昏い川面をざわつかせそうな微風が頬をくすぐり、蝉の声が夜の静寂に沁みていく。  
 居酒屋を何軒はしごしたのか、気づけばハルカは部長と2人、河川敷のようにちくちく草が  
足をくすぐる斜面に腰かけていた。ひんやりした地べたが心地いい。  
 パンプスは履いたままが良いよと言われ、脱ぎかけていたことに気づく。えーと膨れるもの  
の、細い足に映えるヒールが素敵だと言われれば悪い気はしない。川の淀みにも似たかすかな  
腐臭から顔をそむけ、腰を抱き寄せられて広い肩にしなだれかかる。  
「だーかーらぁ、部長は新人OLに甘すぎなんですっ」  
 酒くさい息で断言したハルカは、進んでいない缶ビールに自分のをかちんとぶつけてぬるい  
中身を流しこんだ。今年入社した後輩OLのつきあいの悪さをあげて彼女らへの愚痴をこぼし  
つつ、自分の献身もひけらかす。  
「社会人は人同士の縁が大事だってのに、あの子たち分かってないんです」  
「たしかに、人をつなぐのは偶然と出会い‥‥つまりは縁だ」  
 年相応の重みのある声は彼女の好むものだった。妻帯者だというのも、経験則上、彼女には  
プラスの評価だ。  
「意外なところで縁が生まれ、思いがけぬ関係が巡りめぐって人生を一変させる。これからも  
君がいてくれると嬉しい‥‥今日は悪いことをしたね」  
「まったくです。分かったら、会社でも少しは私のことを‥‥」  
「いや、そういう意味じゃない」  
 どこか苦笑まじりにさえぎった男性は、ふと、奇妙なことを口にした。  
「その部長さん‥‥名前は知らないが、彼から君という縁を断ち切ることになるんだから‥‥」  
 いつのまにか蝉の声がやんでいる。  
 彼の手はごく自然なことのように伸び、彼女の左胸のあたりをまさぐっていた。言っている  
ことが理解できず、酔眼をこらし、今まで部長だと思ってた男性の顔をのぞく。  
「あれ? あなたー、んーと‥‥誰?」  
 
 
 人殺しだよ‥‥。  
 
 
 親密な囁きを耳にすると同時に、ずずっと衝撃に胸を貫かれ、か、はっ、と声をこぼす。  
 胸乳の下に滑りこんだ冷たい刃が、搏動する心臓の表面を刃で抉りぬく。  
 きっかり1秒で、OLの息は止まった。  
 
 
「人同士の縁、たしかにそれは重要だろうね。君が僕に選ばれたことも、ある種の必然だ」  
 だから、君についてきてもらうことにしたんだよ‥‥。  
 つぶやく片桐には衝動犯の熱っぽさも計画犯の狡猾さもない。OLの命を奪ったのはスティ  
レットという刺突に特化した短剣で、サスペンス映画の小道具などに用いられる。肋骨の下端  
から正確に胸板を通すことで、ほとんど血を流さず苦痛もあたえず一瞬で心臓を止めることが  
できた。  
 儀式は儀式であり、そこに必要以上のスペクタクルを求めることはない。  
 
