「本当ですか? その方とは会えますか‥‥ええ、今からでも」  
 携帯を切りつつ、森野は静かに興奮していた。目撃者が見つかり、会う手はずをととのえて  
もらったのだ。明日の探索前に、彼をおどろかせてやれるかもしれない。  
 森野にとって少年は、無価値なクラスメイトのなかで唯一興味をひく対象だった。  
 少年はつねに明るくクラスに溶けこんでいる。学校での一日をほとんど沈黙のうちに過ごす  
森野とは逆で、そんな2人の組みあわせは不思議に映るらしかった。光と影、あるいは太陽と  
月。そう比較して陰口をたたく女子もいた。  
 けれどただ一人、森野だけが、冷え冷えとした真実を知っている。  
 少年の太陽はうわべだけであり、ひとたびペルソナを引き剥がせば、そこには森野さえ立ち  
すくむような昏い日食の闇が広がっているのだ。そうと知りつつはなれられない。重力のよう  
に惹かれていく。  
 少年のことをどう思っているのか、森野は自分の心をうまく言葉にできたことがなかった。  
 夕食はいらないからと親につげ、家を出る。  
 情報提供者と電話で約束したとおり、X市の待ち合わせ場所で彼女は待っていた。  
「はじめまして。森野夜さんですね」  
「わざわざお会いいただき、ありがとうございます」  
「いえ、こちらこそ‥‥つらいお話になるかもしれませんが」  
 青ざめた顔を深々と下げると、目撃者は痛ましい顔になった。死んだ田辺ありさの友人だと  
思ったらしい。いつものことだった。誰もが気の毒そうに森野を気づかい、進んで情報を提供  
してくれるのだ。  
 同情といたわりを声に感じつつ、少しづつ打ち解けながら、とくに死のまぎわ被害者が着せ  
られた拘束衣のことをつぶさに訊ねていく。  
 こうした相手の勘違いや想像は、つねに的外れだった。  
 犯人をつかまえようとは思わないし、犯人を推理しようとも思ったことさえない。  
 森野は、ただ、死者になりかわってみるのが好きなだけだった。  
 同じように拘束され、同じように放置され、死のまぎわになにを感じたのか知りたい。死に  
ゆく被害者に同化したい。背徳的で後ろめたい衝動であればあるほど、甘美な誘惑をおぼえず  
にはいられないのだ。  
 誘蛾灯に惹きよせられる羽虫のように、森野は、田辺ありさになりかわろうとしていた。  
 
 
 人気のない屋上にはすでに暗い空が広がり、ところどころに星がまたたいていた。  
「で、今度は、これを着せて欲しいっていうの?」  
「お願いします。どうしても‥‥彼女の気持ちが知りたいんです」  
「本気なんだ」  
 森野の言葉を耳にしてふうとため息をつき、彼女は肩をすくめる。それでも出会ったばかり  
のときに比べ、声には気安さと親しみが混じっていた。あるいは森野の執着に共感でも抱いた  
のだろうか。  
 
 あのあと、森野は頼みこんで彼女とともにSMショップへ向かい、拘束具を買いあさった。  
彼女の目で見てそろえた、すべて田口ありさが着せられたものと同じ‥‥寸分たがわぬ市販品  
だ。  
「風変わりだけど、買ったのはあなた。それはかまわないわ。でもね、脱ぐときはどうするの。  
それに、こんなとこまで私をつれてきて‥‥ついてきた私もかなり酔狂かしら」  
「それは、いいんです」  
「え? ‥‥いいって、こんなもの着せられたままでうちに帰りたいの?」  
 鏡のような無表情で、森野はこくりとうなずく。  
 どのみち拘束衣だけを持って帰っても、知識のない彼女一人では身に着けようがない。親に  
手伝わせるのは論外だ。となれば結論はひとつだった。  
 翌日、少年と会うときのことを想像する。  
 なにも知らない少年は、いつものようにベンチに座る森野に声をかけるだろう。彼女は立ち  
上がり、肩にはおったジャケットをすべりおとす‥‥。  
 そのときの少年のおどろきの表情を、そしてそれ以上の感情をあばきだしたいのだ。  
 子供じみていると思う。けれど、彼を挑発したいという誘惑にあらがうことはできなかった。  
ずっと昔、双子の妹と死体ごっこや悪質ないたずらをして遊んだことを思いだす。  
「‥‥はあ」  
 なんだかな。そうぼやきつつも、彼女は協力してくれた。  
「ンッ」  
 カチリと施錠された瞬間、かすかな呻きがもれる。  
 立ったまま両手を背中にそろえて組み、拘束された手枷の冷たさに感じ入る。  
 従順にからだを預け、森野は無数の皮具を装着されていった。  
 革ベルトがぎりぎり絞られていく。そのきつさに声をあふれさせつつ、皮具が引き締められ、  
疼痛とともに柔肌がくびれ、次々バックルが留められていく。自由を奪われ、田辺ありさと一  
