を付けられたもんだ。  
「はいはい」  
今更諦めない宣言をされたところで、今までと何が変わるでも無し。  
むしろ、今までの暴走が少しは収まるのではないか、という期待さえ膨らむ。  
「あ、でも今日の事もあるので当面の間は自粛します。けれど、諦める代わりだと言っては何ですが、  
これを受け取っていただけませんか。剥き出しのままで申し訳ないのですけど」  
バッグの中から取り出した紙袋をがさがさと開き、彼女は中から小さい何かを差し出した。  
周囲の明かりに反射してつやつやと光を放ち、スイングするそれをよく見ようと捕まえる。  
「何だ……?」  
「私からも藤沼くんにおみやげです」  
「…ってこれ」  
黒地に赤い目玉と口に長い耳。いつの間に買っていたのか、親指ほどの大きさの遊園地のマスコット  
キャラクター型のキーホルダーだった。  
「可愛かったので私の分だけこっそり買って、今日の密かな思い出にするつもりだったんです。  
夢じゃなかった事の証明として、持ち歩ける物を、と。  
けれど手に取ると、ペアの商品だと書かれたポップが目に飛び込んできて、それで何だか、ひとつ  
だけ連れて帰るのが寂しくなって……」  
言って、彼女は同じ袋から白いウサギのキーホルダーを取り出して俺に見せた。  
「藤沼くんが許してくださるとは思ってもみなかったので、取って付けたような理由で差し出すのは  
気が引けるのですけど、でも、もし……受け取ってくださるなら、すごく嬉しいです」  
それは何だか今日の出来事を象徴しているような気がして、  
「――分かった、貰っとく。ありがとな」  
「はい!」  
嬉しそうな、ほっとするかのような表情に変わるのを見て、俺も穏やかな気分になったりしていた  
ものだった。  
 
 
――この時までは。  
 
「あ、迎えが来たようです」  
 ロータリーに入ってくる車を認めるなり、彼女は立ち上がって俺を振り返る。  
彼女が自ら申し出たことでもあるので、俺が送るのはここまでだ。  
……だから、そんなに見つめられても困るんだがな。  
目を逸らした間にくすりと笑った気配がした。  
「今日は…色々あったけど、すごく楽しかったです。ありがとうございました」  
「ん。帰ったら目の周り、よく冷やせよ。こちらこそ、ごちそうさま」  
「はい」  
一瞬俺達に向かって車のライトが照射され、目を眩まされている間に黒塗りの車が横付けされて  
いた。  
車から降りた、いかにもお抱え運転手な格好をした相手を制し、俺はドアを開けてやる。  
「じゃあ、……また、明日」  
彼女は名残惜しそうな顔をしながら頷き、後部座席に乗り込む。  
俺がまさに車のドアを閉めようとした時だった。  
「――にいちゃん!?」  
驚愕を含んだ素っ頓狂な声が背後から響いたのは。  
「ウソ…何で……?」  
「え、えっと……」  
彼女がどうリアクションすればいいのか戸惑いながら、後ろの存在と俺とを見比べている。  
「相川、別に明日待ってなくていいからな」  
俺は身を屈めて言い捨て、強引にドアを閉めて送り出す形に仕上げると、運転手は空気を読んで  
くれたのか、まもなく車は走り去った。  
「あっ!? あ〜〜〜っ……!」  
声の主はロータリーから去る車を追い掛けるように走り寄り、残念そうにその光景を見送る。  
どこぞのお嬢様学校の制服姿が様にならない、髪をポニーテールに括ったそいつは、おろおろする  
背後のお嬢様2人をほったらかして、俺を睨み付けた。  
 
