「――東、ちょっといいかな」
学生寮の一室、六畳の自室で就寝前の一時を過ごしていた東に、同室のミリアム・ポークウが声を掛けた。
「何? ポークウさん」
東の返事に、ミリアムはわずかに眉根を寄せた。
その表情に東は『何か問題があったかな?』と思う。
ミリアムは軽い溜め息をついて、
「あのね、他人として付き合おうとは言ったけれど、私は東のことを呼び捨てにしているのに、
貴方が私のことをファミリーネームでさん付けするのはどうかと思うの。
きっと馬鹿で真面目な貴方だから、一線の引き方がそうやって表に出てるんだろうけど。
不公平というか、他人であっても同等の関係でいる方が真っ当じゃないかしら」
言われて、東はそうなのかな、と思う。
中等部から武蔵で生活しているとはいえ、世間ズレみたいなところがあるのかな、と。
それでね、とミリアムは言葉を続けた。
「貴方が私の名を呼び捨てにするのに違和感があるなら、その抵抗を感じなくなる程度までは仲良くしてもいいかな、って考えたの」
「う、うん」
初めて会った時から――正確には二度目だったが――東はミリアムの言葉に圧倒されがちだ。
同年代の異性にしては大人びた考え方と、それをはっきり口に出すことが理由かもしれない。
「で、お願いなんだけど」
ミリアムは、車椅子の正面を東に向けて、
「足、マッサージしてくれないかしら」
「……えっと……え、マッサージ?」
何を言われたか脳の処理が追いつかない東は、ミリアムの言葉をオウム返しにした。
「そうよ。私、下半身がこうだから、血行良くするのにマッサージが欠かせないの。
で、普段はベッドで自分でやるし、椅子にも補助機能は付いてるんだけど」
言葉を一度切って、東の顔を笑顔で見つめる。
「直接肌に触れてマッサージするくらいの関係になったら、東が私のこと呼び捨てにするのに抵抗無くなるかなって思ったの。
私も自分でやるより楽できるし、一石二鳥よね?」
だからお願い、とミリアムは締めくくった。
……直接肌に触れて、って言われたら、気になるんだけどなぁ……。
助けたい、って最初の日に言った手前、この程度の申し出を断るのも変に思えた。
「解った。どうすればいいかな」
東が答えると、ミリアムはありがとうと言って、
「膝から下、やってもらおうかしら。はしたない女だと思われても困るしね」
ミリアムはストッキング無しの素足だが、車椅子に薄手の膝掛けを載せている。
東はミリアムの前にひざまずく様に座ると、そっと彼女の右脚を持ち上げた。
……軽いし細いけど、綺麗だな。
そう考えて東は、自分の思考を振り払うように軽く頭を振った。
ただのマッサージなんだから、余計なことは考えない。そう自分に言い聞かせる。
「東、どうかした?」
「う、ううん。別に」
「そう。じゃ、膝から足先に下りていって、先まで行ったらまた逆に、お願いね」
「うん、解った」
言われたように、東はミリアムの膝下から、ゆっくりと揉みほぐしていった。
最初は気後れもあったが、ミリアムに
「もうちょっと強くして。じゃないと効果が無いから」
と言われてからは、開き直ってやることが出来た。
白磁のようなミリアムの肌の上を、東の細い指がなぞっていく。
東は少し顔を赤らめ、ミリアムはその顔を面白そうに眺めるだけだった。
暫く経ち、右脚が終わって、
「ありがと。結構気持ち良かったわ。左もお願いできるかしら?」
「うん、勿論」
言うと、東は早速取り掛かった。始めた時のぎこちなさはほとんど無くなっている。
そして、足先まで東の手が下りた時に、
「――へくしゅっ」
あ、という声が部屋に二つ響く。
くしゃみをしたのは東の方で、ミリアムの足先に唾がかかってしまったようだった。
「ご、ごめん。すぐ拭く――」
「いいから、座ってて」
制止の言葉を受けた東は、え? と表情を焦りから疑問に変えて、ミリアムを見る。
床に膝を着いた東の頭は、ミリアムよりも低い高さにある。
なので、ミリアムは東を見下ろす視点で言葉を告げた。
「東、貴方が汚したところ、舐めて綺麗にしてくれる?」
……あれ? 今、余、何をどうしているんだっけ?