体化していく自分のカラダを、どこか酔ったような瞳で森野は見下ろしていた。  
 無力にされていくことへの焦り。もはや自分ではほどけなくなったという恐怖。彼女のなす  
がままであるという認識。同じことを田口ありさは感じていたのだろう。イメージにおぼれ、  
カラダの芯が熱くなっていく。  
 急に下腹部をするりと指の腹でさわられ、森野は吐息とも声ともつかぬものを洩らした。  
「あら‥‥湿ってきたかしら」  
 くすくす笑い。  
 そうした恥ずかしささえ屈辱と共に享受する‥‥田口ありさがそうであったように。  
 首輪をかっちり嵌められ、あごをつままれ、ひどく暴力的で複雑な口枷が唇にあてがわれる。  
あごが外れそうなサイズのリングに、思わずたじろぐ。  
「口をあけて」  
 ここまでは頼んでいなかった。ただ、拘束衣を着せてくれるよう頼んだだけだ。  
 けれど‥‥。  
 ぞくりとしたものをおぼえつつ、森野は懸命に小さな口をひらいて太い金属の筒を咥えだす。  
歯の位置を調節し、リングの中央から森野の舌をつまんで引きだしながら、なにげなく彼女は  
つぶやいた。  
「田辺ありさを殺したときも、こんな風に最期に口枷を噛ませながら囁いてあげたのよね‥‥  
私が真犯人だって」  
「‥‥? ‥‥‥‥!?」  
 森野の瞳孔が大きくみひらかれる。  
 けれど、なにを告げるより早く、柔らかな唇をこじあけた無慈悲で固い金属の円筒が、深々  
と森野の口腔にねじこまれていった。  
 
「私たちは愛しあっていたから、あの子、最後まで涙目で訴えていたわ‥‥まさか、死体愛好  
家のあなたが、女性同士の関係がおかしいなんて言わないわよね。あの子には屈辱をあたえて  
殺してあげたから。愛おしい田辺ありさにはね」  
 暴れようともがきだし、戦慄する。  
 森野のカラダには、自由にできるところなど、何一つなかったからだ。袋詰めされたように  
全身がのたうつばかりで彼女の腕から逃れられない。  
 必死になり言葉をつむごうとするが、喉のあたりまで咥えこまされた口枷がそれを許さない。  
「さて、あなたはどうしましょうか‥‥森野夜」  
 きゃしゃな全身を揺すってにらみつける森野を、色のない瞳がみおろしている。  
 まばゆい光が目を射り‥‥。  
「あっ、んぁ‥‥!!」  
 拘束をほどこされた全身を海老ぞりに弾ませ、森野夜は目覚めた。  
 どうやら、しばらく気を失って白昼夢をみていたらしい。微笑みつつ無抵抗のカラダをなで  
まわす手の感触がまざまざと肌によみがえり、たまらず裸身を揉みねじる。それでも、微細な  
刺激はやむどころか、さらに嬲るようにカラダをほてらせていく。  
 状況は朝からまったく変わってなかった。  
 ビル外壁のはざまに寝かされ、裸身を括りあげる革はゆるみもせず、完全に放置されたまま。  
 締めつけはきつくなるばかりで、這いずることさえ拘束衣のきしみと圧倒的な絶望がさらに  
森野の心をひたす。どこか倒錯した、マゾめいて被虐的な気分を昂ぶらせていく。  
 犯人の獲物にされ、死を待つばかりのいけにえの少女。  
 これこそ、森野自身がもっとも強く願い、もっとも味わってみたかった展開ではなかったか。  
 確実な死とひきかえに、ただ一度きり堪能を許される被害者の目線。  
 いくどとなく‥‥。  
 くりかえしくりかえし、没入してきた空想の世界でのこと。  
 人をはばむ山林の奥で、だれもいない廃墟の校舎で、白々とした肌を無残にナイフで切り裂  
かれ、痛みにむせびながら生きたまま解体されていくありようを‥‥  
 死んでなお安息を許されず、細切れにされ、芸術品のように自分の首が、腕が、乳房が、犯  
人の手によってうやうやしく展示されていくところを‥‥  
 喉がかれるまで悲鳴をあげつづけ、ついに誰にも聞き届けられず、朦朧としたあたまで飛び  
降りを選ばざるをえないその瞬間を‥‥  
 まさしく、彼女自身がいま、身を持って体験しているのだから。  
「‥‥‥‥‥‥‥‥ッッ!?」  
 口枷の奥からぷすりと呼気が洩れ、青白い頬に微かな甘みがさす。  
 色とも艶ともみえぬそれは、しかし、顔の下半分をおおいつくす黒革のマスクとの対比で、  
いやおう強調され、鏡うつしとなって森野を辱めた。  
 感じていない‥‥違う、だって‥‥これは、卑劣な薬をぬられただけで‥‥。  
 動くたびに、きつ‥‥く、ベルトにこすられて、真っ赤にただれて‥‥。  
 ひりひりして、灼けるようだから‥‥。こんな、太ももなんかこすってないで‥‥、指さえ  
使えたら、思いきり‥‥。  
 思いきり‥‥‥なにを、思いきり‥‥‥!?  
