――――私にとって、それはまさに光だったのだ…。
『序』:
…夕刻の駅のホームは、快速電車を待つ人の波で混雑していた。
無言で階段を上る道程の中、すれ違いざまに聞こえてくるまだ年若い少女たちの声。
無邪気に紡がれる会話の先にあるのは笑顔だった。
自身と同じ制服に身を包んだ女学生の一団を横目で見ながら…
住田奈緒は乗車口付近の停止線前に立ち止まり、鞄から取り出した文庫本のページに目を落とす。
下校時刻を迎えた学生たちと、通勤帰りのサラリーマン…。
両者が合流して一斉に帰途に着くこの時間帯は、一日の内でも比較的電車の流れが早く、自然、駅への人の出入りも激しくなる。
上り電車を待つまでの数分間…。開放感に溢れた放課後に在って、奈緒は絶対に避けて通れないこのわずかな間隙がどうしても苦手だった。
…別に人ごみ自体を嫌っているわけではない。彼女が真に恐れるものは、人の波を縫うように滲み出る、暗く冷たいこの世の闇だ。
逢魔ヶ刻と…かつてそう呼ばれていた昼と夜の中間は、時折、奈緒に恐ろしい幻影を突きつける。
否、ソレは幻影などではなく、人々の想い。未練や願い…祈りとも置き換えられる強い情念は、必ずしも望ましい形で現実に映し出されるとは限らない。
奈緒にとってのソレは、あくまでも無慈悲で、無情で、ただひたすらに渇いた世界の歪みだった。
『――――なによっ!だって…アンタが悪いんじゃない!私だって、最初はアンタを応援するつもりだった…それなのにアンタが…』
『開き直るのはやめてよっ!サチのこと信じてたのに…。なんで…?なんで私を裏切ったの…。私が彼のこと好きだって知ってて…なんで…』
『…アンタこそやめなさいよ…。先に裏切ったのはそっちじゃない…そもそも、アンタさえ居なければ…』
…どこからか、言い争うような声が聞こえてくる。
視線を移せば、階段で見かけた女学生の内の二人が一団から抜け出し、ホームの片隅で睨み合っていた。
今にも掴み合いが始まりそうな剣呑な雰囲気に…しかし、周囲の大人たちは見向きもしない。奈緒も動くことができなかった。
それよりもきつく耳を塞ぎたい。一刻も早く目を逸らしたい。
ごめんなさい…。だって、もう間に合わないのだ…。何もできない…これから彼女たちが辿るであろう結末に、自分は絶望さえ覚えるのに…。
やがて、互いの服を掴んだ二人の女生徒は、揉み合うようにしてホームの段差を踏み外した。一瞬の空白。
重力に従い、線路へと投げ出される少女たちのシルエットを、滑り込む電車のライトが照らし出す。響くブレーキ音。重なる悲鳴。
そして舞い上がる人間の身体が鋼鉄の車体へと飲み込まれ、次の瞬間、二人の首と胴体が、あり得ない方向へとひしゃげ、曲がった。
擦り切れたぬいぐるみのように"中身"を露出させた女生徒の亡骸が、慣性に従い奈緒の足元まで跳ね飛ばされる。
折り重なり、すでに原形をとどめていない彼女たちの腕は、それでも憎悪を絶やすことなく互いの裾をつかみ合っていた。
友を憎み、想い人であった少年を憎み、最後には生者そのものを憎む…。亡者となった二人の少女はただひたすらに、怯える奈緒を見上げ続けた。
『もっと生きたかった…』 『なぜ私たちだけが…』 『お前も来い…』 『殺してやる…』
一方的な恨みを込めて…いつまでもいつまでも見上げ続ける。
コレは彼女たちの過去の記憶…今、この場で起こった出来事ではない。言ってみればただの回想にすぎないのだ。
自身の死を受け入れられず、人生の最後の光景を繰り返す。再生されるビデオテープのように、何度も、何度も…。
一体、どこからが現実で、どこまでが死者たちの見せた"まやかし"なのか…。軽い目眩を覚えながら、奈緒は逃げるように停止した電車のドアを潜り抜けた。
(いつまで…こんなことが続くんだろう…。私はこんな力なんて要らないのに…。あんなものを見せられたって、私には何もできないのに…)
滲みそうになる涙を必死にこらえながら、奈緒は夕焼けに染まる街の景色を眺めていた。
目に映るもの全てが幻ならいいのに…。そうだったなら、どれだけ自分は救われたろう。
