こんな時間にこの誘い、それこそ遠まわしに泊ってけと言っているようなものだ。  
うん、あるいはやめておく。  
いずれ一言で済むはずの答えを得るのに短くはない間があり、彼はやはり断られるのだろうと  
思った。答えるまでの間が断りの言葉を探すために必要な時間なのだと。  
だが意外にも彼女の口から出たのは承諾の意だった。  
 
「えっ?……い、いいの?」  
「うん」  
驚いてもう一度確認するとジュジュはこくんと頷いた。  
今日はドロシーがいないということをちゃんと分かって返事しているのだろうか。  
彼女がどういうつもりで頷いたのか真意が読めず、誘ったフィールの方が困惑した。  
 
 
「お邪魔しまーす」  
「どうぞ」  
居間に向かいながら後ろに言葉を返す。  
勝手知ったるとジュジュはフィールの外套を受け取ると洋服掛けに掛けてやった。  
「暖まるまで少し待ってて」  
暖炉に火を入れるとフィールは台所へ行った。  
 
少しして彼が盆を手に戻るとジュジュが暖炉の前にしゃがみ込んで手をかざしている。  
テーブルの上に盆を置いてフィールが声をかけた。  
「そこ、いいかな?」  
どいてもらうと暖炉の前に長椅子をずらし、部屋の隅にある小さなテーブルをその横に置く。  
手の届く位置にお茶と菓子とを並べて二人並んで座った。  
「ジュジュ」  
フィールは長椅子の上に畳んであった膝掛けを、ジュジュにかけてやった。  
膝から下は素足で後は足首丈の靴下だ。さすがにこの時期暖炉の前にいても肌寒いだろう。  
「少しはましかな」  
「うん。ありがと」  
フィールの気遣いに彼女は素直に礼を言った。  
お茶を両手で包むように持ちジュジュはあったまるわね、と言って微笑む。  
ぱちぱちと踊る火が寒い夜に心まで温めてくれるようだった。  
 
それから二人は他愛もないことを語りあった。  
ドロシーのこと、ガルムのこと、他の皆のこと。話が再びアルミラとの会話に及ぶと彼女は  
口元をむにむにと動かし、なんとも言えない表情をした。  
「内緒だってば」  
ほんのり頬を染め、さっきと同じように答える。  
 
しばらくして雨が窓を叩く音が聞こえてきた。  
降っては止んで、また降って。途中嵐のように風が強くなった。ごう、と吹く風が家を揺らす。  
そのせいか家の中が急に冷え込んできたが二人で寄り添っていればそれも気にならなかった。  
「明日も降るのかなあ」  
「本降りになったら昼までゆっくりしていったらいいよ」  
フィールはにっこり笑った。  
彼の笑顔はいつもやさしくて温かい。見るだけで心が穏やかになる気がして、ジュジュは彼の  
微笑んだ顔が何より好きだった。  
     
他愛もない話を朝まで、という誘いもとても魅力的で、思わずえへへへ、とおかしな笑い声を  
もらした。  
 
「ね、帰りにさ」  
すぐそこにあるフィールの顔を見上げる。  
「うん?」  
肩に頭をもたせかけているせいか彼の声は頭に直接響いてくるようだった。  
「ドロシー、すっごい嬉しそうだったわね」  
そう言うジュジュの方こそ嬉しそうな顔をしている。  
フィールは可愛いなあとしみじみそれを見ながら頷いた。  
 
「そうだね。ガルムの家に泊まるの初めてだから」  
「へー、そうなんだ。でももう一年近く経つもの、ちょうどいい頃合いだったんじゃない?  
……それよりあんたよく許したわね。そっちの方が驚きだわ」  
「どうして?ドロシーとガルムがいいって言うなら僕が口を出すことじゃないもの。一緒に  
住みます、なんて言われたらさすがにすぐにうんとは言えないけど」  
正直な気持ちをもらす彼をジュジュは冷やかした。  
「あはは。取られちゃうみたいで寂しいんだ。でもドロシー可愛いもんね。あんたの気持ち、  
わかるわー」  
ジュジュは大いに笑い、目尻に滲む涙を拭う。そしてふと暖炉へ目をやって彼女には珍しく  
穏やかな笑みを浮かべた。  
ほう、と息をついて呟く。  
「いいなあ。ああいうの」  
「え?」  
フィールが眉を上げたのであんたはそう思わないの、とジュジュは不思議そうに言った。  
「なんかほのぼのしてるわよね、あの二人って。ガルムなんてあたしには説教ばっかりの  
くせにドロシーには違うもの」  
不満そうに頬を膨らます。自分の態度を省みる気はないらしい。  
 
