その場所は御簾に阻まれ、外とは一線を画すところであった。
閨や閨房とも云われるそこは、無粋な闖入者こそ無いものの、しかし、完全に外界と絶たれている訳ではない。
嬌声と云う閨房内で上げられる声は、女の艶めかしさを増し、男の欲情を煽る。
それは、互いの耳にだけ届き、あとはそこを出ることなく、暗闇に吸い込まれ、溶けてゆく。
「あ、ん、っ、んんっ」
そうなってしまえば、空気は既に夜のものと化し、小さな灯火の明かりが届く狭い範囲以外は、闇の支配する場所となる。
「――ふ、……ぅっ」
覚束無い明かりの中、房事は常に秘め事として行われた。
今、この場所で睦み合う二人――源頼光と安倍晴明は、些か他の男女とは趣が違う。
如何も可笑しなことではあると互いに分かっているのだが、先ずは向かい合っての一礼から始まる。
まるで睨み合うかの如き、刃で斬り合うかの如き姿勢でもって対峙した後、先に目を逸らし、息を吐いた方が負けである。
と、いつの頃よりかは忘れたが、そのような決まりごとが出来上がっていた。恐らく、初めて房事を行ったのが、晴明の庵前で斬り合った後であるからかも知れない。
ともかく、数少ないながらも、これが頼光と晴明が夜を共にする前の儀式である。
そして、負けた方が先に衣を解くのだが、気の強い晴明のこと、ただ普通に男に抱かれるのは意に染まないのだろうと――事実、頼光のこの読みは当たっていたのだが――拒みもせずに受け入れている頼光と云う男も、腕は立つ癖にどこか抜けていると云わねばなるまい。
明日、頼光が再び眠りに就こうと云うのに、何ら変わることのない日常となりつつあった決まりに、幾分かの可笑しさと悲しさを見ながら、向かい合い、一礼をした。したのであるが、程無くして珍しく晴明が折れる。
物憂げに溜息など吐き、背を向けて衣を解き始める姿に耐えられなくなり、後ろから抱き込み、頼光が手を動かし始めた。
「……ぁ、っ」
晴明は、徐々に顕わになる首筋に口づけを落とされ、肌蹴る胸元に手を回されても、小さく声を上げながら抵抗らしい抵抗もせず、成されるがままになっていた。
始めてしまえば、晴明が濡れ始めるまで時にして僅かであることを、頼光は知っている。
「はぁ、……ぅっ」
濡れた声と共に聴こえる音は、荒い息遣いと衣が擦れる音である。止まることを知らないかのような動きを見せる手は、先の音とは別の音を、下肢の奥より引き出している。
「あ、――んんっ」
濡れた晴明を床に組み敷き、吸いついた房の実を舐める。その音と、下肢の間から聞こえる音は、良く似ていた。
「う、……んっ」
下肢の間の奥深く、一点を指で擦り上げると、晴明の肢体が跳ねた。
ああ、そう云えばこの辺りに程好い箇所があったと、頼光は攻め立てる。
「ふ、あ、――く、……んんっ」
気性の激しさからは想像も出来ないが、晴明の肢体は感度が良い。
首筋を舐め、空いた手で房の実を弄び、指で身体の奥を擦る。すると、
「あぁ、あ、ああっ」
拒む素振りすら見せる余裕もなく、あられもない声を上げて達するのだ。
達した晴明であれば、十分に濡れていよう。急くように頼光は足を開かせ、楔を穿つ。
頼光自身が熱を感じていたが、晴明の裡も普段以上に熱を帯びているようだった。
「く、……ふ、――っ」
その、色めき、艶めく声に混ざり、対極にあるが如き清浄な音が聴こえ始めたのは、辺りを満たす夜気を含む暗がりが大分薄らいだころであった。
だが、目の前で律動に合わせて揺れる豊かな乳房と、掴んでいる柳腰、汗で光る白い肌、散らばる黒髪と衣の緋色が、頼光から冷静さを奪う。
そうでなくとも、最後の夜かも知れないと云う思いがある。乱れる悦事は、最中に激しく燃え上がる。ゆえに、聴こえる音は、淫猥な粘着質なものの方が似合う。さらりと落ち、流れて消してしまうような清らかな水など、不要だ。
だが、雨を望んでいたこともまた、事実である。
夕餉前に晴明が出した卦は、頼光が眠る儀に、雨が宜しくないことを告げていた。
空は茜の端に薄暗い灰を見せている。
――降れば如何なる。
腕を組みながら問い掛ける頼光に、晴明は静かに云った。
――止むまで待つより他、ありませぬ。
――そうか。
互いに、何とも複雑な表情をしていると、小さく笑いあった。
(雨が)
降れば降るだけ共にいられると気付いたのだ。願うことは、当然であろう。
首筋に、いつもよりも色濃く痕をつけた。これは、一体いつまで残るのだろうと思い、同じ箇所を更に吸う。強く、強く、赤を通り越して紅にまでなれば良い。そう願いを込めた。
行為も終わりに近づいているのに、珍しいと、しかし言の葉を口にできる余裕などはない。明確な理由など直ぐに知れるのだが、そちらを見ただけではしたない声を上げ続けた。
