細雨でくるんだ繭の中、蛹が静かに羽化を待つ。  
 銀糸は絶え間なく紡がれて、藤も菖蒲もその内に。  
 
 
 
 雨が降る。  
 昼日中というのに辺りは鈍色、耳にはざあざあと雫が壊れる音ばかり。  
「……よく降るのう」  
 そして、飲んだくれの欠伸がひとつ。  
「こう湿っぽいのが続くと、こっちまで気が滅入ってかなわん」  
「雨月だからの。暫くはこうして過ごすしかあるまい」  
 でれりと縁側に寝そべり、徳利を弄んでいる綱の横で、季武はその手元――  
否、根元に目を落としたまま言葉を返した。  
 
 梅雨。芽吹くだけ芽吹いた草木がその背を伸ばし、慈雨を受けてその緑を  
濃きものにする季節。  
 金毛九尾の荒神によって一度は灰燼に帰したこの地も、今は命の色に溢れていた。  
瓦礫の山でさえ草花を育み、鳥はその雛の糧を求めて行きつ戻りつしている。  
 行きつ戻りつしているのは人も同じで、こちらは地をならし柱を打ち立て、  
この廃墟の復興に努めていた。  
 商人の呼び声、資材を積んだ荷車の軋み。未だ全ての住民は戻らず、あちこちが  
焼けただれたままではあるが、都は元の息づかいを取り戻しつつあった。  
 
 ――とはいえ、雨脚の強い日は庇の下にいる他はなく。  
「まあ…うぬは、なあ……すっかり瑞々しくなりおって。外に座していた方が  
 心地良いんじゃ――ああ、根腐れを起こしては一大事か」  
 酔いどれの軽口に、べし、とその頭を叩くことで返事をすると、季武は再び  
その根を動かし始めた。ほつれた金糸、銀糸をつまみ上げ、器用に縒り結んでは、  
元の場所へと織り込んでいく。  
 彼が先程から行っているのは、小さな手毬の修繕であった。色とりどりの糸で  
かがられた球には、何かに引っかけてしまったのであろう痛々しい傷がついていて、  
その持ち主を大層しょんぼりとさせていたものである。  
「しかしだな」  
「何じゃ」  
 叩かれた場所をさすりさすり、綱が口を開く。  
「その毬、じきに直るんじゃろう」  
「うむ…夕餉の前には終わらすつもりなんじゃが」  
「だとしても、この天気では――なあ」  
 顔を上げれば、一間先も見えぬ雨である。  
「確かに、少し待たねば突くも蹴るも叶うまいな」  
「……だからだな。あー、その」  
「もう良い…御主の言いたいことは大凡判ったわ。つまり、御主は嬢ちゃんが  
 浮かぬ顔をしたままなのが面白くないのであろう?」  
 問いかけに返ってきたのは、少し決まりが悪そうな「うむ」の声。  
 
 雨が降る。  
 篠を突いてはさんさんと、天と地を縫い人を止め。  
「はて……どうしたものか」  
 もはや何が書いてあったのか分からぬほどに真っ黒にされた竹片が、また一つ  
盆に積まれた。  
 
――五月雨を止めるわけにもゆかぬし、止めたところで出来上がるわけでもなし…。  
 
 筆を片手に溜息ひとつ、晴明は庇の向こうを仰ぎ見た。  
 何日にも渡る雨で、都の復興作業がすっかり止まっている。自然の摂理とはいえ、  
あやかしが去ったこと、そして健やかな緑の移ろいに浮き立っていた人々の心が、  
雨粒にしぼんでいくのが辛かった。  
 何とか進められる分だけは進めようと、先程から竹片に線を引き引き、絵図面を  
こさえようとしてはいるのだが、己自身もこの雨に沈んだように、どうにも良い案が  
浮かんでこない。脇に置いた盆の上では、下書きの成れの果てが小山を成していた。  
「……困った」  
 筆を置き、その手でくるくると前髪を弄びながら、誰ともなしに呟く。ちらちらと  
見え隠れするその左目は、右に同じく深い黒を湛えていた。  
 
