はっと気づいたとき、すでに太陽は中天にかかっていた。陽射しは強くなり、灼きつくす夏
日がじりじりと囚われの森野夜をあぶっていく。
マラソン直後のようにどくどくと動悸がみだれ、波打っている。
それが、とろ火で煮込むように長く断続的にイかされつづけたせいだと気づき、ぎりり、と
森野は、唇にねじこまれた金属の口枷をきつく噛みしめた。
まんまと犯人のわなにはめられて、惨めにも連続したアクメにまで追いこまれてしまった。
3時間ものあいだ被虐に溺れ、意識が混濁していたらしい。
この絶望的な革拘束から抜けだすどころか、いたずらに体力を消耗するだけで終わったのだ。
肌に食い入る革拘束のベルトは、どれも最初から水をかぶって重く濡れていた。
気絶しないよう、涼を取らせる目的だったのかしら‥‥。
けれど日が高くなったここにきて、森野は身をもって見込みの甘さを思い知る。水を吸った
革紐は乾きだし、獲物にまきついた大蛇のように収縮しはじめ、汗みずくの裸身はミリ単位で
締まっていく。
無残な革緊縛がもたらす圧迫としびれをこらえきれず、意に反して森野のカラダは強制的に
悶えさせられてしまうのだ。
またしてもこみ上げるマゾヒスティックな官能を、口枷に歯を立ててやりすごす。
刺激はとどまることを知らず、飽くこともなく、一波ごとに激しく狂おしく打ち寄せてくる。
そうして、溺れても、溺れまいとあがいても、森野を待つのは終わりのない色責めなのだ。
いまや、森野は犯人のねらいを正しく理解していた。
”快楽をあたえて殺す”‥‥その意味。
どれほど懸命に全身をのたうたせ、あらんかぎりに快楽をむさぼっても‥‥。
拘束された森野夜のカラダは、決して最後までイくことを許されず、エクスタシーの直前で
寸止めのまま、焦らされっぱなしなのだ。
ひりひり火照らされたまま、果てのない無間地獄。
瞳がうつろになり、欲望に突き動かされてぶざまに腰をふり、心まで本物の奴隷に堕とされ、
マゾになりきって何度も自失し‥‥けれど、その短いアクメはさらに森野の下半身を疼かせる
ばかりで、けっして届きえないのだ。
恥辱にまみれてイかされてゆく一瞬一瞬、意識は遠のく。
欲望をおさえきれず、屈辱を舐めながら犯人のあやつり人形となり、情欲に酔う。
縛りあげられた苦痛におぼれ、不自由な裸身を味わいつくす。
けれど、同じ女なればこそか、犯人の仕掛けはぎりぎりまで森野を追いあげていきながら、
最後の最後で快楽をきわめさせてくれない。頂上にとどかない。
目前に限界の悦びを見せつけられながら、どうやっても、とどかないのだ‥‥。
森野の瞳に小さな涙が浮かび、落ちていく。
「‥‥ン、ンク」
ちり‥‥ちゃり‥‥と澄んだ金属の響きが森野を震えさせる。
我慢できずに身じろぐたび、敏感に震えるなだらかな乳房のうえでチェーンが転げまわり、
その重量に引かれてニップルチェーンがきつい疼痛を乳首に加えてくるのだ。
一撃ごとに鈍く衝撃をともなう痛み。
快楽のほどを誇示するかのようにツンといやらしく尖りきった桜色の突起は、冷たい金属に
甘噛みされて、とほうもない悦びを少女の体内にそそぎこんでくる。あらがえばあらがうほど
チェーンは動きまわり、つながれた二つの乳首は少女自身の煩悶と連動して、こりこりきつく
揉みしだかれていく。
「ン‥‥ぁン、ひァ、ぁァァ‥‥ン」
焼けつく空気を押しだすようにもれるかぼそい呼吸は、大気よりなお熱く濡れていた。
快楽を反芻し、ためつすがめつ楽しむために、意識せずに鼻にかかったあえぎ声があふれて
しまう。
いつのまにか、玉のような汗が一面にふきだし、裸身を這っていた。
ちりちり焦がされていく柔肌を、小さな粒がつううと舐めるように転がりおちていく。触れ
るか触れないかのタッチで、そっと肌の輪郭を指でなぞられていく。思わぬくぼみをくすぐら
