玄関の扉を後ろ手に締めるとそこに背中で寄りかかったまま、ドロシーは手で顔を覆うように  
して床へとしゃがみ込んだ。  
「言っちゃった……!!」  
常に傍を離れない赤い生き物が、精一杯の勇気を振り絞った主人を讃える。  
「ご主人は頑張りました、頑張りましたぞ。……しかし、本当に犬野郎でよろしいのですか?」  
確認するように尋ねる。  
そう、トトは以前主人に誓った通り、ずっと沈黙を守ってそばにいたのだ。  
「こらっ、そういう事言わないって言ったでしょう!」  
「面目ない。…あとは奴の返事次第ですな」  
「うん……でも言うだけ言ったからね。ああ、心臓がどきどきしてる。飛び出してどっかに  
行っちゃいそう…」  
「そんな事になったら死んでしまいますな」  
「トトったら!からかわないで」  
服を払って立ち上がると猫を振り返りながら声をかけた。  
「もう朝だけどお風呂を使ったらもう少し寝ようね」  
彼女もあれでは寝足りなかったようだ。  
トトは宙に浮いたまま、それには答えず不満げに漏らす。  
「しかし…口付けはちともったいなかったのではありませんか?」  
「ト…!しぃっ!そういう事言わないのっ!」  
トトの台詞を聞かれたらと慌てて周りを見回したが、兄の姿はない。起きて待っているかも、  
とガルムは言っていたがもう夜明けだ。さすがに寝ているのだろう。  
「お兄ちゃんには内緒だからね?」  
「もちろん心得ておりますぞ」  
「まったく、いつだって返事だけはいいんだから……」  
小声で話しながらドロシーは自室へと入って行った。  
 
 
太陽が中天を過ぎた頃、小さく欠伸をしながらようやくドロシーは目を覚ました。  
「おはようございます、ご主人」  
「おはよう、トト」  
「よくお休みでしたな。もうお昼をとうに過ぎていますぞ」  
「えぇっ!?」  
慌てて寝間着を着替え居間を通り台所に行くと、そこには食事の支度とフィールからの伝言が  
残されていた。  
 
 
|おはようドロシー。  
|昨夜はちゃんと帰って来たようで安心したよ。送ってくれたガルムに今度きちんとお礼を  
|しないといけないね。  
|食事は適当にしていくから心配しないで。ドロシーもたまにはゆっくり朝を過ごすといいよ。  
|では行ってきます。  
 
 
「お兄ちゃんに悪いことしたなぁ」  
うなだれて寝坊を反省する彼女に空飛ぶ従者はあっけらかんと言った。  
「いいではありませんか。ゆっくりしろと書いてあるのですし。しかし、はっはっは。  
フィールの奴、まさかご主人が昼過ぎまで寝ているとは思わなかったようですな」  
「トトっ!」  
自分をからかう飼い猫に、ドロシーは頬を膨らませた。  
彼女は明け方寝台に入ってからも自分のしたことを思い出して、なかなか寝付けなかったのだ。  
勢いで物を言うものではないなぁ、とほんの少し後悔しながらも、そうでなければきっと告白  
出来なかっただろうと思い返す。その繰り返しで掛布をかぶって寝がえりを打ってばかりいた。  
それについては何も言わないのがトトの優しさだろう。  
この忠実な猫は主人が本当に嫌がることは絶対にしないのだ。  
 
彼女はゆっくりその日一回目の食事をとると、その後はいつもの午後と同じように過ごした。  
部屋を掃除したり、洗濯をしたり。  
夕食の仕度をしていると彼女の兄はいつもより早く、日が傾き始めるころ帰宅した。  
 