――本当のところは、判ってはいるのだけれど。  
 
 指先を膝に戻し、かぶりを振ることで己を叱咤する。  
 そうやって彼女が気を取り直したところで――  
「晴明様」  
 部屋の向こうから、声がかかった。  
 
 
「あら…まあ」  
 招きを受け、晴明の部屋――とはいってもここは都の外れの仮住まい、単に  
座敷の片隅を衝立で囲っただけの場所なのだが――に入るなり、貞光はいつもの  
口調で驚いた。その手にある盆の上、椀が吐く湯気とは裏腹に、ぱったりと足が  
止まっている。  
「これはこれは…まったく、見事にございますね」  
 その目は、竹片の山に釘付けだ。  
 改めて見ればどうやって積まれたものか、その高さは貞光の胸ほどもあり、  
その均衡は、彼女の声に崩れても不思議ないほど珍妙で。  
「新しい術を編まれたのですか?」  
「いえ……偶然の産物です」  
 本気で感心している分だけ、返事に困る。  
「左様にございますか」  
 そんな晴明の気分を知ってか知らずか、貞光は変わらぬ声音でそう言うと、  
そろそろと文机に歩み寄った。やはり音を立てぬよう、白湯の入った椀をそこに置く。  
「ありがとう」  
「…勿体ないお言葉にございます」  
 感謝に返ってくるのはいつも、慎み深い一礼。晴明がこの娘を引き取りし頃より、  
何一つ変わらぬ仕草。  
 
――そこにほんの少し、頑なな何かを感じるようになったのはいつからだろう。  
 
 おぼつかない足取りで小山を運び出す背中を見ながら、晴明はぼんやりと  
己にそう問うてみた。  
 
 
 雨が降る。  
 囲みし音は十重二十重、全てを覆いし水の御簾。  
 ざんざんとした雨音も、今は却って無音を生んで。この小さな住まいにあってさえ、  
他の誰かが生み出す音が聞こえない。  
「よいしょ」  
 だから、何となく独り言を口にして。  
 どうにかこうにか、その形を崩すことなく、この厨まで持ってきた小山を土間に  
置き、そのてっぺんのひとかけを手に取ると、貞光は上がり框に腰掛けた。  
「……巻紙、使う前に黴びてしまうかな」  
 そこにある線の余りの迷いぶりに小首を傾げたその先では、いつの間にか  
やってきていた彼女の相方が、同じように顔を斜めにして書き散らしの山を  
見上げている。  
 かつてなら、大路一本の詳らかな絵図でさえ半刻のうちに仕上げた晴明が、  
今はたった一つの社殿を描くことすらままならず。  
 幼さの残る唇が、きゅ、と難しい顔を作り出す。  
 晴明の強さについては彼女の良く知るところであるが、そこにある脆さに  
ついてもまた、貞光の知り抜いたところであった。  
 ある種の、例えば金剛石のように、傷を付けることは能わずとも、ちょっとした  
角度で叩いてやるだけで壊せてしまう、そのような脆さである。  
 ずっと自分を導いてきた凛々しいあの背中が、斯様な弱さを孕んでいるのに  
気付いてからこのかた、己の心、その水底が律動の狂った波を生み、小さな、  
けれど御しきれない渦を巻き続けている。  
 無論、今でも晴明を慕う気持ちに変わりはない。  
 だが――あの胸が帰る場所ではないことを、己は否みはしないのだ。  
 
 
 この手がもっと小さかったころ。そのころは、晴明が己の全てだった。  
 日のように月のように己を照らす、欠けたるところなき円かなるもの。  
 死したるものの魂が月へ還るというのなら、己はこの優しきひとへ還らんと、  
ずっと、ずっとそう信じて過ごしてきたのに。  
 晴明の心が、あの男に占められたことを知った日。  
 彼女は、己にとって円かなるものではなくなった。  
 