れ、乳房をあやすような意地の悪い刷毛のひとなで。
払いのけられないひとしずくひとしずくのペッティングが、森野を惑乱させ、狂わせていく。
開いた毛穴の奥までなぶられる感触に、かぁぁっと裸身が燃えあがるのだ。
お尻には重くだるい感触があった。
脂汗がでるほど太い異物が秘めたのすぼまりを抉りぬきすぽんと嵌りこんでいる感触。田辺
ありさがはめられた排泄用のチューブとは逆のしかけ。これは、そのごつごつした形状とエラ
の這ったカサで、後ろの穴を犯す忌まわしい擬似男根なのだ。
異物感は、尾てい骨のあたりまで、張りつめた背骨の下をみっちり埋めつくす。
本来激痛を覚えるはずのすぼまりは、薬のせいでほぐれていた。
たえまなく腸壁をこじる異物感のなまなましさが不快そのものなのに、無意識のうちに後ろ
の穴に力をかけたり抜いたり、きゅうきゅうと窄め、そのたびに揺れ動くバイブのいやらしい
ばかりの太さに目を潤ませてしまう。
凌辱のすべてが悩ましく、初めての苦悩で少女を圧倒し、打ちのめした。
しかもこれらすべては、おろかにも犯人の手中へ飛びこんだ森野自身が選び、犯人みずから
検分した、田口ありさとおそろいの奴隷装束なのだ。
捕らわれの屈辱と、快楽のジレンマが、彼女をさらに乱れさせていく。
快楽をあたえて殺す、そう告げた犯人を思いだす。
事実、この痒みとくるおしい火照りはすでに半日以上つづいており、悩ましい刺激を頭から
追いだそうと努めれば努めるほど、いっそうみだらに下腹部を充血させ、ただれきったクレヴ
ァス奥のぬめったひだをひくひく収縮させてしまう。
風にのって下から届く喧騒が遠く、森野をここちよい絶望でみたしていた。
きっとこんな風に感じていたのね。そう思う。
田辺ありさも喧騒を耳にし、必死に助けを求めた。そして、無残にも願いはとどかなかった。
希望は絶望に打ち砕かれ、失意のうちに田辺ありさは死を選んだ。
彼女も同じなのだ。
これだけ犯人の罠が周到である以上、森野夜も必ず田辺ありさと同じ運命をたどるだろう。
万が一はない。運よく通行人に発見され、助かる可能性は0に近い。
こうして凌辱の悦びに目覚め、奴隷の欲情に昂ぶらされたまま、あきらめを胸に抱いてじわ
じわと死んでいく。
それを嫌い、田辺ありさは、せめて自由意志で落下を選んだのか‥‥。
顔を傾ける。左側には外壁からはりだす看板があり、その隙間から落ちれば、一瞬でアスフ
ァルトに叩きつけられるだろう。
一応は転落防止なのか、首輪と足枷からのびた鎖が、小さい箱のような金具で、手すり側の
鎖とつながっている。ただ、鎖は意外に細い。どれほど森野がきゃしゃだといっても少女一人
の体重を支えきれるかどうか断言はできない。
死を選ぶのは簡単だった。
リモコンのスイッチは後ろ手に握らされ、ガムテープで巻かれた手の中にある。犯人は立ち
さりぎわ、堪えきれなくなったらそれを使えと、含み笑いとともに森野に教えた。
D.O.A‥‥速やかに死ぬか、緩やかに死ぬか。
死に方を選ばせるのが犯人の愉しみだ。ならば、このスイッチだけは押してはならない。
押した瞬間、彼女のカラダはエクスタシーの頂上をきわめるだろう。そして、どんな仕掛け
にせよ、そこで死ぬのだ。
死とひきかえにただ一度あたえられる極限の絶頂。どれだけ甘美なものかを思い、森野夜の
カラダはぶるりと震えた。間違ってスイッチを押しこまぬよう、汗でぬるぬるになった手から
意識をはなさないようにする。
口惜しいことに、いまの森野にはなんら反撃の手段も、逃れる手だてもなかった。
犯人の姦計どおりに、快楽に負けてすみやかな死をえらぶか。
全身を甘くただれさせ、最期まであらがいながら、衰弱しきって死んでいくか。
「んぁ‥‥ぅ、いぉ、ン‥‥」
