「すまんな」
居間に座っているガルムにお茶を勧めるとフィールも対面に腰をおろした。
フィールはにこにこと嬉しそうにしている。
「身内が言うのもなんだけど、可愛く育ったろう?僕を生んですぐに亡くなったから覚えて
いないけれど、これを見るたびに母さんにそっくりになったなぁって思うんだ」
彼は壁に掛けてある母親の肖像画を見上げた。
額の中で色の白い小柄な少女が微笑んでいる。柔らかい眼差しは誰に向けたものだろうか。
ガルムもつられてそれに目をやり、頷いた。
「そうだな、カインの奥方によく似ている」
「だろ?完全に母さん似だよね」
ちょうど彼の妹――ドロシーと同じくらいの年齢の時に描かれた物だろう。
「ところで、今日はどうしたんだい?」
フィールはお茶を一口飲むと本題に入った。
彼と彼の妹、どちらに何の用があったのか。扉を叩く音に玄関に行った時は驚いたものだ。
何しろガルムが訪ねて来るなど滅多にない事だったから。
ガルムはしみじみとその絵を眺めると、咳払いをして話を切り出した。
「あのな、言いにくいのだが…貴様の妹に、もうあまり俺のところには来ないように言って
欲しいのだ」
「えっ…どうして?ドロシーが何か」
まさかとは思うが、彼女が何かガルムの機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか。彼は
理由もなく『来るな』などと言う男ではない。
フィールが焦って尋ねようとするのを、手をあげ言葉を遮ってガルムはその訳を語った。
「さっき話があったが、あの娘も年頃だからな。あの性格にあの容姿では恋人に立候補したい
者も山といるだろう」
いつも穏やかで優しく、思いやりがあって、美しい。それにいざとなれば芯の強い部分も
見せる。そんな少女に懸想する者がいないとは思えない。
「うーん、まぁいるらしいけど…そんなにはいないよ。多分」
曖昧ながらも同意するのは、きっと『隣のおばさん』とやらにその手の話を聞かされている
からだろう。複雑な表情は、妹が誰かに好かれるのは嬉しいが寂しくもある、というところだ。
「まさかとは思うが、俺達のことを勘違いしてせっかくの求愛者が減ってはもったいない。
どうせなら沢山の候補者の中から好みの者を選ぶ方がいいからな」
遅きに失したかもしれないが、と彼は付け加えた。
ドロシーは昔のように頻繁にではないが、相変わらずガルムの家に通っていた。今はもう
習うと言うより二人で楽しく料理をしているだけなのだが、彼女が一人で森の中に入って
ゆくのはいつものこと。そして村の者も二人の関係を――先生と生徒だと言う事を知っている
はずだが、確かに本人達の耳に入らないだけで、色めいた噂はとっくに立っているのかも
知れなかった。
「どうだろう」
フィールはガルムの言葉に半ば納得しつつも首を傾げて反論した。
「気にしなくてもいいと思うけど……ドロシーに意中の人がいるのならともかくさ。好きな
人がいれば誤解されるのを嫌がるだろうし、心配しなくてもそれなりの行動をとると思うよ」
これにはガルムも頷いた。
「しかし出会いの機会を進んで潰すことになるのではないかと思ってな」
「でもなぁ…ドロシーが構わなければ僕は好きにさせてやりたいんだ」
彼女の意思が第一だという。だからフィールにはそれを理由にガルムのところへ行くなとは
言えないのだ。
「ドロシーはさ、ガルムのところに行くのをいつも楽しみにしてるんだよ。帰ってくると、
こんな話をしたとか、どんな料理を作ったとか。庭に赤い花が咲いていたとか、嬉しそうに
話してくれる」
「む……そうか」
自分の家でのことが二人の話題にのぼると言われガルムは戸惑った。
「一応それとなく言ってはみるけど……たぶん聞かないと思うけどなぁ、どうかなぁ」
フィールは腕組みをして首をかしげた。
「それならそれでもよい。俺とて来て欲しくないから言ってるのではないからな。…貴様の
妹は気分の良い娘だ、共に過ごすのは楽しく思っている」
この言葉はフィールにとって意外なものであった。ガルムは嫌いなもの、気に食わないこと
にははっきり言うが、好意を持ってもそれを口に出すような男ではなかったから。
「ガルムから見て、ドロシーは料理上手になった?」
「貴様、毎日彼女の作った飯を食べているのだろう。何をいまさら作り甲斐の無いことを…」
ガルムは呆れたように頭を振った。
フィールはそれに両手を振って言い訳をする。
