晴明が渡殿の角を曲がったところで、貞光が向こうから歩いてくるのが目に入った。
「晴明さま?……頼光さまも、ご一緒で御座いましょうか?」
唐突に頼光の名を出され、晴明は訝しげに眉を顰める。
「いいえ……私一人ですが、頼光が如何かしたのですか?」
「左様で御座いますか……ならばきっと、妾の思い違いで御座いましょう。失礼致します。」
恭しげに頭を下げ、貞光は其れでも合点がゆかぬといった風情で晴明の来た路を辿っていった。
其の後姿を見送りながら、晴明は些か奇妙に思いつつも歩みを進めていく。
「おや、てっきり頼光が来たかと思ったら……晴明、主であったか。」
矢張り曲がり角で出くわした綱に貞光と同様の事を言われ、ますます晴明は困惑した。
「綱も貞光も、何故……私と頼光を間違われるか?」
怪訝な表情で問う晴明に、綱はさも意外といった様子で応える。
「貞光も紛うた?そうであろうな。……しかし主は気付いておらぬのか?本当に?」
――気付く?
「?……何に気付くというのです?」
「ふむ……成程。其れなら儂が指摘するのも無粋というもの故、もう暫し悩んでみるが良かろうよ。」
何か含むところのありげな笑みを浮かべてみせると、綱はすたすたと去っていってしまった。
「……?」
其の背中を見つめる晴明の胸中を、疑念が渦巻いていく。
――何が何やら全く分からぬ。何故私を頼光と見紛うというのだろう?
答えの出ぬまま、晴明は再び歩き出した。
「おお、晴明……おや?難しい顔をして如何した?何やら無理難題でも生じたかの?儂で良ければ知恵を貸そうぞ。」
部屋を訪れた晴明の、何やら心此処に在らずといった様子に、季武が枝を揺らめかせて問い掛ける。
「いいえ、些細な疑問に過ぎませぬ。……貞光と綱が、二人して私を頼光と見誤ったようでして……一体如何なる理由によってかと思案していたので御座います。」
「其方と頼光を見紛うとは……ちと考え難いものよの。一体如何様な状況であったのだ?」
季武の言葉に晴明は先刻の事を思い起こす。
「見紛う、というのは語弊が御座いましょう。思い返せば、どちらも曲がり角で出くわした時、私ではなく頼光が歩いて来ていると思った素振りに御座いました。」
人の気配というならば、二人はどちらも聡い筈である。しかし其れならば何故、晴明を頼光と違えたというのか。
――晴明を、頼光と思い込んだ理由?
「嗚呼、儂にも漸く分かった。……成程のう、姿が見えなければ、其方を頼光と思い込むのも道理だわい。」
暫しの思案の後、やっと合点がいった様子の季武に晴明が瞠目する。
「季武?一体何が原因だと申すのです?」
未だ答えが導き出せぬ晴明に向かい、季武がかっ、かっ、と笑って言った。
「其方の……纏うておる香よ。」
「香……ですか?」
言われて晴明は己の衣の袖を鼻に近づけて嗅いでみて……そして、愕然とする。
――此れは、頼光の香。
全然気付かなかった――否。気付かぬ程に、この香に慣れてしまっていたのだ。
この香に包まれている事を、何時の間にかごく自然な事として受け止めてしまっている自分がいるのだ。
「まだ年端の行かぬ貞光では、何故其方に頼光の香が移ってしまっているのか分かりようもないであろうが……綱は気付いたであろうな。」
――だからこそのあの笑みであったか。晴明は羞恥に頬を染める。
常日頃の晴明からは想像し難い、珍しく感情を露にした様を見守りながら、季武は静かに呟いた。
「まあ、其方も分を弁えておるであろう故、とやかく言ったりはせぬが……深みに嵌まれば、後で辛かろうぞ。」
「……心得ております。」
「左様か。」
だが、恋慕の情というものはおしなべて理性で如何こう出来るものではない。
努めて冷静を装う晴明に、季武は敢えて其れ以上何も言わなかった。