一日で一番暑い時間帯とは昼過ぎとされる。
強い日差しが降り注いだあと、地面に溜まった熱が染み出してくる頃合だ。
そして、熱を溜めるものは何も地面だけではない。建物の壁や床なども熱を溜め、昼過ぎになれば部屋の温度を最高に上げる。寮室のような狭い部屋なら尚更だ。
そんな昼過ぎの寮室に二人がいた。
「……あーつーいー」
床に大の字に倒れこんだ風見は、自分の頭が勢いよく床にぶつかる音を聞く。
しかし痛みの感覚よりももはや暑さが優先だ。部屋の中には重く湿った梅雨の暑さが満ちていて、外からは窓を洗う小雨の音が聞こえてくる。
青いTシャツに黒のスパッツという部屋着姿を、少しでも熱を逃がそうと大きく広げ、
「まだ七月も始まったばかりだってのに、……何なのよこの暑さは」
言うと同時に波のような暑さが押し寄せる。
自分の身体から染み出しているようにすら感じる熱が、じわりとTシャツの内側を巡り、裾のあたりから汗を伴って流れ落ちていく。
夏真っ盛りの暑さならむしろ好きなほうだが、梅雨と初夏が被さったときのこの感覚はどうしても好きになれない。
さっきのシャワーを冷たくしたのがいけなかったな、と風見は暑さにうかされた頭で思う。
こういう暑さのときは、冷たいシャワーで身体を冷やすより、熱いシャワーで汗を流しきったほうが後々が快適だ。頭では分かっているものの、つい設定温度を下げてしまった失態を省みる。
つまるところ、一瞬の冷たさに惑わされたのが失敗だった。
「……あー……」
できるだけ熱を逃がすようにため息を吐く。何かを言おうとしてみるが、特に言うべきことも思いつかない。意味の無い音を伸ばしていれば、
「なあ」
頭上、出雲の声が来た。
寝転んだまま見上げれば、椅子に座って勉強用デスクに向かった出雲の姿がある。こちらは部屋着に着替えておらず、暑さ対策なのかボタンを二、三開けた制服のまま。
……寝てなかったんだ。
率直な感想はあえて告げない。
どうせ勉強をしていたわけではないだろう。課題やレポート類はいつの間にか食事用のテーブルでやる習慣になっていて、デスクのほうは雑多な物置と化している。
出雲は、読んでいたらしい漫画雑誌を雑誌の山に重ねて置くと、身体を軽くこちらに向けた。やけに真面目ぶった表情で、
「千里、そういうお前に一つ質問がある」
「あー、今週のTARUTOなら作者の糖尿病が悪化したとかで休載よ。これも職業病って言うのかしら」
「いやあんな熱血甘党減量漫画読んでるのはお前だけだろ。……そうじゃなくてだな?」
出雲が天井を指差した。
それに従って視線を移すと、天井の壁に近いあたり、大きく歪み変形した金属フレームの物体がある。
部屋の空調機器だ。
こちらの視線を確認し、出雲がひとつ頷き、
「じゃあ質問だ。……昨日、ここの空調を壊したのは誰だ?」
風見は考えた。比較的記憶に新しい、空調が派手にひしゃげる映像を思い描き、
「覚の後頭部」
「俺の頭単体じゃ天井まで届かねえよっ!!」
抗議の声が頭に響く。そのことに風見は眉を詰め、
「そりゃそーよ。脚と胴と首がいるもの」
「お、俺の千里が佐山みてえなことを言い出した……!」
ああそれは嫌だな、と風見はもはや思考ではなく感覚で思う。やはりどこかが緩くなっているのだろうか。
ともあれ、このままだらけていては駄目だ。佐山のようになる云々も問題だが、何となく気分がすっきりとしない。
身を起こそうとする。
「――痛っ」
声に、出雲が嘘泣きを止めた。
「……おい?」
「あ、いや、良く解かんないけど……髪が」