だけど、そんなことは決して在り得ない。この世界には憎悪が、嫉みが、苦痛が、恐怖が、不条理に理不尽に満ち溢れている。
そうして全てを塗り替えるのだ。
ささやかに築かれた、暖かくきれいな欠片を帳消しにして…。結局、それらには何の意味もなかったのだと嘯(うそぶ)きながら…
この夕暮れの景色と同じ…。美しさの中に、限りない黒を内包した場所…。どこまでも脆く危うい、薄氷の地平…。
(それが…)
…それが住田奈緒の瞳を通した、当たり前のように広がる世界の真実だった。
〜【第0話 『住田奈緒』 】〜
「―――ねぇ、聞いた?あの子ってさ…『見える』らしいよ?」
「やだ…やめてよ…。気味悪い…それに、本人に聞こえたら…」
「だけど、ホントなんだってば!隣のクラスの美紀がね…偶然目撃したんだって。住田さんが誰もいない教室で、独り誰かと会話してるところ…」
「結局、噂じゃない。…でもさ、確かにそれっぽいよね、住田さんって。そういう話が持ち上がるのもなんか納得っていうか――――…」
「………。」
終業を告げるチャイムが鳴る。ホームルームが終わったばかりのざわついた教室で、奈緒は一人、席についたまま、うつむいていた。
連れ立って部活へ向かう者。近づく週末の予定を話し合う者。めいめいが伸び伸びと過ごす中、彼女だけは決して顔を上げようとしない。
…こうしていれば、奇異の視線とぶしつけな言葉を避けられる。教室から人が居なくなるまで、誰にも関わらず過ごすことができる。
今の彼女の心にあるのはただそれだけだった。
(中学校に進んでも…やっぱり何一つ変わらないんだな…)
ふと窓に映ったクラス札…《1−3》と書かれた入り口の符丁を見つめながら、奈緒は小さくため息を吐いた。
それも当然か…環境以前に、肝心の自分自身が何一つ変われていないのだから…。第一に、誤解を解こうとする努力を怠っている。
心無い噂にも、他人からの偏見にも、もう慣れた…。そもそも彼らの言うことも、あながち全てが間違っているというわけではないのだ。
自分が普通の人には見えない不吉な影を目にしているのは、紛れもない事実。気味が悪いという評価も、実際は正鵠を射ているのだろう。
(…だって、抱え込んでいる私自身が不気味だと感じるような力なんだもの…)
…彼らは何も悪くない。ただ感じたままに、率直な感想を述べているだけなのだ。
悪いのは私…。行動を起こす前にすぐ言い訳をして、結局は現状に甘んじてしまう。
春が終わり、入学からすでに数ヶ月が経過した…。それでも奈緒は、過去の居場所から一歩も動くことが出来ずにいる。
「―――ほら、お前ら。噂話もいいけど、することないならそろそろ帰ったらどうだ?もう結構良い時間だろ」
「な、なによ…。神木君には関係ないでしょ」
「大ありだよ。今日の日直、誰だと思ってんだ…。居座られると、俺が帰れないんだってば」
…途切れる会話。まだ何か不満があるのか、延々と文句をこぼす女生徒たちの声が、少しずつ廊下の向こうへと遠ざかっていく。
代わりに奈緒の視界に入ったもの…それはこちらを覗き込むように机に落ちる、一つの影だった。
奈緒との距離感を測りかねているのか、その肩口が落ち着きなくそわそわと揺れ動いている。
「…?」
「あ〜…住田?あのさ、今日日直だよな、俺とお前の二人で…」
「……。」
ようやく正面に向き直った奈緒の瞳が、頬をかくクラスメイトの姿を捉えた。
…見覚えのある顔だ。実際に言葉を交わしたのは数えるほどだが、遠目に何度か見かけた屈託ない笑顔が印象的な少年だった。
「…神木君」
確認のために、彼の名前を呼んでみる。奈緒の応対に幾分安堵したのか、少年の眉根が少し開いた。
「うん、分担して早く終わらせちまおうぜ。俺は黒板を消すから、住田には学級日誌を頼んでもいいか?」
また笑顔…。
遠慮がちにうなづく奈緒の様子を一瞥して、彼は教壇に向かって歩いてゆく。
心地良い余韻を残すその声をなんとなく胸の内で反すうしながら、奈緒は渡された日誌のページを無言で開いた―――――…
