駅前の待ち合わせ場所についたのは20分前だが、すでに森野はベンチに腰かけて待っていた。  
まだ午前中だというのに、かんかん照りの夏日が広場のタイルを白く干上がらせ、噴水を虹色  
に輝かせていた。  
 森野はうつむき加減で本を読んでいた。顔を傾けてざあと黒髪のヴェールを垂らし、陽射し  
をさえぎってページをめくる。薄手の生地らしい黒いワンピースからほっそり伸びる手足は、  
白亜の置物のようにつややかだった。  
 日焼けをした森野など想像もできないと思いながら声をかける。パタンと閉じたタイトルは、  
数年前に発禁処分になった図解入りの殺人マニュアルだった。  
「死んだ田辺ありさの通っていた予備校の講師が、割合近しい親戚の1人だったの。で、葬儀  
の日に出られないから、代わりに献花をお願いできないかって‥‥その時に、奥井晃って人と  
知り合って」  
 電車のなかで森野の情報源について話を聞き、少しだけ安心する。  
 森野に鍵をわたした奥井晃という人物は、雑居ビルに店舗を構えるテナントの一人らしい。  
年は20代後半だと言う。  
 どういうわけか、森野夜は殺人者や異常者をひきつける特異性をもっていた。ひっそり影に  
たたずむ容姿や、瞳の奥に秘めた意志の強さが、孤独にかがやく夜光石のように変質者をひき  
つけてやまないのだ。  
 車内での会話は一度きりで、そのとき僕は被害者ごとに違う殺害方法についてどう思うかを  
たずねていた。  
「どこか変な感じがするわ。それぞれの殺され方がしっくりこないというか‥‥なにか欠けて  
いる気がするの」  
 森野の感想は僕と同じだった。犯人の目で事件を追っていくと、どうも納得できない事件が  
混ざっているのだ。  
 もう一人ぐらい殺されたら分かるかも、と森野が言い、そうだね、と僕は同意する。ひどい  
ことだが、僕らは次の被害者が出る可能性を憂うどころか、早く早くと待ち望むような非人道  
的なコンビだった。  
「飛び降りとか、落下することにこだわっているのかしら‥‥」  
 森野夜はしばらく考えこんでいたが、やがて推理をあきらめ、本に顔をもどした。  
 
 
 灼けるような熱気に背をあぶられ、少女はゆっくりと目を覚ました。  
 時差ぼけめいた鈍い違和感が後頭部にあった。寝るときにはクーラーを凍えるくらいに設定  
するのが習慣なのに、今朝はやけにカラダに熱がこもり、だるく汗ばんでいる。  
 狭苦しいスペースだった。  
 手も足も、首さえまるで動かすことができなかった。ベッドと壁のすきまに落ちて目覚めた  
のだろうかといぶかり、もぞもぞ身じろぐ。  
 しだいに焦点がさだまり、そびえたつ鉄柵と看板に切りとられた抜けるような空だけが、見  
あげたすべてだと気づいた。まるで、ひどく小さい棺の底からはるかな世界を見上げるように  
空の青が切なく遠い。  
 こんなことが数日前にあったような気がして、混濁した記憶をまさぐりつつ瞳だけを動かす。  
そうして少女は、作為的にたてかけられた鏡の表面に記された文字を見た。少女自身をうつし  
だす鏡の表面に書きなぐられた「D.O.A」の3文字を。  
 ‥‥かぁっと頬が熱くなっていく。  
 だがそれは、巷をさわがす殺人犯の署名におののいたからではなかった。より直接的な原因  
で、少女は声もなく呻き、ぎしりぎしりと羞恥に身をよじらせた。  
 鏡に写りこむ、卑猥なみずからの裸体が理由だ。  
 彼女だけに見せつけようとして看板から伸びる鉄骨の一つに設置された鏡が、あさましくも  
エロスにいろどられた少女の肢体を、犯人の技巧と審美眼とを、あますことなくさらけだして  