「そりゃ美味しいと思ってるよ。だけど先生から見てどうなのかな、って」
「俺の意見も一緒だ。あれならすぐ嫁にいけるぞ」
「へぇ……」
「いや、女が料理をするべきと言っているわけではないからな。ただ適性があるというだけだ」
ガルムは出されたお茶を一息に飲むと立ちあがった。
西日が長い影をつくる頃、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
いつものように片手に籠を下げてドロシーが帰ってきた。台所から顔だけを出してフィールが
声をかける。
「お帰り」
「あっ、ごめんね。すぐにご飯作るから」
慌てて居間に荷物を置く妹に、彼は微笑んだ。
「いいよ、遊びに行ってたわけじゃないんだし。休みの日くらいはお兄ちゃんがつくるから
お前はすわってな」
「そう?んー…じゃ、お願いしちゃおうかな」
そんな事を言いながらドロシーも手伝ったため、支度はあっという間に済みいつもより早い
夕食になった。
「……でね、おばさんの所に行くと話が止まらなくて本当に困っちゃう」
両親がいないのを不憫に思ってか、隣のおばさんはフィール達にとても親切にしてくれる。
特にドロシーは、本来娘が母親から習うべきことのほぼ全てを教わっているので、本当に
母親がわりと言える人なのだ。
おかげでドロシーは裁縫や編み物、機織りの技術まできっちりと身につけることが出来た。
だがおばさんは、というかそれは主婦の特性なのか、よくある話だが大変なお喋り好き
だった。彼女の口から出てくるのは根も葉もないような噂話であることも多く、しかもそれが
ご近所の事だけにあんまりな内容だと相槌を打つのも躊躇われる。特に最近はドロシーが
あまり触れたくない内容を振ってくることが多いので、さすがに辟易しているのだろう。
「おばさん噂好きだからなぁ」
フィールはしみじみと相槌を打った。
そんな風にのんびりと世間話をしながら食事を終えると、いつものようにドロシーはお湯を
沸かしてお茶の用意をした。
フィールは妹が椅子に腰掛け話が切れたのを見計らってガルムの来訪について口にする。
「今日ガルムが来たんだけどね」
「…え…?……何しに?お兄ちゃんに用があったの?それとも、私に…?」
ただ世間話をしに来るような人ではないので、何かあったのだろうかと彼女も考えた。
「うん。お前にだって。それでね、もう家には来てくれるなって」
それとなく言ってみる、という自分の台詞を彼は覚えているのかいないのか、フィールは何の
前振りもなく可愛い妹に直球を投げつけた。しかもガルムの台詞の前部分を端折っていたため
彼女は絶縁を言い渡されたような冷たさを感じたに違いない。
「えぇっ!?なんで……」
ドロシーは思わず椅子から立ち上がると、身を乗り出して兄を問い質した。それどころでは
ないのか、茶器が揺れ、お茶がこぼれたのにも構わない。
「どうして!?」
強い語調とは裏腹に今にも泣きだしそうな顔の妹に、布巾に手を伸ばしながらフィールは
それがガルムの思いやりであることを伝えた。
「なぁんだ…」
彼女はフィールの話を聞いて、拍子抜けしたような声をあげた。緊張が解けたのか、背もたれ
に体を預けるようにずるずると椅子に座る。
「そんなの、別に気にしなくていいのに……」
ドロシーは子供がするように不満げに頬を膨らませた。
「年頃、年頃って、最近そんな話ばっかりで嫌になっちゃう」
おばさんの話もそんな内容が多いと言うのだ。
ドロシーは気付いてないようだが、フィールがおばさんに聞かされた話によると、自分の事を
アピールしてくれ、という若者が結構いるらしい。おばさんもその中から選んでドロシーに
話をしているらしいが、それに彼の妹は全然興味を持たないようだ。
まぁ、フィールも自分で言えないような根性無しは妹にふさわしくないと思っているのだが。
「それってさ、ええっと…ガルムさんのひいき目だよ。だって私、誰かに告白されたことも
無いのに…いきなり結婚なんて。気が早いよ、ねぇ?」
だから今まで通りガルムのもとに通いたいと言うのだろう。
フィールはそのことについては異論など無く頷いたが、実は彼にはそんなことより気になって
いることがあった。それは決して確信的なものではなく、もしかして、という位のものだった
のだが。
「ドロシー、おまえガルムのことをどう思ってるんだい?」
「え――?」
