ねっとりした熱帯夜を見上げて、大きく伸びをした片桐は一日の終わりを実感する。安堵と  
幸福につつまれるこのひと時、しかし、片桐の心はざわついていた。  
 ここ数日、片桐は、はじめての波乱を経験している。  
 事の発端は、一人の少年が彼を訪れたことだった。少年は遺体の一部を見たのだと主張して  
彼を糾弾した。  
 そのこと自体は大したことではない。少年の疑惑は不十分なもので、殺人の痕跡をつかまれ  
ることはなかった。  
 不安はむしろ別のところにある。  
 あの日‥‥。  
 ほんの一瞬、少年の目が、日食の太陽のように塗りつぶされて見えたのだ。  
 その昏い視線にはおぼえがあったが、深く考えるべきではないように感じて、記憶のすみに  
追いやっていた。だというのに、ふとした瞬間、少年の見せた瞳の色が片桐の頭をよぎってし  
まうのだ。  
 神経質になったものだと、くたびれた笑いを洩らし、片桐は人の流れにまじって歩きだす。  
 ほんの数歩で、その足が止まった。  
 帰宅途上のサラリーマンらが迷惑そうに彼の体をよけて通り抜けていく。それでも、片桐は  
動けない。  
「分かりましたよ‥‥すべて」  
 刃のごとき微笑をたたえた少年が、前方に立っていた。  
 ひどく暗い夜だ。脈絡もなく、片桐は思った。夜空は曇り、星も月も見えない。街灯がなけ  
れば、少年の口が動いたとは思えないほどの囁きだ。だが、片桐の聴覚は、少年の一言一句に  
吸い寄せられていた。  
 一緒に、来ていただけますね‥‥。  
 あるいは、拒否してもよかったのだろう。しかし、あれほど少年との対面を嫌悪していたに  
もかかわらず、片桐は自然とうなずいていた。  
「話を、聞かせてもらおうか」  
「ええ」  
 少年はきびすを返し、やがて、あたかも偶然同じ方角に向かう他人同士のように、肩を並べ  
て歩きだす。  
 背広の内ポケットにおさまったスティレットが、にぶく疼いていた。  
「この事件‥‥僕はアンクルカット事件と名づけています‥‥最大の謎は、一度は遺棄された  
足首が消えたことでした」  
 考えをまとめるかのように、少年が語りだす。  
 一度も片桐に目を向けず、抑えた口調はまるでひとりごとだが、片桐には、少年がこちらの  
反応をうかがいながら話していることが分かった。  
「過去の事件では、犯人は足首そのものには執着していません。だから犯人以外の誰かが死体  
を持ち去ったのだと、僕は当初そう推測しました。しかし、そうなると、どうしてもピースが  
欠けてしまうのです」  
 誰が、なぜ、遺体を盗んだのか‥‥。  
 そして、盗まれた死体の足首は今、どこにあるのか‥‥。  
「これは前のときもお話しましたね?」  
 軽くうなずく。ここまでは、最初に糾弾されたとき、片桐が聞かされた話と同じものだった。  
 家路に続く鉄橋にさしかかる。  
 行きかう車のライトに目を細めながら、少年はふっと、話の矛先を変えた。  
「ところで‥‥。以前、この川べりの広場では動物の死骸が大量に見つかったことがあります。  
当時は騒ぎにもなりました。ご存知ですか?」  
 いいや、と軽く驚きながら少年に答える。その話を聞くのは初めてだった。でしょうね、と  
少年は、満足げに、意味深にうなずく。  
 
「住人たちにとってはイヤな記憶ですから、進んで口にはしないでしょう。ですが、多くの住  
人同様、川べりの広場で死体が見つかったと聞き、まっさきに僕がイメージしたのもその広場  
だったのです。そうして僕は死体を見つけ、飛びちった血のりや腐臭も確認しました」  
 けれど、そんな跡は目撃していない‥‥そう、桜や涼一君は言っています‥‥。  
 僕と彼らの証言は、明らかに矛盾しているのです‥‥。  
 うなずきつつ、片桐は奇妙な胸騒ぎをおぼえる。だが、ここで少年の話をさえぎるわけには  
いかなかった。  
「この謎が解けたのは、『死体はニセモノ』だと桜に聞いてからでした。彼女は死体に慣れて  
いて、冷静に血痕や腐敗のあとを確認していました。つまり、桜の見た遺体はニセモノだった  
‥‥死体は2つあったのです。本物と、ニセモノです」  
「どういうことかな」  
 思わず口をはさむと、少年がちらと視線を投げる。  
「人が、ドッキリ目的で死体の一部を作ろうとする場合、どの部位が一番簡単だと思います?  
