ぱん、と乾いた音がした。彼女の右手がこちらの左頬を打つ音だ。  
 一拍遅れて感じられるのは、痺れるような、  
「……痛」  
 彼女に振り払われたこちらの左手が自然と頬を押さえる。  
 しかし指の感覚はなく、得られたのは指の形に合わせて増加する頬の痛みだった。  
 そして眼下には、私の手足によって畳に組み敷かれた彼女の裸体がある。  
 両端を濡らしてこちらを睨む、その両目も。  
「トーリ、くん」  
 予想外だった。  
 彼女は私の事を、いつも受け入れてくれると思っていたのに。  
「馬鹿にすんなぁ――!!」  
 泣きながら叫ぶ彼女も可愛い、そう思うのは惚れた弱みだろうか。  
 だがしかし、涙は頂けない。  
 彼女を悲しませては、いけないのだから。  
「そ、そりゃっ、あたしは馬鹿だけどっ! でもっ、馬鹿に、馬鹿にっ、馬鹿にすん……っ」  
 だから塞いだ。  
 振り回される彼女の右手を捕らえ直し、四肢を相殺した上で、残された唇でもって彼女の唇を相克する。  
「んぅ……っ」  
 歯は閉じられた、などという生易しい反抗ではなかった。締め切るどころか、逆にこちらの舌に噛み付こうと彼女は顎を動かす。  
 しかし彼女の弱みはすでに九分九厘把握している。  
 力んでいた為だろうか、持ち上げられていた彼女の舌の裏側を撫でてやると、彼女は一瞬で脱力する。  
「ん」  
 それから歯茎をまさぐり、下を絡ませてやれば、怒りに絞らせていた目つきを緩ませる事が出来る。  
 口内を撫で付ける事しばし、互いの唇に唾液の橋を引かせながら口付けを終えて、  
「う」  
 彼女は喉を引き攣らせる。  
「うあぁ――――――――――――んっ!!」  
 彼女は豪快に泣き出した。  
 どうしたものか、と私は思う。死なない以上、悲しんで泣いている訳ではないようだから当面の問題は解決したが、しかし、  
……好きな子には泣いて欲しくないなぁ……  
 そう思わずにはいられない。  
 だから、訊いた。  
 
「どうして泣くの? トーリ君」  
「お前がムカつくからだ、ばかぁっ!!」  
 今度はこちらの鼻を図突いてきた。鼻腔に僅かな鉄の匂いが漂う。  
「……っ、ず、頭突きは反則だよ!?」  
「うっせー! お前は私にズルしてばっかだろーが!」  
「な……?」  
 眼を丸くした私を、しかし彼女は相変わらず睨む。  
「あ、あっちこっちで子作りしやがって! あたしが副王で留守番してるからって、現地妻つくってんじゃねーよ!」  
「い、いや、連れ込んでるから現地という訳では……」  
「んな事聞いてねー!」  
 私の手足の下で、彼女は自身の手足をわたわたと動かそうとする。  
 それで動かせないのが悔しいのか、彼女は流れる涙の水量を増やして、  
「――あたしが好きなんじゃねーのかよ!」  
 泣いた。  
「あたしが好きって言った癖にっ! わたしの事傷付けた癖にっ!! 何で、何で他の女に手ー出すんだよ!? ――あたしは、お前の事好きなのに!」  
 泣いている。  
「そんであたしを抱く時は他の女が孕んでるときか!? あたしは他の女に出せねー時のティッシュか!? 馬鹿にすんなよっ!」  
 ずっと、泣いているんだ。  
「そ、それ、それが嫌なのに……っ、悲しいのにっ! キスされたら、それが吹っ飛んで! あ、あたし、そんなんで感情変える女でいたくないのにっ、お前にキスされたら、そうなって……っ!!」  
 何時の間にか、手足の暴れは無くなっていた。  
「やだよぉ……っ、こんなの、やだぁ……っ。 こ、こんなイヤらしいのじゃ……」  
 一息。  
「――お前に、トモにっ、嫌われる……っ!」  
「そんな事はありませんよ」  
 私は即答して、彼女は、え、と濡れた瞳で見返す。  
 それすらも可愛いな、と思って、  
「私はトーリ君のこと、嫌いませんから」  
「な、何で?」  
 こちらの言葉を信じたい、そんな口調で問うてくる。  
「あたし、こ、こんなイヤらしい女なのに」  
「イヤらしさでいうならトーリ君の姉の方が数十倍上です」  
 私は彼女の剥き出しになった体つきを見て、  
「……ええ、イヤらしさでは彼女の方が数百倍上です」  
「み、見比べんなっ」  
「大丈夫、彼女のは服の上からしか知りません」  
「当たり前だ!」  
「私が言いたいのはそう言う事ではなくて」  
 彼女がそうしたように、私もまた、一息置いてから言った。  
「――私がトーリ君を悲しませるなんて、絶対ありえませんから」  
 ええ、勿論ですとも。  
「だって私は、トーリ君が悲しむ以上の悦びを贈りますからね」  
「じ、字が違くね……?」  
「いえいえ、間違いではなりませんよ? ええ、トーリ君にはもう、悦ぶしか道はないんですから」  
 君が私を好きになって、そして私が君を好きになったその時から。  
 
 
 

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