出し抜けに聞かれ、彼の妹は目を見開いた。
「何それ…」
「何って、分かるだろう?彼のことが好きなのか、って聞いてるんだよ」
「お兄ちゃん……!」
ドロシーは椅子に座り直すと困ったような顔をした。
そう、にぶいフィールが気付く程、彼女のガルムに対する様子は変化していたらしい。いや、
もしかして兄の勘、というものかもしれないが。
「何で急にそんなこと聞くの?」
「そんな気がしたからさ」
詰問するような言い方ではないし、やさしい目をしているが彼から伝わってくる空気は厳しく、
とても冗談でごまかすことなど出来そうにない雰囲気だ。
ドロシーは答えられずに手元の茶碗を見つめている。
彼女の兄は急かすことなく答えが返ってくるのを辛抱強く待った。
「あ…あの、私」
やっと頭をあげ口を開いた妹の顔がみるみるうちに赤く染まってゆく。
彼女は口ごもりつつも、これまで誰にも話したことのない気持ちを兄に打ち明けた。
「私、ね。ガルムさんのこと、すっ、好き…なの……」
言いながら俯いてしまうその様子はなるほど恋する乙女と言えた。
フィールはさらに追及する。
「異性として、という意味だよね?」
彼としてもそこははっきりさせておかなければならない。
「うん、…そう」
消えいるような声にフィールはそっと息をついた。
「なぜ話してくれなかったんだい?」
「……」
彼女は下を向いたままで答えはない。
「僕が男だから相談しにくかった?」
相談してもらえなかった寂しさを彼の言葉に感じたのか、ドロシーは慌てて首を横に振った。
「ううん…違うの!そんなんじゃないよ」
否定するドロシーの表情が憂いを帯びているのに、さすがに兄妹だけあってピンと来たらしい。
「……もしかしてガルムに言うつもりが無かった?」
兄にずばりと言いあてられ、彼女は素直に頷いた。
しばらく視線をうろうろさせた後、だって、と兄に言い訳をする。
「言っても困らせるだけだよ。ずっと、家族みたいに接してくれてたんだよ?急にその相手
から告白なんてされたら……ガルムさん、今までみたいに相手してくれなくなるかもしれない
じゃない。そんなのって、嫌だもの…」
ガルムの性格を考えると確かにその可能性はあった。ドロシーの気持ちを拒否してなお、
二人の間に気まずさを感じさせないほどの器用さが彼にあるとは思えない。
そしてドロシーはそんなことにならないよう、彼への思いを胸に秘めておくつもりだったのだ。
「お兄ちゃんやジュジュさんみたいにお互いに気持ちがあればいいけど、ガルムさんはきっと
私のことそんな風に見れないと思う」
もじもじと指を組んだり解いたりして弱音を吐く妹を、フィールは思わず励ましそうになった。
もちろん彼としては妹の恋を応援したい。しかし、無責任な慰めなど役に立ちはしないし、
軽々しくガルムの気持ちをうけおうことも出来なかったため、出かかった言葉を飲み込むしか
なかった。
「そっか…」
「ごめんなさい」
考え込んでしまっている兄にドロシーは申し訳なさそうな顔になる。こんなことで兄に余計な
心配をかけたのが悲しいのだ。
フィールは首を横に振ると、優しくて、少し臆病な妹に微笑んだ。
「どうして謝るの。人を好きになるのは素敵な事だって知ってるだろ」
「うん…」
「ガルムがお前に好意的なのは分かるし、脈が全然ないって事はないと思うんだよ。ただ
分かってるとは思うけど、相手はカテナだ。その意味はよくよく考えて欲しいと思ってる。
何より自分のためにね。その上で、ってことなら僕は勿論ジュジュも出来る事があれば協力
するから。そんなふうに最初から諦めないで、やれるだけやってみたらいい。大体父さんや
母さんもそうだったんだから僕達だって。…そうだろ?」
その言葉にドロシーの眉が緩む。ようやく気分が前向きになったらしい。
「ドロシーはガルムのどこが好きなんだい?」
「えっと、優しくて、厳しいところもあって……」
その台詞にフィールが思わず笑みをこぼした。
「なんだかいつか聞いたような台詞だなぁ」
「それにね、ふふっ。少しかわいいところがあるの。一緒にいると穏やかな気持ちになれて、
まるで陽だまりの中にいるみたいに安心できるの」
「うーん…?かわいいガルムなんて想像がつかないな」
フィールはくすくすと笑っている。
「私たち一家って、みんな好きな人がカテナなんだね」
「そうだね。お揃いだね」
二人は励まし合うように笑った。
ガルムの家はこの日とても賑やかだった。