見合ったのはほんの瞬刻にも満たない時間で、俺はその一瞥を返し終わるとすぐさま歩き出す。  
「あっ ちょっと、にいちゃん!」  
俺はその非難の声をまるで聞こえなかったかのように無視を決め込んだ。  
「リエ、さーちゃん、ゴメン! また明日ね!」  
そう声がするや否や、ぱたぱたと足音が近づいてくる。  
「待ってよ、にいちゃん! にいちゃんってば!」  
エスカレーターを上り終えた俺は、聞こえない振りをしつつ早足で改札口へと向かう。  
「おっ …お兄ちゃん!」  
ぞわりと一瞬にして総毛立ち、堪らず振り返った。  
「お兄ちゃんて呼ぶな、気色悪い」  
「だったら止まってよ。でないとまた呼ぶわよ」  
吐き捨てるように返事をした俺に半ば脅迫まがいの事を言いながら、ご自慢のセーラーの襟を  
翻らせては距離を詰めてくる。  
「何でこんなところにいるんだ。部活じゃなかったのか」  
「部活の後、友達のお見舞い。そしたら流れで夕食までごちそうになることになっちゃって」  
「へー、そう」  
それだけ言って定期入れを取り出し、改札を通り抜ける。  
「あたしも聞きたい事があるんだけど」  
追いついた妹――述べるまでもなく同じ父母の下に生まれた本物――が、横に並んだ。  
何だって家族にはあまり見られたくない場面を見られた兄の気持ちを察することが出来ないのか、  
この妹は。  
「どうして相川先輩と一緒にいたワケ? どういう知り合い…って言うか、まさか! この間から  
お弁当作ってくれてるカノジョと先輩が、同一人物だって事はナイでしょうね!?」  
『先輩』って何だ。先輩呼ばわりしてるってことは、まさかよりにもよって彼女はこいつの中等部  
出身って事なのか?  
「ねえっ?」  
食って掛かる妹は、心なしか青ざめながら俺を見上げるのだった。  
 
 
 月曜日がやって来た。  
結局、現状維持を選んでしまった俺は、昨夜別れ際の言葉を忘れたのか、今日も駅で待ち伏せて  
いた彼女とともに電車に乗り込んだ。  
さぞかし疑問が残ったであろう、別れ際に起こった出来事の経緯を簡単に説明し(ついでに妹が  
唐突に叫んだ非礼も詫び)、帰宅中後にベラベラと喋った妹によるところの中等部の先輩だった  
という話の裏も取れた。  
彼女は偶然の一致にとても喜び、是非妹と話をしてみたいと語ったのだが。  
妹があの学校を受験したのはたまたま助けてもらった彼女に憧れて、だとか、髪を伸ばし始めた  
のは、等のどうでもいい裏事情を昨夜散々聞かされた俺としては、到底受け入れられる話では無い。  
何故、家でも学校でも狂信者の間に挟まれなければならないのか。  
どんな事態が起こるのか目に見えるようだったので、曖昧に言葉を濁すに止(とど)めた。  
 まあ、それ以外には普段と何ら変わらない、いつもと変わらぬ平穏な月曜日を迎えられた――  
と思っていた。  
「お・は・よ、秀司君。昨日はズイブンと楽しい現場に遭遇させていただいちゃったんだけど」  
 俺が席に着くなり、語尾にハートマークでも付いていそうな浮かれた調子で手前の安堂の席に  
腰を掛けたのは、俺の出席番号1つ前の東井沢だった。  
とは言っても、長いし呼びづらくもあるので、誰からも下の名前の北斗で呼ばれている奴である。  
「やーばいんじゃないの、あの場面はー」  
どうにもこいつは、クラス内でからかわれる対象が一極集中から俺へと分散されたことが嬉しくて  
仕方ないらしく、このところ話し掛けてくる時の仲間意識的同情の眼差しがウザいことこの上ない。  
俺はそっち側じゃない、半分命がけでおまえとは次元が違うんだよ、という意味合いの視線を  
返してはいるのだが、気付いた風も無く絶好調で今に至る。  
ウザいんだよ、おまえは。早く相方と付き合っちまえよ、このクラス公認カップルめが。  
と、いう言葉を呑み込んで、ちろりと北斗に視線を遣る。  
「へー、どこで何を見たって?」  
鞄の中身を出しつつ、俺は平常心を装って相槌を打った。  
まだずばりそのものを言われた訳では無いので、動揺するには早すぎる。  
 
