「す、ずっ!」
「ひぁ……っ!」
熱い震えが腹を刺す。
湿度とも蒸気ともつかない、瑞々しさのある昂りだ。
腹の内で沸き上がった水蒸気に内側を蒸される、それどころか焼かれるような感覚だった。
胸、首、指の先に至るまで熱が駆け抜ける。高熱の唾液に滴る舌が、体のあらゆる繊維の隙間を舐め上げているようで、
……ひ、ひぇ……っ!
熱すぎて、もはや冷たいとさえ感じる。
肉という肉、細胞という細胞が湯で上がっているのに、血液や骨は氷のようだ。
……わ、分からない、よぉ……っ!
熱いのか、冷たいのか。
好いのか、悪いのか。
相反するものの境界線上にある体がどうしようもなくて、
「ぁ」
喉が開き、
「ぁあ……っ」
目を見開いた。
「ああああ……っ!!」
双眼が大気に触れ、涙がこぼれた。
痛いほどに嬉しい。
嬉しいほどに痛い。
矛盾する感覚と思が境界線上を走り、
「――ぁ」
やがて伏した。
止まった思いが蒸留し、体から抜けていく。
結露した皮膚が冷たく、だというのに、体は余熱を宿したままだ。
胸が内側から何度も叩かれ、喉が幾度も痙攣する。脳も心も、痺れたようになっていて、
「ひ、あ、ぁ」
泣き出してしまいたいほどの思いが、形となって溢れだした。
「うぇ、あっ、ぁあ……っ!」
体の震えが止まらず、しかし、
「鈴!」
細い腕と浅い胸が、こちらの体を抱き上げる。
慌てた初動だ。立てられた指先が背を掻き、抱き寄せられた拍子に胸が打ち付けられ、張るような痛みが走る。
何より骨同士がぶつかって痛い。自分も、そして相手も、薄い肉付きゆえに鎖骨や肋骨がぶつかってしまう。
急な動きだ。盲目の自分にとって恐怖の何物でもなく、普段ならこれこそ泣いてしまう。
だから、今の自分がそうならないのは彼女に対する思い故なのだろう。
「政宗、さん……?」
「すまない、泣かせてしまった」
男性的な口調だ。声色は確かに女性のそれだが、歳の割には低く、木琴の音色を聞くような心地よさがある。
「そ、その、何か至らないところがあっただろうか? 何分私も、その、経験が浅くて」
その、と幾度目かの詰まりを得て、
「君を……喜ばせる事が出来なかっただろうか」
辿々しい口調が、まるで自分のようだ。
普段は男の子みたいに凛々しい彼女の、そんな慌てふためいた姿が、目に見えるようで、
「……ふ、ふっ」
息が溢れた。
「う、ぇ、へへ……っ」
「鈴?」
「ま、政宗さん、……可愛いっ」
「な……っ」
触れ合う政宗の肌が熱い。
「す、鈴っ! 可愛いとはっ、なんだろうか! わ、私は君が、なっ、泣いてるからっ!」
そもそも、
「――鈴の方がずっと可愛いだろうっ!」
言われた言葉に、また熱さが昇ってきた。
「ぇ」
「歩く姿もっ! その度に揺れる髪もっ! 転ばないようにって震える所作だって! 私よりもずっと細い胸も腹も腰も足も……」
何もかもが、ああ、そうだとも、
「君は可愛いんだ、鈴」
「……っ、……っ、……っ」
研ぎすました言葉が胸を貫き、どうしようもなく苦しい。
「鈴」
だというのに、抱きしめる腕の力が強くなる。
より深く彼女の中にとりこまれて、心が赤熱する。
「鈴、君は……本当に可愛い」
「あ……っ!」
何も考えられない。何もかもが彼女によって剥がされていく。
だから、だろう。
胸のずっと深いところ、凝り固まっていた思いが、
「――好きなのは見えるものなの?」
唇が冷たい。
冷えきった思いが、口をつくからだ。
「わ、私が、生まれた、時っ、からっ、分からないものが……貴方の好きなの!?」
怖さが胸を、口をつく。
「わ、私、ま、政宗さんが好きな格好が、分からな、いっ! 好きでいてもらい続ける方法が、な、無いのっ!」
そして何より、
「政宗さんが好きなものを――私が分かる事はできないの!?」
溢れる感情は海水だ。
尽きず止まらず、塩気が目と喉にしみて、どうしようもなく痛い。
……ぃ、たい、の……!