 
「いいさ、たまには休んだって。毎日頑張っているんだもの。お前、僕に昔言ったろう?  
時々休めって。僕に比べてお前は雨だから家事を休もうなんてこともしないんだ。たまの  
寝坊くらい気にしなくていいよ」  
帰るなり寝坊したことを謝る妹に、フィールは優しい言葉をかけた。  
「で……?」  
「…?なぁに?」  
「お前、結局いつまで寝てたんだい?朝まで起きなかったらとは言ったけど、ガルムに送って  
もらったんだろう?」  
「……けがた」  
「え?」  
「明け方、まで寝てたの」  
目元を染め恥ずかしそうに答える妹に、フィールはさすがに驚いた。  
「そんなに…よっぽど疲れてたんだね」  
「ううん、お酒を飲んだからだと思う……思いたい」  
「ジュジュとさ、お前は寝たらなかなか起きないんだって話をしたんだけど」  
「…!確かにそうだけど、そんな話、人にしなくてもいいじゃない!お兄ちゃん、ひどい!」  
「うんうん、ごめんね」  
不満げな顔のドロシーに適当な返事をする。  
「それじゃあガルムはそれからドロシーを送ってきてくれたのか…悪いことしたなぁ」  
彼は前髪をかき上げながら、余計な気をまわしてドロシーを彼に任せたことを悔やんだ。  
「でもそんな時間だったらお前、一人で帰っても良かったんじゃないか?トトもいるんだし」  
「そんなの、私だってガルムさんに言ったけど!…言ったけど……お兄ちゃんに送って  
行くって約束したから駄目だって」  
思い出してまたも暗くなってしまった妹に、不用意な発言をしてしまったとフィールは慌てた。  
「そういえば今日も行くって言ってたけど、行かなかったのかい?」  
「ん。だってガルムさん眠そうだったんだもの。私を待っている間中、隣の椅子でうとうと  
してただけみたいだし、無理言えないよ……」  
ますます落ち込む妹にもうなんと慰めの言葉をかければいいのか分からない兄だった。  
 
 
入口の扉が開き、鈴が音を立てた。  
入ってきた人物に、ヴィティスは軽く眉をあげる。  
「やあ、いらっしゃい。君が来るとは珍しいな…こっちにどうぞ」  
身振りで示すとガルムは言われたとおり、ヴィティスの正面の席に着いた。  
「何を?」  
「俺は酒のことはよく分からんからな。あまり強くないものを頼む」  
ヴィティスは頷くと、酒瓶が並ぶ棚から適当にガルムの希望に沿うものを選んだ。ゆっくりと  
酒杯に注ぎ飲みやすいよう水で割ってやると、彼の目の前へ差し出す。  
だがガルムはそれを手に取ったものの、すぐに口をつけようとはしなかった。じっと中の  
液体を見つめているだけだ。  
琥珀色の液体に店内を照らす灯りが小さな月のように映っていた。  
 
「飲まねぇのか?」  
その声に横を向くと、壁際にレオンがいた。  
彼の存在に気づかなかったことにガルムは舌打ちをする。ぼんやりしていたところを見られた  
のが嫌だったのだろうか。  
顔を正面に戻すと呆れたように眉を寄せた。  
「貴様、昨日も寄って行ったのだろう?毎日毎日…ほどほどにしておけ」  
「おうよ。隣、座るぜ」  
彼の説教を流し、レオンは自分の酒杯を持ってガルムの横へと移ってきた。  
「どういう心境だ?こんなところに来るなんて」  
レオンの記憶が確かならば、ガルムがこの店に来たのは開店以来のことではないか。  
店主と違っていちいち理由を聞きたがるのは、彼が根っから面白いこと好きだからに違いない。  
といってもガルムの来店の理由が面白いかどうかは聞かなければ分からないのだが。  
 