――どうして  
 
 敬愛、思慕、そこに混ざる失意と憐憫。  
 
――どうして、妾は晴明様を。  
 
 己のものでなくとも構わなかった。  
 ただ、彼女が誰かを慕う、そのことが酷く寂しくて。  
 混濁した感情はやがて硬い殻を作り上げ、気が付けば、昔のように素直な  
眼差しを返すことが出来なくなっていた。  
「……どうして、なのかな」  
 てんてん、と歩み寄ってきた烏を手に止めて、その迷いのない目に羨望を  
覚えながら、貞光はもう何度繰り返したか判らぬ、その呟きを口にした。  
 雨は、まだ止みそうにない。  
 
 
 雨が降る。  
 縦に横に流れては、まといつきしは身に心。  
 何もかもがじっとりと湿るこの季節は、公時の最も苦手とするところであった。  
まるで水の粒の一つ一つが、己の力を吸い取っていくような感覚に襲われる。肌に  
付く分は勿論、目に映る分でさえそう思えてくるのだから始末が悪い。  
 空模様は全く、己が力の源の、火の気に相対したままだ。昨日も今日も、  
そして恐らく明日さえも。  
 とは言え、この梅雨の間中を屋根の下でじっと過ごすのもまた、その性には  
合わぬことであり。今日も今日とて都の中へ出向いては、一人せっせと――途中、  
どこからか寄ってくる、長雨に退屈した童たちの相手をしつつ――地を整えていた。  
 なまくら同然に陥っているものの、やはりその大力ぶりは常人の比ではなく、  
その腕は易々と、まるで薪でも拾うが如く、焦げた柱や落ちた梁を担ぎ上げていく。  
 かつては持て余すだけ、何かを傷つけ壊すだけだったその力は、今は幼き子らの  
歓声を呼び、都に暮らす人々の助けとして振るわれていた。  
 これが罪滅ぼしになるかは、判らない。だが、己のあるべき道なのだろうと、  
公時はそこを歩みつつ思う。  
 雨は依然として強く、流石にこれ以上は身が持ちそうにない。そう判じ、軒下から  
手を振る童たちに今日の別れを告げ、彼は帰途につくことにした。  
 外れに行くに従って、都の景色には緑が増す。時折、その中で藤や菖蒲の紫が  
煙っているのも見受けられた。  
 
――心気だけでも、少しは晴れているといいんだが。  
 
 初夏を告げるその色に、あの小さき娘の影が重なる。  
 壊れてしまった一等のお気に入りは、今ごろ季武が直しているはずだ。だが、  
その贈り主と貞光との間に入った傷は――恐らく元の通りには戻るまい。  
 
 人は、変わる。  
 身も心も、時という流れに浮かぶ泡沫。ならば、そこに浮かぶもの同士の間が  
変わることに何の不思議があろう。  
 だが――それでも人は嘆くのだ。変わりゆく他者、そして己の心に。  
 
――『晴明様が、攫われてしまいました』  
 
 普段と変わらぬ、抑揚のない声音。  
 そう告げた彼女の顔は、結局知ることが叶わなかった。  
 あるのはただ、己の手を掴む、あの小さな指の強さだけで。  
 頼光が異世に落とされ、何もかもが後手に回り始めた日。その日から、貞光の  
顔に一条の硬さが見え隠れするようになり、己と二人でいるときは、頑是ない――  
曰く、肩に上らせろだの髪を編ませろだの――遊びをねだられるようになっていた。  
 心許ない童が、ただ大きなものに縋る。その本能を知らぬほど、公時はものに  
疎くはなかった。  
 ただ、本来であればそれは晴明を相手にして然るべきもの。  
 
――『頼光様は、御自身ばかりか――』  
 
 都の守り人、そして一人の女人。晴明に落ちた影の色合い、その深さがどちらに  
あったのか、貞光は即座に見抜いていたのだろう。  
 帰る処などない、というあの呟きは誰に向けられたものだったか。  
 壊れた憧れと、やり場のない嫉妬。そして同じだけの哀憐。それらを受け止める  
だけの大きさを、彼女はまだその掌に備えていなかった。  
 あれから幾年か経った今も、それは変わらない。  
 そして、公時がその様を見るにつけ、言い難い心苦しさと歯痒さを感じるのも、  
また変わらぬことであった。  
 