◇
(―――神木則雄くん…。前にクラスの女子の間で、何度か話題に昇っていたっけ…)
階段をくだり、二人でゴミ箱を運ぶ最中(さなか)。半歩前を歩く少年の背中を、奈緒はぼんやりと眺めていた。
自分から騒いだりはしないが、いつもクラスの明るい雰囲気の中心にいる少年。奈緒の知る神木則雄はそんな人だった。
そういえば以前、彼が陸上競技の長距離種目で表彰されているところを見たことがある。話しやすく気さくな人柄に、密かに憧れている女子も多いと聞いた。
(…さっきのは…。ひょっとして、私を助けてくれたのかな…)
狙ったようなタイミングで割って入った彼の一声で、結果的に奈緒はあの苦痛を伴う時間から解放された。
もしも彼が私を気遣って、同級生の噂話を止めてくれたのだとしたら…
(強い人…)
…まるで自分とは正反対の人だ、と奈緒は思った。それこそ、眩しすぎてまともに触れることができないぐらいに…。
羨望の入り混じったこちらの視線に気づいたのか、彼はおもむろにゴミ箱を抱え直し、苦笑とともに振り返った。
「それにしてもお互いついてないよな。せっかくの金曜日だってのに、こんな役回り押し付けられてさ」
「私は…。家に帰ってもあまりすることがないから…。神木君も、忙しいなら帰って大丈夫だよ。あとは私一人でやっておくから…」
「……。大丈夫だよ、って言われてもな…」
奈緒のつぶやきに…。
難しい顔で宙を見上げて、少年はわずかに逡巡する。そして一拍置いた後、意を決したように視線を戻し、今度は体ごとに奈緒の正面へ向き直った。
「なぁ、住田…。言いたいことがある時に、他人に遠慮しすぎるのはよくないと思うぞ。
クラスの連中の件にしたってそうだ。あんな好き勝手言われて…本当は気分、よくないんだろう?」
それは真っ直ぐな言葉だった。真摯な声が、心が、奈緒の瞳を通して映し出される。
眩しい。その力強さに気圧される。自分には…とても受け止めきれない…。
「それは…。だけど、私の言うことなんてきっと誰も聞いてくれないから…だから、いいの…」
噂は必ずしも嘘ではない、とは告げられなかった。…恐かったのだ。純粋な心配を向けてくれる彼にまで遠ざけられることが、恐くて恐くて仕方なかった。
曖昧な拒絶を否定するように、少年がゆっくりと首を振る。
「そんなの、やってみなけりゃ分からないよ。こうして二人きりで話してたって、住田は普通の女の子だ。噂なんて嘘っぱちだって誰の目にも明らかなのに…」
「神木君は、気味が悪くないの…?みんな言ってる…私と話すと呪われるって…。噂が真実だとは、思わない…?自分の目で見たものが正しいって、本当に自信を持って言い切れる…?」
「…昔、うちの婆ちゃんにさんざん叱られたんだ。自分がこれだと確信できることに出会ったら、自分の心を決して疑うな、他人の悪意になんか踊らされるな、ってさ…」
それこそただの受け売りだから、ちょっと格好悪いけど…
そう言って、少年は微笑みを浮かべる。照れ隠しをするように…しかし先ほどと変わらない、優しい眼差しをたたえながら…
「――――――…。」
トクン、と。
微かな鼓動の音を聞いた気がした。
自分が確信できること…信じたいと思えるもの。それと相対したときは、逃げずに自分の心と向き合うべきなのだと彼は言う。
簡単そうに見えて、これほど難しいことを奈緒は知らない。
それに違う…。彼を取り巻く環境と、自分の目に映し出される世界はまるで違う。そんなことは分かっている。
だけど。
それでも。
(私自身が…信じること…)
譲りたくないと思った、本当の気持ちは…。
「……っ!?」
――――その時の奈緒の挙動を、神木則雄はどのように捉えたのか…。
階段と接した踊り場の窓際。中庭につながるガラス越しの景色を見下ろして、少女の目が大きく見開かれる。
奈緒の視線は、花壇の中央に植えられた古い桜の木に注がれていた。
季節が移り、青々とした若葉を茂らせていること以外は、普段と何ら変わりないはずの校木だった。
しかし、奈緒はその木の枝の一点をじっと見つめて、突然何かに急かされるように走り出す。
