こんな時間まで教導院へ残る羽目になったのは、トーリのせい。間違いない。  
授業が終わった直後、仲良くホライゾンとパン屋に行ってしまったトーリに半ば押し付けられた形で生徒会に顔を出したら、散々こき使われてこんな時間になってしまった。  
何が「すぐに終わるからだいじょぶだって! 俺、部屋入って五分くらいで帰っていいよっていつも言われるし!」だ。  
「馬鹿がいると話が進まないから帰らせている」と言い放つ本多・正純も相当だが、「運搬能力が段違いだな。これからも来てくれ。総長には出していない菓子をやるぞ?」と勧誘するシロジロ・ベルトーニもどうかと思う。  
挙句、閉会直前にやってきたオリオトライに「あたしもう帰る。こっから職員室いくのメドいから返しといて」と渡された荷物を抱えて職員室に行ってみれば、教師連中は全員すでに帰宅済みで誰もいなかった。  
職員室は当然のように鍵がかかっていて入れない。頼まれた荷物を廊下に放り出して帰るわけにもいかない。  
鍵を開けてもらうか荷物を預ってもらうかしようと出向いた宿直室の扉には、  
「ちょっと、エチルだっけメチルだっけ、まあどっちでもいいから補給してくる!」  
と書かれた張り紙があった。  
思わず扉を蹴飛ばしたら、枠ごと入口が開いたので、「オリオトライのもの」とメモして荷物を置いてきた。  
これでようやく帰れる、と窓から外を見たら、地平線から陽はすでに半分以上落ちていた。  
すでに、廊下を歩いている生徒も、教室に残っている生徒も、教師達ですらいない時刻。  
自分も後は帰るだけだが、かくいうネイトの両手は空だ。生徒会には顔を出すだけのつもりだったので、荷物を持っていかなかったのだ。  
今日の荷物は置いて帰って、とも思ったが、今日は体育の授業があった。そして、明後日もある。  
さらに言えば、今日は晴れだが、明日以降は雨の予報が出ている。武蔵ではいろいろな事情があって乾燥機が普及していないから、洗濯した体操着が乾くまで、一日近くかかるだろう。  
つまり、今日持って帰らなければ、明後日には間に合わない。替えの体操着はもちろんあるが、今日このまま帰ってしまえば、明後日、それもおそらく雨が降っている中、二日分の体操着と教科書類を抱えて帰ることになる。  
ため息を一つついて、ネイトは結局踵を返した。  
無人の階段を上って自分の教室に入った。やっぱり残っている生徒は一人もいなかった。寂しい机と椅子の列を見回して、後ろ手にドアを閉める。  
真っ直ぐ自分の席へ歩いたネイトは、荷物を手に取ったとき、それを見付けた。机のすぐ横、床の上に放置された少し大き目の巾着袋。  
誰かの落とし物だろうか。手の荷物を机の上に一旦戻し、巾着袋を拾った。引っくり返して、持ち主を確認する。  
すでに字は薄く、ところどころ消えかけているが、それでも十分に読み取れた。  
いったい何時から書き直していないのか、縫い付けられた名札にあったのは、下手な平仮名で「あおい とうり」。  
よくよく見れば、この巾着袋の形、色、手触りには覚えがある。今は使っていないが、かつて自分も幼い時に使っていたからだ。  
これは体操着袋だ。葵・トーリの。  
「やれやれ、仕方のない王ですこと」  
今日はトーリも体育の授業に出ていたから、袋に入っている体操着は、当然使用済み。  
このまま放置した場合、トーリは明日の夕方に持って帰ることになる。予報では明日の天候は雨だから、明後日の朝、トーリの手元には乾いていない体操着があることになる。  
「ふむ」  
どうせ自分の体操着も今夜洗わなければいけないのだ。一人分洗うのも二人分洗うのも大差はない。拾ったついでだ。洗って返してやればいい。  
「とはいうものの、袋に変なもの入れてないでしょうね。十八金なのは装飾品だけでいいですわよ……」  
袋に手を入れて、中身を取り出す。丸めて放り込まれた体操着が出てきた他には、何もない。少しだけ安心した。  
 
