1.火曜日は始まりの日 
 
 その日俺はいつものように、全国の学生生活を送る99%の人間が経験値を稼いでいると 
思われる、ごくありふれた世界にいた。 
 当然その日は、カレンダーにバツ印を付けて指折り数え待ったような特別な日などでは 
これっぽっちも無く、いつも通りに学校へ赴き、自分の席に着いて早々、友人達との他愛も無い 
会話に勤しんでいた。 
平和な、ある意味静謐な日常。 
たとえ裏で厄介事を抱えていたとしても、その内どうにかなるだろう、と高を括っていた俺は、 
実に呑気であった。 
俺は物語の主人公にあるような、少女が空から降ってきてだとか、ある日突然異世界の戦闘に 
巻き込まれてだとかの、いかにもな空想ごとが現実に起こる事を望まない人間で、ただ、日々が 
円滑に、滞りなく進んでいくのを何よりも是とするような埋没人生万歳主義者だった。 
 しかし、そんな望みを嘲笑うかの如く、安穏を壊す存在は突如襲来し、俺を弄ぶのだ。 
 
 俺は勇ましく近づくその足音に気付くはずも無かった。 
あるいはそれが、日常を崩壊させるものだと察知できたならば、ただちに逃げ出すか、大事を 
取って学校へは来なかった。 
足音は止まる。 
 
――パシン 
 
 この瞬間、俺の日常はついぞ目の前から消えて無くなった。 
 
 
 その場にいる、クラス全員が音のした方向を注視した。 
爽やかな風が時折カーテンを揺らす、5月半ばのショート・ホームルーム終了直後の2年B組。 
担任が教室を去り、わずかな休憩時間といえども貪欲に喋り倒そうとする事に抜け目の無い 
生徒達が縦横無尽に動き回らんとする最中、その人物は彼らの動きを縫い止めた。 
教室後方の扉を開けて現れたのは、一人の女生徒だった。 
襟元の赤いリボンが、室内の生徒達と同じ学年であることを示している。 
彼女は、まるでスポットライトを浴びる役者さながらの圧倒的な存在感を身に纏い、注がれる視線、 
驚愕と動揺が入り混じった息を呑むことさえ躊躇われる空気を物ともせず、ゆっくりと、一同に 
儀礼的とも言える速さで視線を流した。 
その衆目を集める状況に動じることの無い強い視線は、いかにも注目に慣れている印象を見る者 
に抱かせた。 
彼女は静止する2年B組の生徒達を尻目に、自らが生み出した静寂を縫うかのように薔薇色の 
唇を綻ばせた。 
「――藤沼秀司くん、いますか」 
澱み無い口調で彼女が問い掛けると、教室に群がる32匹の蟻達へ視線を巡らせる彼女が 
見出(みいだ)すよりも早く、蟻達の視線は弾かれるようにして一斉に、蟻その1――こと俺、に 
集まった。 
視線が痛い。特にある種の男どもからの。 
じりじりと前後+右方向から隈なく、「何故おまえが」との囁きが聞こえてきそうな不可視光線を 
浴びせられているのに抗い切れなくなった俺は、仕方なしに声のした方を振り返った。 
全体の集中線を辿ったらしき彼女が俺を認めているのを俺は認め、不穏な熱を放つ幾筋かの 
視線をさして気にしない風を装いながら、現れた学校一有名な蝶――もとい有名人に対し、俺は 
あからさまに渋い顔をして見せた。 
向かう彼女も視線の先で、その美貌に不必要な眉間の皺と絶対零度な瞳の色で明確な意思を 
露わにした。 
教室は一瞬呪縛から抜け出せたにも拘らず誰一人として動く気配が無く、しんと静まり返ったまま、 
好奇と言う名の疑問が塗された状態で一様に趨勢を見守っている。 
俺が何も返事をしないことに焦れたのか、はたまた見つけたらばそうするつもりだったのか、俺なら 
躊躇う他クラスの結界の先に彼女は易々と足を踏み入れた。 
漣が引くように周囲にいた人々が脇へ寄り、彼女は俺に視点を定めたまま歩を進める。 
机向かいに座る安堂の喉がコクリと唾を飲み込む様子を目の端が捕らえた。 
吹き抜けた風が背後にあるカーテンを翻らせ、彼女の髪をわずかに揺らす。 
目の前の彼女――相川鈴音は、いつもより険しい目元、黒く長い髪を携え、再び俺の前に現れた。 
再び、と言うのには訳がある。 
「もう、一週間が過ぎました」 
そう、俺達は一週間ほど前に見(まみ)えている。 
「――正確には、あと7時間半で1週間だ」 
何かを嗅ぎつけたのか、硬直が解けた幾人かが移動し始めたのを睥睨しつつ揚げ足を取ると、 
彼女はむっとしたように唇を噛み締める。 
無言のプレッシャーを放つ双眸に気圧されそうになるものの、俺は眉間の皺を消さぬまま、 
皮肉めいた笑みを向けた。 
彼女は一瞬目を見開き、うろたえるように視線を彷徨わせた後、俯く。 
「――へ、返事を、…聞かせてほしい、のです、けど……」 
彼女は心持ち、と言うより露骨に弱くなった口調で言い終えると、ちら、と俺に視線を寄越した。 
俺は左手で右頬を掻きつつ、緩慢な動作で彼女に向き直る。 
視界の奥でカーテンがはためいた。 
「返事?」 
「そう、返事です!」 
信じられない、と言外に非難を滲(にじ)ませ、彼女は俺の台詞を反復する。 
「返事って言われても……、あれ本気なのか? 実は罰ゲームだったとかじゃなくて?」 
「罰ゲームだなんて、そんな事ある訳無いじゃないですか……っ 本気で、私は……!」 
逸らされる際に見せる、目尻に薄っすらと浮かぶ残像。 
思わずまじまじと彼女の顔を眺め、その唇を噛む横顔にばつが悪くなり下に目を落とすと、両脚は 
微かに震えていた。 
驚いた。度肝を抜かれたと言ってもいい。 
ここまで色々な感情を露わにしている彼女を、俺は未だかつて見たことが無かった。 
からかって悪いことをしたな。 
 