「え…ちょっ…住田!?」
「ごめんなさい、神木君。少しの間だけ、ゴミ箱をお願い…!」
戸惑う少年に短く告げて、奈緒は残りの階段を駆け下りる。三階から二階へ…。
廊下をすり抜け真っ直ぐに進む奈緒の瞳に、すでに迷いの色は感じ取れない。
―――――…。
駆け足を重ねるごとに、景色が横へと流れてゆく。息が苦しい。校舎に差し込む燈色の西日に、視界が少し霞んでいた。
神木君…。
神木君はこんなことをする私を変に思っただろうか?きっとそうだろう。彼には何も見えていないのだから。
私はどうして走っているのだろう?決まっている。これが私の望む、自分自身の在り方だからだ。
日常を侵食する死の世界からの呼び声を前に、いつしか私は諦めかけていた…。
自分には何も出来ないのだと…。目を閉じて、耳を塞いで、不条理から自身を遠ざけることが最善なのだと、そう思い込んでいた…。
だけど違う。本当は違ったのだ…。
…本当の私は、俯くことしかできない自分の弱さが嫌いだった。自分自身が、何も出来ない無力な存在だなんて思いたくはなかった。
私に力があるのなら…。手を伸ばすことで、もしも他の誰かを救えたなら…。
傷つくのを恐れず、そう信じて行動を起こすことさえ出来ていれば、私は変われた筈なのだ。
例え結果が徒労に終わったとしても、辿りつく結末に、少なくとも後悔だけはしなかった。
(大丈夫。今からだって遅くない…)
古木から一番近い廊下の窓枠に手をかけて、勢いよく手前の幹へと跳び移る。
なるだけ太い枝を足場に選び、危うげに木の上を移動する。
「…待っていて…。あと少しの辛抱だからね…」
額に汗をにじませながら、それでも奈緒は微笑んだ。
疲労と焦りを押し隠し、本来なら人の眼には映らないはずのソレへと…今も独り怯え続ける"何か"に向かって手を伸ばす。
もう少しだ…。もう少し…。
馬鹿げていると思われてもいい。こんなこと、実際は何の意味もないのかもしれない。
だけど。それでも。
この差し伸べた手が届く時…きっと私は――――――…。
◇
―――――…気がつけば其処は闇の中。
鼻を突くアルコールの匂いと固いベッドの感触に、奈緒の意識は覚醒した。
白を基調とした部屋の隅、停滞した静寂を肌に感じ…、
なんとか上体を起こしながら、ぼんやりと周囲を確認してみる。
ここは…学校の保健室だろうか?窓外の空の陽は沈み、夜景にはポツポツと明かりが灯り始めている。
時計に目をやればすでに八時…。下校時間はとっくの昔に過ぎていた…。
(誰かが…私をここまで運んでくれたのかな…)
制服ごしにかけられたブランケットをぼんやりと見つめ、奈緒は自身の置かれた状況をそう結論づける。
だけど、一体誰が…。
自然に浮かんだそんな疑問に答えるように、スライド式のドアが横へと開き…
「住田…?気がついたのか…?」
反射的に顔を向けると、部屋の入り口に飲み物を抱えたクラスメイトが佇んでいる。
…それは今、奈緒が真っ先に会いたいと思っていた少年の姿だった。
「神木、君…」
「あ…待った!また気分が悪くなるかもしれないから、じっとしてろよ。
…軽い脳震盪だってさ。夕方のことは覚えてるか?お前、中庭の木から足を滑らせて頭打ったんだよ」
手前に椅子を引き寄せながら、彼はためらいがちに問いかけてくる。
(………。)
思い出した…。私は…。この人にたくさん迷惑をかけて…。
…こんな時でも彼は私を気遣っているのか、私が中庭で何をしていたのか尋ねようとはしない。
だけど聞いて欲しいの…神木君…。あなたの言葉で、私は少しだけ強くなることができたから…。
「――――あの木の上にね…子猫がいたの…」
「…猫…?」
「…間に合わないのは、分かっていたの…。だけどあの子は震えていて…。親猫に捨てられちゃったのかな…。
一人で木を降りることもできなかったみたいで…」
実体を失ったその猫は、霊であるが故に自身の死を理解できず、誰かの助けを待ち続けていた。しかし望みが叶うことなど決してなくて…