息を送って熱いお茶を冷ます仕草、その表情もとがらせた唇も、左側に感じるわずかな重みも  
なにもかもが彼の目には可愛く愛おしかった。  
 
小声で名を呼んでみる。  
「なーに?……ふふっ」  
ほんの少し見つめあった後、どちらからともなく口付けた。ちゅっと吸うように、何度も舌を  
絡ませる。  
フィールはゆっくりお茶を脇にあるテーブルに置くとジュジュの手からもそれを奪い、そっと  
その隣に置いた。手を回していよいよしっかりと彼女を抱きしめる。  
心の中にちりちりと負の感情がくすぶるのを感じた。口付けを交わしながら心の中が騒がしく、  
落ち着かなくなる。  
きっかけは本当に些細なものだったが、彼の心に生まれたざわめきはいつの間にか先に家を  
揺らした風よりも大きな嵐になっていた。  
 
満足した少女が顔を離そうとするのを彼は顎に手を添え離さなかった。  
ジュジュが横に顔を逸らしてもそれを追う様にしてさらに彼女の中に侵入する。  
物足りないからではないのだが、出どころの分からない苛立ちに襲われてフィールは逃げる  
体を長椅子の上に押し倒した。彼女を下に敷いてなおも貪るように唇を重ねる。  
「っふ……んんっ……!」  
ジュジュはすでに避けるなどという遠まわしなものではなく、少年の胸を押し、止めるよう  
意思表示をしていたがフィールはそんなことには構わなかった。  
細い手首を掴み両脇に追いやるとその時やっと顔をあげた。  
 
     
      
  ***  
 
 
 
「――ッ!」  
 
瞬間、彼はドロシーをぎゅうと抱き締めた。  
しばらくそのままの体勢でいたが落着きを取り戻すとガルムは少女にそっと唇を落とした。  
ガルムの口付けは逞しい外見からは想像できないほどやさしい。理性など蕩けてしまいそうな  
ほどに。  
 
「ドロシー」  
「……?」  
「お前はこうして抱きあうのは怖いか?」  
ガルムは下で切なげな顔をしている少女に問いかけた。  
「んっ」  
男が出てゆく感触に思わず眉をひそめる。  
互いの顔が目に映るほどに離れると、太い指が彼女の熱をもった頬を撫でた。  
「……初めての時よりは大分平気です。あの時はすごく怖くて緊張しましたから。でも……」  
答えたとおり、抱きしめられても前ほど緊張しなくなってきた。相変わらず心臓は忙しく動く  
ものの、ドロシーは安心して彼に体を預けていられるようになっている。  
「でも?なんだ」  
「だんだん、ガルムさんとこうしてるのが気持ちいいってこと、知り始めたから。それが……  
今は少し、怖いです」  
「何故だ。未知の事柄に対して恐れを持つのは分かるが、知ってしまえばもう怖がる理由が  
ないだろう」  
理屈でものを言う男にふるふると首を振った。  
「違うんです。なんて言うか――気持ち良くなっていくのが、まるで知らないところに連れて  
いかれるみたいで不安なんです。それが、なんだか怖いなあって。やだ……私、なに言って  
るんでしょう」  
自身のあけすけな感想に気付き、ドロシーは恥ずかしくなって手で顔を覆った。  
「いや」  
ぎゅうと握ってくる手をやさしく握り返すと、薄金色の髪の散った額に口付けた。  
「お前の言いたいこと、何となくはわかる」  
 
「そうか……怖いか……。それを知る者は皆、相手をそこに連れて行きたいと思っているのに。  
――顔が真っ赤だぞ」  
「え……」  
言われて少女は慌てて掌で頬を抑えた。  
遠慮深く上にいる男を見上げる。  
「あの、それってガルムさんも……?」  
「もちろんそうだ。が……まあ焦ることはすまい。そのうちにな」  
互いに生まれたままの姿で口付けを交わす。  
 
やさしくからみついてくる舌にガルムは一年前に比べて大分自分に慣れた少女を嬉しく思い、  
同時にその兄を思い出して彼の立場に深く同情した。  
 
 
 
  ***  
 
 
     