北斗は、「え、言っちゃっていいワケ?」という目線で、実際2度にもわたり、声に出してその台詞を  
反復し、その後自身の興奮具合を抑えようというのか、大仰な動作でもって右手で口に蓋をした。  
俺はその大げさなリアクションの隙に、机のフックに鞄と上から魔よけの巾着袋を掛ける。  
北斗が耳元に顔を近づけた。  
「7時前に、乗り換え駅の連絡通路で――」  
おおっとNGワードだ。残念だったな北斗――と、俺が奴の口を塞いで連れ出そうとするより早く、  
「園宮女子の、しかも中等部! 実はあのコが本命だったりするから相川さんの事断ったとか?  
あ、それとも別れ話だったりしたのかな? 何かただならぬ雰囲気だったんですけどっ」  
喋るスピードが急加速し、ついでに先ほどまで声のトーンを落とそうとしていた努力はどこへやら、  
周囲が振り返るほどに喚き立てやがった。  
目が爛々と光を放っている。  
返答に脱力した俺は、身構えたのを気付かれないように座り直し、溜息を吐いた。  
あるいは、安堵の吐息だったかも知れない。  
確かにただならぬ雰囲気だったのは認めよう。主に相手が。  
「いやぁ、でもかなり可愛かったな。園宮の生徒だと、中等部生の内に手ェ付けとくってのも――」  
「北斗」  
「あ?」  
とんだ杞憂だった。  
「おまえが制服マニアだという事は分かったから、取りあえず落ち着け」  
園宮女子は、ここいらの学区からはだいぶ遠い。それを言い当てたのには少々驚いた。だが――。  
俺は分かりやすく疲労色を乗せて溜息を吐く。  
「ったく、妄想だけでそこまでベラベラ喋れるおまえを心底尊敬するよ。ついでに畏敬の念も  
付け加えてやる」  
「な、何だよ」  
北斗が怯んだところで俺は真相を突き付けた。  
「ありゃ妹だ」  
「ええっ!?」  
「おまえと兄弟の話になった時、2人とも下がいる事で一致したよな。おまえには弟。俺には妹って。  
何故その可能性を考えない」  
 
「……似てないだろ!?」  
「そう。似てない。というより、俺に似てる妹なんて飛んでもねえよ」  
よほど驚いたのか鼻白んだ様子を見せていたが、  
「確かに、お前がそのまま女装したみたいな妹なんて想像したら怖えけど、でもさ、ありゃ痴話  
ゲンカっぽかったぜ。どうして、とか、ワケを、とか言ってたし、お前だってあのコ振り払ってたり  
したし、ホントに妹か?」  
「あれは偶然あいつの友達に俺を見られて挨拶したら嫌がられたんだよ。難しい年頃でな。生憎、  
おまえのところと違って、うちは兄妹仲があまりよろしくない」  
大嘘だけど。しかし、言葉の通り、会釈くらいはしておけば良かったと今頃になって思う。  
こいつに兄弟話の時の会話が記憶にあれば、今の出任せもいい具合に説得力が出ることだろう。  
北斗は言葉も無くたっぷりと絶句した後、  
「何だよー。ぜってぇすげえスクープになるかと思って期待してたのにー!」  
その20分くらい前の連れを目撃していたならば、今現在その口が開いている保障は出来なかった  
がな。  
「残念でした」  
しれっと返し、落胆する北斗とこちらを窺っていたたむろする連中にもご愁傷様、といったような  
視線をくれてやる。  
しっしっ、と散会させるべく振っていたその手を明後日の方向から突然ぐんと引っぱられ、机に  
無理やり肘を押し付けられた。痛い。  
「だったらさ、その可愛い妹紹介しぐっ――」  
懇願だか命令だかが続くはずの声はそこでくぐもり、風を感じた俺は頭上の影を振り仰ぐ。  
降り注ぐ視線とともに振り下ろされている日誌の角は、煙の幻覚が見えるほど深々と北斗の頭に  
突き刺さっていた。  
「北斗。何、仕事サボってるの? 週番でしょ」  
「痛ッ…てえな! 殴る事ねえだろ!」  
「あんたが仕事もせずにだべってるから制裁の一つも加えたくなるってもんよ。昨夜あれだけ  
言ったのに、まったく」  
 