大丈夫、大丈夫だから‥‥気が遠くなるたびに、少年のことを思いだす。
かならず彼が来てくれる。それは疑ってなどいない。
けれど‥‥。
少年の、闇一色にそまった本来の瞳の色を思いおこし、森野夜の背中がぞくりとあわだつ。
ほんのときおり、たとえば大地にばらまかれた被害者の残骸を目にしたときなど、少年は肉食
科の獣のような瞳をすることがあった。
獣欲に餓えた瞳とはちがう。冷静に獲物の力を計算するような、冷たい瞳だ。
めったにはないが、森野自身がその目で見られていることもあった。といっても、背中ごし
の気配で感じるだけだ。少年は森野のまえでその目を見せることはない。確実にしとめられる
時にしか殺気を見せない、孤高なサバンナの王のように。
森野をみつけ、犯人に打ち勝ったあとで、少年は森野を助けてくれるのだろうか。
それとも‥‥。
瞳を閉じ、森野は甘くやるせない物思いにふけった。
‥‥それでも、少なくとも、少年は死のまぎわまで、彼女の最期を看取ってくれるだろう。
雑居ビル4階の一室で、森野から鍵を返してもらった奥井晃がドアをあける。
「私はネットもパソコンも嫌いだが、従業員がくわしいのでね。最近はそちらの方が売れるし、
ほとんどネット専売に移行しているんだ」
店内の狭さをいいわけするように手をひろげ、手錠や革ムチやコスチュームなどの展示品を
さししめす。カウンターの店員がこちらに気づいてたちあがったが、奥井晃は手をふって下が
らせた。
いきいきと、ときに尊大な身ぶりでグッズを紹介する奥井晃にとって、この店舗は仕事と趣
味の両立のようだ。金属手錠の意外な重さにおどろき、ごわつく麻縄をさわり、被害者の自由
を奪っていく犯人をイメージしてみる。
自由を奪う、奪われることに快楽をおぼえるのがSMなら、あるいはこの手のマニアも僕や
森野と近い位置にいるのかもしれない。
奥井晃のレクチャーが終わったところで、バラバラの殺害方法についてどう思うかたずねて
みる。
「そういや、こいつは殺人犯のくせに刃物や凶器をつかわないな。そこがヒントかもしれない」
「面白い着眼点ですね。でも、たしか3件目が」
「あ‥‥首切りワイヤーか。ふむ、じゃあどうなるんだろう」
首をひねる奥井晃に礼をのべて、店の奥に入っていった森野を追いかける。
森野はカウンターの前に立っていた。
沁みるような病的な青白いうなじに革の首輪を食いこませ、店員の手を借りて、背中にねじ
あげた両手首を革の拘束具で締めあげられていくところだった。カチリと留め金がロックされ、
不自由な手枷を軋ませながら、感じいったようにまぶたを伏せている。
なにをしているのと問いかけると、うっすらとした死化粧のような笑みがむけられた。
「この締まる感触、悪くないわ。でも、紐のほうが好き」
「紐?」
「首吊り用の紐よ」
どうやら森野の中では首輪と首吊りの紐が同じカテゴリに入るらしい。あまり追求はせず、
一歩下がって彼女のできばえを眺める。森野もそれを望むかのように、拘束された腕をよじり、
黒いワンピースをひるがえしてみせた。
「これはこれは‥‥すばらしい。森野ちゃんには本当に拘束具が似合うね。商品モデルになっ
て欲しいぐらいだ」
いつのまにか瞳を輝かせた奥井晃が僕の後ろに立っていた。さん付けがちゃん付けに変わり、
サディストの目に変容している。奥井晃から視線をもどした僕は、そろそろ帰ろうかと森野を
うながした。
「え、もう帰るのかい? 残念だな」
本当に無念そうに奥井晃がつぶやき、寡黙な店員が首輪から垂れるリードを僕につきだす。
僕の困惑は二重の意味だった。革製のリードの先には、びっくりするぐらいの値札がついてい
たのだ。
「寺井君、野暮はやめたまえ。そのグッズは二つとも森野さんにプレゼントするんだ」
「‥‥」