少女は自分を押し倒している男から自身に対する抑えきれない感情と、冬の外気のような  
冷たさを感じ取った。  
抵抗を許さず、それでいてあくまでやさしく自分を求めてくる彼に戸惑いを隠せない。  
やっと唇を解放されて窺うように名を呼んだ。  
「あ、あ……フィール?」  
「なんだい?」  
首筋への口付けにジュジュの肩が小さく動いた。  
少年の手が髪を後ろへ梳くといつも桃色の流れに隠れている部分が表れる。彼はそこへも唇を  
落とし控え目に跡を残した。  
「んっ……」  
「ジュジュの耳たぶ、やわらかいね」  
彼女はそれこそ耳まで真っ赤にして目を逸らした。  
「な、なに言ってんのよ。あんた今日はなんか変……らしくない」  
「僕らしいって?」  
少女の前髪を横によけそこにもちゅっと唇を押しつける。  
ジュジュは思わず目をつぶったが、離れると再度の口付けを避けるよう横を向いた。  
「らしいっていうか、いつもはあたしが嫌がることしないじゃない」  
「キスされるの嫌だった?」  
真上でフィールは不思議そうに首を傾げた。  
「そうじゃなくって……」  
「そうじゃないって、じゃあ何が嫌?たまに自分の気持ちを優先させるくらいも駄目なの?」  
「――!!」  
 
哀しげな目をして自分を責めるフィールに少女はぎくりとなった。  
確かにいつでも彼は自分の意思を尊重してくれた。いい雰囲気になった時も強引なことはせず  
手を引いてくれていた。  
さっきアルミラと話した時にそれがどういうことか気付いたばかりだった。  
 
「いつもどんなに君を抱きたいと思ってるか……」  
いつの間にか少女の両手は上に追いやられていた。  
彼女を戒める手に力がこもる。  
ジュジュは答えなかった。答えられなかったのだ。男が女に情欲を感じ、それを抑えるのが  
どれほど辛いか知らなかったから。  
フィールの奥にずっと隠されていた男の本能を、それが愛だと分かってそれでも今の彼女には  
受け入れるという選択肢がなかった。  
求められる喜びはとても大きなものだったが、この状況から逃れられるだろうかというそれ  
以上の不安によって顔が暗くなる。  
ジュジュの表情に寂しげに微笑むと彼は再び彼女に近づいた。  
「そんな顔して……僕のこと、本当はあまり好きじゃない?」  
頬と頬が触れんばかりの距離。  
少年の囁く声はどこまでもやわらかな響きを持っていた。  
 
腰のあたり、裾からそっと入ってくる男の手に体を強張らせながらぎこちない笑顔で答える。  
「そんなわけないじゃない。あんたのことは誰より大事に思ってるわ。分かってるくせに」  
「そうだね。ごめんね……意地の悪いこと聞いて。じゃあさ、結婚するまでしたくないとか  
そういう理由があるのかな」  
「フィール!」  
正面向いて聞かれるのはこんなに恥ずかしいものなのだと、ジュジュはこのとき思い知った。  
元々遠回りな表現をしない彼ではあるが、内容がこれほどあからさまでもそれを通すとは  
思わなかった。  
普段のフィールなら照れたり言いにくそうにぽつぽつと言葉を紡ぐのがせいぜいだろう。  
「違うよね。それなら僕に言ってくれる筈だもの。そうだろう」  
「そりゃそうよ。ねぇ、あたしは……っ!やだ、きゃ……」  
フィールの指先が脇を撫でるとくすぐったそうに腰を動かした。  
「くすぐったかったかな?――なんかすごく緊張してるからさ。じゃあ、誰かに触られて嫌な  
思いをしたことがあるとか?」  
     
重ねての問いかけにいっそう胸が大きく上下した。  
普段の彼ならこんな問い方はしなかっただろう。  
心に傷を持っていそうなら、それが想像に過ぎなくてもこれほど無造作な質問をするような  
思いやりのない男ではない。  
心臓が引き絞られているような気がして背中が汗で冷たくなった。  
彼女の目には、フィールは怒っているようにしか見えなかった。  
 
ジュジュはますます焦って彼をなだめようとする。  
「そんなの無いわ。フィール!待って、話を聞い――っ、ん……んうっ」  
様子のおかしな彼に少女は懸命に話しかけようとしたが再び口を塞がれる。  
胃が熱くなるほどの緊張と激しい口付け。合間に息をするのがやっとだった。抗う力も徐々に  
弱くなる。  
それを知ってか知らずか彼は独り言のように言った。  
「僕がどれだけ我慢してたのか、分からなかったんだろうね」  
フィールの手が背中に回り冷たくなった肌を撫でる。  
「や……待って……フィール、ねえ、フィール……!」  
彼は少女の言葉には答えず指先に触れる部分に呟きをもらした。  
「背中までこんなに冷えて。雨のせい?それとも――。すべすべして、陶器みたいだ。色も  
きっと、以前のまま白いんだろうね」  
彼女がOZだった頃を思い出しての話だろう。あの頃の彼女はどこそこむき出しの格好だった。  
 