しかし、まあ。  
手に持った、脱いだまま丸めたと思しき体操着を見やる。トーリのことだから、きっとこの形のまま洗濯籠に入れてしまうんだろう。  
「まったく、もう」  
ネイトの口から苦笑が漏れる。ちょっとだけでも畳んでおけば、袋から出すのも楽だし、洗濯するときに広げるのも簡単になるのに。彼の洗濯物を毎日やることになる奥さんは大変ですわね。  
……奥さん?  
自分のその言葉に気が付いた瞬間、ネイトの頬に熱が来た。  
いやいやいやいや! いくら洗濯してあげるといっても私は騎士ですので!  
叙任はともかく、まだ婚約してませんし! そう、私は嫁ぐ方ではなく、仕える方ですので!  
ええと、なんといいますか、ハチ公みたいにってそれは犬ですわ!  
ああでも忠犬の如くというのは、あながち悪い感じはしませんわね……ではなく!  
ぐねぐねしながら煩悶していたら、握っていた体操着の塊が解けた。  
「あ」  
丸められていた木綿の上着の中から、短パンが落ちる。床に舞い落ちたそれは、尻ポケットを上にして床に広がった。  
「……はあ」  
自分自身にため息が出る。  
たかが体操着袋の中を確かめるだけなのに、つまらないことで取り乱して短パンを落としてしまった。  
手の残った上着を四つ折りにして巾着袋に入れる。その巾着袋は、机の上がすでに塞がっているので、とりあえず椅子の上に置いた。床に広がった落ちた短パンを拾おうと、手を伸ばす。  
「まったく、時代が時代では、こんな恥ずかしい態を上司に見られたら懲罰ですわね……」  
つぶやいたネイトの手が、短パンに触れる寸前で止まった。  
「もしそれがトーリなら、トーリだったら……」  
どんな罰を与えるのかしら。  
これは、ただの想像に過ぎない。トーリは意地が悪いことはしないし、きっと、こんなことで罰なんて考えない。  
だってトーリなんですから。  
……でも、本当に?  
彼は、何度言っても、おちゃらけて犬呼ばわりをする。こちらが本気で嫌な気分のときはしない。  
でも、その場の空気とノリでこちらが許容すると見れば、すかさず言ってくる。  
彼なりのコミュニケーション? ……それとも意地悪?  
どんな人間にだって、暗い部分、意地が悪い部分はある。いつも明るいトーリにだって、見せないだけできっとあるはずだ。  
もしその部分が、私にだけ、粗相をしてしまった私にだけ、向けられたとしたら。  
「王の服に何やってんだよ〜。駄目駄目じゃん、ミトツダイラ〜」  
トーリの声が聞こえる気がする。分かっている。自分の妄想だ。トーリは決して、こんな風に嬲るような口調はしない。  
「これは懲罰ものだな!」  
決して、こんな風に嬉しそうに言ったりはしない。  
「ちょいとばかし、王に対する敬意を示していけーい、なんてな!」  
殴りますわよ。  
「ちょっと間違えちゃいましたマジすいません!……んで、聞くけど、ミトは俺の騎士なんだよな?」  
「ええ、それは誓って言えますわ」  
「だったら決定ー。短パンを拾ってちゃんと袋にしまうこと。ただし犬の真似で。それがミトへの罰な!」  
「な! 私は騎士、それも狼の騎士ですわよ。それを犬扱いする気ですの!?」  
「嫌なの?」  
「当然です! 屈辱極まりますわ!」  
「じゃあますますやってもらわないと。だって罰なんだからさ」  
「くっ……」  
分かっている。トーリはこんな話の持っていき方はしない。自分の、ミトツダイラ・ネイトの妄想に過ぎない。  
でも、他にも分かっていることがある。  
床にはトーリの短パンが落ちており、落としたのは自分だということ。  
教室には誰も他人はいないということ。  
今なら、自分を見る人はいない。――例え、どんな痴態を晒していたとしても。  
 
