ジュジュはこの部屋に来るといつも最初に本棚をのぞく。  
特に本が好きだという話は聞いていないので、何となくしている行為なのだろう。  
フィールを振り返って読んでもいいかと許可を求める。いつものことだ。  
いつも途中になるので良かったら貸すよと言うのだが彼女は興味なさそうに断るばかりだった。  
間を置いて何度か同じ本を手に取ることもあり、もしかして以前読んだのを覚えていないの  
だろうかと、隣からちらと覗くと途中の頁から読み始めたりする。やはりそれなりに興味の  
ある本をちゃんと選んでいることをうかがわせた。  
父の書斎にあったものをやはりフィールが興味あるものだけ読んでは並べているので、一応  
そこにある本の内容はおおよそ知っている。  
たまに全く笑いの要素のない本で彼女が笑っていることがあって、それが彼には不思議だった。  
 
「その本面白い?」  
「うん……」  
返事はするが上の空。  
フィールに背中を預けて真剣に頁を送っている。  
一緒にいるだけで幸せと言えば幸せだが、ちょっとくらいの会話はしたい。読書の邪魔を  
したくはないが話しかけようか、かけまいか、天井を眺めて考えていると後ろから声がした。  
「ね……フィール。あたしが本読んでるとつまんない?」  
「うん」  
正直に答える。  
少女の笑い声に合わせて背の接している部分が揺れた。  
「あんたって本当に素直ね」  
なんだか子供扱いのような台詞に彼は頬を染めた。  
「きみがいればそれだけでいい、って言いたいところだけどせっかく一緒にいるんだし。  
構って欲しいなんて子供みたいだと自分でも思うんだけど」  
「なに言ってんのよ」  
心地よい重みと共に後ろから腕が回される。  
彼女のやわらかい部分を肩のあたりに感じてフィールは思わず目をつぶった。顎の下にある  
細い手首をそっと握ると、大きくため息をつく。  
少女の自分を挑発するような態度にめまいがした。  
 
フィールは振り返ると自分から改めて彼女の腰に手を回した。  
相変わらず折れそうなほど細い。  
「ジュジュ」  
囁きと共に抱き締める腕に力を込めた。  
それは彼女に対する意思表示だ。伺いを立てると言う意味も込めている。  
その腕で――後ろに回された手で背中の釦を外したいと。  
すぐそこにある寝台ですべてを自分の前に晒してほしいと。  
年頃の少年が持つ当然の欲求だった。  
彼女は顔を上げるとフィールの頬に手を添える。  
紅いやわらかそうな唇が恋人を求める形になり、少年は自身のそれで応じた。  
互いの温かな感触を確かめるために何度も離れてはまた口付けた。  
少年の腕が彼女の背を上ってゆくのは当然だし、もう一方の手が彼女の体の上を移動して  
いったのもまた当然と言えた。  
フィールの手が肩の上を通って顎、首筋を撫でてゆく。  
胸の上まで移動したとき少女がほんの少し体を引くのを感じた。だがそれには気付かぬふりを  
してそっと指先に力を入れる。すると心地よい弾力が彼を押し返してきた。  
もう一度同じ感覚を味わいたくて空いてる方の手で彼女が逃げないよう引き寄せると、少女の  
手が自身の胸にのっている手を掴みそれを下へとよける。  
「ん……まって、フィール。駄目、もっと……キスだけ、して……」  
彼女の方から積極的に舌を差し入れる。  
フィールは大人しく掴まえられた手も少女の腰へと回した。  
 
だが自分が求めるのは唇だけと彼を拒否したことが――鈍感な風を装って彼の真意に気付か  
ないふりをしたことがジュジュには後ろめたかった。  
ごまかそうという気持ちから熱い口付けを繰り返したが、それがかえって少年の欲望を煽る  
とは彼女は思ってもみなかった。  
 