「脱がせるよ」  
ジュジュが弱々しく首を振ったのは見えていなかったのか無視しただけなのか。  
短く宣言するとジュジュの青ざめおびえた表情には目もくれず、額から瞼へ頬へと下りながら  
唇を落としていった。  
「フィール……や、だぁ……」  
きつく瞑った目の端に涙が盛り上がる。  
ついでのようにその塩気のある水を吸い取ると、背中に侵入した手が下へ戻って裾をまくり  
あげた。  
少年のものというにはもう大きすぎる手が強引に、そして一気に彼女の衣服を上へずらす。  
頭の上で彼女の手首を戒めている部分に引っ掛かり、彼はそこで手を止めた。  
ジュジュはフィールの視線からどうにか逃げようと身をよじり、その拍子にかろうじて脚に  
引っかかっていた膝掛けが床へ落ちた。  
少年は彼女のするに任せ、うつ伏せになり露わになった胸を隠すのを許した。  
手を放してやれば手首に服を絡ませたまま胸元で腕を抱えるようにする。丸く身を縮めると  
髪がうなじから耳の下へ流れた。  
やはり真っ白な背中が目に眩しい。  
「きれいな体だね。それにこんなに細いのに、やわらかい」  
肩から肩甲骨のあたりまで感動をもらしながら撫でまわした。辺りへも軽く触れるだけの  
口付けを繰り返す。  
くすぐったいのか拒絶のための反応か、薄い肩がまたも小さく揺れた。  
胸に引きつけていた腕が緩んだのを察知して、フィールは脇から手を彼女の前へと滑り込ま  
せた。  
「やっ!」  
 
初めて直接触れた彼女の胸に不思議なほど高揚し、少女の肩口に歯を立てながらやさしく  
揉みしだいた。強くするのは躊躇われる感触だった。  
丁度良く掌におさまる量感がなんとも言えない心地よさを感じさせ、フィールはそれの存在を  
確かめるように何度も何度も中心に向かって柔肉を絞らせた。  
「ぁ……っあ……やぁ……」  
徐々に主張し始めた部分を指先で捏ねると彼女の唇から切なげな音がもれ、いつもは聞けない  
ジュジュの色っぽい吐息にフィールは硬くなった頂を直接舌にのせたくなった。  
 
肩の向こうに手を置き彼女の体を振り向かせると、意外なほど抵抗がなくあっさりと二つの  
ふくらみを少年の目に晒した。  
なんとなく懐かしさを感じるような、そしてそれ以上に彼の衝動を追いたてるかたちがそこ  
にはあった。  
つんと上を向いた部分は花のように可憐な色をしている。  
先に触れた部分を今度は視線でも愛しながら麓からそっと指先で辿った。  
     
少女の胸が早い間隔で上下しているのにフィールは始め気付かなかった。  
尖った先端をきゅっとつまんだ途端体全体がびくんと大きく揺れ、その時やっと彼は少女の  
顔を見た。  
 
無意識のうちにそちらを見ないように避けていたのかどうか。  
彼女が唇を噛み、声を殺して泣いているのにこの時ようやく気が付いた。  
 
「あ……」  
 
一瞬で自分がしていたことを自覚し、反射的に彼女から体を起こす。  
「――ご、ごめん……僕……!!」  
すん、と弱々しくしゃくりあげている少女に今までにないほど自分の行為を悔やんだ。  
手首で服が絡まったまま顔を覆い、腕で前を閉じるように体を隠す。それ以上の行動に出られ  
ないほどフィールに怯えているようだった。  
 
「ジュジュ……」  
 
手を伸ばし、だが数瞬躊躇った後、脇に掛けてあった彼女の外套を掴み肌が見えないように  
かけてやった。  
そのまま横から抱えあげ居間を出る。  
腕に感じる体重は羽根のように軽く、それがよりフィールの心に重くのしかかった。  
こんなに小さな少女を力づくで抱こうとしていたのだ。  
それも苛立ちに任せて。  
いつもなら激しく抵抗するだろう勝気な少女がただ声をこらえ、肩を震わせている。  
いきなりの乱暴な行為はフィールに裏切られたように感じただろう。  
 
自室へ入ると、フィールは自分の寝台に彼女をそっと横たえた。  
脱がせた服をきちんと着せ直してやりたかったが、手を触れられるのも今は嫌だろう。  
彼女の気持ちを慮り外套の上からさらに掛布をかけるだけにして、すすり泣く少女に声を  
かけた。  
「本当にごめん。謝って済むことじゃないけど……」  
当然返事はない。  
髪に触れようとして、それも思いとどまった。  
あまりの罪悪感にいっそのこと罵倒して欲しいくらいだった。だがそれすら今は叶わない。  
入口に向かい、扉のところで振り返る。  
「僕は居間で寝るから……。明日の朝、送って行くよ」  
やはり返ってくる言葉はなかった。  
 