日はすでに傾きかけていて、木々が森の中にぽつんとある一軒家を影の中に隠そうとしている。
台所には灯りがともり、窓から見える人影が忙しそうに動いていた。
「これも持って行ってくれ」
「はい」
食器を並べながらドロシーは二人で作った料理をはどんどん運んで行く。
食堂(と呼んで差支えないだろう、大きなテーブルのある部屋)にはすでにフィールと
ジュジュが座って談笑していた。
二人には勿論ガルム達を手伝うつもりがあるのだが、いつも手出しは無用との言葉が返って
くるため、いまでは声をかけることもしない。この集まりでは調理をしなかった者が片付けを
することになっているので、まあいいか、とも思っているようだった。
「こんばんは」
玄関から聞こえた声にドロシーが扉を開けるとヴィティス、アルミラ、レオンの3人が立っていた。
「よう」
「こんばんは。どうぞ入ってください」
「フィール達はもう?」
「はい、来てますよ」
「そうか、遅くなったかな。…これをガルムに渡してやって欲しい」
そう言ってヴィティスは手にしていた瓶を差し出した。
「私からはこれだ、食後にでも出してくれ」
ヴィティスから預かったのはお酒、アルミラから預かったのは入れ物に入っている上、布で
包んであったので見えないが、おそらく菓子だと思われた。
ドロシーは頷くと3人を居間へ通し、台所のガルムへと伝える。
「お土産をいただきました。ヴィティスさんとアルミラさんからです。えっと…ここに置いて
おきますね」
「アルミラさん、これ美味しいです」
食事の量は少なめに、しかし甘いものは別腹とさっさと食後のお茶に移行しているドロシーが
うっとりと感想を言った。
「そうか?じゃあ今度作り方を教えてやろう。ガルムも一緒に作ってみるか?」
「俺は菓子作りに興味はない。そっちは貴様に任せる」
今更聞くまでもないことを、と彼は肩をすくめた。
ガルムは差し出せば食べるし嫌いではないようだが、自分で菓子を作ろうとはしなかった。
ドロシーやアルミラに言わせれば、どちらも材料を量り、混ぜ、焼いたりする料理なのだが。
「フィール君は毎日おいしい料理を食べられて幸せだな」
ヴィティスのドロシーに対する称賛を自分への厭味と受取り、ジュジュが彼を睨みつけた。
「何それ、当てつけ?あたしに喧嘩売ってんの?どーせあたしは料理へたくそよ!」
「そんなことないです!お兄ちゃんはジュジュさんの作ったもの、いつも美味しそうに食べて
ますから。もーにこにこしちゃって」
ドロシーのフォローにガルムも頷いた。
「まぁ、味がどうでも食べる者がそんな風にに喜んでくれるようなら幸せだな」
「あんたの言い方はね、なんかいちいち引っかかるのよ!……でもそうなの?あたしの料理、
好き?」
ガルムへ一瞬厳しい目を向けたがふいと隣を振り返ると彼女はフィールへ感想を求めた。
こうした些細な質問をするのにさえ頬をほんのりと染めるところが、意地っ張りな彼女の
かわいいところだ、とドロシーは思っていた。
「えっ?そりゃあ、もちろん…」
「おーおー、こんなとこでいちゃいちゃしてんじゃねぇよ」
見つめ合う二人をレオンがからかった。
この食事会、最初は一人でそれなりの料理が作れるようになったドロシーの腕前をフィールに
披露する為のものだったのだが、フィールがジュジュに声をかけ、遊びにきたアルミラ、
レオンを誘い、ではせっかくだからヴィティスも……という事で何度か集まっているうちに、
今では恒例の行事となっていた。
楽しい晩餐が終わるとドロシーが欠伸をもらしたのをきっかけにそろそろお開きに、という
事になった。
台所ではフィールとジュジュが食器を片づけている横で、レオンが鍋に残っていたものを
つまみ食いしている(ヴィティスとアルミラはお土産を持参したので免除された)。
食器を定位置に戻しながらフィールは呆れたように尋ねた。
「レオン、足りなかったのかい?」
「肉がな」
言外にあんなにおかわりしたのに、という意味が含まれているのを察してレオンは一言で
答えた。
なるほど彼は肉の部分だけを選って食べている。
「そんな食べ方してたらガルムに怒られるよ」
「向こうからは見えねぇだろ。黙っとけよ?」
鍋をのぞいたら分かると思うけど…と、フィールは言わなかった。きっとレオンはガルムに
何を言われても右から左、真面目に聞かないだろうと思ったらしい。
「それはいいけど、あんたも後片づけしなさいよ!」