 すまないね‥‥。  
 君と私との縁は今日から始まるんだよ‥‥。  
 ほっそりした腰を支え、ずるりとスティレットを引き抜いていく感触は流れだす命の重さを  
片桐に深く意識させる。いつものように、驚愕を浮かべてショック死したOLの顔をまぶたに  
焼きつけ、忘れまいと誓った。  
 暖かな亡骸のぬくもりが、逝きまどうOLの困惑をあらわしている。  
 みずからが死んだことさえ実感できず、行き場を失った魂は片桐の背中にしがみつく。成仏  
できない死者の怨嗟が、そのどろりとした血と魂の結びつきが、片桐の心を癒し、おだやかに  
させた。  
 片桐にとって、殺人は喜びでも衝動でもない。  
 日常の一環であり、転勤のたびに行う地鎮祭のようなものだ。  
 仕事の都合上、片桐は3〜5年ごとに新たな街へ越していく。見知らぬ土地でのストレスや  
重圧はくりかえし彼を苦しめた。  
 職業柄、一般的な人との交わりが希薄なのだ。  
 徹夜のあと熟睡するように、マラソンのあと深呼吸するように、転勤のあと女性を殺すこと  
で、片桐は新たな地での確固たるつながりを得ることができ、とどこおりなく日々を過ごせる  
のだった。  
 ごうごうと流れる音に耳を傾け、煙草をとりだす。  
 宵闇に小さな火が灯り かたわらに遺体を抱えた片桐はうまそうに煙をはきだした。  
 どれだけ大胆にふるまおうと、片桐が捕まることはない。  
 人殺しとは到底思えない、温和な笑みや印象に残りにくい風貌もある。だがそれ以上に、殺  
人をおかすあいだの片桐は透明になり、人々をすりぬけることができるのだ。  
 今回もそうだった。  
 たまたま見初めた犠牲者との接点は、路ばたで会話をかわしたというそれだけだ。  
 ぐったりした彼女を運ぶ途中で会釈をかわした隣人の女性も、彼が小わきに抱えるOLには  
気づきもしなかった。犠牲者の体温を腕に感じつつ、まわりには片桐しか見えていない。見え  
ない力が働くのだ、そう彼は信じている。  
 名前が一文字であり、黒髪の女性で、片桐との面識がないこと。  
 みずからに課したこの条件を守るかぎり、不思議と、殺人犯の正体が悟られることはない。  
 今宵殺されるのが、OLの必然だったのだ。  
 さらさらと草がそよぎ、ゆるやかに流れゆく水音がここまで届いている。  
 真夜中の草の海に悠然と腰を下ろし、闇のなか火をつけた。音をたてて燃えていく何本目か  
の煙草に目をやり、昏い川に視線を移す。  
 ぬるい風にあおられた川べりに人気はない。あたりには街灯もなく、人に見られるおそれは  
ないだろう。もっとも、仮に片桐の姿が目撃されたところで、かたわらの死体に気づかれるこ  
とは絶対にないのだが。  
 先に、なすべきことを片づけることに決める。  
 現世にくさびを打ちこんで死体から犠牲者の魂を切りはなし、片桐の手元につなぎとめる。  
彼にとっては毎度ながらの慣れた手順だ。  
 無造作に腕をふるい、片桐は、OLの足首に刃を食いこませた。  
 