長椅子に腰掛け横にあったお茶碗に口を付ける。お茶はすっかり冷めてしまっていて、彼に  
時間の経過を感じさせた。  
これを手渡した時はにこにこと笑っていた。  
なのに何故あんなことをしてしまったのか。  
抱きあげても抵抗しようともしなかった。何をしても意味がないと敵わないからと諦めて  
いたのかも知れない。  
「僕は……」  
がしゃんと受け皿に叩きつけるように茶碗を置く。  
組んだ両手を杖に顎を支え、自分の行動を反芻した。  
 
愛を置き去りにした苛立ちまぎれの行為。  
彼女を一方的に責めるような台詞。  
何がそのきっかけになったのかフィールには分かっていた。こんなに簡単に振り返れること  
なのに、何故あの時気付こうとしなかったのか。  
 
「なんてばかなことを――」  
 
彼は両手で顔を覆ったまま膝の上に力なく伏せた。  
 
     
昨夜の雨の名残はなく、頭上には青い空だけが広がっている。  
心の中に雨雲のようにぐずぐずとしたものを抱えて少女は歩いていた。  
夜通し泣いていたから瞼が重たくて、そのせいで顔をあげたくなかったのか下ばかり見ていた。  
目に力を込めているものの今でも油断するとじわ、と涙が滲んでくる。  
 
「ジュジュさん」  
正面からの声に顔を上げると道の向こうからドロシーが駆け寄ってくるところだった。  
「あ……」  
慌てて目をこすり涙をごまかす。  
 
「おはよ」  
「おはようございます。ジュジュさん、昨夜はうちに泊まったんですか?」  
「え……ああ、うん。ちょっと寄ってくだけのつもりだったんだけど、ガルムのとこでお酒  
飲んでたせいかいつの間にか眠っちゃってね。起きた時驚いたわ」  
あはは、と手を振ってジュジュは大袈裟に笑ってみせた。泣きはらした顔が見えないように  
さりげなく横を向いて視線を合わせないようにする。  
「フィールが運んでくれたみたいなんだけど、ベッド占領しちゃってさ。起きたらあいつは  
居間で寝てたし……悪かったわ。風邪引かないといいんだけど」  
「大丈夫ですよ。お兄ちゃん体は丈夫ですから」  
「だといいんだけど。季節の変わり目だから体調崩しやすいだろうし。あいつに――いろいろ  
ごめんねって言っておいてくれる?」  
「分かりました」  
ジュジュの言い回しに引っかかるものを感じたがそれが何かは分からなかったため、彼女は  
心の中で首を傾げただけだった。  
「それよりあんた、なんでこんなに早く帰ってきちゃったの?もっとゆっくりしてくれば  
良かったのに」  
ドロシーは照れ笑いを浮かべると頭をかいた。  
「ガルムさんにもそう言われたんですけど……朝ごはんも一緒に食べたし、あんまりのんびり  
してると家のこと出来なくなっちゃうから。午後はお隣に行くことになってるんです」  
「そんなの断っちゃえばよかったのに……ま、しょうがないか。気をつけて帰んなさいね」  
二人は手を振って別れ、ジュジュはドロシーの後姿を見えなくなるまで眺めていた。  
彼女の軽やかな足取りにぽつりともらす。  
「あたし達と何が違うんだろ……なんで……」  
 
 
ドロシーが家に帰ると奥から声だけが返ってきた。  
「お帰り。早かったじゃないか」  
「うん。今ねえ」  
「うん?」  
「そこでジュジュさんに会ったよ」  
フィールは台所にいたらしい。がたがたと物音をたて何かにぶつかりながら転げるようにして  
出てきた。  
「ものすごい音がしたけど大丈夫?」  
「ああ、大丈夫。大丈夫だよ。それよりジュジュは……彼女、何か言ってたかい?」  
兄の問いに、顎に指をあてて目は余所を向いて先程のやりとりを思い出した。  
「えっとね……ベッドを取っちゃってごめんねって謝ってたよ。それでお兄ちゃんが風邪  
引かないといいんだけどって心配してた」  
「そっか。じゃあ、その……怒ってるとか……泣いたりとか……そんな様子はなかった?」  
「やだ……お兄ちゃん、まさかジュジュさんを泣かせるようなことしたの!?」  
ドロシーは詳しい事情も聞かないうちから非難するような目で兄を見やった。  
図星をさされ、フィールはうっと詰まり横を向く。  
「お兄ちゃんが悪いんでしょ?」  
半ば詰問するような妹の言葉にフィールは逆らえなかった。  
そうっと顔をドロシーに戻すと恐る恐る頷く。  
「もう……いったい何をしたの?」  
「……取り返しのつかないこと」  
沈んだ顔でそれだけ言って彼は自室へと足を向けた。  
何をしたのかは知らないが、がっくりと肩を落としとぼとぼ歩く姿で海よりも深く反省して  
いるのが分かり、ドロシーもそれ以上の追及はしなかった。  
     