ほらほら、とジュジュは脚をあげ蹴るような動作でレオンをせき立てた。
「あれ?ドロシー?」
三人が片付けを済ませて居間に戻ると、ドロシーは長椅子ですうすうと寝息をたてていた。
「良く眠ってるわ」
寝顔をのぞきこんでジュジュが微笑む。
確かに欠伸をしていたが、もう人の家で眠り込んでしまうほど子供ではない。食事中に
ヴィティスが持参した酒をみんなで頂いたのだが、そんなに飲んでいただろうか。フィールも
一応妹の様子を気にかけていたが、そんなに量を飲んだわけでなければ酔った風でもなかった
のに。
「可愛い寝顔だなぁ」
相変わらず臆面なく妹を褒める兄だった。本人が聞いたら恥ずかしがって怒っていただろう。
「長椅子に腰かけたと思ったらすぐ寝入ってしまってね。酔っていたのかな?そんなに飲んで
いる様子はなかったが…」
ヴィティスが言えば、レオンとアルミラがフィールに問いかける。
「お嬢ちゃんは酒が飲めねぇのか?」
「いや、美味しいと言っていたぞ。フィール、家では飲まないのか?」
「家にはお酒なんて置いて……あった。だけど料理用のがものがせいぜいだよ」
答えるとフィールは視線をガルムへと向けた。
「どうだろう?知ってる?」
「何故俺が?」
彼はフィールの問いに目を丸くした。家族が知らないものを、とその表情が言っている。
「うん、だからさ。料理で使うだろう?その時味見に舐めるくらいはしてるんじゃないかな、
って」
「それはあるが…どれだけ飲めるのか分かるほどの量は飲まんぞ。あくまで調味料。味見を
するだけだからな」
「それもそうか」
とりあえずもう帰らなければならないからと、フィールが声をかけた。
「ドロシー?起きて、ドロシー」
「…んん……んー…」
なんとなく返事はするものの、何度声をかけても目を覚ます気配はない。
口元を僅かに上げて幸せな夢でも見ているのだろう。
「どうしようか、置いて行くわけにもいかないし……」
フィールがそう言った瞬間、ガルム以外の者全員が共通の発想をした。
直後のわずかな目配せで互いの意思を確認し合う。
「あー……僕、ジュジュを送っていかないといけないんだ、困ったな」
「私は遅くなったが店を開けなければならない。そう表に書いておいたのでね。そう言えば
君たちこの後飲みに来ると言っていたね?」
ヴィティスが話を振ると二人が頷く。
「ああ」
「俺とアルミラ、ヴィティスは坊主の家と方向が違うからなぁ」
レオンも普段ならそんなことは気にせずに送ってやるところだが、この日は何故か言わな
かった。
皆の都合が悪い、というのを受けてジュジュが当然とばかりに提案する。
「犬っころ、あんたドロシーのこと見ててあげなさいよ。そんなに飲んでないんだし、
そのうち目を覚ますでしょ」
「まぁ別にかまわんが……では目が覚めたら送って行こう。小僧はそのまま小娘を送ったら
家に帰るといい」
また森の中に戻る手間を考えガルムはフィールに気を遣った。
フィールもさすがにそれは悪いと思ってジュジュを送ったら戻ってくると断ったが、ガルムは
彼女が目覚めるまで自分は休めるからと言う。気にするなとの重ねての申し出に結局甘える
ことにした。
「うーん、悪いけど…じゃあドロシーのことお願いしてもいいかな。朝まで起きなかったら
一人で家に帰してくれて構わないから」
こんな風に任せられるのもガルムが責任感のある男だと思うからだ。
そしてもう一つ、彼女を残していくのには皆とも共通の思惑があったのだが、それはもちろん
ガルムには内緒だった。
「さすがにそれはないんじゃないの?」
あれしか飲んでないのに、とジュジュは言ったがフィールはそれに首を振って答える。
「いや、一度寝たらなかなか起きないんだよ」
「健康な証拠だな」
ヴィティスは年頃の乙女が聞いたらがっかりするようなフォローをした。
年長組の三人は森の中を手燭を頼りに歩いていた。
夜が更け辺りはしんと静まり返っていて、自然と話し声も小さくなる。
「しっかしなぁ、今更二人きりにしたっていきなり進展するわけじゃねぇだろ?いままで
だってお嬢ちゃんはガルムんとこに通ってたんだし」
一番前を行くレオンが疑問を口にした。
「まぁな。だが彼女が奴への思いを自覚し、告げようと考えているならこれまでと違った
展開が望めるはずだ」
「フィール君にこの話を聞いた時は驚いたが……彼は人の恋愛事情に口を挟む型の人間では
ないからね」
