刻限は既に夜半過ぎ――満ちた月の光だけが、闇に包まれた都を薄暗く照らしていた。
晴明は何をする訳でもなく、何時もの様に仮住いである庵の庭先で、ただ柔らかな光を放つ
月を見つめる。
満ちてはいても、真円を画かぬ月。
次に来る月臨はまだまだ先の話であった。
(この地――都に降り来て幾年月経ったか)
先の月臨を九尾を裏切る事で退け、白珠を奪いてその力を都に齎し、荒れ果てていた都が
復興の兆しを見せ始めた頃。
晴明はやっとこの地の生活に馴染み始めていた。
…が、馴染むと同時に、様々な問題―――特に、人との関り合いにおいての煩わしい問題
に直面する事になり始めてもいたが。
「……。」
小さな溜息を吐いたその時、知った気配の式が、己が張った結界に触れた事に感づく。
「…道満の式か。斯様な刻限に何用か?」
鵺を結界内に招き入れ腕に留めれば、その獰猛な嘴から良く知った男の声―――道満の
言が放たれる。
『帝より火急の任務在り。至急、我館に立ち寄られし後、我と共に宮内の陰陽寮に参内されよ』
帝の極秘の命――が、わざわざ道満を通して?
「…分かった、直に参ろうぞ。」
腕に留まっていた鵺は一声鳴くと、そのまま主の元へと戻ってゆく。
「……。」
どうにも腑に落ちず疑念が残るものの、火急とあっては参内しない訳にもゆかず、衣を
調える為に屋内に戻る。
装束を取りそろえ、上衣を落し、夜衣の帯を解きて肩から落せば、薄暗闇に白い肢体が
浮びあがった。
(いっそ、我身が女でなければ…斯様に煩わしき事も起こらぬ事であっただろうか。)
女としての丸みを帯びた身体を見つめ、苦々しい表情を浮かべつつ。
小袖を着け、単の袖を通し、指貫を当て、狩衣を羽織る――本来、男性が着るべき装束を
纏うのは、女であることを捨て、己を戒めるためであった筈なのだが。
この地の者は、この身を決して男とは取らない。
それ以上に―――寧ろ…。
「…晴明さま、お出かけにございまするか?」
物音―――と言っても、衣擦れと溜息の音のみであったのだが、傍で寝ていた童女が
目を覚ます。
突然かけられた声に驚きはしたものの、傍に寄り添い、安心させるように頭を撫でてやる。
「起こしてしまいましたか…宮中より火急の任が下りました。念の為に式を残して行きますが、
直に帰ってくるゆえ、安心してお休みなさい。」
「はい、わかりました…お気を付けて行ってらっしゃいませ、晴明…さま…」
そのまま、すぅっと寝息を立てて、童女――貞光は眠りに入る。
息から深い眠りに入ったのを見計らうと、気が進まぬものの、宮中へと参内する為に庵を後にした。