     
明け方からの雨が昼過ぎには小降りにかわり、見上げれば雲間から光をのぞかせるところも  
出てきた。  
空気は湿気を含んで重たげだ。洗濯物を乾かすのもままならない天気はつまらない。  
それでも地面をまんべんなく覆う雨水が青空を映し始めると、歩くには鬱陶しいだけの  
水たまりもなんだか嬉しいものに感じられた。  
ぱらぱらと窓をたたく音が徐々にゆっくりになってゆく。その内側で二人はいつものように  
向かい合ってお茶を飲んでいた。  
 
「雨止みそうですね。明日は晴れるといいんですけど」  
家事を引き受ける者としてはやはり晴天が望ましいのだろう。  
「夜から降りだして朝には止んじゃえば気にならないのに。雨の日はお兄ちゃん、ちょっと  
だけそわそわしてるんです」  
「山にいけなくなるからか?」  
「いえ……雨で仕事がお休みだとジュジュさんが来るから。突然天気が崩れた時とか、遊びに  
来る約束が無いことの方が多いんです。だから雨でも向こうの都合で来ない時もあって。  
今日は来るかな、お茶の用意しておこうかな、ってうろうろ落ち着かなくなって可愛いん  
ですよ」  
いつまでも初々しい彼女の兄に頬を緩めながら、さりげなくきっかけを探していたガルムが  
ついでと口を開いた。  
「そういえば……先日小僧に会った」  
「お兄ちゃんと?何にも言ってませんでしたけど……いつですか?」  
「いや、特にどうと言うような話をしたわけではない。会ったのも偶然だ。ただ……」  
「ただ?」  
不思議そうに首を傾げる彼女に咳払いをして答える。  
一度目を逸らしたのは照れたせいだろう。  
「いや……お前をここに泊める許しを得た」  
「え……?」  
 
数秒の間をおいてドロシーの顔が頬から首までほんのりと染まっていった。その速度が意味を  
反芻し、理解するまでにかかった時間だろうか。  
耳まで真っ赤にしてやっと彼の顔を凝視していることに気付き、慌てて視線を目の前の茶器  
へと移動させた。  
砂糖も何も入っていない茶碗を匙で意味もなくかき回す。  
万事において堅いガルムの性格を知っているせいか、そういえば彼の家に泊まりたいと考えた  
ことが一度もなかったことにと、ドロシーははっとした。  
二人は恋人同士、今まで彼女にそういう発想がなかったことの方がある意味おかしかったの  
かも知れない。  
 
「どうする」  
もちろん泊っていかないかという意味だが嬉しくも恥ずかしいこの申し出を、ドロシーは  
断るほかなかった。  
「あ……りがとうございます。でもあの、私、何の用意もしていないし、今日は……ごめん  
なさい」  
「あぁ、そうか。そうだな」  
諾否を聞いたことで一応の緊張が解けたのか、ガルムは静かに、だが少女にもそれと分かる  
ほど大きく息をついた。  
気にすることはないと言うように彼女に微笑みかける。  
「女性にはいろいろあるか。男のように身一つで、と言うわけにいかんのは大変だな」  
朝の身だしなみ一つとっても何の準備もなしでは落ち着かないだろう。  
そんな彼の思いやりが伝わってきて、ドロシーはほんの少しだけ誘いを断ったことを後悔した。  
「すみません。でも……嬉しかったです」  
「いや、いいさ。また今度」  
「はい」  
下心を感じさせない大人の態度に彼女は嬉しそうに微笑むと今度は素直に返事をした。  
 
     
玄関の鍵を締め居間をのぞくと兄が長椅子に横になっていた。  
することがないのか、そんなふうにぐうたらしているのは珍しい。  
「ただいま」  
「……ん……ああ、おかえり。……ガルムは?」  
「いっつも同じこと聞くのね。もう帰ったよ」  
「いっつも同じこと聞くのはね、たまにはガルムも家でお茶を飲んで行けばいいのにって  
思ってるからさ」  
フィールとしてはいつも暗くなってから妹を家に送ってきてくれるガルムにお茶の一つも  
出したいのだが、ドロシーに声をかけさせてもなかなか寄っていってはくれなかった。  
「お兄ちゃんこそジュジュさんは?今日は来なかったの?」  
「……」  
ちら、と彼が妹を横目で見る。  
はっきり言わないところを見るとフィールは突然の休日を一人で過ごしたらしい。  
 