 
 公時から過ぎ去り、貞光を迎えし齢は、蛹。透けるほどに薄く、だが硬い殻の  
その内で、柔らかな幼さはとろりと溶けて、少しずつ少しずつ、次の形を定めていく日々。  
 かつて同じ齢を経た身としては、いつかあの背が殻を割り、高さの変わった眼差しで、  
転じた想いで晴明を見るときは――どうかそれが優しいものであるようにと、公時は  
そう願わずにいられなかった。  
 厳めしい顎が、少し上を向く。  
 降りしきる雨は冷たく重く、天雷の音は遠い。それに呼び覚まされる記憶は、  
心に苦さを広げながらも、不思議と静謐で懐かしい。  
 形のない都を顧みて、今はもう、どこにもいなくなった友を思う。  
 留まれば澱むは、流れの本質。けれど、それでも変わらずにありたかったと、  
蛹の前の、あの日々のままでありたかったと、今も彼のどこかが嘆いていた。  
 
 ぬかるんだ道を進むと、程なくして今の住まいが見えてきた。  
 下屋の他は、真っ二つになった北の対が残っているだけの、さる貴族の屋敷跡。  
雨風をしのげれば充分、それより少しでも都に近い場所を、と晴明が仮寓に定めた  
場所である。  
 その殆どが門となった築地を越えると、公時は下屋の端、厨の方に火の気を感じた。  
夕餉の支度にはまだ間があるはず、と訝りつつも、弱った身体が求めるままに、  
彼はその戸に手を掛けた。  
 
「…お前か」  
 合点のいった呼びかけに、お帰りと応えるのは一羽の烏。かぁ、と鳴いた拍子に、  
その嘴が何かを落とした。  
「よく働くな」  
 笠と蓑を片付けると、公時は赤々とした炎の上がる竈へ寄り、ついでに巨躯を  
屈めて、烏の落としたものを拾い上げた。  
 それは、もう焚きつけにしかならない、晴明の逡巡の名残。どうやら不在の主に  
代わって、烏はそれをせっせと火にくべていたようだ。  
「晴明も、だいぶ煮詰まっているようだな」  
 烏に倣い、ひょいと火中へ放ってやると、竹片は軽い音を立てて焦げはじめた。  
その音と、橙と朱の力強い揺らぎに、沈んでいた心が自然と浮き上がる。  
「……」  
 目の前には、釜。蓋の隙間からは、湯気が白く上っていた。  
 慎みと好奇心が、天秤で揺れる。  
「失礼、つかまつる」  
 しかし空きっ腹の加勢により、その均衡はあっさりと破れた。あーあーと抗議を  
始めた烏に一礼し、公時は釜の蓋に手を伸ばす。  
 その途端――  
「ばあ」  
 視界が揺らぎ、背中は快活からは程遠い、間の抜けた声に襲われた。  
 
「なっ――あ、あぁ!?」  
 烏と同じで、人間、斯様なときはあーあーとしか言えない。  
 予期せぬ目隠しはゆらゆらと、まるで水に放られたよう。柔らかく  
ひんやりとした感触はそこだけに留まらず、背中にもぺったりとくっついている。  
「お行儀が悪うございますね」  
 耳元に囁く声は、少し楽しそうだ。  
「すまん、つい!」  
 ばたばたと両手を振りつつ、公時が二、三歩下がる。その背に乗っているはずの  
囁きの主は、どうしてか姿は見当たらない。  
「申し訳ない…だから、貞光――耳を引っ張るのは勘弁してくれ」  
 けれども、それが誰であるかは彼も良く知っていた。  
「承知いたしました」  
 返答と同時に、何かが地に降りる。伸ばされた耳をさする公時の前に、  
小さな陽炎が立った。  
「わざわざそのような格好で…人が悪いぞ」  
「人をびっくりさせるには、これが一番だと教わりました」  
「誰に」  
「綱様が、そうだと」  
 この分だと、そのうちもっと大きな悪戯をしでかす日が来るのかも知れない。  
「…とにかく、術を解いたらどうだ」  
「あい」  
 そう促された陽炎の胸元から、ぱしん、と手を打つ音。  
 すると水が一息に落ちるように、揺らいでいた透明から、黒、白、紅に白藍と、  
貞光を成す色が現れた。  
「お帰りなさいませ、公時様」  
 見れば、軽い微笑みが唇に湛えられている。  
 
