深夜。
エテリア達さえも眠ってしまったかのような、静穏と闇に包まれたテオロギアの一角に、いまだ微かな明かりの灯る場所があった。
ガラスのチェステーブルに木製の椅子が二脚、その隣に飾り気の無い白いベッドが一つ置かれるだけの、簡素な部屋。
特筆するべき点があるとすれば、ドアを開けて右側の壁に小さな棚が取り付けられていることくらいだ。
そこには赤紫や琥珀色の液体がつまった大小様々の瓶が、上品な装飾がなされたラベルを外に向けて整然とおさまっている。部屋の主の嗜好品なのだろう。
そして、天井の小さな照明に灯る薄暗い橙色の光を受けて、ベッドに浮かび上がる肌が、二つ。
ヴィティスとアルミラ。
純白のシーツにくるまれた二人は、ヴィティスが左側、アルミラが右側、と向かい合う形で横たわって目を閉じている。
床には、脱ぎ捨てられたままの形で放置されている衣服が二組。
ベッド横のモノクロの戦場は、王を狙ってきた黒衣の女王が、白亜の騎士に討ち取られた場面で停止していた。
「…ヴィティス。」
壁に掛けられた時計の音だけが響く中、眠っているかのように見えていたアルミラが、唐突に口を開いた。
「…何だ？」
こちらもまた眠っているかのように見えていたヴィティスは、伏せていた目を開き、そう返した。
「ヴィティス、お前は、視線に痛みを感じたことはあるか？」
アルミラも伏せていた目を気怠げに開き、すぐ前にあるヴィティスの顔に焦点を合わせる。
ヴィティスの方はというと、正面から投げ掛けられた脈絡も何もない問いに、少々戸惑ったような表情を向けた。
「…いったい何の話だ？」
そう質問に質問で返されたのを特に気にした様子もなく、アルミラはヴィティスの顔から視線を外すと、言葉を紡いだ。
「つい先日、大規模な人間達への粛正があったことは知っているか？」
「ああ。南の方に出来ていたという地下組織へのものだろう？…集落を二つ三つ消したと聞いたが。」
「その通りだ。私も神命を賜り、その場へと赴いた………」
(これで最後だな…)
レクスに覆われた右脚を宙に一蹴りし、今し方ついた赤い液体を振り払うと、アルミラは辺りを見回した。
踊り狂う炎以外、動くものの無い世界。
その熱に食い荒らされているのは、建物だけではないのだろう。体にまとわりつく空気に、微かな臭気が混じる。
(…長居は無用だな。)
これ以上することもないと燃え盛る集落に背を向け、飛翔すべく膝をたわめかけた―――その瞬間。
――ガシッ！！
「っ！！？」
突然後ろから何かに足首をつかまれ、思わず驚愕の声を上げる。
振り向き、地に落とした視界に捉えたものは。
「 」
恨み言を吐いたその人間の顔は、間違いなく先程自分がなぎ払ったもので。
交わった視線のその先、我が身を映す瞳に宿る、黒い怨嗟の焔が―
思考の片隅を、軋ませた。
「………その人間は間もなく息を絶やした。だが私はいまだに、あのたった一瞬の光景を思い出すことがある…。」
その言葉を最後に回想を語り終えたアルミラが黙すると、部屋の中は再び時が刻まれる音のみを残し、空気さえも止まったかのような静寂に包まれた。
数秒の沈黙。
「…それは、君がその人間に対して罪悪感を…哀れみを感じた、ということか。」
軽くうつむいて微動だにしないアルミラの顔を真正面に捉えたまま、ヴィティスは二度目の問いを口にした。
「……分かっている。愚かな人間などに、そんなものを感じるのはおかしいということくらい。」
ヴィティスの問いに含まれた重い雰囲気を、非難だと取ったのだろう。返した言葉には自嘲の響きがあった。
「神に歯向かう存在など、世界の歪みと同義だ。だからこそ、我ら御使いが手足となり動く。…アルミラ、もう休め。疲れが思考を麻痺させることもある。」
受け取ったヴィティスは諭すような口調で、だがはっきりとそう言うと、右腕を伸ばし、滑らかな曲線を描くアルミラの身体を自身のほうへ引き寄せる。
腕の中にその肩を収めてしまうと、余った左腕を枕代わりにしてやり、丁度口の高さに来ている額に軽く口付けた。
「…そう、だな。そうかもしれん。……しかし戻ったばかりだというのに、疲れるようなことをさせたのは誰なんだ？」
「……………。」
「フ、冗談だ。…では、有難くお言葉に甘えさせていただこう。」
冗談めかして言ったはずが、真剣な顔をして黙ってしまった相手に苦笑しつつ、アルミラは目を閉じた。軽口を叩いてはいたが、やはり疲れていたのだろう。間もなく、規則正しい寝息がヴィティスの耳に届いた。
(…眠ったようだな。)
額にかかっている薄いピンクの前髪を軽く梳くが、相手からの反応はもう返ってこなかった。
(罪悪感か……)
―神々の支配が弱まっているのか？
アルミラの話を聞いている間ずっと、ヴィティスはその可能性について考えていた。
しかし人間達はともかくとして、御使いの中で神々に刄を向けたものがいるという話は聞かない。
…たった一つの例外を除いて。
(真実を知るのは、私一人でいい。)
今目の前に居る、愛しい存在。
できることなら、現実へと還ったときの悔恨を味わわせたくはない。
だがそれは叶わないのだろう。
あの子供の存在によって終焉が訪れる日は、おそらくそう遠くない。
(ならばせめて今は、神々のゆりかごの中で偽りの夢を。)
一筋の祈りとともに、ヴィティスもまたゆっくりとその瞳を閉じる。
チェスボードの上の騎士は、ただひたすらに、次の一手を待っていた。