待ち続ける行為さえ無駄なんだと気づくこともなく…。ただ単調に、落胆と絶望の瞬間を繰り返していた。
…奈緒の目にするものは、あくまでも過去の再現だ。すでに死霊となった猫に手を伸ばしたところで、その命が救われることなどあり得ない。
―――それでも奈緒は、孤独に怯え、なけなしの希望に縋ろうとするその姿を、見て見ぬフリなんてしたくなかった…。
彼らが何度も自身の死の情景を繰り返すなら、救済を求めて叫び続けるというのなら、そのたびに手を差し伸べられる自分でいたかった。
「…この気持ちは…私のただの自己満足なのかな…」
しぼり出すような声に、温かい掌の感触が重なった…。
「そんなことないさ…。例え間に合わなくても、最後まで自分を真剣に気にかけてくれる人がいることは…
きっとそれ自体が救いんだよ。…嬉しかったと思うぜ、その猫も」
…結局、私は彼に真実を打ち明けることが出来なかった。
なのに神木君は、私に向かって笑いかけてくれる。私の想いが無駄ではないと、不器用な言葉で励ましてくれる。
「ありがとう、神木君――――――…」
だから…信じたいと思った。彼が信じた私の心を…。
少しでも『なりたい自分』に近づけるように…。つまづいてもいいから、立ち止まることなく。
彼の笑顔が…私に勇気をくれたから――――――…
◇
あの夜の出来事を最後に、私と彼が言葉を交わす機会は二度と訪れなかった。
新学期が始まり、単純に席順が離れたせいもある。しかしそれ以上に、彼と顔を合わせることが気恥ずかしかった。
彼に抱く自身の想いの正体に気づいてからは、挨拶すらまともに出来なくなった。
結局のところ、私は相変わらずの弱虫で、私が持っている力のことも、思いのたけを打ち明けることも、言い訳を作っては先送りにして…
…そうして、あっという間に一年が過ぎた。
クラス替えの当日、放課後の教室で一度だけ彼と鉢合わせたことがある。何ヶ月ぶりかに向けられたその笑顔は、相変わらず私には眩しかった。
「なんか、こんな風に二人で話すのも久しぶりだな。住田は元気だったか?」
「うん…。神木君も…?」
「健康だけが取り柄だからな。…それにしても一年は早いな。この教室とも、もうお別れか…」
本当はあの時、何かを伝えなければいけなかったのかもしれない。
だけど私は、こみ上げる言葉も想いもすべて飲み込んだ。私と彼では、住むべき場所が違うから…。神木君はこちら側の世界のことを知るべきじゃない…。
理不尽や不条理とは無縁のまま、いつまでも暖かい陽だまりの中に居てほしかった。
「寂しく、なるね…」
――――神木君、私ね…あれから少しだけど友達ができたんだよ?知ってたよ…。あなたがこの一年間で、遠くから何度も私の力になってくれてたこと…――――
「二度と会えなくなるわけじゃないさ。案外俺は、住田に教科書でも借りに、すぐそっちの教室に顔を出すかもしれないぜ」
――――駅で電車を待つ時間も、そんなにつらくなくなったの…。全員は無理でも、私が諦めなかったことで救えた魂(ひと)たちが何人も居るの――――
「ふふっ…忘れ物はほどほどにね。じゃないと、私が困ってしまうから…」
――――全部…神木君のおかげだよ…――――
「住田の笑った顔見るの、これが初めてかもな…。うん…そっちの方がいいよ。住田には笑顔が似合ってる」
柔らかな声。
その暖かな視線を、輝くような笑顔を独り占めにして、ずっと隣で見続けることができたなら、それはどんなに幸せだろうと…。
あの日と同じ夕焼けの中、私はただそれだけを考えていた…。
そんなことは許されないと自嘲して…。零れそうになる涙を、瞳を細めることで誤魔化して…。
…さよならの挨拶を皮切りに、私たちの道は分かたれたのだ…。
〜『終章:そして悪夢へと…』〜
それから二度の季節が巡り、高校受験を控えた初夏の日のこと。
朝のホームルームが終わり、一限の用意を整えていた奈緒の耳に、ふとクラスメイトたちの不穏な噂話が飛び込んでくる。
―――神…君の…お父…んが…
あの家……呪わ……る…って
……を休…がちら…しいよ……――――
(…?)