「御髪を濡らしたままで、何をなさるかと見ていれば…釜の中は、まだ下拵えに  
 ございますよ」  
「…そうか」  
 笠を被っていたとは言え、追い風にも逆らわず、下に上にと向いていた髪は、  
雨を含みざんばらと乱れている。貞光は部屋の隅より綿布を取り出し、心から  
残念そうな公時を座らせると、その頭をくしゃくしゃと拭きはじめた。  
「もっとも、斯様に不作法な方に出す夕餉はございませんが」  
「なっ」  
「――と申すのも、驚かすに良いとお聞きしました」  
「……綱はどこだ」  
 水気に重くなった布を緩くまとめながら、貞光がにっこりと笑う。  
「庇の下に。翁様と双六に興じておられます」  
 小さきものの常なのか、己よりも大きな、そして年を重ねた相手を翻弄するのが  
よほど楽しいようで、公時を前にした彼女の唇は、普段の曖昧さを湛えることもなく、  
小娘らしい茶目っ気に吊り上がっている。  
 その頬のこのごろの、俯きがちな色を知っているだけに、公時は彼女の頭を  
片手でくしゃくしゃとやり返しつつ、心中で安堵の息を吐いた。  
 それが泣き顔であれ何であれ、感情の波のままに面を変えるのは良きことと思う。  
 
――だが、見たいのはやはり笑い顔なのだ。  
 
 そも、貞光は表情に乏しい少女であった。  
 己の巨躯を見て後ずさりもせず、淀みなく初顔合わせの口上を述べる童がいたことに、  
公時はたいそう驚いた覚えがある――それも、途中で晴明がもっと上を見よと促すまで、  
幼子であればまず泣き出すような、鎧にあしらわれた鬼面を彼の顔と勘違いしたまま、  
平らかな調子と眼差しで物言う娘であったから。  
 十にも満たぬ子であれば、起伏の大きな喜怒哀楽にその顔を任すのが常である。  
 ところが貞光が見せたのは、その姓と同じ、うすらいの白い茫漠で。生来の聡さと  
のほほんとした気性、ましてや育ての親が服を着た廉潔とあれば、その結果も  
無理からぬことなのだが――十を超えてもそのままであるには、やはり軋みが  
生じてしまい。  
 そのことに気が付いたのは、彼女よりも公時の方が早かった。  
 
 時間は、少し前まで遡る。  
 凍てついた参道にて、公時が貞光によって救い出された日。  
 いつものこととは言え、述べた礼を慇懃に差し戻されたことに、彼は耐え難い  
居心地の悪さを感じたのである。  
「そんな格好で、勿体ないと言われてもな」  
 見れば、きちんと結われていたはずの髪は方々に乱れ、右の袖は半ばから、  
左の袖は初めから裂け落ちて。高下駄に至っては片方をどこかに落としてきたらしく、  
おまけに長いこと寒中にいたためか、ぐずぐずと鼻まで鳴らしている。  
「…まこと、かたじけない」  
「何を仰います。妾はただ――ただ…」  
 当の貞光は、飽くまでそれを拒もうとするのだが。  
 
――晴明様の守り刀を、取り戻しにきたに過ぎませぬ。  
 
 そう言おうとしても、唇はちっとも上手く動かない。まばたきを繰り返して  
訝ってみても、その所以が浮かばない。  
「ただ…」  
 結局、困り果てた眉で公時を見上げるしかなくて。  
 