頭の、痛みのあった辺りに手をやると、ああ、と出雲が納得したような声を漏らした。
彼が椅子を動かさないようにして立ち上がり、屈み、髪に手を伸ばされて、そこで風見は出来事を理解する。
……椅子のキャスターに髪が絡んだんだわ。
大して長くはない髪を解くのはそれほどの手間ではないだろう。そう判断して、風見は出雲の指に任せて力を抜いた。
「ほら、じっとしとけ」
「ん」
指が入った髪の隙間から溜まった熱が抜けていき、風が通る感触に風見は目を細める。
暑いな、と、相変わらず頭の片隅で思いながら、風見はぼんやりと出雲を眺める。彼の顔はこちらを見てはいるが、こちらの目とは微妙に合っていない。
髪を弄るのに夢中になっている表情を見て、その向こうにある天井を見る。彼と視線は合わないだろう、と。
暫くは髪越しに指の動きがくすぐったく伝わっていたが、ふとその指が髪を梳き、肌に触れる。
熱い、と、体温を感じた。
軽く濡れた頭皮を撫でられ、互いの温もりが染みあう感覚は、時たま押し寄せる暑さの波とよく似たものだ。
しかし、それを心地良く思う。
向こうはどうだろうか。何気なくこちらの髪を混ぜている出雲の手に触れると、
「……熱いな」
寄越されたのは似たような感想だ。
その事実に、彼も悪くは感じていないだろうという思いを得て、自然と口調が笑みになる。
「覚」
「あ?」
「取れた?」
「実はとっくに取れてる」
そう、と応えて風見は今度こそ身を起こす。ありがと、と言うのは起き上がって眼が隣に並んでからだ。
視線を合わせるように首を傾げると、汗の珠が頬を伝って落ちた。
「真面目な話、ちょっと涼んだほうがいいぞお前。随分汗もかいてるみてえだし」
言われ、己の額に手をやってみる。額に触れた手も、手に触れた額も、同様の熱さを持っていた。
「そんなにヘバって見える? 私」
「ああ、目が、なんつうか、その……」
「はいはい解かった言わんでよろしい。……でも涼むったって、空調、壊れてるじゃない」
「よし、じゃあ俺が空調に激突したのは誰のせいか言ってみろ」
しつこいな、と風見は口の中で呟き、
「覚が私のダイエット用クッキーをがつがつ食って空にしたから?」
「うお事実隠蔽だ! 大事な段階をしれっと飛ばすなっ」
「うるさい。言っとくけど、まだ埋め合わせしてもらってないわよ」
埋め合わせ、という言葉に出雲が頭を掻き、
「……あー、そういや」
いきなり大仰な仕草で立ち上がった。
そのまま部屋の隅に置いてある小型の冷蔵庫へ向かうと、最下段の冷凍庫を開ける。
? と怪訝な目のこちらに向かって、
「……っと」
投げ寄越されたものを受け取り、風見はそれの名を呟く。
「アイスキャンディー……?」
ビニールの個包装に包まれた、アイスに木の棒を刺した大人しいデザインのものだ。ところどころ白が混じった水色はラムネ味だろう。両手で軽く包むようにすると、冷気が指を零れて下へ落ちていく。
出雲が扉を閉めつつ振り返り、
「ほら、最近UCATにバッティングセンター出来たろ? そこの景品にあったから取ってきた。二箱あっから埋め合わせには十分だろ」
「へえ……」
有り難いな、と袋を開け、口に運びかけ、
「ってちょっと! 駄目よこんな腹がふくれないのにカロリーばっかり高そうなやつっ」
投げ返したそれを出雲が綺麗にキャッチ。
そして、掌で掴んだ形から一度投げ上げ、落ちてきたところで持ち手の棒を掴む。
一連の動作はアイスに目もやらずにこなされた。視線は風見に向けた半目で、
「……千里、別にそこまで気にせんでも俺はそのままのお前でいいと思うぞ」
「だって……」