――ここで足元なんかを見ずにさっさと謝り、返事をしてしまえば良かったのだ。 
   そうすりゃ被害は最小限で食い止められた。 
   更に突き詰めて考えれば、姿を見せた瞬間に出口に赴き、外へ連れ立つ等の行動も有効 
   だった。 
   つくづく悔やんでも仕方の無いことだが、結果的に俺を振り回した彼女に復讐心を抱き、 
   その心境のままに振舞ってしまっていた。 
   当時の俺の心境を振り返ると分からんでもない。 
 
 自分の態度を省みた。――たとえ半信半疑だったとしても、誠実に対応するのが筋だった。 
今更ながら謝ろうと顔を上げると、濡れて細かに煌めく瞳とかち合い、息を呑む。 
時間にして数秒だろう。罪悪感から来るものだ。決して見惚れた訳ではない。 
 加えて、いつも男を煩わしいとしか思っていなさそうな彼女が初めて見せる見慣れぬ表情を、 
つい俺が凝視してしまい、挙動停止状態になっていたとしても何ら不自然では無い。 
 更に、再びの沈黙に焦れたのか、やおら彼女が近づき、伸ばされた両手が俺の頬を挟み、 
引かれるまま彼女の方を向かされているのにだっておかしなところは無い。 
 そして、彼女と俺の距離が縮まり、俺の唇に柔らかいものが重ねられたとしても、単に心ここに 
あらずな状態であっただけで、状況を甘んじて受け入れた訳では無いのだ。 
 
――その時の騒ぎは、たるい一限目の体育の準備をしていた外の奴らにまで聞こえたと後から 
   聞いた。 
 

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