生首は論外です。人の目は意外と精密ですぐ見抜かれてしまうし、そもそもマネキンの首はそ  
う簡単には入手できません。手首や胴体なども同じです‥‥。お分かりですね?」  
「涼一が足首を捨てた犯人だといいたいのか」  
「桜が見た、ニセの足首の製作者という意味では、そのとおりです」  
 死体を目撃した日にマンションの外廊下で靴を手にした涼一に出会っていること、あの日に  
限って飼い犬のジューシーが大好物のウェットフードを食べなかったこと、などを少年は片桐  
に説明した。  
「つまり、ジューシーは満腹だったのです‥‥。おそらくは、お母さんの靴にペットフードを  
詰めこんで涼一君が作った即席の死体を、というより中身の好物を、川原で食べてしまったせ  
いで」  
 血痕がなくて当然です。2人が見た死体の足首は、ペットフードのつまった靴ですから‥‥。  
丁寧に解きあかす少年の肩はさざなみのように揺れていたが、その横顔をみるかぎり、笑みは  
認められなかった。  
「さて‥‥。これで、僕と涼一君に認識の齟齬があったことがお分かりいただけるでしょう。  
あの日、涼一君は電話口で、『鉄橋の下の広場で死体を見つけた』と言いました。引っ越した  
ばかりの彼は一年前におきた動物の死骸騒ぎを知らず、僕もまた、死体と聞いて早とちりして  
しまった‥‥」  
 少年は肩をすくめ、鉄橋をわたりきった河川敷を指さした。  
「彼らが目撃した広場はもうひとつありました。塾通いに桜が使うコンクリートの橋ではなく、  
もっと下流‥‥いままさに僕らの足元にある、この鉄橋の下の広場です」  
 少年の指につられて、川面へと目が誘われる。  
 次に気づいたとき、横から少年が彼の顔をのぞきこんでいた。  
 色を欠いた少年の瞳が、細く夜を映して闇に浮かんでいる。それを見つめかえす自分の目が  
どのような色を放っているか、彼自身には知りようもない。だというのに、少年の瞳に浮かぶ  
何がしかの反応は、不安をかきたてた。  
「考えてみればうかつでした。上流のあの広場は目の高さまで雑草が茂っています。土手や橋  
からも見えないのに、対岸で証言が見つかるほうがおかしいのです。しかも、僕らは下流へと  
歩きながら、目撃者を探していたのですから」  
 しかし、言葉をきって沈黙した少年に落胆の色はなく、むしろ自信をにじませている。心の  
ざわつきを顔に出すまいとしつつ、魅せられたように、片桐は少年の顔を見すえていた。  
 そして、こうした僕の推測がすべて正しければですが‥‥。  
 幽鬼のように、少年の口が黒々と開く。  
「ふたたび戻された足首が、いま、この草むらのどこかにあります。捨てたのは‥‥片桐さん、  
あなたですよ。犯人その人です」  
 少年と片桐は、いまでは正面から向きあって対峙していた。  
 通過したばかりの車の騒音が遠ざかり、痛いぐらいの川べりの無音が二人をつつんでいた。  
まるで、決定的なひとことを待ちのぞんでいるかのようだ。  
 
 ふっと苦笑いが片桐の面をかすめた。  
 一時はひやりとしたが、しょせん、少年の追及もここまでだったらしい。優位を感じつつ、  
おもむろに反論をはじめる。  
「ふむ。誤解が解けたのは結構だが、むしろその話では私は容疑者から外れるな」  
「どういう意味ですか?」  
 少年が小さく首をかしげている。  
 論破すべく、片桐はさらに冷ややかな口調を保ちつづける。  
「君はいままで勘違いしたまま聞き込みしていたわけだ。目撃証言は、この鉄橋下の広場のも  
のだ。上流にある殺害現場に私がいた、そこでOLを殺した、そう君が決めつける証拠はどこ  