「そーそー。それにまず自分たちを何とかしろって話だよ、ありゃ」
一通り笑ってからそれでも彼には珍しく真面目な顔になった。
「あいつの性格じゃ考えにくいが、まさか自分と同じ境遇の奴が…仲間が欲しかったのか?」
この発言にヴィティスとアルミラはそれぞれの考えを口にした。
「それは無い…と思う。もしかしたらだが、フィールは……」
アルミラが言えば、ヴィティスは意を得たりと頷く。
「私もそれを考えた。フィール君は彼女が『神々の子』ということに賭けているのではないか、
と」
「あぁん?どういうことだ?」
レオンはその意味を理解できず、二人を振り返った。
「推論を交えて話すのを許してもらえるなら……ドロシー君は生きる為に環境に合わせ、人の
形をとったのだろう。現に彼女は血のつながりのないフィール君の母親と、よく似た顔立ちに
成長している。それも無意識にか彼の妹という身分を守るためだろうが。中身がどれだけ人の
組成と同じかは分からない。しかし神々との戦いで自身の作られた理由…役目を理解し君達に
力を貸していたことを考えると…彼女が神々の子としての能力を自在に使えるなら、自分の
体を思うように変質させる事も可能なのではないだろうか」
「もっと噛み砕いて言え!」
その言葉にアルミラが言葉を添えた。
「だからな、ドロシーが望むなら…ガルムと共に生きることを望むなら、だが――カテナと
同じだけ生きる体になることも可能なのではないかと、そういう事だ」
「はーん、なるほど…だけどよ、最初のはそれこそ本能って奴だろ?自分の意志でどうこう
出来るもんかね?」
「それさ。そればかりは本人にしか分からないからな」
「フィール君もあえて聞こうとは思わないのではないかな?彼には聞きにくい事だろう。同じ
立場の者として」
「いや、あいつが考えてるのはなにより妹のことだろ。それに比べりゃ自分のことなんて
きっとどうでもいいんじゃねえか?」
「違いない」
三人はうんうんと頷いた。
「うー……ん…」
「目が覚めたか?」
もぞもぞと身動きをしたのに気づき、横の椅子に座っていたガルムが声をかけた。
まだぼんやりする頭の中で彼の言葉を繰り返し、やっとドロシーは自分が寝ていたことに
気付く。
「んん…はい……」
目をこすりながらあたりを見まわすと、彼女の為だろうか室内の灯りは抑えてあって、部屋の
隅を照らすほどではない。それでもそこには自分たち二人しかいないことに、ドロシーはすぐ
気がついた。
「あの、皆さんは…?」
「帰ったぞ。お前によろしくと言っていた」
「やだ……!」
ドロシーは小さな灯りでも分かるほどに頬を染め、寝入ってしまった己を恥じた。
「お兄ちゃんは…?」
「小娘を送っていかないと、と言っていたのでな。そのまま帰るように俺が言ったのだ。奴は
ちゃんとお前に声をかけたぞ――起きなかったがな」
「それにしたって…」
眠ってしまったのはもちろん彼女自身が悪いのだが、強引に起こしてくれれば良かったのに、
と兄を責める気持ちは消せなかった。
「俺が目を覚ましたら送っていくと言ったんだ。兄を怒るな」
「はい……ガルムさんも、済みませんでした」
どうやら自分のためにこんな夜更けまで起きていたらしい彼に謝った。椅子に座ってでは
ろくに休めなかっただろう。
下げた頭をぽんぽんと大きな手が叩いた。
「こんなのは何でもない。気にするな」
「いま時間…どのくらいですか?」
「夜明けまでまだ暫らく、といったところだな。……帰れるか?送って行こう」
言うや立ち上がる彼にドロシーは慌てた。
「あの、朝までここにいちゃいけませんか?」
こんな時間まで起きていたのに、自分を家まで送ったら彼はまた帰ってこなければならない
のだ。戻ってくる頃には夜が明けているだろう。そんな事なら朝までここで過ごして一人で
家に帰ればいいと、彼女はそう考えた。
それはあまりガルムに無理をさせたくない、という気遣いからの言葉だったのだが、彼は
頷かなかった。
「送ってゆくとお前の兄に約束したのでな、そういうわけにもいかん。今頃起きて待っている
かもしれないだろう?」
フィールは朝まで起きなければ妹を一人で帰らせるよう言っていたが、彼の性格から考えると
それでも寝ずにドロシーを待っている可能性が高い。
「俺に気を遣ってくれたのは分かっている。…すまんな」
彼女の心情を察して彼はわずかに目を細めた。