 頭上の顔がますます難しくなり、連れて貞光の焦りも大きくなっていく。  
 返すべき言葉は、嘘ではない。  
 嘘ではないはずなのに、口にすれば途端にそうなってしまう奇妙な確信が、  
彼女の舌を縫いつけていた。  
 囃し立てるような風が、耳にうるさい。鎌を持つ指先が、知らず知らず白く  
なっていた。  
「…随分と、心細い思いをしていたようだな」  
 答えの出ない頭に、ぽん、と大きな手が乗せられる。  
 温かい。とても。  
「あの――あっ…」  
 貞光が何かを言う前に、公時はその顔つきは変えぬまま、彼女の両脇に手を  
差し入れて、ひょいと抱き上げた。片や巌、片や卯の花、高さの等しくなった  
顔が向かい合う。  
「今まで、よく一人で務めてくれた」  
 武骨な声。  
 小さな、物言いたげな指先が、角張った頬に伸びた。  
「もう案ずるな。今から、俺も共にいる」  
 花が、綻びる。  
 伸ばしていた指を引っ込めたかと思うと、貞光は次の刹那、支える腕を  
抜け出して、己の胴ほどもある首に抱き付いていた。  
 温かい。お日様の匂いがする。  
「…取り戻しとう、ございました」  
 取り上げられたときも、取り戻したときも、声は同じように震えることを知る。  
 
 声を上げて泣く。  
 その理由すら忘れて、感情の奔流を留めることなく全身から吐き出す行為。  
 それに疲れた貞光を負ぶい、公時はのしのしと山を下っていた。  
 既に陽は傾き、空は白けた茜に染まりつつ、その向こうの藍を待っている。この分だと、  
麓に着くのは星明かりの眩しいころであろう。  
 その時分であれば、己が背で寝息を立てる、この育ち盛りの童に満足な夕餉を――  
否、それよりも埃と血の跡を落とす湯を与える方が先か、などと埒もないことを考える。  
そして同時に、その童にこれだけの無理をさせた己の不甲斐なさに、唇を苦く結んだ。  
 果たすべきことは山積している。季武と綱は未だ敵の手の内にあり、晴明はもはや己で  
修祓に赴くことが適わない。眠り込む前に貞光が告げたこれらのことが、一刻も早く  
務めを果たせと急きたてる。  
 
――だが  
 
 ずり落ちそうになる身体を背負い直して、思う。  
 
――だが今しばらく、傍にいてやることが適わぬものか。  
 
 情の深さを甘さと言うのなら、公時は誰よりも甘い男だった。  
 
 おぼつかぬ足取りの、糸を紡ぎだしたばかりの蛹。止まり木なく丸まれば、  
その翅がいびつになるのは必然で。  
 月は縋るに高すぎて、その手足が届かない。  
 敬い慕うが故に、作り上げてしまった壁。胸の裡の、言葉にならない部分はずっと  
うすらいの下に押し隠され、ただ、その厚みを増すことにしかならなくて。  
 追い風に舞う片袖は、そのところどころが赤く染まっている。預かった鎌の柄にも、  
同じ色の指の跡。それらについて、この娘は誰にも、何も語らぬのだろう。  
 
――目の色は、泣き虫のそれと変わらぬくせに。  
 
 やがて麓に着き、ねぎらいの言葉をかける晴明に、公時は一つ物言おうとしたものの――  
彼女の強張りの解けた微笑みと、その後ろに立つ影に言を引っ込めざるを得なかった。  
 訝る晴明に首を振ることで応え、背で眠る子を預ける。  
 明らかに童を抱き上げることに馴れていない彼女の手つきに得心と軽い失意を感じながら、  
公時は一つ決意を改めて、そのまま修祓に赴くことにした。  
「休まなくて良いのですか?」  
「休息なら今までにたっぷり取らせてもらった」  
 声と足音を忍ばせて、それならばと晴明が示す向きへ歩き出す。  
「夜が明けるまでには」  
 