「こんなところとは御挨拶だな」  
ヴィティスが口をはさみながら新しい杯をレオンの前に置いてやる。催促なしでも次を出して  
くるのはいつものことだからだろう。  
 
早速それを一口飲むと、レオンは首をかしげて尋ねた。  
「なんか酒を飲みたくなるような事でもあったのか?」  
「……」  
ガルムはそれには答えずに酒杯に口をつけた。  
甘やかで芳醇な味わいに、胸の奥へと心地よい酩酊感が広がってゆく。  
「どうだ?」  
「ああ、美味い」  
ヴィティスの問いに頷くと素直に賞賛の意を表した。  
もともと酒に酔うのは嫌いではないのだ。ただそんなに量が飲めないし、あえて飲みたいとも  
思わない。そのせいでわざわざこの店に足を運ぶこともなかった。  
 
目を閉じて余韻を味わう。  
昨晩の飲み方を見るとまだまだ酒に強くなりそうな気がする、とガルムは自然とドロシーの  
事を連想した。  
 
彼女もこういう店に来るようになるのだろうか。そう、もうこういう店に来れるほどの年齢に  
なったのだ。  
初めて会ったときは彼の腰ほどの背丈しかなかったことを思い出す。  
そんな子供が二人きりで暮らす兄を助けたいと言うのでそれならばと声をかけた。力不足を  
嘆く少女につい手助けをしたくなったのはガルムの性格だ。見過ごせなかった。  
共に過ごせば目の前でおさげを揺らし、くるくると動く姿は見ていて微笑ましかった。  
そしていつの間にか見ていて苦笑するばかりだった、家族を思うフィールの気持ちを理解する  
ことになる。  
なのに、その少女から告白されてしまった。  
溜息をつき何故こんなことになったのだろうと今まで過ごしてきた時間を回想する。考えても  
彼女の気持ちの始まりなど、わかるはずもないというのに。  
彼にしてみれば応えられる道理がないのだ。共に生きる者として寿命の違う種の相手を  
どうして認められよう。  
そう答えれば納得するだろうか。泣いてしまうかもしれない。いや、そんな時すらあの少女は  
気を遣って無理に笑顔を見せるのだろう。  
 
この夜が明けなければいいのに、と珍しくガルムは後ろ向きなことを思った。  
 
 
「なぁ、何を考えてんのか、当ててやろうか?」  
考え事をしている彼に、レオンは遠慮なく話しかけてきた。にやにやしながらの台詞は  
ふざけて言っているようにしか見えない。  
真剣に考えている最中にこういう態度をされると腹が立つもので、ガルムは苛立ちを隠そう  
ともせず言い捨てた。  
「ふん、貴様に分かるはずもない」  
「さぁて……」  
 
頬杖をつきしばらく彼を見ていたレオンがぽつりと呟く。小声だったのは、当ててやろうかと  
言ったものの、自信がなかったからかも知れない。  
「お嬢ちゃんに告白された、とか?」  
「何?」  
まさに考えていたことを指摘され、ガルムは目を見開いた。  
「どうしてそれを」  
「おいおい……何だ…本当に告白されたのかよ」  
言い当てた方も驚いている。  
 
ガルムは考えを巡らせた。彼女が言うはずはない。そのくらいは分かる。  
と、すれば。  
「まさか、貴様ら知っていたのか?」  
レオンは気まずそうに鼻の頭をかいて目をそらし、ヴィティスは棚の方を向いたまま返事を  
した。  
「まあ、な」  
「ああ」  
「何故俺に隠していた!」  
「はぁー?」  
レオンが目を丸くすれば、ヴィティスは彼へと向き直り冷静に言い返す。  
「君らしくもない…少しは考えてみたまえ。彼女の気持ちを我々が勝手に伝えられるわけが  
ないだろう」  
レオンが隣でその通りだと頷いている。  
ガルムは言葉を飲み込んだ。  
それもそうだ。第一そういう行為はガルムの最も嫌うものである。彼らはちゃんと彼の性格を  
分かって行動しているのだ。  
言われて納得し、よく考えずに責めたことをガルムは二人に詫びた。  
 
「それで、どうすんだよ」  
「どうもこうも……答えなど決まっている」  
どの様に決まっているのか、言わなくても二人には通じたようだった。  
やれやれと頭を振り、レオンがヴィティスを見る。ガルムを顎で指すような仕草をした。  
「はぁ〜……こいつになんとか言ってやってくれ」  
 