 
 勉強机のすみで携帯が鳴りだしたとき、僕はベッドのふちに腰かけて一本のナイフを真夏の  
陽射しにかざし、ためつすがつ検分しているところだった。無機質な刃のきらめきは僕の目を  
くらませ、なにごとか雄弁に話しかけてくるように思われる。  
 いつもではないのだが、ときおり、本棚の奥に隠したこのナイフセットから呼ばれるような  
感覚をおぼえることがあった。  
 特に‥‥たとえば、今日のような暑い日などはそうだ。  
 取りだしたナイフに丹念に眺め、指を這わせていくと、ひんやり濡れた輝きを放つ刃が恋人  
のように心を慰め、背中を押すのを感じる。しっとり手におさまったときの感触はまるで彼女  
だ。  
 以前はもてあましたその輝きも、今の僕にとっては親密なものだった。  
 22本のナイフは、柄の形、刀身の反り、長さ、あるいは小さな瑕など一本一本微妙に異なる  
フォルムをもち、人の苦痛や恐怖がなんであるかを優しく語りかけてくれる。  
 はっきりしているのは、これらすべてが鑑賞用ではなく実用本位であり、とある猟奇殺人の  
凶器となったシロモノだということだった。  
 むろん、外向きの顔とはうらはらに良識ある市民とは言いがたい僕は、ナイフセットを警察  
に提出するつもりなどなく、結果として去年から捜査がとどこおっていることにも、なに一つ  
良心の呵責をおぼえない。  
 日常生活を円滑にこなすため、僕はクラスメイトや家族とも陽気に接し、冗談の好きな男子  
生徒だと思われている。けれど本来の僕は他人とのかかわりになんの興味を持てず、殺人や人  
の死という暗い沈黙に惹かれるタイプだった。  
 誰だって、心の中に闇のひとつやふたつ、抱えているものだ。  
 殺人現場を訪ね歩き、痕跡をたどり、ときには死体そのものを発見する。それは僕にとって、  
心穏やかなひとときの慰藉なのだ。  
 ナイフを並べるラックには空席もある。運命に呼ばれ、あるいは偶然から、渇いたナイフは  
人の手にわたり、本来の用途に使われたこともある。  
 携帯に電話がかかってきたのは、休憩しつつ、そうした思索にふけっているときだった。  
 ディスプレイの表示から妹の桜だと知り、ナイフを置いて携帯をとる。  
「あの‥‥**さんですか?」  
 だが、意外にも、流れだしたのは低い少年の声だった。どこか緊張ぎみにお兄さんですよね、  
と問われたので肯定すると、早口になった少年がいつもお世話になってますとか、桜さんとは  
親しくさせていただいて、などと語りだす。  
 どうやら塾帰りの途中、桜は気分を悪くして倒れ、少年の家で休んでいるらしい。  
 こうした焦りまじりの言葉がどういうタイミングで使われるか、それが電話の相手方と僕の  
関係性をどう位置づけるか、そのあたりは漫画やドラマの知識として知っている。考えてみれ  
ば桜も高1だ。年頃だということなのだろう。  
 したがって、ああ、とか、うん、などと無感動に会話を流していた僕の注意をとらえたのは  
少年の釈明ではなく、つづけて飛びだしたいくつかの混乱した説明だった。  
 俄然興味を引かれ、今からそっちへ向かうと告げる。  
 電話を切り、外出の支度をはじめつつカレンダーを前に思いをめぐらす。窓から見下ろすと、  
庭先で犬がおとなしくこちらを見上げていた。犬を飼うことになったあの時からちょうど一年  
なのだと思いだす。  
 つまり、前回からきっかり一年ということだ。  
 忘れかけていた桜の才能が(桜自身は呪いだと言い張っているが)またしても花開いたこと  
に小さな感動をおぼえる。  
 ‥‥桜は、しばしば、死体を発見してしまうのだ。  
 