台詞を途切れさせ、風見は目を反らすように俯く。
夏が近いとなれば気にしないわけにはいかない。更に言うなら来週には新庄と共に水着を買いに行く約束をしていたりもして、試着という時点でそれは勝負時だ。
食事制限よりは運動を中心とするのが風見流だが、少なくとも間食は控えたい。
「ふむ」
その辺りの事情を理解したのかは不明だが、風見の態度に対して出雲が一息。頷き、アイスを右手で軽く掲げ、
「なら俺に今思いつきの名案がある」
へ? と振り返った風見の鼻先に、出雲が突き出したアイスが当たる。
冷たい、と思った途端にその感触が滑るように移動していく。鼻先から右の頬へ、アイスを平たく大きく当てるように。
火照りっぱなしの身体に、鮮烈すぎる刺激が走り、
「なっ、……ちょっ」
慌てて身を退けば冷たさは離れたが、汗とは違う雫が顎へと落ちていくのに気付き、風見は慌てて手の甲で頬を拭う。
微かに青く見える汚れを無意識に舐めようとして、手が自然と口元へ動く。
そこに出雲の影が来た。
「――――」
唇を奪うというよりは、甲の汚れを舐め取る動き。
そのついでとでも言いたげな流れで、半開きになっていた上唇を挟むように吸われる。どちらかの体温で温まった甘い味を僅かに感じるが、それ以上の深入りはない。
五秒。
「――……っふ」
どちらともなく身を離し、両者が止めていた呼吸を整える。
見上げた出雲の表情は特に悪気のなさそうな平常で、しかもしてやったりという笑み付きだ。
「……い、いきなり何なのよ一体っ!?」
「あ? あー、これはだな」
問いに、出雲はアイスを持ったまま器用に腕を組む。
「簡単に言やあ千里が涼む担当で俺が食う担当。ってことで、……どうよ?」
「首単体で天井衝突してなさいっ!!」
とは言えその内容をあまり忠実に実行しては後々問題が残る。
だから風見は首への手刀を選択。身体の捻りを加えて右上から一気に左下へ。
うわ、と声を挙げた出雲は身体を後ろに退いてぎりぎりのところでそれを回避。
……回避?
疑問を含んだ焦りのままに、風見は振った右手をとりあえず身体の左側について姿勢を安定。暑さのせいか、
……動きにキレが無くなってるかしら。
しかし攻撃は終わりではない。捻りを戻す勢いに乗せれば、ちょうど起き上がりかけている出雲の右脇腹に綺麗に拳を入れられる。
そうしよう、と親指を握りこんだその時、思わぬ攻撃が来た。
「うりゃ」
気の抜けた声と共に冷たさが来る。
捻りの体勢によって、出雲の側に晒されていた右の首筋だ。
「ひゃっ……」
只でさえ肌が柔らかい個所への刺激に抵抗できずに身が縮む。
……このっ、
動き、拳を入れようと思うが、
「……ぁ」
うだるように暑い部屋の中、首筋に当てられた冷たい感触が風見の気を削いでいく。
当てられた部分は刺すような痛みがあるが、そこから低い温度が広がり、冷やされた血流が頭を洗っていく感覚だ。
気をとられてはいけない。
どうせろくなことにはならないと頭で理解していても、身体が動かない。
「……千里?」
流石に怪訝そうな出雲の声に、風見は静かに長い息を吐く。言おうとしていた反論の言葉を押し出すように長く。
俯いた視界に、既に溶け出したアイスの雫が屈んだ身体に沿って流れ、胸元からTシャツへと滑り込んでいくのが見えた。
己をそれから誤魔化すように目を閉じる。
解からない。今の自分が暑さに浮かされているのか、冷たさに浮かされているのかが。
ん、と喉を鳴らして、ただ単純な一言を風見は呟く。
「……つめたい」
つまるところ、一瞬の冷たさに惑わされたのが失敗だった。