にもないな」  
「証拠をだす必要などないのです」  
 思いがけぬ確信にみちた声だった。その声に得体の知れぬ暗さを感じて、片桐はたちすくむ。  
 もしや‥‥。  
 自分は、勘違いをしていたのだろうか。  
 はじめ、少年は探偵きどりで犯人をつかまえたがっているのだと思っていた。刑事ドラマや  
推理小説かぶれの正義感にみちていると。だから、丁寧に推理をつぶしてやればあきらめると、  
そう思っていたのだ。  
 だが、その片桐の洞察は正しかったのだろうか。  
 記憶に残った昏い瞳孔を思いかえす。新月の夜のような、少年の、底なしの闇を。  
「片桐さんのような仕事ならともかく、僕は、素人ですから。ただ推測しただけです‥‥もっ  
とも、それなりの根拠はあります。ですから、ここにお呼びしたのです」  
 声は遠ざかりつつあり、気づけば、ゆるやかな土手の斜面を少年が下っていくところだった。  
 ややあって、硬直している片桐に、背中越しの声がかけられる。  
「ついてこないんですか?」  
 
 
 そもそも、なぜ、犯人は足首を放置するのでしょう‥‥。  
 夜露にぬれた草をふみしめ、話をつづけながら、少年が土手を降りていく。  
「はじめに第三者が死体を盗んだのだろうと考えていた理由は単純です。過去の事件を見ても、  
この犯人は死体の露見をおそれていないのです。つかまらない自信があるのか、人に見せつけ  
たいのか」  
 いずれにせよ、この犯罪の猟奇性をきわだたせる、重要な点でしょう‥‥。  
 遠ざかっていく少年の声を追いかけ、憮然として背中を見やるが、むろんそうした表情に少  
年が気づくはずもない。  
 数メートル先の闇へ、みるまにシルエットが溶けていく。  
「しかしです。犯人は本当に、上流の広場に足首を捨てたのでしょうか。土地勘にそう詳しく  
なくても、あの広場に人が寄りつかないことは一目でわかります。草の海に埋もれ、周囲から  
見えず、発見はおそろしく遅れるでしょう。そもそも、死体を切断する必要さえないと言って  
いいぐらいです」  
「ある種のフェチズムかもしれんぞ。世の中には足首を愛でる猟奇犯もいる」  
「それこそ、死体の残りを川に流す理由がないのです。実際、流した死体の方はすぐに河口で  
発見され、殺害が明るみに出てしまっています」  
 とうとうと語りつづける背中を追いかけながら、片桐の手は背広の内ポケットにのびていた。  
OLを殺した日と違い、今夜は星明りもない。  
 河川敷に降りたった少年は一息入れ、あたりを見まわす。  
 気づかれぬよう動きを止めたが、少年からも、片桐の姿はぼんやりした輪郭しか見えてない  
ようだ。片桐が秘めた殺意に気づきもせず、膝下にからみつく草をかきわけて、まっすぐある  
方向へ進みだす。  
「片桐さんが例をあげたように、犯人の心の中はさまざまに推測できます。そうした中から、  
僕は、ひとつの推測に思いいたったのです」  
「‥‥どのようなものだね」  
 足を止めさせようとして問いかけるが、少年は決して休むことなく、膝まで茂った草の海に  
どんどん踏みこんでいく。  
 ‥‥今では、なにかに導かれるような少年の足取りから、片桐も気づいていた。  
 少年の声が風に乗ってとどく。  
 ひどく、決定的に無視しがたいものと共にひびく声は、片桐自身もごまかしようがない。  
 
 
 犯人ははじめ、殺害現場からこの広場へと足を持ってきて、遺棄したのです‥‥。  
 しかし予期せざる理由から、もう一度、足を移動させざるを得なくなったのではないか‥‥。  