「ねえ‥‥」  
 不意に、つやめいた声音が陶酔をにじませ、印象深い去年の夏の記憶から僕を引きもどした。  
 ナイフを手元に引きよせ、ベッドの端に座りなおす。  
「一緒に来るかい、森野?」  
 あられもない姿のまま、拘束されたクラスメイトの森野夜がベッドに横たえられていた。  
 刃先でくいとあごを上げさせ、熱をはらんだ漆黒の瞳をのぞく。  
 首肯も拒絶もせず、なにか小さく口の中でつぶやいた森野夜は顔を伏せ、不自由な躯をよじ  
らせた。光沢を溜めた黒髪がシーツの上で長々とうねり、しらじら冴える肌とのコントラスト  
は死斑さながらだ。  
 拗ねているようでもあり、楽しんでいるようでもあり、醒めているようでもある。  
 表情にとぼしい森野の横顔からは、内心はうかがいしれない。ただ、宝石のような孤独感と  
気の強さが、僕のような種類の人間をひきつけてやまないのだ。  
 怜悧で物憂げな瞳がわずかに動き、やがて、ちろりと探るような流し目をよこす。  
「‥‥。このままでいいわ」  
「分かった」  
 それが、彼女にとってのおねだりだった。瞳が重なり、いくぶんか体感温度があがっていく。  
 どちらともなくスプリングをぎしりと軋ませ、肌と肌とを近づけあう。  
「出かける前に、もう一度嬲ってあげるよ」  
 返事はない。  
 僕も、森野自身も、ふたしかな言葉のやりとりなど期待してはいなかった。  
 沈黙のまま、はだけられた森野の胸に五本の指を這わせていく。寒いほど冷房が効いている  
にもかかわらずじっとり汗ばむ弾力ある丘をにぎりこむ。ぎゅっと目を閉じ、さらけだされた  
喉をひくつかせて森野が身じろいだ。  
 バンザイの姿勢で伸ばした両手首は金属の手錠に噛まれ、森野はあおむけにつながれている。  
手錠の鎖はベッドの桟をくぐり脱出をはばんでいた。裏返した手首の下には、悩ましいリスト  
カット痕が残っている。白磁のように薄れつつあるその痕を指で淡くなぞっていくと、森野の  
喉が上下する。喘ぎをこらえてあごを反らし、無防備にのけぞる。  
 この愛撫が、いつのまにか定められた暗黙の合図であり、ペッティングの導入部だった。  
 ぬば玉のような漆黒の瞳にも、抑圧された願望がにじみだす。  
 丸みをおびた肩もあらわな暗色系のノースリーブはずりあげられ、ぴっちり体の輪郭を浮き  
たたせるシームレスのブラも引きおろされて、おわん型のカップから剥きだされた無垢な双の  
乳房は、あてがった手のひらにおさまる程よいサイズの盛りあがりとなって悩ましく僕を駆り  
たてていく。  
 きめ細かな肌は死人めいて温度が低く、それでも、汗ばみ吸いつく指と指のはざまからたわ  
んで零れだす小さな乳輪は、隠しきれない快感の徴もあらわにツンと血色を集め、固く尖って  
いた。  
 指の腹で転がし、掌底でぐりぐりと円を描く。  
 そのたびにン、ンッ、と声を殺しきれない甘色のきざしが波のように僕を押し流す。  
 こうされることを望むとき、森野夜は決して声を出さなかった。少なくとも、本人は出して  
いないつもりで頑張っている。ときに自失するとしても、そのスタンスは変わらない。  
 瞳を閉じ、僕に身をゆだね、なされるがままに愛撫を受けいれる。  
 彼女は、死体なのだ。  
 死体はものをいわない。死体は逆らわない。死体は‥‥拒絶、できない。  
 ナイフの広い腹を、慎重に乳首の先に押しあてる。冷たい金属の感触に森野の腰はびくんと  
跳ね、下半身にわりこんだ膝が痙攣する太ももにぶつかった。組み敷かれたまま抵抗はせず、  
けれど、森野の躯はいじらしいほどに責められて感じている。  
 冷たい死の気配に反応してしまうのだ。  
 乳首の先がみるみる固さをまし、ツンといやらしく充血していくさまを僕は感動的な思いで  
眺めていた。数センチ先の死をささげる刃が、森野にはこれ以上ない刺激をもたらすのだろう。  
舌でちゅるっと先っぽを濡らしてやると、またも淡い悲鳴が耳朶を愉しませる。  
 こらえきれず、ナイフを彼女の頬にあてがう。  
 