短パンを落とした場所から三歩下がった。  
先の床にあるのは、拾えと命じられたもの。  
そこに視線を残したまま、膝を床に置き、手を伸ばした。頬が熱い。  
甘い掃除で残された砂粒を感じながら、ネイトは四つん這いになった。  
「ああ……」  
腕が、膝が震えている。  
誇り高き騎士である自分が、こうして両手両足を床に付けている姿勢は、服従しているようにしか見えない。  
身も心も、何もかもを隷属させ、所有物となっている姿。  
前へ進もうと、犬の如く右手を上げたネイトの耳に、トーリの声が優しく囁く。  
「ネイト。ちゃんと鳴き真似しなきゃ駄目だろ」  
「う……」  
いくら妄想といえども、ひどすぎる。  
猛き狼としてミトツダイラの名を持つ騎士の私を、愛玩動物みたいに扱って。  
だけど、それが我が王の命なら……。確かにここにいるのは自分だけ。でも……。  
早鐘のような心臓の鼓動が耳に響いている。頬にあった熱さは、すでに耳にまで伝染し、思考を覆いつくしている。  
逡巡し、天秤にかけられたそれは、ゆらゆらと揺れ、  
「……わん」  
小さな声。だが、言ってしまった。妄想に突き動かされ、自分の誇りを汚すような真似をしてしまった。  
床に頭を伏せる。熱さが逃げていく。しかし、  
「よくやったな。えらいぞ。俺の可愛いネイト」  
褒められた。ちゃんと言うことを聞いたら、褒められた。  
反動のように熱さが戻ってくる。否、さっきよりも更に熱い。  
ネイトは自覚した。顔が熱い。耳が熱い。息が熱い。もはや顔だけではなかった。全身が熱い。  
こうして床に這い蹲り、身も心もトーリに所有されて。  
自分の浅ましい姿をトーリが見つめている、それが、感情を、全身が奮えるほど高めている。  
前に進もうと手を持ち上げると、床には蒸発した汗に縁取られた跡があった。  
犬の真似、というトーリの言葉を意識して、口を開いて舌を突き出し、尻尾を振るかのように腰を揺らしながら両手両足を動かして、床に落としてしまった短パンの前まできた。  
手を伸ばそうとしたら、またもや自分にしか聞こえないトーリの声が、囁いた。  
「犬なら手は使えないよな?」  
はい、と返事しそうになったところを、先のやり取りを思い出して言い直す。  
「……わん」  
よしよし、と背中を撫でる手の平の重みさえ、感じられた気がした。  
 
足と手の位置はそのままで肘を畳んで尻を突き上げる。背を反らした姿勢にして、顔を伸ばした。  
もう目の前に迫った短パンからは、運動した汗の匂いが立ち上っている。  
トーリの匂い。袋に入れられ時間の経ったそれは、すでに臭いと書くべき段階にある。  
人狼の血を引く、常人よりも鋭いネイトの嗅覚に、強烈に突き刺さる。  
だが、荒い鼻息は止まらない。  
呼吸するたびに、トーリの臭いが、鼻を、喉を、脳を痺れさせる。  
ネイトの唇が、布地の上を滑る。尻ポケットを、腰骨の上を、両足の付け根を。  
だが、どれだけ唇を這わせても、鼻の高さが邪魔をして、どうしても口で咥えられない。  
ネイトの耳には、トーリのため息が聞こえた気がした。  
このままでは王を失望させてしまいますわ。役立たずと思われるかもしれません。  
こんなことでは、もう褒めてもらえないかもしれない。そんなのは、断じて、嫌。  
どうやっても、この王の命は果たさなければ。  
ネイトは顔を横に倒して床に沿わせた。頬に冷たい感触を覚える。  
構わず口を開けて、桃色の舌を伸ばして、足を通す場所に先端を挿し込もうとする。  
だが、トーリの汗を吸った布地はなかなか思う通りにはいかない。  
あちらこちらと試すうちに、唇の端から溢れるよだれが顎を濡らし、教室の床に滴の跡を残す。  
なかなか上手くできません……。でも、ここで手を使ってしまうことだけは、決してしてはいけませんわ。  
――だって犬に手は使えないんですもの。  
必死に桃色の舌を潜り込ませようとしているネイトの目に、わずかだが布地が綰れている箇所が見えた。  
両足の付け根部分。ほつれないよう、頑丈に縫い合わせてあるおかげで、綺麗に落ち広がっているにもかかわらず、空間が出来ている。  
ここなら……。  
ネイトは顔を近付けた。その途端、形のよい鼻に、一層強い臭いが突き刺さる。  
トーリの、自分を所有する者の臭い。それを鼻息を荒くして舌先ですくおうとしている自分。思っただけで、唾が溢れ出た。  
口の回り、顎の先までよだれまみれにして、しかし、トーリの衣服は汚さぬよう、慎重に舌先を這わせる。  
失敗。全員の震えが舌先まで伝わって上手くいかない。  
いくら興奮しているとはいえ、落ち着かなければ。  
姿勢はそのままで深呼吸する。肺の奥深くまで、トーリの空気が充満する。鼻の奥を突き破り、脳まで充満したかのように錯覚した。  
その感触を全身に行き渡らせようと、二度、三度、深呼吸を繰り返す。  
もはや溢れんばかりのよだれを、音を鳴らして飲み込み、ネイトは震える舌先を、そっと伸ばした。  
今度は上手くいった。ほんの僅かだが、隙間に潜り込む。思わず安堵の息が漏れた。  
取り零さないよう慎重に舌をくねらせて、少しずつ奥へと進める。  
唇まで潜り込んだ時点で、そっと口を閉じた。持ち上げる。一緒に短パンも上がってきた。  
よかった、上手くいったようですわ。  
後は、この短パンを巾着袋に入れるだけ。  
口には咥えたまま、椅子の上に置いてある巾着袋に鼻先を入れて開けた。  
瞬間、中にこもっていた汗の臭いが流れ出てきた。  
今までとは比較にならないほど強いトーリの体臭。香水などとは全く違う、どのように表現しようとも芳しいとは決していえない臭い。  
だが、これこそがトーリの臭いなのだ。短パンを口に咥えたまま、胸一杯に吸い込む。  
もはや、自分の何もかも、さっきから溢れそうになっては飲み込んでいる涎までもが、トーリに支配されている感覚がする。  
その感覚が命じるまま、手を使わず、まさに犬のように口を使って、短パンを押し込んだ。唇を開けて、咥えていた短パンを放す。  
少し離れて見てみると、まだ半分以上外に出ていた。  
これでは、袋にしまったといえませんわね。  
股間部分を咥える。強い臭いがかえって嬉しい。  
尻の中央を鼻先を押し込む。背中を撫でてくれる気がして、わざとらしく鼻息を鳴らしながら深呼吸してしまう。  
舌先も使う。吐き出す息が、たまらなく熱い。  
そうやって、なんとか八割ほど巾着袋に詰めたところで、  
「よしよしもういいぞ、俺のかわいいネイト。続きは家に帰ってからしような!」  
「続きってなんですの!?」  
叫んだ瞬間、我に返った。  
 