 ――貞光が目を覚ますまでには。  
 
「必ず、二人を連れて戻る」  
 己が何故、かくも彼女に独りを感じさせたくないのかは判らなかったが、それはそれで  
構わぬと、公時は振り向きもしないまま、短くそう呟いた。  
 
「……公時様、あの…もう……勘弁して、下さいませ」  
「あ――ああ、すまん。つい」  
 遠くを見ていた意識が、ふうっ、と今に引き戻される。  
 途切れがちな貞光の声で、公時は己が昔日に思いを馳せている間、ずっと掌で彼女の頭を  
弄んでいたことに気が付いた。ひんやりとした額から頭頂にかけて置いていた手は、  
よく人が猫にそうするように、ただ髪を撫でていたはずだったのだが――  
「もげてしまっては…夕餉の支度が……」  
 どうやら細い首を支点に、頭全体をぐるぐると回していたらしい。片付けに向かう青い顔、  
そして平衡の取れない足取りが、その時間が意外と長かったことを示していた。  
 無意識の狼藉をつんつんと嘴に咎められながら、公時が喉の奥で申し訳なさそうに唸る。  
背を向けた相手からは見えるわけでもないのに、一旦下げた片手を上げ、その唸りを  
きちんとした言葉にしようと口を開いた。  
 だが、そこから音が発せられる前に。  
「……雨も」  
 ほっそりした背から、呟きが先に投げられる。  
「雨も、長きに過ぎれば困るものですね」  
 今度は開きかけの口の中、ああ、とも、うう、ともつかぬ呻きが籠もる。行き場の  
なくなってしまった手は宙に浮かせたまま、公時は唐突な、そしてどこか沈んだ声音の  
先を待つ形になった。  
「公時様も、翁様も…皆、ふやけておしまいになる」  
 何か憎たらしいものを思い出したように、ぎゅう、と彼女にしては乱暴な動作で籠へ  
布地を詰め込むと、貞光はそのまま大きな歩みで公時の膝までやってきた。その変化に  
戸惑う公時をよそに、さも当然のようにそこへどっかりと座り込む。  
 小さな両手は着物の裾を掴み、白い頬はぷぅ、と膨らんでいた。  
 
「季武が、どうかしたのか」  
 あらかたの見当は付くが、一応は問いかけてみる公時。対する貞光は、膨れっ面のまま  
袖の内を探ると、そこから小さな手毬を突きつけるように取り出してきた。  
 公時はそれを己の手に移し、四方からしげしげと眺める。だが、予想外の結果に首を  
傾げざるを得なかった。  
「俺には、見事としか言えんが」  
 何も知らぬ者が見れば、これがほつれていたとは思いもしまい。白、朱、緑に金銀と、  
玉を成す線は実に豊かだ。  
 それなのに、膨らんだ頬が元に戻れば、今度は眉が寂しげに下がってしまう。  
「全くの、元通りではないのです」  
 武骨な掌の上、華やかな球体へ、貞光は両の指を伸ばした。そうして右に左に転がしながら、  
全ての色合いを公時に示す。  
「一色、かがり違えてしまったと。直すにも、もう糸が足らぬと」  
「……そうか」  
 日頃、何かにつけ貞や貞やと声掛ける、あの賢人の好々爺ぶりを知っているだけに、  
そう告げざるを得なかった季武のしおれ具合は察して余りある。  
「翁様が……翁様が、悪いのではございません」  
 今度は回さぬように、と肝に銘じながら、公時は空いている掌を彼女の頭に乗せてやった。  
「それどころか、新たな綾をこさえて下さいました。だから――だから妾がむくれるのは、  
 全くの筋違いでございましょう」  
 絶え間なくうねる雨音の中、規則正しく、軽く軽く童の髪が叩かれる。  
「筋違い、なのです……この綾も、こんなにも美しいと思うているのに――」  
 貞光はその彩りを伏せた目で見つめ、指先で愛でながら言葉を繋げた。  
「昔のままであれば良かったのに、と……そう、思うてもいるのです」  
 

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