いたい、その思いだけに胸が支配される。
「痛い、の……っ! ず、ずっと、いたい、の……っ!!」
だから、
「政宗、さぁん……!」
名を呼んだ。
痛みを与える、でも、一緒にいたいと思う相手の名を。
そして、
「――――――」
肌が離れた。
●
……ぁ……
余熱を抱いた肌を空気が撫でる。
大気の温度差が、否が応にも感じられて、
「あ」
背筋が撫でられるようだった。
否、受け止められたのだ。それまで寝かされていた敷き布団によって。
「ん」
冷たい。
さっきまであんなに熱かった筈なのに。
湯気と汗が染みた布地は、自分が身を起こしている間に冷えたのだ。
変わってしまった。
冷えてしまった。
その思いが、
……痛い、よぉ……っ!
痛みが生じるほどの速度で倒れた訳ではない。
痛みに感じられるほどの冷たさがあった訳でもない。
だというのに痛むのは、何故だろうか。
……こんなの嫌だよぉ……!!
彼女が与える痛みとは、まるで違う。
しかしこの痛みも、彼女が与えたものだ。
だとしたら、変わってしまったのという事なのだろうか。
彼女が与えてくれたものは、もう得られないのか。そうしていられる関係は、もう無くなってしまったのか。
自分が、あんなことを言ってしまったから。
「やだぁ……!」
行かないで。
ここにいて。
「いるとも」
●
熱が帰ってきた。
手だ。五指とそれらを結び付ける掌、そこに熱がある。
彼女の熱だ。
「まさ、むね、さん?」
「ああ、政宗だ。伊達・政宗だとも、鈴」
一呼吸、
「――君といる、伊達・政宗だ」
握り返された掌が、別の場所に移されていく。
それまで触れていたのは胸の間だ。浅い起伏が左右にあり、掌には鼓動があった。
なぞるようへ上へ動かされ、やがて鎖骨へ至る。
頤に至り、首筋へと回り、頬を撫でて、髪の中の耳を触れ、そして、
「……え?」
指先に触れた固い感触。共に寝るようになってから、幾度か触れさせてもらった事のある感触だった。
彼女の顔の、右側にだけある角だ。
しかし足りないものがある。
彼女の鍔眼帯、細かく彫り込まれた金属の感触が無い。
しかし得られたものがある。
小さな溝、硬質な皮膚に縁取られた、歪な治癒の形だ。
「すまない」
彼女が言う。
「眼帯を結び直すのに両手を使ってしまった」
「――」
聞かされた時には、残された右手が動いていた。こちらの片手が添えられている以上、顔の位置を知るのは容易い。
掌がなぞる彼女の左半分、そこに鍔眼帯がある。
硬い鉄の感触が、彼女の残された瞳を覆い隠している。
「な、なん、で」
問うて、しかし答えは分かっている。ただ、それが信じられなかっただけだ。
彼女のその唇が囁いてくれるその時まで。
「君と同じでいるためだよ」
自分がそうしているように、彼女の掌がこちらの頬に添えられた。
「姿ではない君は新しいな鈴。――とても柔らかい」
首を撫でられ、
「とても暖かい」
肩から脇、背中に至り、
「とても滑らかだ」
抱き寄せられた肩に触れる、熱く湿ったもの。
「何より……甘いな」
「ん、ぁ」
鎖骨を甘噛みされる感触に、喉が震わせる。
「姿ではない君も、私は……あぁ、大好きだとも」
「……っ!」
熱い。痛いほどに、熱い。
どうしようもなくて、今度はこっちが彼女を抱き込んだ。
「うぁうっ!?」
もう布団の冷たさは気にならない。
倒れ込んだ拍子に額をぶつけしまっても気にしない。
だって、
……一緒に、い、いてくれるもん……!!