 薄く閉ざされていたまつげが思わずひくりと震えるのを視野にとらえた。これは僕と森野、  
どちらにとっても危うい行為だ。  
 ナイフでもてあそぶという愛撫は、もとは、ほんの気まぐれからはじまった。  
 けれど、ときおり僕の家に遊びに来るようになってからの森野は、このすれすれのプレイを  
いたく好んだらしく、積極的にのぞんでくるのだ。  
 嬲られる、という実感が、女としての魂の核を震わせるのだろうか。  
 あまった手で乳房から腰のくびれ、さらに下腹部へと肌をなぞっていく。森野は裸身をひく  
つかせ、シンプルな黒い下着の奥に息づく女の源泉まで僕の進入をたやすく許してしまう。男  
性器はおろか指先でさえ破ったことのない深遠な処女地が、ひくつく帳を濡らして触られるの  
を待ちわびている。  
 下肢は性の情欲におののき、上体は生への渇望でわななく。  
 アンビバレンツな緊張を強いられて、森野の体表面はみるみる悩ましい火照りにおおわれて  
いく。どこもかしこもふるふるよじれ、柔肌をじんわりさすってやるだけで際限なくよがり声  
を引きだすことができる。  
 僕自身、趣味以外でこんなにも熱中できることがあるという事実をいまだ頭で受け入れられ  
ずにいた。森野を求めて下腹部がこわばり、反対に心はひどく冷えきっていく。一手先の死を  
求めて躯が疼き、みだらに裸身が咲きほこる。  
 だからこそ、彼女をイかせるために、瀬戸際でのギリギリの集中力が求められた。  
 破滅のふちで愉悦に溺れるために‥‥。  
 掌のなかでくるんとナイフを反転させ、むきだしの刃を肌に沿わす。  
 手首をつうと滑らせ、頬からあごへ落として喉もとを刃先でくすぐり、すぐさま引き戻す。  
「や、んぁ、ダメ‥‥‥‥ン、ぁンっ」  
 聞いている僕の耳たぶが熱をおびるくらいにあられもなく、恥ずかしいぐらいの溶けた嬌声  
がまきちらされ、痛いぐらい興奮しきっている僕の手を吐息で汚した。呼気の暖かさが肌から  
沁みこみ、下腹部をなぶる手をいっそう激しくさせる。  
 とほうもなく欲情しながら、けれど、必死になってそれ以上の衝動を殺す。  
 内心ではたっぷり余裕をとっているとはいえ、本来試すことさえ憚られるような禁忌を踏み  
こえてペッテイングを施していくことはリスクをともなう。お互い、もどかしさと自制心の板  
ばさみになり、ジレンマはさらなる危うさを欲望に転化してしまうのだ。  
 たとえば‥‥。  
 頬をなぶっていたナイフの刃先が、瞬間的に、ぎり、と停止していた。  
 遅れて、じわりと冷汗がにじみだす。  
 ほっそりした喉元に目を奪われかけた刹那、森野が唇を濡らしてナイフを咥えこんだのだ。  
危なかった。気づくのがあと一秒遅ければ、僕はナイフごと手を動かしていただろう。  
「‥‥ン、ふふ」  
 被虐的な光を目にたたえ、森野は僕を挑発していた。  
 何かをこらえるようにナイフの刃先へと自分から舌をからませ、愉悦まじりにぴちゃぴちゃ  
しゃぶっていく。森野とて、このナイフの鋭さを知らないわけではない。すっとナイフを引き  
抜くだけで、彼女の舌は根元から切れて落ちるだろう。  
 わかっていればこそ、森野は頬を上気させながらなおも熱心な口唇奉仕におぼれていくのだ。  
反対に、僕は腕に力をこめて宙に固定する。一ミリも動かせない。  
 膝下までスカートを引き下ろされ、下着の中に指の進入を許して熱い蜜汁で僕の手をむかえ  
いれながら、ヒダをいじる僕の手を引きこもうとキュウキュウ蠢きながら、おかえしとばかり  
にナイフを舐めすすいでいく。  
 卑猥な汁音が跳ね、体液にまみれた刃先がじくりと疼きだす。  
 もう堪えつづけるのは限界だった。  
 渇きにも似た切実な情動にかられて僕は屈みこみ、ナイフを持つ手をしっかり固めたまま、  
そりかえった細いあごからのどへの曲線に口づけた。  
「ヒァ、ヒゥ、ンァ‥‥ッッ!」  
 