いる。  
 少女はあおむけになり、背中に腕を束ねられて横たえられていた。  
 お気に入りのワンピースはずたずたで、丸裸よりも扇情的に剥かれていた。残骸になった衣  
服の裂け目からなめらかな革ベルトが食いこみ、汗ばむ肌を犯して全身くまなく這いまわって  
いる。  
 ぎっちりと硬い幅広の腕枷が、肩の下とひじのあたりに二箇所づつ嵌められ、左右の腕を胸  
のわきに密着させていた。上半身はもうしわけ程度に背中とお尻だけをおおう革の奴隷装束を  
着せられ、ほの白く輝きをはじく形の良い双の胸から、下腹部の淡い茂みにいたるまで、すべ  
てが丸出しだった。  
 たわむ乳房も上下を革ベルトで絞りだされ、いびつに強調されて汗の玉を浮かべている。  
 ひごろ冷たく青ざめる顔もまた、無数の拘束で蹂躙されている。  
 肩甲骨の下までとどく長くつややかな黒髪を巻きこむように顔の下半分は革のマスクで覆わ  
れている。後ろ手の手枷と首輪はベルトのどれかでつながっているらしく、暴れようとすると  
首が絞まるようだった。  
 死の恐怖やパニックを抑えつけ、懸命に状況を把握する。  
 目覚めてからすでに10分近くたっていた。いますぐ殺される可能性は少ない、と判断できる。  
即座に身に迫る危険はなく、かわりに、なにかしら陰湿に、緩慢な死を招くしかけが‥‥。  
「‥‥!!」  
 ぞわりと産毛がさかだち、体がどくんと跳ねた。  
 
 ただれた感触がカラダの芯から疼きだす。下腹部から広がっていく悪寒と痙攣のさざなみが、  
女ならば知らないはずもないこの感触の意味を少女に思い知らせる。ぞくぞくと震えたそれは  
あらがいがたい快楽の前兆だった  
 これが犯人の狙いなのか。  
 どうやら、気を失っているあいだに、薬かなにかを塗りこめられたらしい。もっとも過敏な  
部分がじくじく狂おしい焦燥感につきあげられている。うつろにみたされぬ惨めさが、さらに  
刺激を生む。  
「う‥‥あぐ‥‥」  
 下種ね‥‥そうつぶやきかけた少女の口腔には、あごが痛いほどの太さをもつ、水筒の栓の  
ような形状の口枷がねじこまれていた。中央の穴にはゴム栓が詰まっている。  
 この器具が奴隷にフェラチオを強要するためのフェイスクラッチマスクという名称をもって  
いることを、彼女はようやく思いだした‥‥それを選んで犯人に手わたしたのが、少女自身だ  
ということも。  
 犯人との邂逅。気を失うまぎわ、少女に向かって彼女が言い放った不埒な言葉。すべて思い  
だす。後ろ手に握らされた固い感触のもたらす意味も。  
 なんてことなの‥‥。  
 虚脱した敗北感におそわれ、全身から力が抜けていく。  
 鏡の向こうで悶える少女が、まぎれもなく悦びに身じろぐマゾ奴隷そのものだと、少女自身  
認めざるをえないほど、拘束された全身が無力に甘く匂いたっている。  
 とほうもない屈辱と怯えが心にうずまいていた。こんな形で女の性をむきだされたことが。  
 抵抗もできぬまま、少女は無防備にこの境遇を受けいれてしまったのだ。  
「んァ‥‥っ、ク」  
 急に甘い声がこぼれてしまい、少女は悔しげに自省のなさを恥じた。無防備な裸の胸をぬる  
い風がなぶり、桜桃色の突起がつんとした痛みで締めつけられたのだ。  
 むきだしの少女の乳首は、凌辱者の手による金属のクリップで摘まれた上にチェーンで結び  
あわされていた。じわりと刺激をもたらすクリップの締めつけを噛みしめていた紅蕾が、乾い  
た夏の風に煽られて、はしなくも固くしこりだす。  
 一度意識してしまった以上、乳首を虐める鉄の感触をこらえようとすればするほど、少女は  