ガルムはちょうど庭に出ていた。  
植えてある花や野菜の様子を見ては水をくれたり雑草を取ったりしている。  
 
「ねえ、ちょっと、犬っコロ!」  
 
怒鳴るように呼びかけられゆっくり振り向くと、庭と森とを区切る柵の向こうに彼女は立って  
いた。  
彼は花壇や畑を大きく避けて柵へと近づく。  
「……何の用だ」  
「あんたにちょっと聞きたいことがあって……」  
ジュジュの台詞に眉を上げる。  
「なんだ?料理のことか?」  
彼女の聞きたいことを先回りして考えても、とりあえず卵焼きが下手くそなことくらいしか  
思い当らなかった。  
それにしてもと顔を見る。何があったのか大分泣いたのだろう。瞼が腫れている。こんな顔で  
人の家を尋ねてくるとは余程の用事だろうか。  
「ちっ、違うわよ。あんなの別に何回かやれば上手にできるようになるもの。そうじゃなくて  
……ドロシーのこと」  
ガルムは肩で大きく息をした。  
「今度は貴様か」  
「え?」  
訝しげに聞き返す彼女にガルムは背を向けた。  
「いや、こっちの話だ――来い。突っ立って話をするのもなんだ、茶くらい出してやる」  
 
 
早まったかもしれないとジュジュは自分の迂闊さが恨めしくなった。  
人間の恋人を持つ者同士、標となるものを自分に示してくれるかと、ついドロシーが通って  
来た道を逆に辿ってしまったのだ。  
それでも歩きながらよくよく考えた。  
こんな泣き顔だし、あんな奴を頼りにはしたくない。  
だが昨晩のことを考えると、どうしても誰かに自分が心に抱えているものを相談したかった。  
そしてその相手は立場からガルム以外にいなかったのだ。  
丁度良くというかガルムが外に出ているのを見てジュジュは覚悟を決めた。  
そう、遅かれ早かれ彼に話すことになっていただろうとジュジュは自分に言い聞かせた。  
 
 
こう改まって二人だけで話をするのは初めてかも知れない。  
テーブルに向かい合わせに座ってジュジュは少し緊張していた。  
ガルムが自分をきちんと客として扱ってくれることにも、これから自分が尋ねることにも。  
目の前には言われたとおり熱いお茶が置かれている。  
だが彼女は一言礼を言うとお茶に口をつけるより前に本題に入った。  
「あのさ、犬っコロはさ。どうしてドロシーと付き合うことにしたの?」  
 
ガルムは二度目のため息をつくと腕組みを解いてとんとん、とテーブルを指先で叩いた。  
「貴様。いい加減その言葉づかいを直したらどうなのだ」  
「うるさいわね。あんたには関係ないでしょ」  
むっと眉をよせいつものようにジュジュは言い返した。  
だがガルムもいつもならここで諦めるはずが、今回はさらに厳しい表情になった。  
「貴様、一体何をしにここに来た」  
「え?」  
「俺に聞きたいことがあったからだろう。人にものを尋ねるというのにそんな態度があるか!」  
「――!」  
久し振りに怒鳴られて思わず少女の肩が縮こまった。  
「確かに貴様が無礼者でも俺には関係ない。ただ苦々しく思うだけだ。だがな、俺はこういう  
言い方は好きではないのだが――貴様が礼儀をわきまえていなければお前と一緒にいる者も  
恥をかくのだぞ。他者に笑われるということだ。いいのか、小僧がそんな目にあっても」  
ぐっと詰まってガルムを睨みつける。  
ややあって彼女は言いなおした。  
「ガ、ガルムはどうしてドロシーと付き合うことにしたの?」  
     
謝りこそしなかったものの、彼女にしては珍しいくらい素直にガルムの言うことをきいた。  
ガルムはやれやれとその態度に内心肩をすくめる。  
「何故そんなことを聞く」  
「あのさ……あたし達って、フィールやドロシーより10倍も長生きするじゃない。あんたは  
そのことで悩んだりしない?ドロシーと付き合う時考えなかった?」  
こんな質問ではフィールのことで悩んでいるのが丸見えだ。  
気弱なことを訊いている、さらにはそれが自分らしくないことも分かっているのだろう。  
もじもじと握り締めた手を組みかえ、恥ずかしいのを隠すためかきっと険しい顔でガルムを  
見る。だがこんなに顔を真っ赤にしていてはごまかせるものもごまかせない。  
 