オーナーにたしなめられて店員はうなだれ、僕はリードを取ろうか取るまいか迷っている。
つぶやくような森野の声が追い打ちをかけてきた。
「臆したのかしら?」
雑居ビルを後にするころ、夏の夜空はすっかりうすぐらくなっていた。
この町のどこかに猟奇殺人犯がひそんでいる。
そう思うと、周囲の視線が気になってしかたなかった。もちろん、それだけが理由ではない。
そろそろリードを離してもいいですかと丁重におうかがいをたてる。いや、とにべもない拒絶
がかえってきた。
ため息をつき、首輪を嵌められた森野にふりかえって目立ちすぎだと抗議する。
「いちいち通行人を気にする人なんかいないわよ。私はこの不自由な感触をもう少し味わって
いたいの」
森野は冷ややかに僕を睨んだ。背中でくくられた両手をきしりきしり弾ませ、首輪のリード
を引かれるがまま後からついてくるわりに、女王様のような尊大な態度だ。
「大丈夫。何かあったら、むりやり襲われたっていうから」
すでにこんなやりとりが数回はくりかえされている。警官に出会わず駅にたどりつけること
を僕は願った。この分だと、次の探索はさらに大変なことになりそうだ。奥井晃と森野のやり
とりのつづきを思いだす。
「このあたりには、他にSMショップはあります?」
「あるよ。駅をはさんだホテル街の方にね。うちの本店もそっちにある。けど気をつけた方が
いいねえ。暴力団がらみだったり無届で営業してるアダルトショップも多いから」
「そう‥‥」
森野はひどく残念そうだったが、奥井晃の言葉が他の店に客を逃がさないための方便である
可能性はまったく考慮していなかった
帰りぎわにふと思いたち、事件ごとの殺害方法がバラバラなことをどう思いますか、と店員
にたずねる。PCで作業中だった手を休め、彼は僕と目をあわせた。感情を浮かべずぼんやり
つぶやく。
「‥‥誰かに、見せつけたいのではないでしょうか」
寡黙な店員と熱心にしゃべる奥井晃のコンビは、森野と僕の関係を連想させた。奥井晃がサ
ドなら、あの店員はマゾなのだろうか。想像して少し気分が悪くなる。僕ら自身にそのイメー
ジを重ねることは、さらにお断りだった。
帰りの電車でも森野は首輪をはずさず、革の手枷をもてあそんでいた。
少しだけ彼女の汗を吸ってなじんだ器具を、不思議な思いでながめる。およそ殺人には使え
そうもない道具であえて被害者を死に至らしめる。それがまだ見ぬ殺人犯の行動原理なのかも
しれない。
森野は、SMショップで僕がみせた動揺がよほど楽しかったのか、二日後にまた探索しまし
ょうと一方的に約束を取り決め、その日は駅のホームで別れた。
二度目の探索にでかける日の朝早く、携帯へのメール着信を告げる音で、僕は起こされた。
『2・3日のあいだ、探索は中止しましょう』
眠たい目を何度かこすり、じゃあね**君、と僕の名が記されたメールを、僕は訝しみつつ
見た。彼女らしくないし、これではなんだかよく分からない。こちらから電話をかけなおすが
不通だった。
「おはよう、兄さん」
朝のリビングに下りていくと妹の桜が話しかけてきた。昼から塾に通うので、午前中は予習
するのだという。兄さんも出るの、と聞かれ、予定がキャンセルになったと言うと、桜の目に
好奇心がやどった。
「もしかして、森野さん?」
僕がおどろいた顔をしていたのだろう。桜がしてやったりという表情になる。桜には、以前
森野と買い物に出かけたところを見られていた。そういう関係ではないと否定する僕の反応が
面白いのか、桜はこの話題を好むのだ。
「昨日、森野さんを見かけたわ‥‥男の人と一緒だった」
桜の話によれば、昨日友達の家に遊びにいった帰り、森野夜が背の高いすらりとした男性と
一緒に繁華街の高級そうな喫茶店へ入っていくのを見かけたという。友達の家はDOA殺人の
