感ずることもできぬ香が、現の全てを狂わせる。  
 ぬるい風が運ぶその香を、幾度この胸に吸えば良いのだろう。  
 
 
 
 盛りを過ぎた桜花が、音もなく水に落ちる。映りこんだ月の円が、わずかに揺れた。  
 水の中心には、女。纏うはその髪と雫ばかり、けれどたおやかな腰も、その白き指先も  
昏き深みに沈み隠れて。俯いたままの眼差しは、滑る花弁を追っていた。  
 
――いつまで  
――いつまで、この季節を数えれば。  
 
 草木も眠る時なれど、生あるものは浮わつく晩春という季節。天の麓と称される  
この高き地においても水はぬるみ、今は漆の如き夜闇に染まりて、花を、月を乗せ、  
たゆたい続けている。  
 この池が氷に閉ざされていた頃、女はここで、ある男と刃を交えた。  
 男の名は頼光と言った。魂は異世と現世の狭間に、身体は花影より成る男。その力、  
携えし剣をひとたび振るえば、地は割れ、風は裂け、星すら砕けて落ちるほど。異世の  
理を会得した女ですら、その力の前にはただ伏すより他になかった。  
 女の名は晴明。かつてその目に月を宿し、今はそこに虚ろを抱える天女。  
 
 花は緩やかな風に吹かれ、数多の欠片となって女に降り注いでいる。  
「……何故、ですか」  
 その花と同じ色の唇で呟き、水に沈んでいた指を上げ、つ、とそこをなぞる。冷えた感  
触に、背筋がぞくりと震えた。  
 寒さのためではない。かつて同じようにそこに触れた指、その記憶に。  
 
 
 
 戦いで敗れた晴明から、頼光は命ではなく死を奪った。彼女の身を蝕む毒、左の目に宿  
していた白珠を抜き去ったのである。  
 晴明にとってそれは、しかし許し難い暴挙であった。自らの命をもって、やっと一欠け  
だけ持ち去ることができたあやかしの力を、あっさりと頼光はそれに還してしまったのだ  
から。  
 力の入らぬ身でありながら、彼女は、気でも違ったのかと当然の如く激怒した。その目  
蓋から、赤いものを押し流すほどの涙を溢れさせて。  
 あやかしがその力を束ねれば、人という人が滅ぶ。それでなくとも、もう既に多すぎる  
ほどの命が失われていた。  
 
――何故ですか、何故、何故……頼光…!  
 
 死の間際にあってさえ乱れることのなかった晴明が、自らを抱える腕の主に、童女の  
ように「何故」を繰り返す。  
 背負うた罪を贖う術を、そのための刃によって取り上げられたことに。  
 そして――  
 
――最期に目にするものは、何より美しい貴方であって欲しかったのに。  
 
 いつしか心惹かれていた、甘美な、充ち足りた終わりもまた、常しえに取り上げられて  
しまったことに。  
 
――頼光、どうして…。  
 
 投げ戻された久遠の生に如何なる意味も見出せず、ただただ残された虚ろに凍える晴明の  
その青冷めた唇に、物言わぬ男はそっと己が指を走らせた。  
 血の通わぬ、仮初めでしかない身体で、彼女の嘆きを宥めんがために。  
 
 
 
 もう幾年も幾年も前の、冬の出来事である。  
 
 
 
 月はやがて朧の内に。夜闇はいっそう深く。散る花だけが、その精彩を増して。  
 花弁は天となく地となく現れて、ほの白き裸身を飾るように、包むように淡い光を  
放っては、流れるその髪に、たゆたう水面に降り落ちる。  
 その艶やかさ、さながら蒔絵の如く。夢とも現ともつかぬ光景の中、晴明は目を閉じ、  
その身をひしと抱いた。  
 辺りに漂うのは花弁だけではなかった。一つ吸い、一つ息を吐くたびに、ほのかな香が  
身体の芯へ、魂の奥まで忍び込んでくる。その安らかさは眠りにも似て、心地よきこと  
この上なく。  
 だが――芳しいその香も、儚げな薄紅の花弁も、現のものではない。この地にあるのは  
緑すこやかな竹ばかり、桜花はただの一本も根付いていないのだ。  
 