少女のらしくない態度にガルムは思わず吹き出しそうになったが、本気の相手を馬鹿にする  
ようだったから慌てて咳払いをした。  
少女の目を見て真面目に答えてやる。  
「もちろんさんざん考えたし、今もふとした時に考えてしまう。それはやはりどうしようも  
ないことだ。楽しいことばかり考えて生きていけるものではないからな。そういう時は、こう  
……無理やりに意識を余所に向けるようにしている」  
そう言って両手を平行にあげ、振ってみせた。  
だが意識を無理やりにという話にジュジュは懐疑的な表情になった。  
「でも時間が経てばまた考えちゃうでしょ?あたし達の場合、普通にいけば相手が先に死ぬ  
って分かってるんだから……解決のしようがないんだもの」  
「まだ一生の半分も過ぎていないが、すべての物事がすっきり解決するものではないと俺は  
知っているからな」  
「そんなのあたしだって知ってるわよ!」  
欲しかった答えからずれていることだけは分かったのでジュジュは不満げに眉を寄せた。  
 
「あんたはおっさんだからそうやってゆったり構えていられるんだわ。なんでも分かってる  
ような顔して……」  
「なに?」  
ガルムは眉を上げる。  
今の台詞には嫌味の他にほんの少し嫉視が込められていたからだ。  
 
「いいわよ、あんたは。だってドロシーは大分年下で、あんたと並んで、あんたを追い越して  
おばあさんになって……それまでまだまだ時間があるもの。それに比べてあたしなんて初めて  
会った時は年の頃だってそんなに変わんなかったのに、たった数年でこんなに……!」  
ジュジュはテーブルの上に置いた手を強く握り締めた。  
口に出せば出すほど現実が近寄ってきて不安になってくる。  
「あたしのことを置いてフィールは一人でどんどん大人になっちゃうんだから!あたしなんて  
全然変わってないのに。十年経ったら、二十年経ったらって考えちゃうのよ。自分だけ歳を  
とってじいさんになって!私を置いて!!」  
ジュジュはほとんど泣きそうだった。ガルムの前だというのに虚勢を張る余裕もない。  
フィールを失う時の恐怖を思うとそれどころではないのだろう。瞳が潤んでいる。  
「嫌……そんなの嫌なのよ……!怖くて考えたくないの!」  
 
かなり悩んでいたのだろう。  
瞼の腫れの原因もそれだろうかとガルムは思った。だが余計なことは言わない。ただこの娘も  
表に出さないだけで種族の違いに深く悩んでいたのかと、始めて彼女に対し仲間意識のような  
ものを感じた。  
 
ガルムは小さく息を吐くと窓の外へ目をやった。  
「あのな、俺は彼女に言われたんだ」  
「え……?ドロシーに?」  
「そう、彼女が言ったんだ、自分が死ぬまで誰よりそばにいたいと。置いて行かれるのは俺の  
方だ、第三者が聞けば彼女は勝手と思うかも知れん」  
「そんなの、他の奴等には関係ないわ。二人が納得していればいいんだもの」  
「そうだな。俺もそう思う。……初めて彼女に思いを告げられた時――」  
ジュジュはガルムの突然の話に目を見開いた。  
彼は自分からこんなことを告白する人間ではない。問われても固く口を噤んでふいと反対側を  
向いてしまうような男なのに。  
     
「俺は驚いた。一晩考えたが断った」  
「えっ……?」  
そんな話は聞いていなかった。  
ジュジュはなにもかも終わった後にドロシーから直接事情を聞いたのだが、その時まで彼女が  
ガルムを好きなことも知らなかった。  
思慮深い少女だ。それに口も堅い。  
余計なことを言うとガルムが周りにいろいろ言われるのが分かっていたからだろう。  
現にジュジュは苦情めいたことを言った。  
「あんた、あんな可愛い子に告白されて普通断る?」  
「だからだ」  
「え?」  
「考えても見ろ。俺なんか年が離れていれば種族も違う、子供だって得ることが叶わない。  
そんな男より村の男でも何でも、フィールが納得するような人間の恋人を作った方がいいに  
決まっている」  
「そりゃ……そうかもしれないけどさ。ドロシーの気持ちってものがあるでしょ?」  
ガルムは頷いた。  
「だが、結局はこうなった。俺は言い訳を探して彼女を諦めなくて済んだし彼女も喜んで  
くれた」  
 