ヴィティスは腕組みをして少しの間考え込んだが、建設的な意見は見つからなかったようだ。  
かえってガルムの判断に同意したともとれるような事を言う。  
「どんな助言をしても、君の意思を左右するものにはならないだろう」  
「左右されるつもりもないしな」  
「君が既に決めたのなら我々が余計な口を挟む事ではない。しかしそれで後悔はないのか?  
もう少し考えてみてはどうだ」  
「俺は常に最良と思う事しか選ばない。したがってその結果がどうでも後悔することなどない。  
それに――選択肢など始めから無いのだ」  
ヴィティスの慎重にという意見を断じてガルムは酒杯をあおった。  
 
「おいおい…」  
横から聞いていられない、というようにレオンが口をはさんだ。  
「てめえらの話を聞いてると、どうもむずむずするぜ」  
彼のため息混じりの言葉にガルムは顔をそむける。  
「ふん、まどろっこしいと言うのだろう…貴様にはわからんだろうな」  
「あーあー、わかんねえよ。面倒なこと言ってねえでさっさとくっついちまえばいいのにって  
思ってるからな」  
適当にドロシーを応援してるだけのような台詞。  
こういうところがあの赤いレクスに単細胞と言われる所以なのだとガルムは思った。  
「少しは考えたらどうだ。彼女は人間……だぞ」  
彼女の正体を知っているため、彼の言葉には言い切る強さがない。  
「だーかーら!そんなことばっかり考えてるから話が進まねえんだよ。いいか?そんな心配が  
必要になるのは二人が上手くいった場合だろ?」  
レオンは呆れたように頭を振るとガルムに言い聞かせるように言った。  
「む……まぁそうだな」  
同意しつつも眉をあげるのは、指摘されるまでそのことに気付かなかったからだろう。  
どうもガルムは根が真面目なせいか、付き合いを始めたらいつか必ず結婚に至るべきものだと  
考えてたらしい。  
そんな彼に対し、レオンは身を乗り出して言い諭した。  
「とりあえず付き合ってみりゃいいんだよ。普通はお喋りをしたり、手を繋いで出かけたり、  
ご飯を食べたり…はしてるか。夜を過ごして『ああ、この相手と離れたくない』とかなんとか、  
そういう気持ちになって初めてその後のこと……将来を考えるんもんだ。そんなに心配しなく  
ても最終的に駄目になる可能性だってあるだろ?やっぱり別れてください、ってお嬢ちゃんに  
振られるかもしれねぇ。俺に言わせりゃてめえの悩みは杞憂ってやつだ」  
 
「……」  
ガルムは黙って聞いていた。反論しないところを見ると、レオンの意見は筋が通っていると  
判断したようだ。  
 
「もし添い遂げようって気になったら、いよいよその時に悩めばいいんだ。…だろ?」  
「……」  
 
ガルムは暫くの間目の前の中身が半分になった酒杯を見つめていたが、それを一息に空け、  
急に立ち上がると、レオンを見下ろして苛立たしげに言った。  
「俺には貴様のようないい加減な考え方は出来ん」  
「へっ、そーかよ」  
レオンは予想していた反応に肩をすくめた。  
ガルムの悩みに悩んでいるこの姿を見たら、出た答えがどんなものであれ、誰もいい加減だ  
などとは思わないだろうに。  
しかしどれだけ理の通った話をしても、発言者がレオンでは素直な返事をする男ではない。  
支払いをしようとするガルムに、ヴィティスは手を挙げて制した。  
「今日は奢ろう。私はレオンの言う事にも一理あると思う。もう少し良く考えてみるといい」  
ヴィティスに短く礼を言うと、ガルムは店を出て行った。  
 