 片桐さん‥‥。僕は、そう推測したのですよ‥‥。  
 
 
 現在位置さえ分からない広い夜の川原で、少年の声は、一歩ごとに濃くなっていく腐臭の源  
の方角から聞こえていた。  
「もちろん、予期せざる理由とは、涼一君が桜にしかけた死体のドッキリです。人に見られる  
のはかまわない犯人が、涼一君には本物の死体を見られたくなかった。ということは、犯人は  
涼一君にごく近しい人物だと言えないでしょうか」  
 そもそも、涼一君の計画を知りえた時点で、犯人は彼の身近でなければならないわけです。  
彼がニセモノを設置する前に、死体を隠さなければならなかったのですから‥‥。  
 少年の言葉に、片桐はさほど注意をはらってはいなかった。  
 じわじわと、ただれた匂いが鼻をつきはじめる。  
 もはや川のよどみなどと言って自分の五感をだますことはできない。間違いようのない、草  
の海に沈んだ腐乱する肉が、この匂いを放っているのだ。  
 きつくなる腐臭にあらがうかのように、いま一度、片桐は声をはりあげる。  
「君の推理は、最初から鉄橋の下に死体が捨てられたことを前提にしている。あまりに荒唐無  
稽だ。涼一の悪質ないたずらは単なる偶然にすぎん」  
「いいえ。かなりの確率で、偶然ではない、と言いきれるのですよ」  
 ‥‥やはり、そして怖れていたように、少年の声は当然の疑念に対して揺るぎもしなかった。  
少年は憶測を語っているにすぎない。分かっているにもかかわらず、片桐は、じわじわと追い  
つめられていくのを感じていた。  
 スティレットの柄をきつく握りしめる。  
 殺しに慣れていることと、無用の殺しをすることは別だ。おそらく初めて、片桐は、自ら決  
めたルールを破ることになる‥‥。  
「いいですか。僕がはじめて片桐さんの家に向かったとき、涼一君はマンションの前で青ざめ  
ていました。でも、この反応は変じゃないですか? 自分で作った死体におどろくはずはあり  
ません。にもかかわらず、彼は現実に取り乱し、わざわざ僕にまで電話をかけてきました」  
 このことは一つの事実を示しています‥‥。  
 声が立ち止まり、そして、そこが終着点であることを片桐も思いだした。  
 草むらのなか、一箇所だけ、夜を泳ぐように羽虫が群れている。しゃがみこんだ少年の背後  
からのぞくと、はっきり崩れた足首が見てとれた。  
「証言でも、死体を見つけた日、涼一君は桜と並んで土手にあらわれるまで、一度も川べりに  
は来ていません。かわりに目撃されているのは‥‥片桐さん、あなたです」  
 コンビニの袋を手にして、川を眺めていたそうですね‥‥。  
 答える必要はなかった。  
 
 そっとスティレットを抜き放つ。この暗がりで、刃は光をはじくこともなく、少年にも見と  
がめられずにすんだ。あとは正しい位置に先端をあて、押しこんでやるだけだ。気の進まない  
殺しとはいえ、いったん手順に入れば、あとは慣れたものだった。  
 少年は遺体を調べつつ、なおも滔々と語っている。  
「涼一君は、死体のニセモノを自分で仕掛けていないのです。ほかの誰かが広場に用意したの  
ですよ。だから、あるはずのない死体を見て、彼はあれほど驚いた。そして、そうしたことを  
行えたのは犯人に他ならず、」  
「犯人は、涼一の身近にいて、なおかつ目撃証言もあるこの私、というわけか」  
 ‥‥台詞を引き取るようにして、片桐はしめくくった。  
 湿った羽音だけが耳を打ち、ねっとりした夜気が二人をひしひしと取りかこむ。あの晩の再  
現のようだ‥‥わけもなく、殺したOLの顔を思いだす。  