 悲鳴を漏らし、森野が小さな唇からナイフをはきだす。  
 死を誘う小道具をようやく手放した僕は、森野の唇を指でまさぐり、のどから鎖骨のくぼみ  
にいたるまでキスの雨をふらせ、涎をためた舌を這わせていった。  
 異様な刺激に森野がひくひくと身悶え、気持ちよさそうに半裸の躯をのたうたせる。  
 もちろん、空いた手も彼女のぬくもりを弄り、繊細にまさぐっていく。  
「アッ‥‥ぁ、い‥‥‥‥クッ‥‥!」  
 二度、三度、腰がクチュッと汁音をこぼして弾み、小さく、けれど鋭い喘ぎをもらした森野  
の瞳は、視線をしっかり僕にからめとられて、切なそうにゆがんでいた。  
 羞じらうしぐさは僕にしか見せたことのない表情だ。  
 悔しそうな瞳孔がきゅうっと細まり、一部始終を観察される悦びに打ち震えている。  
 ‥‥今ので、イッたらしい。  
 イク瞬間を見られて恥ずかしかったのだろう、朱をちらしたように頬に血色がさしていた。  
神経をすりへらした僕もまた、荒い息を吐いて隣に横たわる。一度きり、おとがいをつまんで  
やわらかく唇を重ね合わせ、舌をからめた。  
 痙攣のおさまらない利き手を何度もさすって緊張をときほぐす。  
 服を剥かれ、放心して寝そべる森野夜は、凌辱され空ろになった亡骸を思わせた。  
 しばらく沈黙を楽しみ、森野がきちんと満足できたかたしかめる。汚れた下着をはきかえた  
僕は、今度こそ桜を迎えに行くためベッドから立ちあがった。  
「出かけるのね‥‥」  
「ああ。森野は、好きなだけいてくれていいよ」  
 矛盾を認識しつつ、いつ帰ってもいいからと言わんばかりに僕は語りかける。  
 今の森野にとって僕の言葉は絶対であり、命令だ。  
 強制的に手錠で戒められているのだから、囚われの森野夜に抜けだす機会はない。  
 彼女お気に入りの首輪をはめてやり、あごの真下のリングに手錠の鍵を吊るすと、もう森野  
は自力では何もできなくなる。このようなひどい扱いをされることに、森野はやるせない悦び  
を見いだすようなのだ。  
 こうしたとき、部屋の鍵は外から施錠するのがつねだった。  
 いつものように準備をすませ、冷房の温度を下げて本当にいいんだねと念押しする。森野は  
ええ、と唇の揺らぎだけで応じた。普通ならば笑みに相当する表情の変化だ。  
「だって、犯人が死体をどう扱おうが自由じゃない?」  
 僕は答えない。  
 そもそも、彼女の台詞は僕に向けられたものではなかった。  
「死体には自我なんてないわ。好きなように、残酷にもてあそばれるだけ‥‥それが望みなの」  
 違うかしら‥‥。  
 宙に消えていく問いかけに背を向け、閉ざした扉に鍵をかける。  
 静かな機械音とともに戸口のすきまから墓穴めいた冷気が押しだされ、思わせぶりな森野の  
睦言と一緒くたになって、階段を下りる背にぞわぞわとまとわりついてきた。  
 
 
 
 
 おとろえぬ午後の灼光にまいりつつ、自転車で少年の家に向かう。  
 道すがら、妹の運命について想像をめぐらす。  
 好むと好まざるとに関係なく、桜は子供のころから数年おきに死体を発見し、そのたび一週  
間は熱でうなされてしまう。桜自身はこの才能を忌み嫌っていたが、発見の間隔は短くなって  
おり、僕はずっと次を楽しみにしていた。  
 残念なことに、これまでは旅行や学校行事で死体を発見することが多く、僕自身は目撃する  
機会にめぐまれなかった。だが、今回は違う。  
 電話をくれた少年‥‥涼一の話をまとめると、こういうことだった。  
 桜よりひとつ年下の涼一は塾の友人だという。つい数時間前、犬の散歩をしていた涼一は塾  
帰りの桜に会った。たあいもない雑談のあと、桜は犬の散歩につきあうことになり、2人は川  
沿いの土手を下流へ歩くことに決めたらしい。  
 巨大な鉄橋のたもとまで来たとき、草むらに転がった何かが涼一の目をひいた。  
 
 この炎天下、橋の下にある河川敷は草が伸び放題で人気もない。  
 なんだろうと手をゆるめたとき、リードを振りきって犬が草むらへ飛びこんだ。  
 まっさきにあとを追った桜が自転車にのったまま斜面を駆け下り、犬の飛びこんだ草むらに  
飛びこんでいく。やがて短い叫びがあがり、ゆっくり自転車が倒れていき、ようやく追いつい  
た涼一は犬がじゃれつく赤いものの正体を見た‥‥。  
 