「いいえ。こちらこそこんな夜中にすみませんが、よろしくお願いします」
長椅子から脚を下ろし気を取り直して元気な声で言うと、彼女は頭を下げた。
いつまでたってもどこかよそよそしい彼の態度が寂しかったが、このくらいの距離感が自分達
には相応しいのかもしれない。
ドロシーは自分の中にある感情が心地よい諦めに満たされるのを感じた。
戸締りを確認し歩き出すガルムの後ろを、ドロシーは籠を手についてゆく。
何年も前に彼の家に通い始めた頃から変わらず、日が傾けば家に着く頃には暗くなってしまう
からと、こんな風に送ってくれた。
おかげで夜道を行くのに何の恐怖も感じない。頼りがいのある大きな背中に彼女は絶対の信頼を
置いていた。
彼の歩みがゆっくりなのは、ドロシーの歩調に合わせているからだ。
ガルムと共にいるとそうした細やかな心遣いが諸所でみられ、彼女はいつも心が温まる
ような思いでいた。
視線の先にあるのは、時折彼女に触れる大きな手。
それは昔なら何の思惑もなく繋ぐことができたものだ。ただ手を伸ばせばしっかりと握り
返してくれた。彼女を安心させるように。そして横に並んで歩いたものだ。そのうち
子供っぽいような気がしたのか、もう子供ではないのだと彼に言いたかったのか、手を
繋がなくなった。そしてガルムへの思いを自覚してからというもの、手を繋ぐのにすら
言い訳が必要になって、でも見つからなくて。ただ籠を両手でしっかり掴んで彼の背中を
眺めるばかりだった。
しかし何故だろう。このときは素直に行動を起こすことが出来た。
ドロシーは後ろから彼の手をすくうように掴むと、自分の方へと気を引くように引っ張る。
「どうした、怖いのか?」
最近では珍しい彼女の行動に足を止めガルムが問いかけた。
空を木々にふさがれた森の小道は真の暗闇で、数歩離れれば彼の持つ手燭の灯りも届かない。
それに彼女が怯えていると思ったのだろう。
ドロシーは彼のくれた理由に頷いた。
本当はガルムがいれば何も怖いものなどないと思っているのは内緒だ。
「……はい。手を繋いでいてもいいですか?」
答えが返ってくるたった一瞬の間にすら彼女は緊張したが、ああ、という声に胸を撫でおろし、
彼の横へと小走りに並ぶと再び歩きはじめる。
下草を踏む音が耳障りに感じるほど辺りはしんとしていた。
二人の間に会話は無く、彼は時々足元に注意を促すだけ。
ガルムは彼女のこういう時にやたらと喋らないところが気に入っていた。彼はどちらかと
いうと寡黙な男だったから、一緒にいる相手は沈黙を共有できる者であることを望んでいた
のだ。それでも彼女は料理する時はよく話し、笑いもする。若い娘らしく華やかな声で。
彼はドロシーに料理を教え始めた当初から、彼女が自分のペースに合わせてくれているのを
感じていたが、幼いながらもそんな気遣いをする彼女に、ガルムにしては珍しく好意をもった
ものだ。
徐々に大きな道へと出ると頭上を覆う木が両脇へと下がり、星空がひらけた。東の空は既に
明るさをにじませていて、彼が思ったより夜明けが早いらしい。
フィールの家は村でも外れの方にあるのでもうしばらく歩けば着く。
今日は家事も何もかもが半日遅くなるな、とガルムは家に帰ったら改めて睡眠をとることを
考えた。彼女の目覚めを待つ傍らでうつらうつらしていただけではやはり眠りの量も質も
足りなかったようだ。
前を向いて家に帰ってからの用事を一から考えていると、脇からぽつりと声が上がった。
「あの」
「ん?」
どことなしか元気がないような声に訝しみながら返事をする。
「どうした」
ただでさえ暗いのに背の低い彼女に俯かれてますます表情が見えない。
「いっつも迷惑かけてばっかりでごめんなさい…」
「こんなもの、迷惑のうちに入らん。これ以上の謝罪は無用だぞ」
呆れているような声。
水くさい、と彼が思っているのがドロシーにもよく分かった。それは嬉しいものだったが
ガルムの言葉に感謝しつつも彼女はつい言い訳がましく続けてしまう。慰めて欲しいわけでは
ないが、気にしないふりが出来るほど神経が太い訳でもなかった。
「だって……皆がいるのに寝入っちゃうなんて子供みたいで」
「そんなこと…俺に言わせればお前は小娘に比べてはるかに大人だぞ。まぁ、あれと比べる
のが間違っているのかも知れないが。まだ20年も生きていないと言うのに、小娘よりよほど
精神的に成熟している。自分の役割を知っていてきちんとそれを果たそうとしている。自分の