起きているX市だった。桜の話を聞くかぎり、容姿や風体からも、もう一人は奥井晃の可能性
が高い。
彼女を放っておいていいの? と意地悪くせまる桜に、それは誤解だとわかりやすく説明し、
論破されてちょっとむくれた彼女をあしらいつつ朝食をすませた。
これはどういうことなのだろう。
普通に考えれば、森野は情報提供者である奥井晃に呼びだされたのだろう。それ以外でX市
まで電車をのりついで向かう理由はないし、かりに森野自身が新しい情報を手に入れたのなら、
教える側が隣の県まで出かけるはずがないからだ。しかし、そうだとすれば探索を止めようと
言いだすのは不可解だ。新たに仕入れた情報で僕をびっくりさせる機会を、森野が逃がすわけ
がない。
と、いうことは‥‥。
変質者を惹きつける森野夜の特質を思いだす。一昨日の探索で、森野のとった行動はかなり
人目をひいた。あの町にひそむ殺人犯が森野を見初めたとしてもおかしくはない。
適当な時間になるのをみはからって森野の自宅に電話をかける。
やはり、彼女は昨夜から帰っていなかった。
昼過ぎまでインターネットで調べたが、とりたてて次の殺人や新しい情報は出ていなかった。
例の映像提供者だけが田辺ありさの転落死について新たな事実を教えてくれたが、それも奥井
晃の話と同じ内容にすぎなかった。
今までの被害者は、襲われてから約一日のうちに死んでいる。
同じように計算するなら、生きている森野夜にあえるのは今夜がタイムリミットということ
になる。少なくとも、まだ死体は見つかっていない。万全の準備をととのえて部屋を後にし、
夕食はいらないと伝えておく。あれ、やっぱり出かけるんだという桜に、ちょっとX市まで見
物にね、と僕は答えた。
去年の夏を思いだす。あれ以上に動悸が早まっていくのを、僕ははっきり自覚していた。
森野夜の最期に、立ち会うことができるだろうか。
ホームに降り立つと、おとといにも増してひどい熱気が全身をつつんだ。
ねばりつく大気はどろりと水飴のように重く、それでいて水気を与えるどころか奪いとり、
さらに渇きを助長させる。DOA殺人の犯人も、この干照りにあてられ、気を昂ぶらせている
ことだろう。
事前に電話で連絡をいれておいた雑居ビルのSMショップにむかう。ドアをあけると、あの
おとなしい店員が僕を認めて頭を下げた。奥井晃さんに会えないでしょうかと訪ねると店員は
小さく首を左右に振った。今日は営業に出かけてしまったらしく、どこにいるかは分からない
らしい。
少し考え、おとといは気づかなかったことを思いだす。
この店員は、奥井晃がDOA殺人の情報を集めていることを知っている風だった。店員自身
はあまりGOTHのように見えないが、もしかしたら奥井晃がなにか情報をもらしているかも
と思い、質問してみる。
「はい‥‥うちの奥井は凝り性ですので、このごろは出張前と同じように私に仕事をまかせた
きり、森野様とよく会っていたようで‥‥あなた方が来られた日も、ちょうど2人目の映像を
手に入れて上機嫌でした。森野様が映像を持っていたので落胆ぎみでしたが‥‥4人目のこと
ですか‥‥ええ、お二人が帰られてから、私も聞かされましたが‥‥飛び降りた理由について
です」
店員が語った話は、どれも、森野や僕にとって目新しい情報ではなかった。
奥井晃がさらに新しい情報を手に入れたというふしもない。真犯人が分かったのではと期待
していたのだが、違っていた。結局、奥井晃と森野が喫茶店でなにをしていたのは分からない
ままだ。
「いろいろとありがとうございました」
店員に礼をのべ、最後に、森野が失踪したこと、僕の推測と犯人のもくろみについて要点を
話しておく。アラだらけだったが、店員の反応を聞かされてこの推理に自信をもち、雑居ビル
をあとにした。
じきに、日が沈もうとしている。