ドロシーは気を遣って話題を変えた。  
「そ、そう言えば今日聞いたんだけど。お兄ちゃん、ガルムさんに会ったって本当?」  
「あー……」  
うつ伏せに腕を枕にしていたのをごろりと仰向けに向き直る。  
木目の美しい天井を見つめて腕組みをした。  
「いつだったかなぁ。十日は経っていないと思うけど……なに?ガルムに聞いたの?」  
「そうだけど――あっ!お兄ちゃんお酒なんか飲んでる!」  
テーブルの上を見てドロシーが声を上げる。  
お茶を飲んでいるものだとばっかり思っていたのだ。  
「僕だってお酒を飲みたい時くらいあるさ。それこそもう子供じゃないんだし。折角の休み  
なんだ、少しくらいいいだろう?」  
妹の声にフィールは言い訳がましいことを言った。  
「別に駄目とは言ってないじゃないよ。……でも飲み過ぎないでね」  
「お前じゃあるまいし自分の酒量くらい分かってるさ」  
これは以前ガルムの家で酔って寝てしまったことに対するあてこすりだろう。  
ドロシーは頬を膨らませた。  
「もう、お兄ちゃんてばお酒って言ったらいつまでもおんなじ話ばっかりして。こっちは  
真面目に心配してるんだからね!」  
「ははは、ごめんごめん。もう言わないよ」  
「もう……絶対だよ?約束だからね?」  
「はいはい……。で、なんだっけ。えっと……ガルムに会った話だよね」  
「うん」  
「特にお前に言うほどの話をしたわけじゃないから忘れてたんだよ」  
「そういうことでも教えて欲しかったの。次は教えてね」  
「分かったよ。恋する乙女は知りたがりだな」  
「お兄ちゃん!」  
「あーわかった。ごめんってば。もう言わない」  
 
珍しく妹をからかうようなことばかり言う。笑ってはいるが何か苛々することでもあったの  
だろうか。今朝は用事もないと言っていたし、ジュジュも来なかったのでは一日家にいて  
なにか不都合があったとは思えないのに。  
だが確かに普段と違う様子の兄にドロシーは少し心配になった。  
「良かったじゃないか。泊まりがけで会えれば二人ともゆっくりできるだろう?ガルムも  
わざわざお前を送ってこなくて済むし」  
「う、うん」  
「嬉しかっただろ」  
「うん」  
ドロシーは恥ずかしそうに、だが確かに幸せそうに頷き、頬がまたほわ、と染まった。  
「僕もね、嬉しかった」  
兄の台詞に妹がきょとんとした顔になる。  
「まさかあんなことを断られるとは思わなかったけどね。……ほら、僕はお前と年が3つしか  
変わらないし、ガルムは僕より大分大人だろう?」  
「うん」  
     
それは否定しようのない事実だ。  
実際何かあるとフィールはまずガルムに相談することが多い。あるいはヴィティスか。  
彼らの助言には経験によって裏打ちされた確かな重みがあった。  
 
「それでも僕のことを年下だって侮らずにお前の保護者と認識してくれてる。嬉しいよ。  
当然とは思わないけれどいちいちそうやって断りを入れてくれるのがね。呼び方はいつまでも  
小僧、だけど」  
再び楽しそうに笑い声を上げる。  
だが出会ったころからのガルムの呼びかけにすっかり慣れてしまって、今さら名前で呼ばれ  
たら落ち着かないことだろう。  
 