「‥‥!」  
 またしても、屈辱で頬が赤くなるのをとめられない。  
 堂々めぐりの思考は、身動きできない分だけ、過敏なカラダを意識させてしまう。薬の効果  
だけではない、ぬらりとしたしずくが下腹部からあふれかけているのを、彼女はまだ気づいて  
いない。  
 
「ン‥‥ぅ、ぁあ‥‥。」  
 声をだすことで気をまぎわらすにも限度があった。  
 いやらしく皮具にくびりだされた股間が、緊めあげる拘束をちぎりそうなほどに熱く激しく  
疼き、もどかしさで灼けつくようだった。  
 ぷっくりと充血したそこは3本の革ベルトで締め上げられている。  
 ひそやかな土手の両脇に食いこんだ革ベルトは、羞恥の源泉たる肉のふくらみにことさら血  
を集めるとともに、左右から盛りあげて、はしたなく女の部分を誇示させている。  
 ひどくわいせつな形にゆがみ、左右のベルトに引っぱられてほころびだすいまだ無地の桜色  
に染まったクレヴァスには、揺籃を剥かれた肉芽を痛々しくも快楽にまぶして革ベルトが食い  
入り、じっとりとしみだす透明なしずくにまみれて、深々と肉の裂け目にもぐりこみ、消えて  
いく。  
 しかも中央のベルトだけ裏地がケバだっており、この残酷な仕掛けは身じろぐたびに森野を  
責めあげ、甘く擦りたてては苦しめるのだ。  
 意地悪くカラダをあおりたて、しだいに理性さえも愉悦の波に足を洗われだすようだ。  
 とろけかけていた意識に、少年のことが頭をよぎる。  
 どれほど忘我の境地であるとしても、死をうけいれるわけにはいかない。彼は必ず来るのだ。  
根拠もなく、そう思う。できるなら、そのときは死体ではなく生きて言葉をかわしたい。  
 ‥‥だから。  
 覚悟を決め、彼女は全身を揺すって残酷な革にあらがいはじめる。  
 とたんに吐息は鼻声となり、甘い呻きとなり、嬌声に堕ちて森野をなぶりだす。一息ごとに、  
腰を揺するごとに、上気したむきだしの乳房を震わせるごとに、囚われのカラダを卑猥な衝撃  
がつきぬけ、神経が溶かしていく。  
 これは自分との、くるおしい快楽とぎりぎりの理性の戦いなのだ。  
「ンァ、あ‥‥ン、ク、ンク‥‥」  
 そうして。  
 敗北は、あっという間だった。  
 小さなアクメの波が森野をどろどろに突き崩し、わけもわからず濁流に押し流す。  
 喘ぎ声がリズミカルになり、裸身をふるわせるたび、痛みと圧迫感と疼痛のまじったグチャ  
グチャの刺激が森野をこわしていく。  
 自由にならない。コントロール不能な官能が意識をむしばんでいく。たまらない。腰だけが  
釣りあげられたようにひくひくとブリッジでもするように跳ねおどり、しかも、その滑稽さと  
うらはらに子宮をむしばむ切羽詰った焦燥感は、いやされるどころかさらに渇きをましていく。  
 じわじわ被虐的になぶられ殺されていく。  
 無慈悲な現実にカラダを犯され、死と背中合わせの凌辱に感じきり、ふしだらにも、逃がれ  
られぬ死の足先をしゃぶりながら、森野夜はますますあさましく発情させられていくのだ。  
 満たされない‥‥。  
 欲しい‥‥。  
 もっといじられたい。深くまで犯されて、ぐちゃぐちゃにされたい‥‥‥‥。  
 焦らすくらいなら、いっそ、一思いに殺して‥‥‥‥!  