「君は、実に勘のいい少年のようだ。どうやら私の負けらしい‥‥」  
 観念した口調をよそおい、ぽんと少年の右肩に手をのせる。闇のなか、輪郭を正確に思いえ  
がく。背後から一撃するには、このまま左手で斜め上から刃を押しこむだけだ。  
 次の瞬間、少年は左手をのばし、肩の手を押さえこんだ。  
 ありえない反応にぎょっとしかけ、ようやく飛びのかずに踏みとどまる。  
「片桐さん‥‥あなたは以前、犯人を糾弾するなら、証拠が必要だといわれましたね」  
 地面に手をついてまさぐりながら、少年が言う。  
 どんな顔をしているのか、そんな些細なことがなぜかひどく気になった。しかし顔をのぞき  
こむゆとりはない。スティレットを逆手に握りかえて‥‥。  
「では、今スティレットを手にして僕を殺そうとしていることこそ、あなたが犯人だという証  
拠になりませんか?」  
 少年の声に、じわりと、親密な黒い感情がにじむ。  
 片桐は迷わず刃を滑りこませ‥‥、交錯する銀色のかがやきを見た。  
 
 
 心臓の裏、背中の表面を、灼けるような熱がよぎっていく。  
 地面に這わせていた右手で背後を薙ぎ、全身の力でスティレットをはじく。腰をひねり、致  
命傷こそかわしたが、かなりの長さにわたってざっくり浅く皮膚の表面が裂けたのを感じた。  
そのまま前に身を投げ、死体を飛びこしながら前転して立ちあがる。  
 心臓は狂ったように跳ねていた。  
 この距離になれば斬りあいでスティレットに負けはしないだろう。だが最初の一撃、それを  
かわせるかどうかにすべてがかかっていた。こんな、証拠も乏しい、ただ安いだけの挑発では、  
片桐が乗ってこないおそれもあった。  
 なじんだナイフを胸の前にゆるくかまえ、対峙する。  
 片桐は、どこか呆けたような感情のない精密な瞳で僕を見つめていた。だらりと下げた手に、  
僕の背を裂いたスティレットが握られている。  
「そうか‥‥。では、君はこうなることを予期して、私をここへ誘いこんだんだな」  
 ええ、と謙虚にうなずく。  
「というよりは、片桐さんの本心を聞くためにこうせざるを得なかった、と言った方が正しい  
でしょう」  
 荒い息をととのえ、油断なく見やりながらも、つとめておだやかに答える。  
 片桐がどういった動機で人を殺すのか、そして、なぜ足首だけを残すのか、僕はそれを知り  
たかった。さらに、この事件を調べていくうち、それ以上に知りたくなったこともあったのだ。  
だからこそ、僕は危険をおかそうと決意したのだった。  
 宵闇のなか、死体をはさんで数メートルの距離をにらみあう。  
 片桐の動機やポリシーによっては、このまま有無を言わせず殺し合いになる可能性もある。  
それだけは避けたいが、仮にそうなったら応じるしかない。  
 
「‥‥いいナイフだ。使いこまれている」  
 ずいぶん長い沈黙をかみしめたように思ったころ、片桐はニヤリと、本当に唐突に口の端を  
ゆがめた。  
 瞳の奥が、重力のない井戸のように濁っていく。  
 そのすばらしい変容に、僕は声もなく、ただ目を細めて見入っていた。  
「‥‥それほどナイフを握りなれたご同類と、やりあう気分にはなれないね。聞きたいことが  
あるのなら何でも答えよう‥‥人生の先輩として」  
 そう言ってスティレットの刃の側を握り、彼は僕にひとつの魅力的な提案をさしだした。  
 ためらうことなく提案を受けいれる。  
 あらがえるだけの強固な意思は、僕にはなかった。  
 ‥‥しばらくののち、土手の斜面に腰かけて、片桐が会話を切りだす。  