「ふ、――はぁ、ぅ……んっ」
目が潤んでいるようにも見えたが、気の所為であるかも知れない。
背を反らした所為で、僅かにできた床との隙間に腕を差し入れる。そのまま強く抱き締め、刻む律動を速め始めた。
「や、いや、……ぁっ」
少し変えた角度に、が程好い一点があったようだ。晴明の上げる声が、一層高くなった。この場所も好かったのかと、今まで知らなかった自分を悔いるように恥じるように、頼光は動く。
「あ、あ、――ああ、あああっ」
落とす色の赤を深く、染まる肌の赤を淡く、二つの色の対比を鮮やかに高らかに謳い上げるような声を上げ、晴明は達した。頼光もまた、その赤の裡に白濁した体液を放つ。
引き抜くと同時に、それが滴り、夜具を穢す。
頼光は身を起こし、胸元を流れる汗に舌を這わせ、喉を鳴らした。身体の線と作りを確かめ、覚え、目に刻み付ける。――が、これも眠ってしまえば夢となるのだろう。
眠りの間の記憶は曖昧、泡沫、砂子が風に舞い消えるように儚いものとなる。
「――、……」
その思いの狭間を埋めるように雨の音がした。
淫らな閨を浄化する音にも聴こえるそれに、未だ浸っていたいと懇願するが、無情さも併せ持つ雨は洗い流してゆく。
ただ無性に辛くなり、意識を飛ばした晴明の身体を抱いた。
「どうされました」
衣を整えながら、帳の向こうに気を取られている頼光に、晴明が見上げて問い掛ける。
「雨の音がした」
「ああ、――そういえば、このところ明け方に突然降り出すことが多う御座いましたが」
先ほどの情事の最中に、あの淫らさを洗い流す音は、忘れようもない。
観に行くかと、頼光が手を差し伸べれば、是非も無いと晴明が緩い動きで、自身のそれを重ねた。行為が終わった後であるので、余り無理をするなと気遣うと、でしたら抱いて下さいと云うので、仕方が無いと笑い、抱き上げて外へと歩き出す。
晴明の鼻孔を、頼光の香がくすぐった。この香は覚えている。ゆえに大丈夫であると、自身に云い聞かせ、晴明は頼光の衣を強く握った。
白む直前の空に雲が張り、息をする隙も与えないような暗闇とは、また違うほの暗さであった。
音を聞いてはいたが、このように見ることは初めてであると、眩しそうに晴明が云う。暗がりが息を潜めていた帳より、薄明かりの外へと出たのであるから、当たり前であろう。
「朝の雨は、普段よりもいっそう眩く見えるな」
「ええ。如何してそのような心持ちになるので御座いましょうね」
降る雨は、慈雨であろうと季武が云っていた。妖鬼たちによって穢された大地を洗い流し、新たなる命を育むものである。
「都も、直に蘇ろう」
「……」
腕の中で俯く晴明の髪が揺れ、流れ落ちた。
「再び眠りに就いても、一人、生きて行けるな」
掴む衣の袖が、強く握られる。
「――、お別れが参りましたね」
「ああ」
短い答えに、酷く痛い喪失を感じた。
「もう、どこを探そうと、貴方はいなくなりますね」
奈落へと連れ行かれた時とは、全く違う。あの時は、全てを尽くして探し、声が届いた。だが、手を伸ばしても触れられなくなり、叫べば何かあったのかと姿を見せることもなく、名を呼べども答える声も聴こえなくなる。
「すまぬ」
頼光は眠るだけだ。意識が無くなり、思考すら奪われる。それが幸いであると知っている。だが、晴明は起きている。
雨を見るだろう。陽の光を浴びるだろう。桜の中を舞うだろう。その度に、頼光を思い出し、泣きたくなるに違いない。
「皆まで申しますな。未だ時は御座いますゆえ」
だが、それを言霊に乗せて欲しくは無いと、陰陽師らしく言の葉で晴明は話を打ち切った。
「ああ。眠ろう。明るくなったとは云え、未だ陽は昇っておらぬ」
立ち上がろうとした頼光が、不意に動きを止め、晴明を見た。
「……また、抱いて戻るか」
それに対し、答えを口にする前に、満面の笑みを浮かべた晴明は自ら腕を伸ばし、頼光にしがみ付いた。
衣より、香が立ち昇る。
(……)
この香が、寂しさを増すものになるのか、懐かしさを感じるものになるのか、今の晴明には分からない。
「如何した」
不意に力を込めて縋りつく晴明を不審に思うが、瞬時に察したのだろう、そのまま黙り、御簾の内へと戻る。
(雨が降り続ければ良い)
頼光の首に顔を埋めながら、晴明は思う。
降り続けば、卜の卦により、別れは明日となる。止めば、これからしばらくの後に別れが訪れる。
(眠りについた後も、起き出した後も、未だ止むことなく、――)
閨に入り、抱き合うような形で横になる。互いの温度を感じまどろむ中、耳を澄ますと、聴こえてきたのは雨垂れではなく、低く心地良い寝息であった。一定の拍数を規則正しく刻む音に、次第に眠りと云う波間にたゆたい始める。
そして、雨は。