恋人の家に泊まる、という話でドロシーも以前から考えていたことを口にした。  
「私もね、ジュジュさんにまた泊まりに来て欲しいなって思ってたの。前の時から大分経つ  
でしょう?今度会った時に伝えておいてくれない?ジュジュさんと色々お話したいの」  
「それを言ったら僕だってガルムにちょっと……話したいことがあるんだよ。この間会った  
時に直接言えば良かったんだけど忘れててさ。お前から都合のいい時を聞いておいてくれない  
かな」  
「なあに?相談ごと?」  
「……うん、まあそんなものだよ」  
自分に言えないような話なのか歯切れの悪い言い方だった。  
今日でなければ最近の出来事だろうか。思い当たることはない。さっきの態度といい、本当に  
何かあったのだろうか。  
それでもドロシーは心配を顔に出さないよう兄に頷いて返した。  
「うん。伝えておくね」  
普段は彼らの家に寄り付かないガルムも、相談があると言えばきっとすぐに来てくれるだろう。  
ぶっきらぼうなようだが思いやりのある男なのだ。  
 
 
木々の間をゆくと斧を木に打ちつける音が聞こえてくる。耳に心地よく感じるのは、一定の  
間隔で響いてくるからだろう。  
音の発信源に近づくにつれて鳥の鳴き声が少なくなる。  
あたりに視線を巡らせると目当ての人物がこちらに背を向けて木を切っている。  
彼は斧を構えた少年に声をかけた。  
 
「小僧」  
「わっ!」  
 
いきなり声をかけられて、思わず斧を振る手がぶれた。  
狙いを定めていたところからずれ、幹に斜めに突き刺さる。変に力が入ってしまったためか  
ぴたりと嵌まってしまった。  
あまりに驚いたからだろう。少年は恐ろしいものを見るようにゆっくりと振り返った。  
「なんだ……ガルムかぁ……脅かさないでよ」  
「すまん、そんなに驚くとは思わなかった」  
「足音がしなかったからさ。ああ、驚いた」  
木に向き直って斧に手をかけると思いのほかしっかりと刃が入り込んでいて、なかなか抜け  
なかった。  
「俺がやってやろうか?」  
「ん……ありがと、大丈……夫……っ!」  
さすがに樵を生業にしているだけあって人の手を借りようとはしなかった。なんとか斧を抜き  
取るとその大木に刃を下にして立て掛ける。  
「ふぅ」  
一息ついてフィールは改めてガルムに向き直った。  
「どうしたんだい?こんな所に」  
「どうしたではない。話があると言ったのは貴様だろうが」  
「あぁ……!そっか。それでわざわざ来てくれたのかい?なんだか悪かったなあ」  
耳の後ろをかきながら恐縮する。  
わざわざと言う意味ではフィールの家に来てもらうのも手間は一緒なのだが、こんな森の中  
ではお茶も出せない。  
話を聞いてもらうのに何の仕度もできなかったことを彼は申し訳なく思った。  
     
それを察してガルムは手を上げる。  
「気にしなくていい。散歩のついでだ」  
「でもよくこの場所が分かったね」  
「大体の場所は彼女に聞いていたからな。いいからほら、座れ。休憩にしろ」  
彼女というのはドロシーのことだ。  
強引にフィールを座らせると、彼が手に持った包みから出したのは小さな器に入れた軽食の  
数々だった。  
日が暮れるにはまだ大分あるが、体力勝負の仕事だけに腹が減っていると思ったのだろう。  
女性が好んで食べるようなものではなく腹にたまるような内容だった。  
思わずフィールが声を上げる。  
「うわぁ、美味しそう」  
「感想は食べてから言うものだ」  
包んできた布を畳みながらガルムは口うるさく言った。  
 
「本当は僕がガルムの家に行くのが当然なんだけど」  
「仕事が終わった後、夜中に彼女を家に一人残すわけにはいかんからな。……聞かせられない  
話なのだろう?」  
「んー……うん……分かる?」  
ちら、と少年の目がガルムをうかがった。  
「まあ、その位はな。兄が話してくれないと大分心配そうな様子だったぞ。話せないなら  
あまり表情に出すものではない。それも思いやりだ」  
「うん。そうだよね……ごめん。気を付けるよ」  
フィールはガルムの差し出した料理に手を出した。  
パンで鶏肉を巻いたもので甘辛く煮て汁けを切ってあったが、口に入れると肉汁がじゅっと  
広がった。  
良く噛み飲み込んでから再び口を開く。  
「ガルム……あのさ、ドロシーのことなんだけど」  
「なんだ?」  
「将来的にどうするつもりなのかな」  
 