泣き顔もどこへやら。ジュジュはすっかりガルムの話に夢中だった。  
興味津津、身を乗り出して問いただす。  
「えっ?じゃ、もしかしてあんたもドロシーのこと好きだったの?」  
「そういうことをはっきり聞くものではない。が……まあ、そういうことだ」  
ガルムはあまりに直接的な質問に顔をしかめた。  
「彼女が同じカテナならこんなに悩まずに済んだのに、とも思ったしな」  
「あんたでもそんなこと考えるんだ」  
「だからそう言っているだろう。貴様、ちゃんと人の話を聞いているのか?」  
やれやれと頭を振った。  
さすがに喉の乾きを感じて目の前の茶碗に口をつける。  
「相手が死んだ時にやるだけのことをやってきたから満足だと、そう強がりでも言えるように  
過ごしたいと思った。やってやれば良かったなんて泣き言を言うのは御免だからな。相手が  
言うのも聞きたくはない」  
ジュジュが頷く。  
今、彼を見る目に侮りはない。同じ立場の者の話として真剣な眼差しで聞いていた。  
「時を逃さず――やるべきこと、やれることはやっておけ。どうしたって後悔するに決まって  
いるのだから。出会わなければ良かったと思うことだってあるかも知れん。だがそれも時間が  
経てば懐かしい思い出になる。俺は……そう思っている」  
「そう……そうね」  
「幸い一緒にいる時は相手のことだけを考えていられる。離れていても楽しいことや面白い  
ことがあったら彼女にも知らせてやりたいと思う。初めに比べれば暗くなることは大分少なく  
なった」  
ここにきてまたジュジュの顔が暗くなる。  
「あたしは何年経っても変わんないわ。同じように考えて怖くなる。あんたとどこが違うん  
だろ……」  
「あのな、俺と貴様、違うとすれば心構えではないのか」  
「え?」  
 
ガルムはこんなことまで言わなければならないのかと深々ため息をついた。  
「貴様な、好いた男の気持ちも少しは考えてやれ。――多分向こうも我々と逆の立場から同じ  
理由で悩んでいるのだぞ。相手がそんな後ろ向きで付き合いを続けてゆけると思うか。貴様、  
小僧が同じことをぐずぐずと悩んで暗い顔をしていたらどう思う」  
「あ……」  
「自分ばかりが辛いのではないということをそろそろ知っておけ。この世に生きる者は誰  
だって、心中するのでもなければ必ずどちらかが置いて行き、置いて行かれる立場になるのだ。  
それが我々の場合はカテナであるという理由だけでほんの少し残される方になる可能性が高い、  
それだけのこと。――それもどうなるか分からない未来の話だ」  
     
「……そっか……」  
そうね、そうよねとガルムの言葉に頷く。  
どうやら自分の言ったことが相手の心に響いたらしい。ガルムは胸をなでおろした。  
それこそさんざん悩んでいるフィールのためにも彼女には気持を前向きに持っていって  
欲しかった。  
「参考になったか?」  
「うん。ありがと」  
素直な言葉にガルムは眉を上げた。  
彼女は自身の変化に気付いてはいないようだ。  
立ち上がるとさらに言葉を添える。  
「朝っぱらから悪かったわね」  
「そんなのは構わん」  
自身も立ち上がるとジュジュを見送るのに玄関へ向かった。  
思いつきから少女の後ろ姿に声をかける。  
「おい」  
「なによ」  
「真面目に習うつもりがあるなら料理を教えてやるぞ」  
ガルムの言葉にジュジュはべえー、と舌を出した。  
「あんたの教え方じゃスパルタに決まってるわ。フィールだって料理は上手だし、やさしく  
教えてくれるもの。教わるんならフィールに教わるわよ。あんたはドロシーの相手だけして  
なさいよ」  
「貴様は真剣に覚える気がないんだろう。だから何年経っても――」  
「あー、もう!お説教はいいってば」  
少女はうんざりしたようにガルムの話を遮った。  
「もう二度とあんた達の仕事に手出さないから、それでいいでしょ?……じゃ、お茶ごちそう  
さま。ドロシーによろしくね」  
ひらりと手を上げるとジュジュは振り返らずに森の中へと入って行った。  
 
来た時に比べ大分明るい顔になっていたことに安堵し、ガルムは玄関の扉を閉めた。  
「誰でも同じことで悩むものだ」  
朝から肩のこる話をした。  
うーんと伸びをして台所に向かう。  
それにしても昨日何かあったのか。あるいは小僧がなにかしたのか。  
彼女が来た時の泣きはらした顔を思い出した。だが普段の様子を知っている彼は、まさか  
フィールがジュジュに対して無体な真似をしたとは思いもしない。  
 
「それにしても……」  
おっさんとは。  
「そうか、俺は……」  
 
おっさんと言われる年か。  
ガルムは自分がおっさんという言葉に傷ついていることに気が付いた。  
そしてそれは己がおっさんだと自覚しているからだと知り、さらに深く傷ついた。  
 
     
  〜つづく〜  
 

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