大きな背中を見送ってヴィティスが口の端をあげる。  
「ふ…どうも見てるだけだと気を揉んでしまうな」  
「けっ!ろくに助言もしないくせに良く言うよ。口が達者なんだからてめえが言やあいいのに」  
「誉められているような気がしないんだが……私はどうも理屈ばかりが先行してしまうから  
今のような話題には向いていないんだ。だから君に任せた」  
レオンは灯りの下がっている天井を見上げた。  
「は!お任せいただいてどーも。…まぁ、あれで奴の気持ちが前向きになりゃいいけどな」  
「君は二人が結ばれればいいと思ってるんだな」  
「今更なに言ってやがる。てめえは違うのか?……とはいえさっきのは自分で言ってて簡単に  
考えすぎだとは思った。お嬢ちゃんの方はきっと先のことまで考えての告白だと思うからな」  
「私もそう思う。彼女はその場の勢いでものを言うような子ではないし、一応自分が人間だと  
思っているだろうから…いつか置いて行かれる事を覚悟した上でのことだろうな」  
「そう、いつか……。!まさかあの野郎、それが怖いとか言うんじゃねぇよな?」  
「さて…」  
「お嬢ちゃんが本気なのは分かるし、ガルムだって奴には珍しくあのお嬢ちゃんをかなり気に  
入ってる。俺はありだと思うんだけどよ」  
「まぁ、泣かせて終わり、という結末にならないよう、祈っていようか」  
彼の台詞に賛同するようにレオンは杯を掲げた。  
 
 
翌日、昼も大分過ぎ、午後のお茶の時間になる頃、ようやくドロシーは支度を済ませ家を出た。  
「行ってきます」  
誰もいない家の中に声をかける。  
歩く道々、ドロシーが横をついて歩く猫に話しかけた。  
トトは日中は決して宙を泳ごうとはしない。村の誰かに見られたら騒ぎになると言う事を  
ちゃんと理解しているようだ。  
「ね…トト……ガルムさんの家に着いたら帰ってくれる?」  
「なんですと!?それはどういう事でございますか?」  
「二人で話したいから……駄目?」  
「駄目などと……ぬぬ……そうせよと仰るなら従うのみ。ですが帰りはお迎えに上がっても  
よろしいですな?ご主人を一人歩きさせるなとはフィールにも言われていること」  
この様子では家の外で待っております、と主張しても無駄だろうと思いトトは素直に承諾した。  
しかし譲れないところは譲れないとはっきりと宣言する。主人を守るのはまだ自分の役目だと  
信じていた。  
「うん。じゃ、いつも帰る頃に迎えに来てくれる?」  
「もちろんでございます」  
トトは満足そうに頷いた。  
 
ガルムの家の周りは白い柵が囲い、畑を荒らす獣などが入ってこないようになっている。  
最初の頃、ドロシーは彼は案外かわいい趣味をしていると思ったものだ。  
いくらかずれて続く敷石を踏んで、玄関へとたどり着く。  
ここで深呼吸するのはいつものことだが、今日は気合いが違っていた。彼女はいつもより大分、  
緊張している。それでも胸に手をあて息を吸い込むと、少しかたい声で家の中の人物に声を  
かけた。  
「こんにちは」  
 
ガルムが玄関の扉を開くといつものように大きな目をした少女が立っていた。  
彼は体を脇へずらして彼女を通してやる。  
「あのレクス…トトはどうした?」  
いつも黙って主人の後をついてくる猫がいないのを不審に思ったらしい。  
居間へ籠を置くと、ドロシーは彼を振り返った。  
「ちゃんと…そこまで一緒に来たんですけど、帰ってもらいました」  
ガルムはその理由を尋ねなかった。  
「そうか」  
これからの会話を他の誰かに聞かれるのはたとえあの猫でも嫌だったのだろう。  
その気持ちが分かったからだ。  
 
 
二人ともはなから、今日は料理などするつもりはなかった。  
ドロシーの訪ねてくる時間を見越して居間にはすでにお茶の用意がしてあり、彼女に椅子を  
すすめるとガルムは彼女の前に茶碗を置いてやった。  
 