フィールの問いかけにガルムは自らも料理を口に運ぶ途中、一瞬その手の動きを止めた。だが  
答えを考えているのか決して急いではいない速さで咀嚼するとごくんと飲み込み、恋人の兄を  
正面に見据えて口を開いた。  
「無論責任はとるぞ。どうする、と言うのが結婚するのかと言う意味ならば、する、と答え  
よう。彼女のことに心配はいらん」  
「違うよ、ドロシーに対する扱いに不安を感じてるわけじゃないんだ。ガルムがドロシーの  
ことを大事にしてくれてるって言うのはよく分かってるからね」  
「ではどういう意味だ?」  
「異種族であるってことについて」  
「む……」  
「僕たち人間とカテナは寿命が違うだろう。ドロシーはもしかしてそうじゃない可能性も  
あるけど」  
反応をうかがうような視線にガルムはあっさりと首を振った。  
「わずかな可能性に賭けるのは止した方がいい。いつだって悪い方に考えていた方が落胆は  
少ないからな。俺はそれについてはもう……諦めている」  
「諦める……」  
フィールは彼の言ったことをよく理解するよう口の中で繰り返しながら眉を寄せた。  
「表現としてはこれ以上ないくらい後ろ向きだが、実際俺にはどうにも出来んからな。ほんの  
少しの可能性に賭ける気もないし、彼女とて自分でどうこう出来ないことを期待されても  
辛いだけだろう」  
「出来ないかな」  
「そう思っていた方がいい。彼女のためにも、自分のためにも。それにそう考えていたほうが  
一緒にいる時間を大事に出来るだろう?」  
「そうだね……うん。その方が前向きだね」  
「そういう貴様はどうなのだ。小娘とはどうなっている」  
ガルムは腕を組み改めてフィールに目を向けた。  
料理に伸ばしかけていた手がぴくんと反応する。  
「話があると聞いたが……そのことか?」  
 
「あ、あのさ」  
そこで言葉を切るとフィールは喉を鳴らした。  
一大決心と言った様子にガルムもつられて緊張し居住まいを正す。  
これほど思いつめている(様に見える)少年に、真剣な顔で次の台詞を待っているとはたして、  
フィールの悩みは全く予想外のものであった。  
いや、方向としては合っていたと言えるだろう。  
少年は膝の上に置いた手を握り締めた。  
「あの、お、お……女の子がさ、し……たくないのって、どうしてだと思う……?」  
 
一瞬と言うには長すぎる沈黙。  
フィールは相当思いつめているようで、恥ずかしさから顔を耳まで真っ赤に染めながらも  
ガルムから目を逸らさなかった。  
そのガルムはというと今の台詞ははたして聞き違いだろうか、と眉をよせやはり正面にいる  
相手を凝視する。  
 
「――なんだと?もう一度言ってみろ」  
暫く見つめあった後にやっとガルムは聞き返した。  
「なんだって……だから、言った通りの意味だよ。どうしてだろう。ガルムには分かる?」  
内容は全く具体的なものではなかったが、言いたいことは分かる。  
重ねての言葉にフィールが真剣に悩んでいることを察すると、若者らしい悩みにガルムは頬が  
緩むのを感じた。  
だが同時に不安を覚えたことも確かだ。  
性に関してもっとも貪欲になる時期だから仕方がないとはいえ、女性には女性の事情がある。  
特に男には話しにくいこともあるだろう。  
それが分からないような男ではないとも思ったが、ガルムは諭すように言った。  
「小僧、まさか貴様はしないとは思うが……相手に自分の欲望を押しつけてはいかん。それに  
女性には色々と都合があるのだ。体調によって情緒不安定にもなるようだし――とにかく  
相手が駄目だと言うなら潔く引き下がるべきだろう。体のつながりが男女のすべてではない」  
「ち、違う」  
フィールはぶんぶんと首を横に振った。  
「違うんだ。そうじゃなくって……あの」  
そこまで言いかけ残っているほんの少しの躊躇いから、視線を並べてある料理に向けた。  
「ずっとなんだよ」  
 
