僕の前で、彼女は無防備な姿を晒している。
僕はその日、何を思ったのか降車駅を乗り過ごした。明確な理由があるわけでなく、天啓にも似た直感があるわけでもない。ただ、目的の駅で降りなかっただけだ。
平日の朝、通勤ラッシュの過ぎれば、下り列車に乗る客もほとんどいなくなる。僕は疎らになった車両を何気なしに見回していると、彼女を見つけた。
森野夜。
僕のクラスメイト。そして、僕と同じ死に惹きつけられた人間。
偶然にも僕たちは同じ車両に乗り合わせていたようだ。しかし、故意に乗り過ごした僕と違い、彼女は瞼を閉じ、電車の揺れに身を任せている。
森野は度々不眠症に悩まされていることは、前に聞いたことがあった。しかし、こうも人前で無防備な姿を晒しているのを見たのは初めてだ。
昨日も眠れなかったのかと思ったが、少し前に僕が見つけてきたアレのおかげで不眠症は解消されたはずだ。単に昨日の夜が遅かったのか……。
そんなことを考えていると、森野は僅かに寝息を漏らし、寝返りを打った。
森野の長い髪が顔に被さり、首が少しだけ横に傾く。制服が少しだけずれ、彼女の病的なまでに白い肌が露になった。
何度見ても、森野は異質な存在だ。背景が出来の悪いモザイク画なのに対し、森野は精巧な浮き彫りのようだ。存在自体が、他とは違う。
ふと、思いつく。
森野の首筋に、ナイフを突き刺せばどうなるか、想像する。
僕の脳裏に、真紅の血で真っ赤に染まった彼女の肢体がイメージされる。
僅かに、脈が速くなる。
車内に客は疎らだ。一番近い乗客は、向こう側の優先席に座っており、スポーツ誌に目を落としている。反対側の車両も、似たり寄ったりだ。
今なら、誰も見ていない。
衝動が湧き上がる。
気がつくと、僕は森野の目の前にいた。
唇がカサカサに乾いている。喉が渇きを訴えているが、痺れた脳はそれを無視する。
僕の手はゆっくりと、森野の白い首に近づき………。
「………なに?」
数分後、森野は目を覚ました。
危なかった。後少し自制するのが遅ければ、僕は森野を殺していた。
彼女を殺すのは、まだ先だ。
いつかの教室での出来事。夕日に照らされた森野の顔が思い浮かぶ。
森野夕。自分をころしてしまった少女。
僕が殺すのは、夜じゃない………夕だ。
「ねえ、ここはどこ?」
自分が寝過ごしたことを、彼女は遅ればせながら気づいたようだ。僕はたまたま記憶していた路線図から、現在地を教えてやる。
「………良いの、学校は?」
「……そうだね、遅刻なんて初めてだ」
程なくして、列車が駅に到着した。周りは田園風景で、日頃暮らしている街からかなり離れてしまったことがわかる。
「行きましょう」
森野は優雅に立ち上がると、ごく自然に僕の手を取ると、搭乗口に向かった。
(了)