 考えてみれば当然のこと。およそ自分で慰めることもまれな少女が、周到な犯人の責めに、  
ただの決意であらがえるはずもないのだ。しかも、もっとも感じる状況に追いこまれて、意識  
が高ぶらないわけがないのだ。  
 快楽の炎と炎天の双方に裸身をあぶり理性をけずられ、革拘束の下でとめどなく汗をながし  
つつ、この数日のこと、いつも行動を共にする少年との事件めぐりを思いかえす。  
 それすら、胸の谷間にうちつけられたニップルチェーンのみだらな衝撃で霧散し、真っ白に  
焼けきれて、森野はひたすらに身もだえ、不自由に蕩けだしていた‥‥。  
 
 
 午後の日ざしがいちだんときつくなったころ、巨大な清涼飲料水の広告がせりだす雑居ビル  
にたどりついた。  
 ワンピースが汚れるのも気にせず森野は横の路地に入っていき、情報提供者からもらった鍵  
で勝手口をあけた。人気のないビル内にも熱気がこもっており、閉口しつつ階段を上っていく。  
靴音だけが鈍くこだました。  
 屋上の扉にも鍵がかかっていた。出られないじゃないかと文句をつけた僕に、森野は片頬で  
うすく笑みを浮かべてみせ、勝手口で使った鍵をふたたび差しこんで回す。  
 錆の浮きあがった扉が、軋んで開いた。  
「ここの屋上は、入居したテナントの共有スペースになっているらしいの」  
 説明しつつ、森野は思わぬまぶしさに顔をしかめた。  
 屋上に踏みだした僕たちは、直上からの日照りとビル風にまかれ、しばし言葉をうしなった。  
 そこは、色あせたコンクリートの墓地だった。  
 6階建ての雑居ビルは、通りに面した側を3メートルほどの看板で目隠しされ、残り三方を  
のっぺりした建物の外壁で囲まれている。周囲から屋上を見おろせる窓は数えるほどで、繁華  
街のなかここだけが孤立していた。  
 現場検証のあとだろう、血痕らしき黒ずみや足跡など屋上のいたるところがチョークで丸く  
記されている。濃密な絶望と死の残滓が、いまだ強く匂っているようだ。  
 誘われるように森野が看板へと近寄っていく。  
「なんてこと‥‥」  
 つぶやく彼女の横にならび、大通りを見おろして僕は納得した。  
 路上には人々が行きかい、たえず喧騒がとどく。だというのに、手すりの向こう、50センチ  
ほどのはざまは、看板と鉄柵で視界をうばわれ、細長く切りとられた空と照りつける太陽しか  
見えないのだ。  
 このせまく小さな棺に記されたチョークの人型に、僕らは魅入られていた。  
 田辺ありさは、ここで朦朧とした意識のまま助けを求めつづけたのだ。ひっきりなしに騒音  
が耳に入り、人が行きかい、けれど誰もおとずれず、誰にも気づかれず、じわじわ死んでいく。  
しだいに日が落ち、静寂の恐怖がにじりよってくるのを、田辺ありさはどんな思いで目にした  
だろう。  
 あるいは、森野には、この気持ちが分かるのだろうか?  
