暦上は春だというのに、朝から身を切るような風が吹いていた。僕は開けかけたドアを閉めるとマフラーと手袋をつけ、学校へと向かった。
通学路は決まっているわけではないが、暗黙の了解としてみなが通る道があった。でも僕はあえてそれを無視して、人通りの少ない森の中を歩いていく事にしていた。
その日もいつものように細い路地を抜け、数日前に降った雨でぬかるんだままの、剥き出しの小道に僕は入った。辺りはいつもと違って、木々のぶつかり合う音で騒々しかった。
しばらくそのまま足を進めていると、僕の前にそれは突然に現れた。
僕は近づいていってそれをよく見るためにしゃがみこんだ。森の中に放置されたからだろう、残念な事にそれには無数の虫が群がり、作品としての価値を損なわせていた。
僕はそれ自体には大して関心を持たなかった。少し紫の混じった手首。それは、白くなければいけなかった。
もとから学校の授業は真面目に聞いているわけではないが、今日は珍しく落ち着かなかった。駄目だと思っていても、授業中に彼女のほうを何度か見てしまった。
森野はいつものように、教室の外を眺めていた。窓の外に顔が向いているために、僕の座っている席からは、彼女の黒い髪しか見ることが出来なかった。途中、一回だけ彼女は黒板のほうへ目をやった。顔がこちらに向いた時、一瞬だけ目が合った。
案の定彼女は表情を変えずに、また窓の外へと顔を戻した。僕が彼女を意識している事がばれたんじゃないかと思って、妙な焦りが生まれた。
放課後、僕がゆっくりと鞄に教科書を入れていると、彼女のほうから声をかけてきた。
「何か、用かしら」
「どうして?」
「だってあなた、授業中に私のこと何度も見てたでしょう」
彼女は気づいていたのだ。こちらを確認するそぶりは見せなかったのに。
僕は彼女に用がある旨を伝えて、屋上へ来るようにと言った。
「ここで話せばいいじゃない」
「少し、言いにくい話なんだ。誰かが来たら困るし」
「……まあいいわ、行きましょう」
屋上には幸い誰もいなかった。僕は貯水タンクの陰へと、彼女を促した。
僕の隣に、彼女も腰を下ろした。暫く何も言わないでいると、怪訝な顔でこちらを見てくる。
「話って、何?」
本当は話などなかった。呼び出す口実が、欲しかっただけなのだ。
「僕のインターネットの知り合いに、おかしな娘がいるんだ」
僕は適当な話をすることにした。
「彼女は、よく手首を切っては、その写真を取って、日記にのせるんだけど」
僕は少し間をおいた。彼女は特に反応もせず、じっと隅の水溜まりを眺めていた。
「おかしいと思わない? リストカットは、自己との対峙のはずだ。それを、第三者に公開している」
「きっとその娘は、寂しいんじゃないかしら」
森野は水溜まりから目を離さずに答えた。
「寂しい?」
「ええ、寂しいから……手首を切って、他人に見せるの」
「つまり、傷つけられた自分を見てほしいわけか。とんだ自作自演だ」
「しょうがないじゃない。そこでしか、自己を解くことが、出来ないの」
「君は、どうなんだ」
彼女は顔を上げてこちらを見ると、すぐに伏せた。
「……私も、同じよ」
そう言った森野の声には、諦念のようなものが感じられた。
僕は彼女の腕を手に取ると、ブラウスの袖をめくって陶器のような手首を露出させた。
「……っ!何するの!」
「これ、最近の傷だろう」
彼女の手首には白い何本かの先に混じって、まだうっすらと赤い線がひかれていた。
「君も、見てほしいんだろう?」
彼女は少し困ったような顔をして、直ぐに向こうを向いた。
僕は顔を手首の辺りまで持っていき、その新しい傷に舌を這わせた。
「きゃっ!」
森野は驚いたような顔でこちらを見て、手首を離そううと手を引いた。
少し力を込めて手を引きもどすと、何度もその傷を舐めあげる。暫くそうしていると、彼女の抵抗がやんだ。