手に取り口元にもっていくと、さわやかな香気が彼女の胸を満たす。  
「美味しい……」  
ドロシーは一口含んで茶碗を膝の上に置く。  
どうやって切り出そうと悩んでいたのも忘れて、自然に口から言葉が出てきた。  
「森の中の一人暮らしは寂しくありませんか?」  
「ふむ……」  
彼女の問いにガルムは窓へと目を向ける。  
空の青が既に薄い。  
庭の向こうに見える森の木々は少しずつ色づいてきていた。一面が紅くなれば冬はすぐだろう。  
 
「俺はやかましいのは嫌いだ」  
ドロシーは頷く。それは彼といればすぐ分かることだ。  
「なるべく人と関わらずに過ごしたい。ここなら周りの人間にああだこうだと言われる事も  
ないからな……だが人の声のかわりに鳥のさえずりや虫の音が聞こえるから、皆が思うほど  
静かでもなければ孤独を感じることもないのだ。ただ……時に周囲の音がやけに耳につく  
ことがあって、そう言うときは話し相手が欲しくなる」  
そこで言葉を切ると、彼は自分を見つめている少女の顔を見返した。  
「お前が来てくれるからな。今はそう感じることも無くなった」  
自分が話し相手になると言われて彼女はなんだか照れ臭くなり、つい下を向いてしまった。  
いつも話したいことを話しているだけなのに、それで彼の心が慰められているとは思わな  
かったのだ。  
 
「ドロシーよ」  
「はっ…、は、はい!」  
急に、しかも名前を呼ばれたことに驚き彼女はうわずった声を上げる。  
「返事を…せねばならんだろうな」  
核心に触れる彼の言葉に返事が出来ず、ドロシーはただ頷いた。  
 
「お前の気持には応えられん」  
 
彼女は俯いたまま目をきつく瞑る。  
両手に持った茶器に震えが伝わりカタカタと鳴った。  
 
ガルムからの答えは二つに一つしかないと分かっていたはず。ドロシーはそう自分に言い  
聞かせた。今更でも動揺を隠さなくてはとやっとのことで茶器を置く。  
 
もとから諦めていたことなのに、こうして答えを出されるとどうしてこんなに悲しいのだろう。  
うつむく心に違う、まだ駄目だと自分の中から声が聞こえた。  
そう、やれるだけやってみればと言ったのは大好きな兄。  
今にも心が折れてしまいそうだったが、自分を励ましガルムに目を向ける。  
「…理由……理由を、伺ってもいいですか?」  
「言っても詮無いことだ」  
「でも…理由くらい、知りたいです」  
ドロシーは珍しく食い下がった。  
理由によっては何とかなるのではないか。足りないところを補えるのならば努力したい。そう  
思うのは甘いのかもしれないが。  
 
ガルムはいつもと様子の違う彼女に内心驚いていた。いつもならすんなりと引き下がるのに、  
それほど自分に執心なのだろうかと。  
今までの関係を止めたいわけでもないのに彼女を拒否するような会話を続けるのは、彼には  
大変な苦痛だった。だが彼女には彼女の、自分には自分の事情があるのだと気持ちを奮い  
立たせる。  
「俺とお前ではあまりにも年が離れているだろう」  
「えっ……?―――あの、他には……?」  
彼女は聞き間違えたか、というように眉をひそめた。  
「それに…何より種族が違う」  
ドロシーは彼の台詞に手を唇に当ててしばらく考えこむと、確認するように彼に問いかけた。  
「年下がお嫌いなんですか?私……私はガルムさんが40代でも50代でも全然構わないですが」  
言外にその人柄を愛しているのだと言う。  
だがいよいよ熱烈な告白にもガルムは首を縦に振らなかった。  
「いや、そういう事を言いたいのではない。お前は年頃で、まだ若いのだからもっと相応しい  
相手がいるだろう。周りを見てみるべきだ」  
「―――!」  
顔を見て言うのが辛いようで、ガルムは目を膝の上で組んだ彼女の手へとやっていた。しかし  
僅かに目線をずらしただけではドロシーが身動きするのが視界に入る。  
彼女は今のガルムの台詞に手で顔を覆ってしまった。  
 