「‥‥そう。そこで被害者が放置されてたんだ。生きたまま、袋詰めにされてね」  
 静寂をやぶり、屋上の扉がきしんだ。  
 初めて耳にする声に、僕と森野はふりかえる。  
「おーおー、今日も美人だねえ、森野さんは。その子が例の彼氏か。へえー」  
「あ‥‥いえ、その、彼は友達で‥‥」  
「おいおい、いいの? そりゃあ、彼氏いないほうが嬉しいけど」  
 二人の会話よりも、僕はむしろ珍しく狼狽をあらわにした森野の表情に気をとられていた。  
あわてたような、けれど否定しかねる風情で言葉をさがしていた森野が、僕の視線に気づいて  
むっと咎めだてる非難のまなざしをよこす。  
「さっき話したテナントの、奥井晃さん。鍵をくれた人。こっちの彼は‥‥」  
 進みでてあいさつをかわす。奥井晃は笑いだし、可愛い子だねえ、と僕を評した。一瞬ぎょ  
っとしたが、森野の顔から、僕が無意識に冗談を口にしたのだと気づく。森野以外の相手に本  
当の僕を知られるのは好ましいことではない。ここは陽気な同級生としてふるまうことにしよ  
うと決める。  
 まぶしそうに手をかざす奥井晃は背が高く、さばけた服装だった。衿を立てた格子柄のYシ  
ャツの胸元をだるそうにくつろげ、あせたジーンズをはいている。遠慮のない目でじろじろと  
僕らをながめ、愉快そうな笑みを作った。  
 
 動機についてどう思いますかと、あたりさわりなくたずねてみる。  
 そうだねえと奥井晃は首をひねっていたが、ひとくさり警察への文句をならべたてた。事情  
聴取をうけたときの対応を快く思ってないようだ。  
「話を聞いたら森野さんは猟奇犯罪にすごく詳しいし、被害者には悪いけど私だって異常者の  
心理には興味あるんだ。これだけやってのけた真犯人がどんな奴か、想像すると胸がわくわく  
するね。だろう?」  
「テナントに入っているだけで事情聴取されたんですか。警察も本腰入れていますね」  
 とたんに奥井晃は不機嫌になった。  
「そうじゃない‥‥うちがSMショップだったからさ。さいわい先月は商材の買付で海外だっ  
たし、帰国も2人目が死んだあとだから、容疑者扱いはされずにすんだがね」  
 ああ、と納得する。  
 被害者間に接点はなく、怨恨などの動機もみあたらない。となればロープや猿轡、バイブ等、  
遺留品に警察の目が向くのは当然だった。雑居ビルには奥井晃の経営するアダルトショップの  
2号店が入っており、相当調べられたという。  
 もっとも、どの品も大量に出まわるものばかりで、犯人特定には結びつかなかったようだ。  
 森野は会話に参加していなかった。  
 手すりのあいだから手を伸ばし、残されたぬくもりでも探るようにチョークの人型を丹念に  
指でなぞっている。黒髪のなびく背中を眺め、にやりと僕を肘でこづいた奥井晃は思わぬこと  
を口にした。  
「どうして田辺ありさがみずから死を選んだか、きみたちは知っていたっけ」  
「いえ。もしかしてご存知なんですか?」  
 少しおどろきながら返事をする。初耳だった。規制がきびしいのか、彼女の死因については  
ネットで知りえた情報も少なく、映像をくれた例の情報提供者もくわしくは知らない風だった  
からだ。  
 森野もまた、全身で注意を傾け、こちらに聞き入っている。  
 大仰にちょっと間をおくと、目に嗜虐的な色をためて奥井晃は話しだした。  
「スカトロって分かるかな。死んだ彼女な、動けなくされて、口とお尻をホースでつながれて  
放置されていたんだ」  
 どういうことか分かるかい? とたずねてくる。  
 排泄器官と口を連結され、自由を奪われたまま丸二日放置される。その様子を頭で想像し、  
そして唐突に僕は理解した。  
 ‥‥だから、田辺ありさは二日目に飛び降りたのだ。  
 一日目は懸命に排泄欲求をこらえたのだろう。けれど、体から水分を奪われ、正常な理性を  
うしなって、そういう状況下で排泄物が逆流してきたら、それは発作的な自殺へのトリガーに  
なるかもしれない。  
「そのとおり。背中は熱したコンクリート、革の拘束具は乾いてどんどん締まりだす。脱水症  
状でもうろうとなって、さらに自分がひりだす汚物まで咀嚼しなきゃいけない。極限の恥辱だ  
ね。普通はもたないさ」  
 口元をちいさくゆがめて被害者の死にざまを語る奥井晃も、ある種のGOTHだった。淡々  
と死に触れたがる僕や森野とは違うが、奥井晃もまた、こわれた死に様にひかれているのだと  
感じる。  
「数日は汚物の匂いがビル前の路上にこもってね。閉口したよ」  
「‥‥なるほど。ところで、奥井さんのお店を見せてもらっていいですか。僕はSMグッズを  
見たことがないので、被害者がどういう目に遭わされたのか、どうもつかめないんです」  
「かまわんよ。おいで」  
 階段をおりかけた僕は一度引きかえし、森野の腕をつかむと、手すりから指をひきはがして  
こちらにひきよせた。森野はおとなしく僕についてきたが、視線は宙をただよっており、白く  
あざやかな鉄柵のあとが、手のひらに残っていた。  
 

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