 
周囲を見回す。  
誰もいない教室。すでに真っ暗で、窓の外に見える夕日は、小指の先程度しか残っていない。  
巾着袋が目に入る。中に入っているのは、トーリが今日使った体操着で、汗をかいていて、家に帰ったら続きを……。  
「ゴ、ゴクリ」  
思わず口に出して言った直後、あわてて教室を見回す。  
誰もいない。  
「はあ……」  
私はいったい何をしているんでしょう。  
いくら無人の教室で妄想に突き動かされたとはいえ、あんなはしたない真似をしてしまって。  
でも、ちょっと楽しかったかもしれません……。  
自己嫌悪と少しの期待がない混ぜになった説明できない気持ちが残っている。  
この感情はなんだろう。  
「帰ってから、ゆっくり考えてみることにしましょう」  
続きとは一体何のことなのかも考えなければ。  
自分の鞄と、そこには入りきらないトーリの体操着袋を持って、ネイトは教室を後にした。  
 
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。  
「フフフ、こんばんは。奇遇ね?」  
振り返ると、葵・喜美がいた。  
「こんばんは。もう帰るところですわ」  
そう、と言った喜美はネイトの鞄に寄せて置かれた巾着袋に気が付いた。  
「ありがとう。愚弟の忘れ物を持ってきてくれたのね」  
用事が済んだわ、とばかりにトーリの体操着袋を喜美が手に取る。  
「あっ」  
ネイトは思わず言葉を漏らした。  
「"あっ"て何かしら? いけない騎士樣ね。持って帰ってあんなことやそんなことでもするつもりだったの?」  
教室での痴態を思い出して、ネイトは赤面した。だが、すぐに思い至った。さっき教導院にやってきた喜美が知っているはずがない。自分が言いさえしなければ、露見することもない。  
大丈夫、この場は誤魔化せる。  
「ごほん。ば、馬鹿なことを言わないでいただきたいですわ。あんなこともそんなこともありません」  
喜美はネイトの赤面した表情を横目で見ると、  
「あら? あらあら! 冗談のつもりだったのに。これは瓢箪からなんとかね!」  
「ち、違います。私は、その、ただなんとなく持って帰ろうとしただけですわ!」  
「フフフ、なんとなく! なんとなくね! 私もなんとなく皆に、特に愚弟に言いたくなったわ!  
 どこぞの騎士様がお仕えする総長殿の体操着袋を持って帰って、あんなことやこんなことをするつもりだったのかもしれないってね!」  
「見てもいない、そもそもやってもいないことを吹聴するのは、犯罪ですわよ」  
「"した"なんて言わないわ。"していたのかもしれない"と言うだけ。嘘じゃないわ。  
 そうそう、あまり関係ないけど、私、貴女のごまかしが下手な点は好きよ。ええ、もう大好き」  
「……何が望みですの」  
「あら。望みもなにも、愚弟と今後とも仲良くしてほしいだけよ? 仲良く、ね?」  
「……」  
「愚弟の後宮は充実しそうね! 楽しみだわ」  
ミトツダイラ・ネイトの明日はどっちだ。  
 
 

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