まるで忍者の如く気配を殺しつつ現れたのは、北斗の幼馴染み兼、週番兼、我がクラスの学級  
委員長であらせられる、西森 南乃香だった。  
俺は北斗同様、席の関係で1年の頃より親しくさせてもらっている女子で、普段は明るく真面目で  
面倒見が良い、クラスの良きまとめ役でもある。(現在は般若のようではあるが。)  
月曜の朝から特等席で観覧する羽目になるとは、付いてない。  
「西森の言う通りだ。下らん妄想談を語る前に仕事しとけ。――さて、積もる話もあるようだし、  
邪魔者は退散するか」  
下手をすると痴話喧嘩の応酬に巻き込まれるのは、最早お約束、と言っても過言ではない。  
俺はいつの間にか縋るように掴まれていた右手を引き剥がし、立ち上がった。  
「ちょっ……秀司待て!」  
北斗の目が助けて、と懇願している。  
が、努めて素早く追い縋ろうとする手を躱(かわ)し、  
「じゃ、ごゆっくり」  
ひらりと手を振って、危うく盾とされる前に脱出を果たした。そう何度も盾にされて堪るか。  
「――朝早くに来といて何やってるの? 日誌取りに行くより、藤沼君と話す方が大事だったわけ?  
昨日、用があって遅くなるから先に行っててって言ったじゃないの。聞いてなかったの?  
それとも、そんなに言うほど可愛らしい藤沼君の妹さんのことが気になってしょうがなかったって――」  
そんな説教を背に俺は教室を抜け出した。  
ああ、やはりいつもの月曜日と違(たが)わなかった。  
 当てもないまま教室を飛び出し、ホームルームまでの時間潰しに適当にぶらつこうとしていると、  
主に1年が行き交う廊下に見知った顔を発見した。  
知り合いらしき後輩に直角に礼を執られてはにこやかに挨拶を返し、通り過ぎては後ろ姿に秋波を  
送られ、おまけに女子からも振り返られるわで、一身に注目を集めている。  
改めて思い返すと、飛んでもない女に屈してしまった感がひしひしと込み上げてきた。  
――いや、訂正しよう。悪魔だった。  
俺としては時間のある放課後に済ませるつもりだったのだが、随分とせっかちなこった。  
俺に気付いたような素振りを見せることもなく中央階段を上っていくのを見て、俺もそれに続いた。  
 
 
 昨日とは一転、雲が空一面を覆い尽くしている景色の下が、報告の場所となった。  
「鈴音の機嫌から察するに、デートは上手くいったようですね」  
「まあ、それなりに」  
フェンスに手を掛け外を向いていた一ノ瀬が、身体を半回転させて俺を見据えた。  
「デートした事を秘密にするって約束、なさらなかったんですか?」  
「…したけど」  
「あら、そうなんですか? あんな風に堂々と鞄に付けてきたから、隠す気は無いんだと思って  
ました。あのキーホルダー、どう説明するつもりなのかしら、あの娘」  
それに関しては同意見だ。  
今朝、俺の視線に気付いた彼女は手の中に隠したはものの、合間合間に昨日の思い出を  
懐かしむように白いウサギを眺めるので、何とは無しに言葉にすることは避けたのだが……  
デートしたことを秘密にすると約束した手前、自ら口にするのも契約違反だしな。  
しかし、一体どういうつもりなのか、問いただしたくはある。  
ちなみに片割れの俺の分は、立派に完全犯罪を成立させるべく、自宅軟禁させてある。  
「鈴音とデートしてみてどうでした? わたしの思惑通り、藤沼さんの中の鈴音の印象が、少しでも  
変わっていてくれたらいいんですけど」  
一ノ瀬の思惑? わざわざ口に出す時点で胡散臭くてつっこむ気にもなれない。  
「何にせよ、これで取引は完了だろ。もう俺は用済みになったはずだ」  
この報告までが、渡されたレポート用紙に指示されていた内容だった。  
何のために必要だったかさっぱり分からないが。律儀なのか、面白半分なのか。  
俺は踵を返して扉に向かう。  
「あっ 待ってください、藤沼さん!」  
珍しく取り乱したような鋭い一ノ瀬の声に、俺は反射的にノブに掛けた手を止めて振り返る。  
 