 ときおり、鉄橋をわたる車のライトが黒々とした夜の川面を照らし、また闇に消えていく。  
人気もない暗夜が沈黙を広げていた。  
「せっかくだから、君にもう少し質問しておこうか」  
 ええ、どうぞと答える。  
「なんの証拠もないまま、なぜ、推測だけでここまで自分を賭けることができたのかね。単に  
私が犯人に思える‥‥それだけでは、こうはできないはずだ」  
「死体を見つけた日、片桐さんの行動にひどく不自然な行動があったからですよ」  
 それこそが、彼に違いないと確信を抱かせる理由だった、  
「実は今日の夕食時、桜がワインを出してきました。家で飲む人がいないからと涼一君のお母  
さんに薦められた、そう言ってです」  
 だが、それではつじつまが通らない話がある。  
 あの日の夕方、あわてて涼一の部屋をあとにした片桐とは、帰りがけにコンクリートの橋の  
たもとで出会っている。そのとき、彼は冷えたビールを飲みたいからとクーラーボックスを肩  
に下げていたのだ。  
「偶然あの場で出会ったタイミングが不自然すぎて、僕はずっと気にかかっていました‥‥」  
 それゆえ、広場が2つあると知り、足首が移動したことに気づいたとき、酒を飲まないはず  
の片桐がビールを買いに出た理由を僕は理解したのだった。  
「あのとき、クーラーボックスのなかに、回収したばかりの足首が入っていたのです。もとの  
広場に戻すため、あなたは遠出して上流の橋まで出かけた‥‥。そうですね?」  
「‥‥語るに落ちるとはこのことか」  
 闇のなかで、片桐は声もなく笑っているようだった。あるいは自嘲しているのかもしれない。  
ひとしきり笑ってから、さて、と片桐はこちらを向き、質問するようにうながす。  
 こうまでして彼に問いただしたかったこと‥‥。  
 僕が唯一わからなかったこと‥‥。  
 それは、危険をおかしてまで遺棄した足首を回収し、ふたたび元の場所に戻した動機だった。  
「それだけが僕には分かりませんでした。まるで‥‥」  
 家族に見せたくないから‥‥筋の通らない理不尽な話だが、そうとしか思えないのだ。  
 僕の質問を耳にして、片桐はうすく微笑んだ。  
「なるほど。そういうことか」  
 視線を遠くに泳がせながらタバコを取りだし、しかし火はつけずに口にくわえる。  
 しばらく考えをまとめていたらしい彼は、しずかに語りだした。  
「君は考えたことがないのかね。自分の親や兄弟が、もしも自分と同じように仮面をかぶった  
殺人鬼だったら、と。あるいはある日、唐突にそういう傾向に目覚めてしまうのではないかと  
‥‥それを恐怖に感じたりはしないかね」  
「恐怖、ですか」  
 予想外の返答に僕は面食らった。片桐の語っていることの意味が理解できなかった。  
 
 桜が僕と同じ魂の持ち主なら‥‥。  
 暗黒の感情に手を伸ばす同じGOTHなら‥‥。  
 そう期待していたのは、つい数時間前のことなのだ。僕にとっては、それは恐怖ではない。  
どうでも良い人間が、僕の側に入り、かけがえのない人間になる。それと同義なのだ。社会の  
ルールや倫理観をおそれず、ありのままの自分をさらけだせる。そうした相手が増えるのは、  
喜ばしいことではないだろうか。  
「そうか。君は仲間を得たんだな。それはうらやましい‥‥あるいは、後戻りのできない‥‥  
ことなのかもしれん」  
 かっては自分も孤立していたと、片桐はそう語った。そしてあるとき、世界と一定の妥協を  
はかったのだという。昏い衝動を最低限に抑え、たがを嵌め、退屈な作業としてルーティン化  
