心地よい夜風が吹き抜け、書物を記していた晴明の手元にはらりと紅葉の葉が落ちた。  
筆を休め、葉を拾い上げてみればそれは赤子の掌のように愛らしい。  
「・・・・もう、紅葉の季節なのですね・・・・」  
ついこの前までうだるような暑い日が続いていたというのに、夜半ともなると少々肌寒い。  
紅葉の葉を硯の側へ置き、再び筆を取ろうとしたその時――――――  
風の音に混じり、何処から微かに響く澄んだ笛の音に手が止まる。  
聞き覚えのある、優雅で繊細な旋律。吹いているのはおそらく彼だろう。  
書きかけの書物をそのままに、晴明は笛の音に誘われるように庭へと降りた。  
 
天上に浮かぶ月は十六夜。  
銀色の月明りに、かつてのような禍々しさは無い。  
かの白き巨妖―――九尾の狐を屠り、星降りの儀を阻止したのはもう幾月も前の事。  
しかし未だ地上には妖鬼が蔓延り、白珠を失った人々は都の復興に相当の苦労を強いられていた。  
先日も数多の死霊が蠢く地にて赤毛の鬼を退けたばかりだが、その時彼は随分と深手を負い  
仮初の身体を存続させるのが危うい程巫力を失い、一時はどうなる事かと肝を冷やしたのだが。  
――――臥せっていたはずの彼が、何故このような夜分に?  
随分と遠くから笛の音は聞こえてくる。音を辿り、晴明は天の麓を駆けた。  
あちらこちらの岩盤が剥がれ、地が抉れているのはかつて彼と戦った時にできたもの。  
その跡も、今は紅葉に埋もれ紅に彩られていた。  
竹林を抜けると、視界が開け眼前に断崖の小島が聳え立つ。  
音のする方―――――頭上を仰ぎ見れば、はるか高台の上に彼の――――頼光の姿があった。  
 
漆黒の髪が夜風に揺れ、月光を受けて輝く姿は美しいが、どこか寂しげで。  
いつに無く儚い笛の音に、晴明は胸を締め付けられるような感覚を覚える。  
――――何故、そのような悲しい笛を吹かれるのですか・・・・・?  
彼の所へ行くべきか否か、躊躇っている間に笛の音が止んだ。  
気配に気づいたのか、頼光がゆっくりと振り返り、その長い漆黒の髪を風が煽った。  
「・・・・・晴明か・・・・・?」  
「頼光、そちらへ行っても・・・・宜しいですか?」  
承諾する彼が普段と変わりない様子だった事に安堵し、晴明は崖を駆け上り高台まで跳んだ。  
白い狩衣がふわりと夜空に広がり、招くように手を差し出した頼光の腕の中に舞い降りる。  
「・・・・笛の音で起こしてしまったか・・・・?」  
「いえ、雑用を済ませていた折、笛の音が聞こえたもので・・・・・頼光、御身はもう良いのですか?」  
「巫力さえ戻れば大事無い。貴女の処置が迅速であった故、この身は滅びずに済んだ・・・・かたじけない」  
心配そうに顔を覗き込む晴明の髪を撫で、頼光は微かに口元に笑みを浮かべる。  
人前では滅多に見せない、彼の緊張の解けた表情につられるように、晴明も頬を緩ませた。  
「もったいないお言葉・・・・・・・貴方の力無くして、かの鬼を退ける事は適わなかったでしょう。  
礼を言わねばならぬはこちらの方です・・・」  
謝礼を述べる彼に、ゆるりとかぶりを降って其を否定する。と、彼の傍の木に奉魂の剣と彼の武具一式が  
立掛けてある事に気付いた。磨き上げられた白銀の甲冑の肩に付いている非対称の角の片割れは、  
先日戦ったかの鬼―――酒呑童子のものであったか。  
「頼光・・・これは・・・?」  
訝しそうに頭を傾げる晴明からそっと離れると、頼光は奉魂の剣を手に取り己の前に掲げる。  
「・・・・・かつてこの手で奪いし数多の魂への、慰めにと思うてな・・・・・」  
「それで・・・笛を・・・?」  
「・・・・・ああ・・・・・」  
刃毀れ一つ無い見事な刀身は月光を受けて輝き、その光の宿らぬ瞳の中で揺らめいた。  
手にした剣をもう片手の手首に押し当て滑らせると、鮮血が溢れて滴り、みるみるうちに袖を緋色に染める。  
 