「ふぁ、ぶ……っ!」
彼女の右側に口付ける。
「ぁ」
舌を押し返す固い断層、かつて右目に突き立てられた刃の古傷だ。
弟の死に記憶を否定し、しかし自分がそれを否定した、その末の傷。
……私が政宗さんに与えた、痛み……
「ん……っ」
瞼と傷口の十文字、睫毛が幾度もまとわりつく。
その感触がどうしてか好ましくて、猫になったように幾度も舐めてしまう。
「ん、ん」
「わ、す、鈴、ちょっと待……っ」
「政宗さんは、し、しょっぱ、いねっ」
「しょ、しょっぱ……」
彼女の動きが止まり、
「わぶっ」
次の瞬間、体の上に倒れ込んできた。
左肩に彼女の首がかかり、左側に基軸をおいた長髪が降り注ぐ。
二人で折り重なる布団の上、少しだけ間が開いて、
「ふ、ふ」
どちらからともなく、あるいは二人一緒に、空気をくすぐった。
「あ、はは……っ」
お互いの胸が震え、上下から押し合い、押し返さる。
それは体を圧迫されるもので、しかし、
「私達には、きっとそれが、もっともお互いを解っていられる形なんだろうな」
「ん、そう、だねっ」
耳元で囁かれた彼女の声が熱い。
近く、熱く、嬉しくて、
「ま、政宗さ」
何を伝えようとしたのかは分からない。
否、どれを伝えようとすれば良いのか分からない。
それだけの思いの数を秘めて、彼女の名を呼ぼうとして、
『皆様――』
「!?」
突然の呼び掛けに二人で飛び上がった。
『市民の皆様――』
それは自分達に向けられた声ではない。
機械を介したノイズ混じりの声、この武蔵全体への通達を目的とした放送だ。
『準バハムート航空都市艦・武蔵が、武蔵アリアダスト教導院の鐘で――』
本来ならばあり得ない通達だ。
深夜、大多数の人々が寝静まるこの時間帯に、昼間のような放送することは考えられない。
つまりそれは、今が特別な時間帯である事を示してる。
『除夜の鐘をお送り致します』
言葉の直後、重低音が響いた。
放送ではない、純粋な大音響だ。
重厚な、しかし空洞を内包した金属塊を打つ、頭の奥まで響き渡るような響き。
……そういえば、トーリ君達が鐘を運び込んでたっけ……
アリアダスト教導院は冬期休暇だ。
だが、機会自体は減るものの、彼らと会わない日が出来る訳ではない。その程度に近しく、狭いこの武蔵の上だ。
今日も、総長連合や生徒会のみんなが陸橋に仮設の櫓を建て、鐘を吊るそうとしていたのを見た。
……一緒に、トーリ君も吊るそうと、し、してた、けど……
梁に吊るした鐘、その内側天井部にトーリを吊るした上で試し打ちをしようとしてたけど、彼はあの後どうしただろうか。
あれから鐘が外れて転がり落ちるような音がした気もしたが、大重音が重複して正確な出来事は分からなかった。
と、再び鐘を打つ音が響く。
「あ」
音とともに閃く事があった。放送が入る直前に得た思いの解決策だ。
彼女の背に手を回し、首を回して唇を耳に近づける。高鳴る鼓動に息が盛れ、くすぐったそうに彼女が身をよじり、
「鈴?」
「あ、あのね? 政宗さん」
鐘が鳴る。
「ずっと、政宗さんと、い、一緒にいたい、な」
「それは――」
間、答えようとする政宗、だが再び鐘が鳴り、
「一緒に、ご、ご飯食べたり」
また鳴る。
「お買い、もの、したり」
鳴り、
「音、楽、聞いたり」
鳴り、
「お、おふ、お風呂、入ったり」
鐘は鳴る。
除夜の鐘が、人の欲するところの数だけ、鳴り続ける。
「年が、明けても、その次の、その、また次も、ずっと、ずっと――一緒にいたいな」
「――jad.」
そうだな、と彼女は頷き、
「jad.、だ。jad.だ鈴。……君の何もかもが欲しく、私の何もかもを望んでほしいと思っている私は」
あぁ、
「強欲な罪人以外の、何者でもない」
「わ、私、も、だよ?」
「では……一緒に罪を重ねていこうか。この鐘の分だけ」
「ひゃ、108じゃ、足りない、よ、政宗さんと、したいこと」
「じゃあ終わるまで、ずっと、ずっとだ」
その言葉が可笑しくて、息が漏れた。
「――そ、れじゃ、全部言い終わる前に、二人とも、歳とって死んじゃうよ?」
「それまで、いいや、それからもずっと一緒にいたいと、そう言う事だよ、鈴」
さぁ、
「数えよう鈴、私達の罪を。――来年からもよろしくと、そう言うために」