「でもわたし、ファンクラブの認可、取り消しちゃいましたから」  
一ノ瀬は、これでもか、と言わんばかりに瞳から歪んだ光彩を放った。  
んん?  
意味が分からない。俺の顔色を読んだかのように、一ノ瀬は語り出す。  
「取引が成立した後、わたし、席を外して電話を掛けたでしょう? あれは作戦の総指揮者に、  
学校の周囲を取り巻いている人達の解散を促すものだったんです。  
けど、『急にそんな事を言われても納得できない』ってぐずぐずと理由を聞き出そうとして退く様子が  
見られなかったので、結局、権限を使って解散させちゃったんですけどね。  
あなたとの取引に必要でしたし。  
――そんな感じで話は付いたとばかり思ってたんですけど、今度は指揮者達幹部が揃って事情の  
説明を求めにやって来て、大変だったんですよ、揉めに揉めちゃって。  
ですけど、校内秩序の観点からも暴力行為は容認できないですし、これ以上事を荒立てる気なら、  
わたしは活動を認めませんって事で――」  
一ノ瀬の言わんとする結論を先読みしようとするが、思考が拒否するのか、考えが上手く――  
「――結局、ケンカ別れに。わたしの承認が無ければ立ち行かないことも多かったので、事実上の  
解散でしょうね。  
ですから、これから先納得の行かなかった不平分子な方から至るところでケンカを売られることに  
なるかも知れませんが、頑張って相手してくださいね。応援してます」  
応援、される――鎖から放たれる――魑魅魍魎が虎視眈々と――ちょっと待て、ちょっと待て、  
ちょっと待て!  
「そして残念ながら、わたしはたくさんの手駒を失うことになってしまったので、あなたには新しく、  
わたしの駒になってもらいます」  
「…………はい?」  
 
その言葉に弾かれるようにして顔を上げると、視線の先では素晴らしく素敵な笑顔が俺を迎えて  
いた。  
一ノ瀬はまるで罠に掛かった虫ケラを褒め称える時に見せるような――微笑みを湛えて、こちらの  
様子を楽しげに見つめている。  
「まさか、藤沼さん。わたしは取引条件を全て遂行したのに、それに対して文句があると仰る  
つもりですか?」  
一ノ瀬は、「わたしは」という部分を殊更強調し、風に流れる髪を撫で付けるように耳に掛けた。  
まるで俺が正確に約束を果たさなかったと言わんばかりの言い種だが、もしや、彼女が全てを  
知っていることがバレてるのか? いや、まさか、だって尾行は無かったはず――  
「それにわたしが、本当に、鈴音とデートさせるためだけに取引を持ちかけたわけでは無いことは、  
あなたもご存知のはずですよね?」  
いや、確かにそれは……――まさか、最初からこれが狙いで――!  
一ノ瀬は、わたしが何も知らないとでも?とでも言いたげな視線で、凍りつく俺をしげしげと眺め  
返している。  
嫌な汗が後から後から湧いてくる。  
心の底から笑んでいる、恐らく一ノ瀬本来の極上、極悪の笑顔を浴びせられながら動けずにいると、  
フェンスの傍らで立ち尽くしていた一ノ瀬は歩み寄り、俺の目の前で立ち止まった。  
「これからわたしのためにがんがん働いてくださいね。期待してます、色々と」  
 
――こうして、何ひとつ得することの無い貧乏くじを引いた俺は、悪魔の下僕へと身をやつすの  
   だった。  
   悪魔と契約することなかれ。  
 
 
(第2章・おわり)  
 

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