した。その形に自分を馴らし、社会の歯車として磨り減っていくことを選んだという。  
 ‥‥めまいのするような話だった。  
 僕に、あるいは僕らのような人種に、そのようなことが可能だとは到底思えなかったからだ。  
だが、まぎれもなく片桐の顔は安らいでいる。  
「だというのに‥‥。私の犯行直後、涼一がまったく同じ殺人のレプリカをはじめたのだ。そ  
の計画を知ったときの衝撃と恐怖たるや、おそらく、今の君に語ったところで理解してはもら  
えまい」  
 今まで見てきたどんな猟奇犯罪者とも違う、穏やかな愛情まじりの虚無が、2つの黒い渦に  
なって僕を凝視していた。おそらくは僕を通して、片桐は涼一の顔を、子供の顔を目にしてい  
るのだ。  
「私がこの広場に遺棄した理由は、おおむね君の推測どおりだ。しかし、涼一には死体を見せ  
たくなかったし、君を通して知られたくもなかった。それが、涼一にとってどんなきっかけに  
なるかも知れないからね」  
 片桐を見つめ返すうち、ひどく奇妙な感情が僕をかきみだす。  
 ただ、私は思ったのだよ‥‥。  
 つぶやきながら、彼は自分に納得するかのように深くうなずいた。  
「あの影絵のような孤独の世界に、涼一を連れて行きたいとは、私には思えなかったのだよ」  
 僕と片桐の話はそこで終わった。  
 理解はできぬまま、ただ彼の苦悩を知り‥‥。  
 僕は、ゆっくりと首を振り、立ち上がって去っていく片桐の背を目で追いかけた。  
 土手の上で彼が足を止める。  
「そうだな‥‥そこにいる君の彼女が、君を救うか、あるいは奈落につれていくのか、私には  
知るべくもないだろう。とはいえ心配はいらん。自分に課したルールでね、この町では、もう  
誰かを殺すことはない。渡したそれが、約束と謝罪の証だ」  
 暗い影が土手から消え、それでもしばらく見上げていると、背後から足音が近づいてきた。  
闇にきわだつ白さを見せて、やわらかい手が僕の首にまきつく。  
「ねえ‥‥私、気づかれていたわ」  
「そうだね、森野」  
 でも、犯人に会いたかったんだろう?  
 たずねると、コクリとうなずく気配がし、ぎゅっと躯が押しつけられる。無言のアピールは、  
森野が僕と同じように緊張し、そして、別の意味で高揚していたことを意味していた。こうし  
た意味でも、森野と僕は対極のパートナーなのだろう。  
 大丈夫だよと告げるかわり、手を伸ばし、薄く血塗れた刃を宙にかざしてみせた。  
 森野がのぞきこむと、長い髪がさらさらと僕の肩で波打っている。  
 押しあてられた胸の感触に血をわきたたせ、僕は背中越しに語りかけた。  
「本当に‥‥すばらしいナイフだ」  
 
 
 すぐに広場の足首は警察に発見され、足を失った被害者のものだと一致した。  
 川べりには黄色いテープが引かれ、数日はワイドショーが川べりに押しかけ、付近の住宅街  
は騒然としたが、一週間も経つころには静けさを取りもどした。うんざりするほどの真夏日は、  
あいかわらず連日の最高気温を更新している。  
「どういう気の迷いかしら‥‥いきなり、人を呼びだして」  
 朝早く声をかけたにもかかわらず、森野は青ざめた、若干寝不足な表情で、家の前に立って  
いた。黒のワンピースにも何種類のバリエーションがあるらしいということを、最近になって  
僕は知ったばかりだ。  
 答えようとしたとき、庭をまわって桜がやってきた。こちらはすでにお出かけモードだ。  
「兄さん、用意できたよ」  
 とたんに僕の脇で森野が氷づけの化石のように動きを止めた。桜の後ろから、首輪でつなが  
れたうちの犬が鼻面をのぞかせ、利発そうな瞳で見上げたからだ。  