疼痛に翻弄され、敏感な胸を充血させ、尖らせるばかりなのだ。  
「なに怒ってるのよ。そうじゃないわね? 違うよね。嬉しいでしょう? もう探偵ごっこも  
終わりにしていいの。だって、次の犠牲者はあなた自身なんだから‥‥さ、望みどおり快楽を  
あたえて殺してあげるわ。最期のひととき、心行くまで味わいなさい」  
 じっくり楽しんでね‥‥死ぬまで‥‥。  
 にやにやと笑いかける逆光のなかの彼女をにらみつづけていた、それが最後の記憶だった。  
 どうしてD.O.A殺人の獲物に自分が選ばれてしまったのか。  
 遠くから人の喧騒や騒音がひびく。  
 一縷の希望を胸に、冷静に声を溜め、うわずることのないよう大きな声で助けを呼んでみる。  
「ぁふ‥‥はぅへ‥‥え‥‥」  
 無駄だった。  
 ろれつのまわらない、赤子のようなみじめな喘ぎしか押しだせない。  
 絶望に圧されまいと身をよじり、歯が折れそうなほど力をこめて、割り裂かれた唇ふかく金  
属のリングを咥えこんだまま、悲鳴のかわりに乱れた吐息をを押しだす。  
 もはや、うたがう余地はない。  
 みじめに屈服させられた少女は、あきらめとともに、なすすべのない現実を受けいれる。  
 森野夜‥‥彼女自身が、5人目の猟奇殺人の犠牲者だった。  
 
 
 例の映像が撮られた高校へは、すんなり入ることができた。今の時期は全国どこも期末後の  
テスト休みだ。部活らしき私服通学の生徒にまじって守衛に頭を下げ、やすやすと校内に入り  
こむ。  
 校舎の入り口前でたちどまり、時計を下からみあげる。  
 直径1メートル足らずの丸くたわんだ足場のうえで、女教師がどれほど必死だったか思いを  
めぐらす。校舎の屋上からも時計をみおろした。気絶した被害者を吊り下げるのはかなりの重  
労働だろう。  
 はためく髪を押さえ、森野は目を細めている。ときおり瞳が泳ぐのは、被害者がどのように  
放置されたのか思いをめぐらせているからだ。収穫のないのは承知の上だった。森野も僕も、  
死者の足跡を巡礼しているにすぎない。  
 汗がにじみだす熱気と湿気のなか、僕らは冷ややかな死の息吹にふれていた。  
 帰りぎわ、校門からすぐのところで携帯をかまえ、カメラモードで校舎の時計をみあげる。  
「かなり遠くから撮られた映像みたいだね」  
「遠くって、校門から?」  
 映像の中の前庭は近隣住民や生徒たちでごったがえしていた。そこに犯人もいたのだろうか。  
詰所の守衛を気にしつつ携帯をのぞき、目測で校門の外から撮影されたらしいと見当をつけて、  
僕らは高校をあとにした。  
 3件目の路上では、側溝に血痕めいた痕跡があると森野が主張したものの、僕は同意しなか  
った。蓋を取りかえた可能性もあるし、雨で血痕は流れただろう。だが僕の話など聞かずに、  
森野はしゃがみこんで熱心に路傍のしみに手を這わせ、通りすがりの会社員らの注目を集めて  
いた。  
 森野夜は、自分という存在が周囲にあたえる影響を計算できない。少しばかり鈍感なのだ。  
 いくぶん不満げな森野をうながして調査を打ちきり、昼時の繁華街に向かい、オープンカフ  
ェでパスタを注文した。店内には数組のカップルがおり、たいていの男は森野をちらちらと見  
ていたが、やはり彼女は視線に気づいていなかった。  
 向かいあって食事をしつつ、森野が僕をどうみているかを考える。僕が森野をどう思うかも。  
 森野と僕はどういう関係なのだろうか。  
 

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