昨夜から降り続く雨のせいで、内容が上手く聴き取れない。今、彼らは"神木君"と言ったのだろうか…?
そんな馬鹿な、と奈緒は思った。
あり得ない…。そんなことは、あり得ない。だって彼は、神木君は、そんな不気味な噂の当事者になるような人ではないのだから。
約束を破る意図こそなかったが、奈緒はこの一年間、積極的に彼と関わろうとはしなかった。
彼を出来るだけ遠ざけたかったのだ。奈緒の見る冷たく渇いた世界から…。
それはつまり、奈緒と想い人である少年の距離自体が広がることも意味していたが、奈緒はそれでもいいと思った。
神木君が幸せになれるなら、それでいい。彼が人ならぬ者に傷つけられるぐらいなら…死者たちの悪意に晒されるぐらいなら、
この気持ちを押し込めた方が、ずっと良いと―――――…
奈緒はそうやって長い時間、自分自身を納得させてきたのだ。
(うそ…だよね…神木君…)
背筋を悪寒が突き抜ける。
そうだ、あんな話、嘘に決まってる…。気にする必要なんて全くないのだ。
…じゃあ、早鐘を打つ、この胸の動悸はなんなんだろう?
出会ってから一度もブレることのなかった神木君の"気"の輪郭が、今になって溶け落ちそうなほどぼやけているのは何故だろう?
どうしてだろう?廊下で偶然見かけた彼の背中に、黒い女の影が取り憑いているように見えたのは――――――…
(―――――ッ!?…い、嫌…っ…!)
奈緒は思わず悲鳴を上げた。
"アレ"に関わってはいけないと…。全身が警告を発している。
自身の力の存在に気づいてから、奈緒は悪意の塊のような魂を、事あるごとに目にしてきた…。
だけど違う…。神木則雄の背後に張り付く"アレ"は、そんなものとは根本的に違う…。
狂気。憎悪。未練。嫉妬。
それら全てをぶちまけて、グチャグチャにかき混ぜたような混沌の情念。奈緒の手に負える領域を遥かに越えた、恐ろしい何か…。
身の程をわきまえず、触れてはならないものに手を出した霊能者の末路を、奈緒は言われるまでもなく理解している。
『殺される』という表現すら生温い…。この世の地獄が待っていることを母から学んだ。
…だから、引き返すのなら今の内だ。一度でも関われば、きっと取り返しがつかなくなる…。
これは片道切符なのだ。言い訳なんて効かない、どんな決意すら慟哭に変えてしまうほどの凄惨な結末への――――…
「―――――――…。」
「―――ねえねえ、神木君。2組の奈緒わかる?」
どうして彼なのだろう、と奈緒は思った。
どうして何も悪くないはずの彼と彼の家族が…こんな目に遭わなければならないのだろう、と。
神様は残酷だ。悪意という名のこの世を覆う真実は、今もなお、奈緒の心の中に横たわっている。
「住田…?…何だよ、その表情(かお)…」
だからこそ、私は絶対に逃げたくないと思ったのだ。
自分が信じたものと向き合わず、戦う前から諦めて…そんな昔の自分には戻りたくない。
「神木君…。最近家で…御不孝があったり…した…?」
だって彼は、私に光をくれた人だから…。
彼が振りまく笑顔は、私にとって眩しすぎるくらいの憧れだったから…。神木君に分けてもらえた勇気で、今度こそ彼の力になろうと決めたのだ。
「見えるのよ…。女の人が――――…」
後悔なんてしない。神木君は今、確かにこうして生きている。私はただ、彼を目指して進めばいい。
後悔なんて、しない…。
(…その先に待つのが…)
―――――例え自分自身の死であったとしても…―――――
【END】