ガルムは先程よりも深く眉間にしわを寄せ、直後、少年が本当に言いたいことを察して目を  
見開いた。  
「なんだと?」  
小僧と小娘――ジュジュの、二人の仲睦まじい様子からは考えてもみなかった事態にまさかと  
驚きを隠せない。  
「あの、びっくりしたかもしれないけど僕達……まだ、その……ないんだよ」  
「何故――」  
「分からない」  
フィールは哀しげに目を伏せ再び首を振る。  
だからそれを相談したいのだろう。自分だけで考えるには彼もそろそろ限界なのだ。  
 
「僕はそりゃ、好きな子と……ジュジュと抱きあいたいって思うんだけど。そういうこと、  
彼女は思わないのかな?どう思う?したいって思うのは普通だよね?」  
「ああ。好きな異性には持って然るべき感情だ。相手にそれを押しつけなければな」  
「まさかそんなことはしないけどさ。だからね、どうしたらいいのか分からなくて。解決策が  
見当たらないっていうか……彼女、理由を言ってくれないんだよ」  
暗い顔の少年に、ガルムは大人として違った方向で感心していた。  
「よくまあ何年も耐えてきたものだ」  
彼は嫌がる恋人に無体なまねをするような男ではないとガルムは知っていた。  
それでも彼らの付き合いの長さを考え年頃の若者の好奇心、性欲を思うと、これまでよく我慢  
してきたものだと感心した。  
「大袈裟だよ。ただ……内容が内容だけに誰かに相談もし辛くてさ。最初は女同士と思って  
アルミラに聞こうかとしたんだけど、僕にも理由を言ってくれないことを勝手に話されるのは  
ジュジュが傷つくかなって。同性だからこそ言いたくないことってあるかもしれないし。  
だから僕の立場ならどうするべきか……ガルムなら大人だし客観的な意見を聞かせてくれる  
かと思ったんだ」  
     
「ふむ……」  
まさかこの二人がいまだ清い関係だったとは誰も気付いていないだろう。気付かせないほど  
周囲の者の目に二人は仲良く映り、あの勝手な少女をしてたいした喧嘩の話も聞かずにきた  
のだ。  
 
二人はすっかり黙り込んでしまった。  
フィールなど切りかけの木があるのも忘れているかもしれない。  
「貴様を拒否するのに考えられる理由か……」  
「うん。分かる?」  
「例えば過去に何か……」  
「え?」  
「いや、もしかして以前そういう関係のことで嫌な思いをしたことがあるのではないか?  
なにか心に傷を負うような。それが原因で今一歩踏み切れないとか」  
「――!!」  
ガルムの推測に、少年は息をのんだ。  
必死に今までのジュジュの様子を思い出せるだけ思い返す。  
 