――貴方は…まだ…  
 
 おとがいを上げ、晴明は薄く目を開いた。煌びやかな欠片は変わらず己を舞い抱き、  
その肌にはらはらと接吻を落としている。  
 それは物言わぬ男の詠みし歌、あの時から独り残された女への、異世より贈られし春の  
夜の慰め。曖昧な月の下の宴、そのしめやかさ、眠る愛し子に添えるが如し。  
 けれどもそれは、晴明にとっては身の焼けるような、狂おしいものに他ならず。  
 
「酷き…まこと、酷き真似にございます」  
 つう、と再び唇を、想いしものがただ一度、情を込めて触れたその場所を、爪の先で  
軽く、からかうようになぞる。柔らかな部分が擦れる快さに、肌の下がざわめいた。  
「逢瀬が常しえに叶わぬは、貴方も御承知のはず…それなのに」  
 こみ上げる切なさのまま、胸は熱くなる一方で。  
 
――忘れやることも、許して下さらない。  
 
 彼の人が祓うべきあやかしも、この現世からは消え去った。残されたのはただ平穏、  
死を持たぬ天女が見守りし久遠なる都。そこ栄えあれと願った仲間は、その生を子に孫に  
次ぎながら、とうに黄泉路へ旅立った。  
 独り。ただ独り。  
 愛おしむ全ては己の傍らを過ぎ去るのみ、そして己がそこへ辿り着くことは罷りならず。  
 それが己に残された生のただ一つの意味。ただ一つの贖罪の術。  
 だが、斯様な覚悟は、かの剣を花の内に収めしときより決していたこと。  
 ならば今、微笑む頬より伝い落ち、乳房に弾ける水玉は。花の向こうに囁く声の、  
切々たる震えのそのわけは。  
「貴方を思い出に追いやれるなら――慈しむだけの菩薩にもなれましょうになあ…」  
 現世にある身体がねだるのだ。花影に過ぎぬ男の、優しき慰撫を。  
 
 雫に濡れた掌が、頬を撫で肩を撫で、白き膨らみを押し包む。  
「我が内には、鬼がおりまする」  
 その乳房、たおやかな晴明の手では包みきれないほどに豊かで重く。目にする者あらば、  
劣情のままに弄ぶより、赤子のようにそこへ埋もれたいと願うであろう清らかさを湛えている。  
 だが彼女は白雪を踏み汚すが如く、そこを掴み、さすり、先を尖らせてゆく。  
「……その鬼が求めるのです、頼光、貴方を…貴方の……あ…」  
 快楽という徒花が結んだ小さな紅色の実が、細い指先によって摘まれ、捻られ、柔肉に  
押し込まれながら、淫らな甘味を振りまいていく。  
 辺りに満ちる香は変わらず、優しきもの。けれど一度この身の内に入り込めば、先の甘味と  
相俟って、媚毒となりて血脈を巡り、気息を、心を振り乱す。  
 その毒に喘ぎ喘ぎするうちに、晴明の肌は桜に、撫子に染まっていった。  
「ふ、あぁ…恐ろしゅう、ございます……あの冷たき指で斯様に愛でられたいと……」  
 ぱしゃん、と水の跳ねる音。片手は胸に残したまま、彼女は既に、残りし手を腰へ、腿へと  
這わせていた。その痺れに脚は開かれ、秘されし処が清冽な水に晒される。  
「斯様に、斯様にっ……ここを……あぁっ…」  
 潤みきった目を閉じ、己が咲かせた花に触れた。びくりと背筋が反り、濡れた髪が舞う。  
水の中にあってなお、そこは灼けるように熱く。浅く指を沈めれば、より奥へと呑み込まれ。  
「頼光……切ないのです、頼光……そのために鬼は、私は…」  
 己の最奥、女そのものに触れ、身も心も崩れ折れよと、晴明が激しく揺らぐ。  
「貴方の目覚めを…人の世の終わりを――」  
 その先を紡ごうとする唇は、ひとひらの花弁に塞がれた。  
 