東の脳と体がフリーズ状態になると、ミリアムがまた口を開いた。
「聞こえなかった? 東、貴方が汚した私の足を、貴方の舌で綺麗にしてって言ったの」
二度目を聞いて、ようやく東は再起動を果たす。
「ちょっ、ちょちょっと待ってよポークウさん! それ何かおかしい――」
「“ポークウさん”、か。私、そう呼ばれたくないってさっき言ったつもりだったけど」
あ、と東はバツが悪そうな反応をする。それを見てミリアムは、
「オリオトライ先生に、『東君に体を汚され、心を傷つけられました』って泣きつこうかな。
私、そのくらいショック受けてるの。ね、解る?」
解るかと問われれば東の答えはノーだが、それを口に出すと状況が悪化する、と推測出来る程度には頭が働いていた。
なので東は、
「ご、ごめんなさい、……ミリアム、さん」
と謝罪の言葉を口に出した。呼び捨てに出来ないのは、純粋に彼の性格ゆえだ。
それを聞くミリアムは、一つ頷くと、
「そうね、その謝罪だけで許すという選択肢も私にはある。
でもね東、現実として私の足は汚されたままだし、心は謝罪一つでは元に戻らないの」
だから、とミリアムは言う。
「――東、私の足を舐めなさい」
冷静に考えれば、唾がかかった箇所を舐めても、唾の上塗りにしかならない。
しかしミリアムは理性ではなく感情を軸にした話をしている。
また東は、女性にこのような態度・要求をされるというのは生涯初の体験であり、
自分の力で活路を見出すよりも、相手の要求に答える方が簡単で確実な解決法である。
なので東はミリアムの言葉に屈して、
「――――っ」
口を小さく開けて舌を伸ばすと、ミリアムの足の甲にそれを這わせた。
――素肌の上をナメクジが這うと、こんな感触なのかしら?
ミリアムは、自分の足の気持ち悪い感覚を、喩えて想像してみた。
ナメクジ、と思うと気持ち悪さの極致だが、この感覚を生み出す主を、
目の前にひざまずいた、顔を真っ赤にした東であるならば、また違った感情も生まれる。
「んっ……東、それでいいわ。続けて……」
ちら、と上目遣いでミリアムを見た東だったが、続けろと言われ視線を戻した。
伸ばした舌の先で、筆で線を引くかのようにミリアムの足を舐め上げる。
時たま、東の口に溜まった唾が舌の出し入れに混じってくちゅくちゅと音を立てる。
室内には、東の舌の音と、ミリアムのわずかに荒くなった息遣いだけが響いていた。
甲の部分の大半、唾が飛んだであろう部分を舐めた東は、顔を上げようとするが、
「ねえ東、さっき、指の方まで唾かかったみたいなの」
ビクッ、と体を震わせて、東の動きが止まる。
「……ミリアム、さん……」
下を向いたまま声を絞り出すが、
「ここで止めたら、貴方はただの変態。でも最後まできちんとやれば、
私のお願いに答えてくれる優しい人ってことで点数付けてあげるわ。うれしいでしょ?」
……何か余、それとはなしに追い詰められているような……。
しかし東の思いは今更でしかなく、ねえ、とか、さあ、とか言ってくるミリアムに押され、
東は一度は引っ込めた舌をまた出さざるをえなかった。
ミリアムの足首を持って少し持ち上げると共に、東自身も前傾を深くして顔を寄せる。
まずは、親指。
「――ぁっ」
小さく聞こえたミリアムの声に東は一瞬動きを止めるが、続く声が無いので作業を再開する。
爪の先を舐めた後に、爪と肉の境目に沿って舌を這わせる。
外側、そして内側。親指と人差し指の間に、東は舌を割り込ませた。
「んっ、……くっ、うぅ……」
人差し指の裏側に舌を這わせると、指先が唇に触れた。
軽くしゃぶるように口で挟んで、しかしあっさり離す。
「ぅあ……やぁ、はぁっ……」
中指、薬指と、丁寧に、隅々まで舌を這わせる。
棒付きの飴を舐めるかのように。あるいは、それ以上に執拗に。
「ふっ……んん、んぅ……ふぁ……」
小指の側は足が上に向けられないので、東は姿勢を低くして顔を足の横に置いた。
床に這いつくばった東の舌を伸ばす横顔が、ミリアムにはよく見えた。
少女の荒い息と、少年の舌遣いが、渾然となって室内に満ちていた。
果たして、何分ほどの間の出来事だったか。
ミリアムの左足、五本の指を含めて舌を這わせた東は、呆然として座り込んでいる。
呆けているのはミリアムも同じだったが、自分を取り戻すのは東よりも早かった。
なので、彼女は言った。
「……ご苦労様、東。いつも自分でやるマッサージよりも、気持ち良かったわ。
それで、もし東が良かったらなんだけど、……明日から毎日、お願い出来ないかな?」