 
 うだる熱波のなか、まぎれもない腐臭を鼻が嗅ぎつける。  
 最初は、例の穴から匂ってくる残滓かと思ったが、そうではないことが分かってきた。  
 土手に駐輪しておいて、橋の袂からコンクリートの階段を下りていく。  
 一面の草の海は太陽に照り映え、草いきれがたちこめていた。目の高さまである尖った草を  
かきわけて進み、ぽっかり開けた円形の広場へ出て行く。  
 露出した土の上に、女性用の、一足の赤いハイヒールが並んでいた。玄関口のように丁寧に  
つま先をそろえ、鋭いヒールの先は土に食いこんでいる。  
 照りつける陽射しの直下であぶられながら、言葉もなく無心に僕は魅入っていた。やがてデ  
ジカメをとりだし、慎重に、角度を変えて何枚も写真をとる。森野夜に見せたくもあったし、  
パソコンに取りこんでじっくり見返すためでもある。  
 ‥‥うつろなはずの靴には、こぼれんばかりの中身が詰まっていた。  
 まだらになりつつある表面と、熟れた内側と、洗いざらしの白が、くっきり目にやきつく。  
腐敗は目に見えて進行をはじめており、真新しい匂いに誘われたのか、小さな蠅が周囲を飛び  
かいだしていた。  
 くるぶしの上あたりで断ち切られた細い足首はふちがギザギザに崩れていて、その足の先に  
ついていただろう被害者の輪郭をイメージさせる。いずれにせよ犯行はあざやかだったらしい。  
争った形跡はなく、ただ、転々とむきだしの土に血が跳ね返っているだけで、その痕跡もごく  
わずかだ。  
 どのような女性だったのか、何を思って殺害されたのか‥‥。  
 足首に直接触れることはさけた。警察に発見されたときのこともあるし、コンクリートの橋  
げたが陰となって腐敗を遅らせているとはいえ、この陽気でそれなりに状態は悪化しており、  
指で突くだけでも崩れそうだったからだ。  
 顔を上げ、汗をぬぐって草の壁を見る。僕と桜にとって、ここはなじみのある場所だった。  
ちょうど一年前、この広場のすみにある深い穴に動物の死骸がたまり、ちょっとしたトラブル  
になったのだ。  
 当時、僕は何度か訪れたし、役所に手配されてそれらの残骸が清掃されるのも目の当たりに  
していた。それら動物の死骸が一掃された後も腐臭だけはしつこく残り、近隣の住人がここを  
訪れることはない。  
 あるいは、そうした事情を知って犯人は死体の一部を遺棄したのだろうか。  
 だとすれば、身近に犯人がひそんでいることになる。  
 頭上の橋から響く騒音をのぞけば、雑草に埋もれた広場は無人の死角だった。  
 乏しい血の跡をたどって川べりまで草むらを突き進み、たゆたう水量を眺める。この地点で  
死体の残りを流した可能性は高い。昼はともかく夜ならば、誰も近寄らないこの場所は人殺し  
には格好のロケーションだ。  
 さらに範囲を広げてあたりを調べるが、他に遺留品などはみあたらない。  
 先に殺害現場に寄ったのは、この橋の袂が家からの通りすがりだったことと、桜をつれての  
帰りに訪れるわけにいかないという理由からだ。  
 妹である桜も、死体や殺人現場を好む僕の昏い嗜好については知らない。  
 桜にとっての僕は、勉強こそ苦手だが陽気で親身な兄であるらしい。母や桜のもちだす話に  
興味をひかれることは皆無だったが、2人は頻繁に話しかけてきたし、長年の習性で無意識に  
口が動き、僕もその会話に参加しているらしかった。  
 不思議とそれで齟齬は生じない。  
 僕自身はなにも覚えていないのだが、母も桜も、ときには父さえも愉快そうに笑うのだ‥‥  
どうやら、僕自身が持ち出したらしい話題で。  
 だから涼一から「川べりの広場で死体の足首を見つけた」と聞かされた僕は、ひとりきりで  
検分に行く必要があった。  
 汗だくの体をのろのろと動かして階段を引き返し、涼一という少年の家に向かう。  
 

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