ガルムはその様子に頼むから泣くなと祈る。  
自分のことなんかで悩んで欲しくなかった。他にいい人を見つけて幸せになってくれれば  
どれだけ安心か。  
 
「どうして……」  
ふっ、と彼女の口から嗚咽がもれた。  
「どうして、ガルムさんは…」  
こらえ切れない涙が指をすり抜けて頬に流れる。  
「相応しい相手って、一体誰なんですか?私が好きになった相手のことじゃ、ないんですか…。  
私のこと、一体なんだと思って……若いって言うのは私がまだ子供だって意味なんでしょう?  
大人だって言ったり子供だって言ったり……ガルムさんの一言で、こっちは一喜一憂してる  
のに!」  
これではまるで言いがかりだ。彼を詰りながらドロシーはそれを自覚していたが、止められ  
なかった。  
「それって結局、異性としては見れないっていう遠まわしな意志表示ですか?だったらそう  
はっきり言ってくれればいいのに。私、そこまで物わかり悪くありません!」  
ドロシーは感情のままに立ち上がり籠を掴むと、挨拶もしないで部屋を出て行こうとした。  
「待て」  
ガルムはとっさに彼女の前に立塞がる。  
こんな別れ方をしては次に顔を合わせるときに気まずい思いをすると考えたのか。いや、理由  
など考えているひまもない行動だったに違いない。  
「すみません、退いてください…今、頭が働いてないんです」  
進路を阻む彼の顔も見ないで告げる。  
そのようだと思いながらガルムもおとなしく退く気はなかった。  
 
「泣くな……泣き止むまで退く気はない」  
「――今は、駄目なんです。振られたのが分かってるのに…私の気持ちに応えられないって、  
それだけで十分なのに……私―――その理由に納得出来てません。失礼なこと言ったのも  
分かってます。でも…だから今日は…っ」  
最早自分でも訳が分からないと言った様子だ。  
「っく……退いて、下さい…お願い……!」  
普段が大人しいので感情が昂った時の激しさにガルムは驚いた。  
しゃくりあげ、ごしごしと手の甲で涙を拭うのは本当に子供のような。  
しかし、もう彼女には似合わない仕草だろう。  
 
 
居間の大きな窓からは夕日が射しこみ、あたりを秋の色に染めていた。  
 
「どうして…俺はお前を泣かせたいわけではないのだ……」  
無意識に伸ばした手にはっとし、慌てて引く。  
ドロシーはずっと下を向いていて気付いてはいないようだった。  
「どうしたら納得する。泣き止んでくれる」  
今まで聞いたことのない彼の懇願するような言葉に多少は落ち着いたのだろうか。彼女は  
泣き顔のまま彼を見つめると、先程よりも少し冷静にその心情を吐露した。  
「私…私は、ガルムさんの気持ちが知りたいんです。言い訳なんてしないでください!  
そういう対象に見れないって言うなら、諦めます。けど……カテナだとか人間だとか…年の  
ことなんか抜きにしても…私じゃ、駄目ですか……?」  
ガルムはとうとう観念した。  
こんな風に言われてしまっては、それ以上逃れることは出来なかった。  
ため息をつき、天井を仰ぐ。  
 
まだ悩んでいるような顔で彼女の問いに答えた。  
「年頃だ、大人だと言ったのはお前があまりに無防備にしているからだ。注意を促したかった。  
自分を守れるのは最後には自分しかいないのだから」  
そこまで言って正面を向くと潤んだ瞳が彼を見つめていた。  
どんな言葉も聞き漏らすまいとしている真剣な目。  
「そして」  
彼はもう一つ息をつく。  
 