「な、何をなさるのですか……!」  
血に濡れた腕を晴明の前に差し出すと、傷口から淡い光の粒子が零れ、傷口が塞がり始めた。  
「かつては一度剣を振るう度、業を重ねる度、この血に宿る穢れた何かに己が蝕まれていく……  
斯様な恐怖に私は怯えていた。故に心を殺し、傀儡となってこの力と向かい合い、贖罪を果たそうとした。  
だが、かの鬼と初めて刃を交えた時……私はこの力を使う事に愉悦を覚えた。  
この力を使ても勝てぬ相手に出会えた事に、密かに悦びを感じた……」  
ぽつり、ぽつりと語り始める頼光の意思が汲み取れず、当惑しつつも晴明は  
其の言の葉を聞き漏らすまいと真摯に聞き入る。  
「この力を憎いと、穢れていると思いながらも戦う事を止められぬ。剣を振るえば振るう程、  
力を使えば使う程、この身が穢れて行くのを感じながらも鬼と戦った。剣を収め我に返った時、  
私は己の内に沸き上がる罪悪感を抑える事ができなかった……」  
腕の傷口は完全に塞がり、血の痕跡は跡形も無く消えていた。憂いの眼差しでそれを見つめていた  
頼光だったが、深く溜息をつくと、剣を収め再び木に掛けた。  
「……もう千年も昔の話であるが……先日かの鬼と再び刃を交え、その事を思い出した迄の事。  
皮肉なものだ……この背に負いし我が罪は忌むべきこの力でしか贖えぬとは……」  
自嘲するように呟く頼光の肩が、微かに震えているのは気のせいか否か。  
無口な彼がここまで口を割り、己の感情を吐露する事など滅多に無い。  
どう取り繕って良いものか考えあぐねていた晴明の肩を、頼光が軽く叩いた。  
「……つまらぬ感傷につき合わせてしまったな……」  
済まなそうに微笑む彼に、一瞬驚くが晴明も柔らかく微笑み返した。  
「つまらぬ等……貴方が御自身の事を語って下さった事、光栄に思います。ですが……」  
するりと晴明の両手が頼光の頬に伸び、包み込む。そして――――――  
「折角巫力が戻ったというのに、無駄遣いしないで下さいませ!」  
彼の両頬を、ぎゅうっと思いきり抓った。  
 
「望月は過ぎましたが、見事な月夜に御座いますね」  
「……ああ」  
岩に腰を下ろし、晴明は夜空を見上げる。その隣で、赤く染まった頬を擦りながら頼光も  
夜空を見上げた。雲一つ無い、澄んだ夜空である。  
「月は人の心を惑わすというが……斯様な月に酔わされたようだな……  
今宵の事は忘れてくれ、晴明」  
小さく嘆息し自責する頼光を、晴明は暫しの間見つめていたが  
口元に袖を当て、悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼にそっと身を擦り寄せた。  
「承知致しました……ですが、忘れてしまうのは少々惜しい気が致します」  
自ら進んで自身の過去を話す事は勿論、その内に秘めた闇をを吐露するなどと――――  
日頃見せない彼の一面を知り、時間と理に隔たれた距離が少しでも縮んだような気がして  
嬉しさと愛しさが込み上げ、胸が熱くなる。  
「………晴明」  
「戯言故……お気になさいますな」  
呆れたような表情を向ける頼光の、その頬に先程抓った跡が赤く残っている事に気付く。  
「まあ……斯様にきつく抓った覚えはありませぬが……」  
晴明は頬に顔を寄せ――――――――その跡をぺろりと舐め上げた。  
「………っっ!?」  
突然の行動に面食らい、慌てふためく頼光など気にも留めず晴明は獣が傷を癒すように  
舌を這わせる。  
「せ、晴明……!何を……?」  
もう片方の頬に顔を寄せようと、身を圧し掛からせてくる彼女の肩を押さえて制すると  
晴明はその手を外して己の口元へと運び、指先に口付けた。  
「……一体どうしたというのだ、晴明……?」  
「どうやら、私も月に酔ってしまったようです…その…」  
恥じらいながら、潤んだ瞳を向ける晴明の頭に、狐の耳が生えていた――――――  
ように見えたのは、気のせいか…。  
 
「…はしたない事だと……判っては……おりますが…頼光……」  
するりと頼光の懐に身を割り込ませ、途惑いがちに唇を重ねる。  
積極的に誘いかける晴明に一体どうしたものかと思案していたが、柔らかい唇の感触が、  
仄かな甘い芳香が、間近に感じる彼女の吐息が冷静な思考を鈍らせていく。  
応えるように晴明の身体を抱きしめ、舌を忍ばせ深く重ねる。  
「…っん……ふぅ…ッ……ん……んん………っ」  
口端から零れる唾液をそのままに、貪るように互いの舌を絡ませ合った後、ようやく解放する。  
荒い息を整えると、頼光は晴明の衣に手をかけるが、彼女はそれをやんわりと制止した。  
「……頼光、今宵はどうか、私に………任せて下さい……」  
「……任せる、とは……?」  
「…で、ですから……っ…私が………」  
言葉の意味が判らず顔を顰める頼光の上着を、論より証拠とばかりに脱がせ始める。  
そして露になった首筋に、鎖骨に、その逞しい胸元に唇を落としていく。  
「……っ……!?」  
探るように指を這わせながら胸の突起を舌で転がすと、頼光の身体がぴくりと弾んだ。  
その反応に気を良くしたのか、口に含んで柔らかく吸い上げ、もう片方の突起を  
指先で弄りながら広い胸板に幾つもの口付けを落としていく。  
「……何処で、斯様な事を覚えたのだ……?」  
「貴方がいつも致すように真似てみたのですが……」  
「……そ、そうか……」  
女人にいいように弄ばれる事に頼光は少々複雑だったが、日頃高貴な彼女が妖艶に  
誘う姿に身体が熱を帯び、劣情を催してくる。  
それに気づいたのか、晴明の手が下腹に伸び腰紐を解きにかかる。  
「せ、晴明!?」  
「今宵は私が、と申しましたでしょう?」  
くすりと蠱惑的に微笑む晴明に、頼光は抗う事ができなかった。  
 

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