 ひしと僕の胴体を両手で抱えこむ森野の不自然さを無視して、困惑ぎみの桜に語りかける。  
「先に行ってくれるかな。起き抜けの僕は、犬の匂いが苦手なんだ」  
「えー、なにそれ」  
 こんなウソがすらすら出たことにもおどろきだが、不満そうにする桜にはもっとおどろいた。  
どうやら、僕と、森野と、3人で歩くのが桜の希望だったらしい。  
「頼むよ」  
 桜の肩に手を置き、前髪をすくっておでこにキスしてやる。  
 あ、あれ‥‥とうろたえ、目尻が赤くなっていく桜に、おはよう、とあらためて声をかけた。  
家族のあいさつだよと言うと、少しおでこを撫でていたが、それで納得してくれたのか、笑顔  
になり歩きだす。  
 たっぷり20メートルはおいてから、幽霊のような動きで森野が身をはなした。  
 僕は黙ったまま、まだ震える手に指をからめてやり、首をふって行こうかとうながす。  
「‥‥努力なんかしていないわ」  
 何も言っていないにもかかわらず、凍えている人のようなぎこちなさで、しかも抗議の口調  
だったが、それでも森野はぎゅっと手を握りかえしてきた。目のふちに淡く盛りあがった水分  
を見ないようにして歩きだす。  
 ぶらぶらと時間をかけて歩いていくと、片桐父と涼一が、紐につないだジューシーを連れて、  
橋のたもとで待っていた。僕の顔をみて涼一はこわばり、同時に森野もよく吠えるジューシー  
を見て顔をこわばらせている。  
 片桐と僕は一度だけ視線をかわした。  
 特に口にすることはない。彼から貰ったスティレットは、交換で彼にあげたナイフセットの  
空席に、奇妙なほどぴったりおさまっていた。今もスティレットは21本のナイフとともに、本  
棚の奥で眠っているはずだ。  
「前から思っていたのよ‥‥あなたって、日に日に嗜虐的になるわ」  
 あきらめとなげきに満ちた、心情の吐露だった。  
 返事を期待する風ではなかったので森野の独白を無視し、川原にかけおりていく桜と涼一に  
目を戻す。  
 彼らと、それぞれのペットが土手の下の川原で走りまわり、その横で片桐が穏やかにそれを  
眺めている。おそらくこれが片桐の望んだものなのだろうと思いつつ、息子に声をかける片桐  
の横に立ち、元気に跳ねまわる桜をじっと見つめる。  
 結局、桜がGOTHなのかどうかは分からずじまいだった。ただ、今回は桜の才能は不発に  
終わっている。ということは、近いうち、また桜は死体を見つけることになるのだろう。そう  
思えば楽しみが先に伸びたのだとも言える。  
 唐突に腕をつねられ、おどろいて横を向くと、真正面に森野の冷たい瞳があった。  
「額にキスしたり、妹さんとずいぶん仲がいいのね」  
 妬いてる? と質問してみたい衝動がこみあげたが、ときに森野がひどく行動派になること  
を思いだし‥‥とくに今は気を高ぶらせているようだ‥‥挑発はひかえた。  
 森野と桜は違うタイプだ。  
 この2人を比較することなど、まるで無意味だった。  
 森野がGOTHでなくなったらという想像は到底容認しがたいものだが、桜がGOTHでは  
ないとしても、僕の心は不思議と落胆をおぼえることはない。  
 兄さん、と桜が川原から叫び、楽しそうに大きく手を振ってみせる。  
 空いた手を振りかえし、森野と2人、手をつないだまま、並んで土手に腰を下ろした。  
 
                              (了)  
 

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