初めて手をつないだ時のこと。思った以上に華奢な体を抱きしめたときのこと。  
それにそれ以上のことをしようとしてかわされたときのことを。  
 
「どうだろう、分からない。そんな感じはしなかった……と思うけど」  
フィールは髪を手でがしがしとかき回した。どれだけ考えても思い出せる場面には限界がある。  
それよりなにより。  
「もしかして僕、鈍いから……彼女の様子に気付かなかっただけかも知れない」  
うなだれる彼をガルムは励ました。  
「想像で落ち込むな。そう決まったわけではない。早計だぞ。他の可能性としてあるいは」  
「……あるいは?」  
「自分の体形などが原因で、もう少しやせたら、と考えているとかか?」  
「もう少し?もう少しったってもう四年目になるんだよ!?」  
「女性は見目好い姿になるためなら、多少の無理は通すからな。この場合、通される無理は  
貴様だということになる」  
「でも彼女、全然太ってないよ。それどころかもう少し太ってもいいくらいだ」  
「彼女らにとって重要なのは『自分が』満足するかどうかなのだ。人の意見など参考にしか  
ならん。あとは……」  
「そういうものなのかなあ……でも、四年だよ?えー……ごめん、あとは?」  
「ふむ。ただ単純に怖いだけであるとか」  
「怖い?」  
「そうだ……女性というのは男を受け入れる側のせいか、初めての時というのは人によっては  
そうとう怖いものらしいぞ」  
フィールは目を丸くした。  
恋人と抱き合うのがどうして怖いのだろうと思ったに違いない。  
「怖がるなんてどうして……何が怖いっていうんだろう。そんなこと、考えたこともなかった」  
「だろう?まあ、その辺は性格にもよるのかもしれん。個人差はあれかなりの痛みを伴うよう  
だし、俺達にはどうしても理解できない部分もある。これは仕方がないことだ。性差による  
ものだから。だがもしこれが理由なら貴様の努力でどうにかなるのではないか?」  
「どうにかって言われても……なだめながら……ってこと?」  
やはり初心者ゆえか、怖がるものをどうして扱ったらよいのか見当が付かないらしい。  
「大体さ」  
「うん?」  
「そんな状況になったら……多分ジュジュの様子にかまってる余裕ないと思う……」  
ガルムは唸った。  
確かにありえることだ。  
大体彼女が恋人を拒否する原因がガルムの言う心の傷だった場合、下手に手を出せば二人の  
中に亀裂が生じる可能性もある。  
「やはり本人に理由を聞かせてもらうのが一番だろう。ここでどうこう言ってもそれが分から  
なければ対策のとりようがない」  
「やっぱりそうだよね。でもさ、教えてくれないんだよ」  
    
再びの沈黙。  
二人ともすっかり手が止まっている。  
フィールがぽつりと言った。  
「ガルムの時はそんなことなかった?」  
「――随分答えにくいことを聞く」  
確かに大胆な質問だった。  
それだけ精神的に余裕がなくなっているということだろう。  
ガルムの妙な表情にフィールも気まずくなったのか、焦ってつけ加えた。  
「あのね!僕だって今の質問はすごく勇気を出してしたんだよ。妹のことだもの、あんまり  
具体的なことは知りたくないしね。ほら……気まずいだろう?」  
やはりさんざん迷った末の言葉だったらしい。  
 
ガルムは軽くため息をついた。  
「俺の時は……」  
ここまで悩んでいるのだからとこの際恥ずかしさを脇に追いやって、少年の知りたいだろう  
ことを考え考えしながら口に出した。  
 
「そうだな。拒否、というほどの抵抗はなかった。ただ――恥ずかしそうに笑って――受け  
入れてくれた。貴様も思ったかも知れんが、自分でも求めるには早すぎると……今でもあれは  
早すぎだったと思う。しかしどうしても彼女が欲しくなってな。もちろん拒絶されたら止す  
つもりだったし、その自信もあった。だが彼女は……」  
「嬉しかったんじゃないかな。好きな人に求められたんだもの」  
「ふ……だといいがな。本当は断れなかったというのでなければいいが。あの時は俺もだが、  
彼女は相当緊張していた」  
「ガルムも?緊張したの?」  
当然経験があるものと思って話を聞いていたフィールは思わず問いかけた。  
「するに決まっている。惚れた女を初めて抱くんだ、当然だろう」  
聞くまでもないと反射的に答えたがあまりにあからさまな自分に慌て、ガルムは咳払いをした。  
「どれだけ経験があるかなど関係ないだろうな、その辺は。相手を真面目に想っている者なら  
皆同じなのではないか?緊張もするがそれ以上の喜びがある。……彼女は辛そうだったが、  
それでも俺に応えようと耐えてくれて――それがたまらなく愛おしかった」  
自分が聞きたがったことでも初めは気まずかったはずなのに、いつの間にか二人の間に確かに  
愛があるのを感じて少年の顔からは力が抜け、穏やかな表情をしていた。  
「ドロシーはガルムのことが本当に好きなんだね」  
「俺も同じだけ……いや、それ以上の気持ちで彼女を想っているぞ」  
「うん、分かるよ。ドロシーもきっとね。家でガルムのことを話してる時のドロシー、本当に  
幸せそうだもの」  
「む、そうか……」  
 
