九尾が倒され、漸く地に平穏が訪れる。
戦いが終りし頼光が再び眠りにつくは月輪に反する月隠の夜。
それまでの間―――晴明が望んだものは。
『多くは望みませぬ。―――ただ、最後の刻まで貴方の傍に。』
頼光は、晴明の一途なその願いを聞き入れた。
己達の使命を、立場を忘れ。
ただ何気ない会話を交わし―――時には何やら気まずい空気――大概は頼光の責で
あったが、最後には互いに微笑みあい。
そして―――宵闇の間だけは密やかな男と女になる。
他の四天王達は様々な思惑と面持ちで彼らの様子を見ていたが、敢えて邪魔するような
無粋な真似はしようとしなかった。
全てが寝静まり、静寂なまでの深い夜。
「………。」
互いに飽く事無く睦み逢い、眠りについていた晴明の意識が、ふと戻る。
力強い腕にしかと抱込まれていたが、頼光を起こさない様にそっと擦り抜け。
薄衣を着け、ふらりと誘われるかのように素足のまま外へと出る。
春とはいえ、今だ冷たい空気が身に吹きつけるが、熱篭っていた身体には丁度良いくらいの冷風。
動きは少々鈍るものの、そのままふわりと舞うように飛び、天の断崖へと足を伸ばす。
断崖では満月過ぎた月が煌々と地を照らしていた。
あの戦いが終ってからまだ三日。
天に光る、よどみの消えた清らかな月は、壱拾九夜―――臥待の月。
明日は更待の月となり。
この月が下弦となり、鎮静の月となり。
いずれ、晦―――隠の月となる。
それは、想い慕う彼の男との永久の別れを意味する。
わかっていた事ではあるが。
(斯様に苦しむのなら…いっその事、傍に居るのではなかったのか…)
語らう度に、深く知る度に、なお一層頼光を好いてゆく己が心。
初めは少々苦痛であった身の交わりも、回を重ねれば慣れはじめたが。
彼の熱を、想いを、身に心に刻み付けられる度に。
―――狂おしく、痛みを伴う想いが、刃の如く切り刻み、自らの心をを深く傷付ける。
研ぎ澄まされた冷静な外面とは裏腹の、脆き内面。
女と身としての悦びを知ると同時に、己の彼の男への恋情の深さを、実感させられるのだ。
そして。
(この現世に置いて逝ってほしくはない。いっそ、我も…共に……)
甘美な死を望む思いは、以前とは全く違う形で晴明の心を蝕む。
―――ふと。
ふわりと、背中から温もりが身を抱き包みこむ。
「…頼光……何時の間に。」
「斯様な姿と薄衣では、風病にかかろうぞ。」
思考の深さから、頼光がここに来た事が分からなかった事に。
―――あまつさえ背から抱き込まれるなど。
以前であれば、まずこのような事は起こりえなかっただろうと晴明は苦渋の表情を浮かべる。
「私の身は、斯様な病など寄せ付けませぬ。」
「……。」
「そうですね…いっそ、このまま貴方の腕の中で息絶うる事が出来たなら――私にとって
これ以上の幸せはありませぬが…」
「晴明…」
少しきつい口調になった頼光に、晴明はくすりと笑いを浮べた。
「怒ったのですか?頼光。」
「……。」
苦しい。狂おしい。
己一人、永遠にも似た刻の中、置いて逝かれる事が。
徐々に近付く別れの刻は、冷静だった晴明の思考を、身を、心を愚かに蝕んでゆく。
「…それで良いのです、頼光…もっと、我に怒りをぶつけるのです。」
ふっと晴明は艶然と微笑み、頼光の腕からするりと舞うように擦り抜ければ、薄衣一枚の
晴明の姿が、月の下に曝け出される。
淡い月光の中、薄らとしなやかな白い肢体が透け。
誘うような蠱惑的な姿と、少々乱れた艶かしい黒髪が交わり、その非現実なまでの美しさ
にさしもの頼光も見惚れるが。
くすくすと――かの偽物のように人を小馬鹿にからかう様に笑う晴明に、とたん不快な表情を浮べた。
「我をからかうか、晴明。」
だが、そんな頼光の様子を気にも止めず。
晴明は笑みを浮かべたまま、そっと、指先を月へ指す。
「知っていますか、頼光。私は、もうあの月天へ還る事は叶いませぬ。」
「……。」
「月の眷属達を裏切った、それだけではありませぬ―――地の男に、己が身を与えました。
羽衣は―――身は穢れ、天へ還る事も出来ず。されどこの身は命尽きる事無く、この地で
生き長らえ続ける。」
『清らかな天女は身を地の男に与えると、その穢れを祓わぬ限り、天へと帰る事は出来ない。』
―――それは、晴明自らに聞いた、天の理。
計らずしもその原因を担ってしまった頼光は複雑な面持ちで晴明を見詰るが、彼女は意地の
悪い笑みを浮かべる。
「まぁ…元より月に還ろうなどとは思ってもおらぬ。身など、どうでも良い事。妾の悦びは、妾を
狂おしく慕い、身も心も滅ぼす男の姿を見る事なのだから。」
石牢、封珠院で出会った偽りの晴明のように、どこかしら淫靡な媚びを含む声音。
「晴明……」
「そこに、想いや愛など存在致しませぬ――あるのは悦楽だけ。妾は、お前の事など露程も
想うてはおらぬわ。」
晴明は目を細め、狐の様に艶然と笑みを浮かべて淡々と言葉を紡ぐ。
「妾が、貴様のような男に心許すと思うたか?どうだ、憎いであろう?頼光…月の狐女に心を
弄ばれた、哀れな男。」
―――だが、その様があまりにも滑稽で。
―――あまりにも痛々しく。
今の晴明の言葉が嘘偽りである事ぐらい、流石に頼光にも分かる。
そして…そんな彼女の狂おしいまでの心の痛みも。
「その憎しみを…妾に…」
晴明は頼光の両手首を掴むと、うっとりと目を細めて自らの滑らかな細首へと誘う。
「さぁ…貴方の手で、その死を齎す力で、身を、心を弄んだ憎き女を…屠りなされませ。」
「晴明…もう、戯れは止めるのだ。」
「戯れなどと思うてはおりませぬ。」
力強く言い放つ晴明の手を払い、既に冷え切った細い身を抱きしめる。
「っ…離しなさい、頼…」
「我に、貴女を屠る事は―――出来ぬ。」
「…何故……」
「………」
小さく耳に流れる、低く、心地の良い深い音。
―――己が身を現世に縛り付ける、冷酷な言霊。
見開いた晴明の瞳から止め処もなく涙が溢れ。
「………何故…何故に…っ…斯様に勝手な……っ!!」
力無く崩れ落ちそうになる身を、殊更強く頼光は抱きしめる。
「狡うございます……貴方は…っ…そうやって私を、この現世に縛り付けるのか!!!」
「…晴明……」
溢れ流れる涙の美しさに含まれる痛みを、苦しみを、哀しみを。
―――己が罪の深さを心に刻み、徒々伝い続ける涙を掬うて、嗚咽する晴明の柔らかな唇を塞ぐ。
その苦くも甘美な感触に。
強く頼光の衣を掴みあげていた掌が肩に回され、柔らかな身をしなりと抱き込ませてくる。
月隠れまであと数夜。
頼光が再び眠りに就くまでの短き刻ではあるが。
―――互いにとってはただ一度の幸いの刻であったのだ。