何も考えずに単に生活の手段として選んだ郵便のアルバイト、それが人生を変えるとは。
少年が初めて可愛らしい少女を見たのは、彼女が生活の大半を送る自宅でのことだった。
初めての届け先に少し戸惑いながらも家の周囲を巡ると、ふと道場の様子が目に飛び込んできた。
あまりにも小柄で見るからに線の細い愛らしい少女が、しかしその表情を殺し尽くして如何にも屈強な男と荒稽古をこなしている。飛び交う武器のやりとりと、無駄を殺した体捌きに息を呑む。とてもとても、あの可愛らしい少女の外見には不釣り合いだった。
何故ならばその時少女はまだ大型義腕を手に入れる前で、見た目にはただ引きしまった愛らしい少女だったからだ。
その鮮烈さに心を奪われた。その瞬間に、恋自体には落ちていたのだ。
――ただ、彼女はあまりにも遠い存在だった。
「先輩。立花・ァの襲名者は、あんなにも可愛らしい方なのですね。驚きました」
「見た目に似合わず、怖い女だけどなぁ」
少年の感想に、先輩は苦笑を返す。そうでしょうか、と少年は思った。
ァはあまりにも凛々しく、強く、――そして愛らしかった。
「もし引っかけたいと思うなら、まず襲名者になるしかあるまいよ。そうすりゃ話くらいはできるだろうから。だがそれも無茶な話だしな」
「なるほど」
先輩の言葉に、少年は腕を一つ打った。素晴らしいアイディアと思ったからだ。だが、そんな少年の表情を見て、先輩は唖然とした。
「まぁ、がんばれよ」
「はい、がんばります!」
今自分が一番近い襲名者は郵政の雄だろうと少年は目測をつけ、――更なる努力を開始した。
ァを目指す、そんな日々を始めてすぐの頃だ。いつもの郵便配達の途中、彼女を見つけた。
明らかに買いもの帰りであり、たくさんの食品が紙袋につまっている。一瞬手伝いを申し入れたいと思ったが、拒否されるだろうな、ということは推測がついていた。
ァは人を受け入れる素振りがまるでない。
ふと、彼女の行く先に泣きわめく二人の子供を見つける。それには声をかけようと、少年は足を進めた。だが、声をかけたのは驚くべきことにァだった。
「どうされましたか?」
「ふうせんが、とんじゃ、って」
「そうですか」
しゃくりあげる子供の声に、ァが顔を上げる。立花家の大木の枝に、確かに風船が引っかかっている。
長物も突き刺さっている買い物袋を抱えたまま、ァは何気ない動作で軽やかに跳んだ。音も無く衝撃も無く木塀を踏んで更に空を舞い、――その手に風船の端を握る。
わあ、と子供たちが歓声を上げる中、軽く膝を折って着地し、風船を渡した。
「ありがとう、おねえちゃん!」
無邪気な笑顔がァに飛びつくように向けられる。純粋な笑顔を向けられたァは無表情を動かし、
「――どういたしまして」
しかし笑顔を得ることは叶わなかった。
――笑ってはくれないでしょうか。
少年の胸に、強い衝動が沸き上がる。
どうか彼女に笑ってほしい、と。
彼女をたくさん笑わせたい。
少年は気付いていた。これは、恋だと。
ただ、その憧れにも似た身近には無かった恋が、叶えるべき恋へと姿を変える。
ええ、私はあの方の笑顔が欲しい。
少年は大きく息を吸い、明らかに困難な先行きを見据えた。
だが、諦めるつもりは毛頭なかった。
「ァさんが私に気付く前から、私はずっと貴方に恋していましたよ」
風船を手に走り回る武蔵の子供たちを見て、宗茂はそう言った。
「そんなわけはありません」
ァの否定の言葉に、宗茂は目を見開く。ァはどこかに視線を泳がせたまま、続けた。
「初めて宗茂様が手紙を届けられた時のことを、私は覚えているのですから」
――日常を知らなかった自分に、自分の知らないはずの満面の笑顔を初めて届けてくれた。
「こちら、立花さんのお宅ですよね?」
「Tes. その通りです」
「良かった。郵便ですよ」
心底からの笑みは当時のァにはあまりにも眩しく、ただ不機嫌そうに手紙を受け取るのが精いっぱいで。
――でも私は、その笑顔にも慣れられる程に接することができています。
「だから私が先に宗茂様に気が付いたのです」
少し拗ねたようにァが言うのが嬉しくて、とても道場を覗き見してしまっただのと言うことはできなくなってしまった。
「それは気付きませんでした。――とても嬉しいですよ」
往来のあるところだ。宗茂は愛情表現を額へのキスに留めた。