「…子供だとは――自分に言い聞かせていたのだと思う。……手を、出さないように」  
 
その言葉に彼女の心臓が大きく跳ねた。  
驚きで、籠が手から滑り落ちたのにも気がつかない。  
どういう意味でいったのか取り違えないようにと追及する。  
「それって、どういう…」  
「どういうも何も……言葉通りだ。俺はお前が思っているほど大人でもなければ、己を律する  
ことが出来るわけでもない。そうありたい、と思ってはいるがな」  
彼は腕を伸ばすと慰めるように彼女の頭を撫でた。  
「今までこうして頭を撫でたり、手を繋いだりしてきたが、それがやっとだった…。この間も  
お前は眠ってしまったが、勝手におぶって送って行ったりしなかっただろう?女性の許可なく  
その体に触れるものではないと思ったし、下手に触れて己を止める自信が無かった」  
髪を撫でていた手が頬に下りてくる。  
「俺はきっと…お前が他人に許さないところまで暴きたくなる」  
思ってもみない彼の告白に、彼女の濡れた頬はあたりを染める夕焼けよりも赤くなった。  
「だがいつか来る別れのことを思うと……。お前はまだ若く、世間を知らない。告げるべき  
ではないと思った。他にもっと似合いの者がいるだろうと。お前は…?何故俺なのだ…俺より  
ましな者は沢山いるだろう」  
 
彼女は首を横に振った。  
顔を逸らして至近にいる彼を見上げる。  
「誰よりましとか…他の人と比べてガルムさんを好きになったわけ、じゃ…ありません」  
「……」  
「ガルムさんに料理を教わるようになってから、何回…このお家に来たか。ガルムさんは  
ずっと私に優しくしてくれましたよね」  
「それは…お前が気を使うに足る娘だったからだ。気持のいい心をした……」  
その言葉にドロシーは涙を拭いながら照れ臭そうに笑った。  
「沢山のいろんなことを教わりながらガルムさんと一緒に過ごした時間が、私をこうしたん  
です。それでもガルムさんを好きになったのはちゃんと私の意志ですから」  
「しかし…」  
ドロシーはその言葉を遮る様に首を振った。  
「覚悟なんかとっくに出来てるんです。だから…もし許してくれるなら、私が死ぬまでの  
ガルムさんの時間を、私にください。その時が来るまで誰よりも近くにいたいんです」  
これ以上ない求愛の言葉だった。  
「お前は強いな。…そこまで言われても、俺はその『いつか』が怖いのだ」  
 
思いきることは出来るだろう。  
住んでいるところを離れ時間が経てば、きっと全てを過去のことと懐かしく思う事ができる。  
だが、数えるほどしか生きていない少女にこうまで言われて拒めるだろうか。何より彼自身の  
心に背を向けることなど出来はしない。手を伸ばせばそこにあるのだから。そして相手は  
彼を望み、受け入れてくれるのだから。  
 
「お前がカテナであればこれほど躊躇う事もなかっただろう……いや、そんなことは理由に  
ならないか。どれほど年が離れ種族が違っても、心惹かれるのを止めることはできない…」  
ガルムは両手で彼女の顔を包みこむ。  
頬に湿り気を残す涙の跡は彼への思いからできたものだった。  
「では、その時まで俺を勇気づけてくれるか。励まし続けてくれるか」  
「………は…いっ……」  
彼女はそう返事するのがやっとだった。  
ガルムが応えてくれたという事が嬉しくて涙が後から後から溢れてくる。  
「ぅ…うわぁん……っく…ふぇ…」  
彼女は籠を足元に落としたまま、手で顔を覆い肩を震わせ泣きじゃくった。  
 
ガルムは彼女を抱きかかえるとそのまま長椅子へと腰かけ、泣き続ける彼女を膝にのせ、  
ずっと背中を撫でてやった。  
 
 
 〜つづく〜  
 

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