 その重さ、ただ一葉の影。されど幾千の夜に等しく。  
 
――ああ  
 
 沈み、黙した睦言。ひととせの夜にただ一度、桜の去るその際の。  
 夢と現、住まう世こそ違えども、同じだけの時を過ごし、同じだけの想いを抱えしことを、  
音なきその口づけで、愛しき女に伝えやる。  
 
――いつまで  
――いつまで、この口づけを数えれば。  
 
 水を散らし、晴明が両の膝をつく。その身を受け包む冷気とは裏腹に、花芯は重く、熱く  
わなないた。  
 爪先まで響くその震えに、彼女は更に崩れていく。  
 乳房にあてがわれていた手は、手近な岩にしがみつく格好で外された。幼子が母の膝に  
埋もれるように、横顔をそこに乗せたまま、晴明はとろりとした蜜花をより深く、より淫らに  
嬲りはじめる。  
「…頼光……頼光…らい…」  
 唇は、ただその名を呼ぶことしか出来なくて。  
 ひくつく花芯に指をねぶらせ、時折そこから引き抜いては、膨れた花芽を転がして遊ぶ。  
知らず知らず高く上がった腰が、鼓動に合わせて揺らめいた。  
 
 降りしきる恋歌に心を任せながら、自涜の快楽に声音を甘くする。  
「…らいっ……ぁ、は、ああ……」  
 伏したことでより豊かさが際立った乳房、捧げるように突き出された尻。浅ましく、  
それでいてどこか淑やかさが残るその媚態は、夢幻に供されるに相応しく。  
 頬に、唇にまといつく髪を払いもせず、晴明は恋しさの命ずるまま、ひたすらに己が  
女を弄んだ。  
 柔らかな肉の虚は、そこにある指を奥へ奥へと誘うように蠢いている。泣き濡れた  
そこを埋めるのが愛しき者でないことに、胸の裡が斬られたように痛んだ。  
「う…ぁ……くぅ、あ……ああああっ…らいっ…頼光……!」  
 けれどその痛みさえ、今はただ淫楽の糧。水音の律動は乱れ、荒い吐息を吐く唇は、  
うわごとと啜り泣きを繰り返す。  
「ん…あ、ああ…ぁはっ……は…あああ……」  
 散る水の音は、やがて小刻みなものへと移り変わって。高まり、張りつめていく悦楽が  
終わろうとしていることを告げいていた。  
「っ…あ、あ……もう、頼光、もうっ…!」  
 ぐ、と胸を突きだし、そこで身体を支えてやる。それまで岩肌にすがりついていた指を、  
晴明はそのまま、唇の桜と共に、強く甘く噛んだ。  
 快楽が、爆ぜる。  
 血脈を光が走るように。  
「――っ…!」  
 大きく背が震える。固く閉ざした目蓋を天に向け、晴明は頂きを迎えた。  
 
 
 静まりかえった夜闇が、少しずつ青いものへと変わっていく。  
 かわたれどき。夢の終わる刻限。さやかになっていく景色をぼんやりと眺めながら、  
晴明は水面を漂っていた。  
 くすんだ花紺青の空の下、静かに、ただ寄り添うように風が回る。共にある桜の香は  
ひんやりとして、花弁は徐々にその輪郭を失いながら、彼女の影へと消えていく。  
 眠りに落ちるように。  
 音もなく、ただひそやかに。  
 全てが白んでいく中、晴明はその身を起こし、薄紅の名残を掌に抱いた。  
「いつか――」  
 ぽつりと言いかけて、口を閉ざす。  
 小さくかぶりを振って、唇を微笑みの形に変えて。  
 
――まどろみの中で、想うて下さるのなら。  
 
 暁。真新しい光が夢と現を断ち分かつ中、晴明はそっと囁いた。  
 
「お休みなされませ、頼光……」  
 
――いつまで  
――いつまでも、貴方と共に。  
 

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