義務からひたすら自由になりたがっていた誰かとは大違いだ」
思いがけず彼から自分に対する評価――しかも好意的な――を聞き、ドロシーは目がくらむ
ような思いだった。
目元に力を入れ、唇を一文字に引き結ぶ。喜んではいけない、二人の距離が縮まった訳では
ないと、強く自分に言い聞かせる。
意識しないようにしていたが、彼女は本当はずっと、早く対等に扱ってもらえるようになりたいと
思っていたから。
大人だと彼は言った。
それは本当にそう思っているのだろう。昔に比べれば多少はと、彼女自身もそう思っている。
しかし彼女がなりたいと思うのはガルムと釣り合うくらいの女性なのだ。精神的に、彼を支え
られるほどの。
まだまだ自分の理想の女性象に届いていないと、わずかの間に喜んだり、そんな己を戒め顔を
強張らせたりしたので、ガルムは彼女がまだ落ち込んでいると思ったようだ。
「つまらないことで考え込むな」
元気をだせ、と繋いだ手を振るのが彼らしくなくて、でも言葉で慰めるのが下手な彼らしくて
可愛くて、ドロシーは思わず微笑んだ。
理性と感情のはざまで揺れていた少女の手が動く。
ガルムは不意に繋いだ腕を引かれ、彼女に耳を寄せるような姿勢になった。
内緒話でもあるのだろうかと思った瞬間、頬にやわらかな唇の感触。
突然のことに彼は驚いたが、気を許した相手に親愛の情を示されて怒る者はいない。心に
小さな火が灯るような暖かな感覚に、わずかに顔をほころばせた。
この相手といると穏やかな気持ちになれるというのはドロシーだけが感じていたことでは
ないのだ。
しかし直後の密やかな囁きが、彼女の胸にある感情が『小さな灯』などではなかったこを
彼に示した。
「好きです」
間違えようもなく耳へ響いたその言葉に、彼は目を見開いた。まっすぐにドロシーを見る目が
その台詞の意味を探る。しかし彼女の表情を見れば、どういう意味で告げたのかは聞くまでも
ないだろう。
姿勢を正しドロシーに向き直るが返す言葉が見つからなかった。
ガルムを見返す大きな瞳には挑んでくるような輝きがあり、この目を以前も見たことがあると
彼はそんな場合でも無いのに思い出していた。
あの時と同じだけの――それだけの勇気を振り絞らないと言えなかったのかもしれない。
ガルムが思い出したのは、そう、神狩と最後の戦いをしている時だった。
彼女がその能力によってフィール達を支えている間、彼等はドロシーを湧いてくる雑魚ども
から守ってやっていたのだ。その時も怖くないわけはないだろうに気丈にも喚いたりせず、
ただじっとフィール達が消えた方向を同じような目で見つめていた。
あの時ガルムはヴォロを蹴散らしながら勇気のある娘だ、という感心したのだった。
今その視線はまっすぐガルムに向かっている。
大きな目にゆらゆらと手燭の灯りを映して。
沈黙を破る様に遠くで鳥の声がした。
「ごめんなさい、急にこんなこと言って……驚いたでしょう?」
突然の告白を悔やんでいるのだろうか。口元はなんとか笑みの形を保っているが、声に余裕が
ない。
「ガルムさん、こんな時間まで起きてて大変だから……今日の約束はなしにしてください。
明日のお昼にまた、伺います」
「……」
ガルムは何か言わねばと口を開いたが、こんな時一体なんと声をかければいいのか分から
なかった。
断ればいいのか、受ければいいのか。それ以外の気の利いた言葉も出てこない。
珍しく動揺している彼にドロシーは手をちいさくあげて制した。
無理に何か言ってもらう必要はない。彼女が求めるのは――諾否はともかく――自分の思いに
対する誠実な答えだけだったのだから。
「分かってます。冗談でこんなこと言いません。私もそういうの嫌いですから……だから明日」
改めて自分の本気を伝えると、そっと繋いでいた手を離した。
彼の方を向いたまま数歩後ろに下がる。
「明日…お返事聞かせてください」
「おい――!」
言うなり彼女はガルムが何か言いかけるのも聞かず、彼に背を向けて駆けだした。
ガルムは一瞬追いかけようとしたが彼女の家はもうすぐそこ、玄関は今いる場所からも見える
位置だ。
暁の薄明かりの中でドロシーが家に入るのを見届けると、彼も踵を返した。
来た道を戻りながら我知らずため息を漏らす。
握った手は震え、瞳は潤んでいた。
彼女に触れていた手を開いて、閉じる。
掌に残るぬくもりは、彼の心に言いようのない喪失感をもたらした。
〜つづく〜