空中に白線が引かれた。  
 細かな線の群である。しかし一点より放射されたそれらは、その勢いを持ってある程度の束ねを得て、しかるに上から下へとほぼ一直線に引かれる。  
 しかし白線が描かれるのはそう長い範囲ではない。  
 秒と経たぬ高低差を経て、線の群は地に注がれ、しかし面へと姿を変えた。  
 こちらから見れば立てられた平面にも見えるそれは、しかし高さを加える事で、円柱状に積載されているのだと理解した。  
 分かっている事は言わなくて良い。  
……ああ、そうだ……  
 分かっている。どうして白線が虚空で円柱状に変われるのか。  
 白線は白色の液体であり、虚空と思えたそこには透明のコップがあり、その内部に液体が注がれる事で、次第に高さを伸ばす円柱になるのだと分かっている。  
 液体の噴射口がやや赤みを帯びた褐色の凸型であり、それは大きな楕円の先端であり、その根元からは形や胴や首が伸びていて、つまるところそれは乳だという事も分かる。  
 だから分からない事は、ただ一つ。  
「……どうしてお前がここにいる」  
 極東主校武蔵武蔵アリアダスト学院、三年梅組一般生徒ノリキ。  
 バイトを終えて自宅の扉を開けた先に、印度諸国連合総長兼生徒会長が乳を剥き出してコップに母乳を注いでいる光景、それを理解するにはあまりに未熟であった。  
「お久しぶりです」  
 褐色の肌に伏せられた目をこちらに、北条・氏直は微笑んだ。  
 だがその両手は未だ左側を根元から絞っていて、  
「ん」  
 不意に、氏直が眉尻を下げた。そして僅かに頬を染め、  
「ーー見られていると、また違うものですね」  
「いいからしまえ」  
「しまっても宜しいのですか?」  
「分かっている事は言わない主義だ」  
「……いけず」  
 トーガに似た印度諸国連合の制服、その合わせを掴んで乳房を戻す。  
 その双肩と脇に、かつて有った時に装備していた大刀はない。おかげで自分の家に入れたのだろうとも、家の中でつっかえたりしなかったのだろうとも思う。  
 しかし、  
「どうしてここにいる」  
 政策を失し、その後実力のみで自国を統治せざるを得なかった彼女が、武装を外して国を離れている。  
 その意味は、  
 
「待つ事を、止めようと思いましたので」  
 氏直は膝をつき、指を揃え、頭を下げ、胸部が畳に添って形を変えた。  
 交渉の場で同級生が発動したという嘆願の構えをとった氏直は、  
「ーーふつつか者ですが、お世話になります」  
「待て」  
「この度、北条・氏直の襲名が任期を迎え、総長と生徒会長を後継の者に託しました。然るに……己の赴くままに動くと、そう決めたのです」  
「……待て」  
「待ちません」  
 と、と軽い音がして、そして眼前に氏直がいた。今の音は、畳を蹴って身をこちらへと射出した、その音だったのだ。  
 と、理解した時には、氏直はこちらの身を組み敷いていた。  
 硬質素材で舗装された玄関に背を打ち付け、押さえつけられているが故に、受け身もとれない。  
 背骨を形成する小骨群を平等に叩かれ、肺を突かれる感覚に、望まずして息が抜ける。  
「か……っ」  
 そうして開かれ喘ぐ唇が、氏直のそれによって塞がれる。  
「……っ! ……!?」  
 空気を吸えない。  
 否、違う。  
 空気を吸わされている。氏直の、その造られた肺に貯蔵されていた、空気を。  
「は」  
 生体を模した自動人形である氏直の体は、唾液さえも生産する。  
 二つの唇を透明の液体が繋ぎ、断たれて、  
「ーー私の空気は美味しかったですか?」  
 地に寝たノリキを見下ろす氏直は、もはや“ろ”を抜いた形容が相応しい面持ちであった。  
「牛が頭をたれるは角を向けると同意。気を緩めてはなりませんよ?」  
「……お前は俺を殺しにきたのか」  
「ええ、そうですね。……悩殺、という意味ですが」  
 もはや分からない事すら言わなく良い、そう思って、眼前の顔から目を背けて、  
「……兄ちゃん?」  
 その先に居た自らの弟妹達を見た。  
 街路と玄関の境界線を首によってまたいだノリキの顔を、弟妹達は見つめていて、直後、  
「み、見てないよ!? 兄ちゃんが玄関から首だけ出した、外から見ると生首状態の格好で牛乳の姉ちゃんとディープキスしてるなんて、見てないよ!?」  
 分かってるなら言わなくて良い。マジで。  
 そう心に思い、次いで、  
 
「牛乳の姉ちゃん……?」  
 再び見上げた氏直は、  
「この度貴方への嫁入り道具として登載したのです。……乳液の貯蔵・放出機能を」  
 形を押さえていた氏直の手が、その新機能を得た胸部を下から持ち上げる。  
「来た時にはあの子達しかいなかったので。だから、貴方の分を抽出していたのですが……」  
 ノリキは見た。  
 未だ路傍で立ち止まる弟妹達が、揃いも揃ってコップを手に持っているのだと。丁度、使用済みのそれを洗ってきたかのような、清潔さのそれを持っているのだと。  
 そしてノリキは、  
「ええ、……懐柔済みですよ?」  
 再三見上げた氏直の笑みは、やはりこちらを見下ろしていた。  
 

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