そしてまた暫くの沈黙があった。  
「ねえガルム」  
「なんだ?ほら、せっかく作ってきたんだ、もっと食べんか」  
向かいに座る少年に勧めながら自らも口に運ぶ。  
「ありがと。……あのさ、さっきの話からすると、ジュジュってもしかしてさ……」  
ガルムは黙って次の言葉を待った。  
フィールの声は珍しく不安げだった。  
普段から断言する強さ、押しつけがましさはないが、大丈夫かと声をかけたくなるような  
気弱さを感じる。  
「ジュジュは僕のこと本当はそんなに好きじゃないのかな」  
吹き出しそうになったのかぐふっと妙な音がした。  
ガルムは咀嚼していたものを慌てて飲み込み、余程苦しかったのか胸を叩いている。  
少年はそれを見てお茶を差し出した。  
「大丈夫かい!?」  
「ごほっ……大丈夫かだと?それはこっちの台詞だ。どういう考え方をするとそうなるのだ。  
全く少し考えていたかと思えば愚にもつかない事ばかり言いおって」  
ひったくるようにお茶を受け取り喉に流し込むと、それでやっと人心地が付いたのかガルムは  
ふう、と息をついた。  
     
「いいか、OZとして一緒にいた俺に言わせればな、あの娘がそんな半端な気持ちであれほど  
他人に懐くわけがない。貴様らを知る者に聞いたら笑われるぞ。大体あの娘の貴様に対する  
恋心、傍で見ていれば分かりすぎるくらいだった。もっと隠せと言いたくなるほどにな」  
「え……本当?いつから……僕、全然気付かなかったけど」  
「だから貴様は鈍いと言うのだ。まったく……良くそれで付き合いが始まったと思うぞ」  
「はは……ねえ。本当だよね」  
自棄になっているのか、彼の言い方はまるでひとごとだった。  
 
「立ち入ったことを聞くが、それこそ泊まりに来たりもするのだろう?」  
「来るよ。ドロシーの部屋にね……もうひとつ頂きます」  
「ああ、たんと食え。全部食っても構わんぞ。何故彼女の部屋に……いつもか?」  
「うん。泊まりに来た時は絶対僕の部屋には来ないね」  
少年は眉をよせた。  
 
この少年は負の感情を表に現すことは滅多にしない。ここまでつまらなそうな顔をするのは  
とても珍しいことだった。  
 
ガルムは再び思考を巡らせる。  
恋人の家に行ってその妹の部屋に泊まるなどということがあるのだろうか。いや、少女二人は  
結構気が合うようだから別段おかしなことではない。  
だが絶対入らないというのはやはりそういう雰囲気になるのを避けるためだろうか。それに  
してはあからさま過ぎる。  
それともドロシーに遠慮があるからか、もっと単純にドロシーと話をしたいだけなのか。  
話を聞いているだけではガルムにはどれも判断がつかなかった。  
OZだった頃のジュジュはあまり周りに遠慮をするような性格ではなかったのだが。  
「彼女に……ドロシーに聞いてもらってはどうだ」  
「えぇっ!?そ、それはちょっと……」  
 
まさか彼女との男女の付き合いについて悩んでいるのだなんて妹に言えるわけがない。  
案外照れもせずに真面目な意見を聞かせてくれるかも知れないが、それはそれでショックと  
いうものだ。  
恋人が出来た今でさえ何も知らないような少女でいて欲しいと思う。それが兄の我儘に過ぎ  
ないと分かってはいる。分かってはいるが、それでもそんな話を振る気にはなれなかった。  
 
へどもどと断る少年にガルムは頭を振った。  
「この手の話は俺向きではない……わかるだろう。すまんが具体的な助言が出来る自信がない。  
俺にとって女心とはこの世で最も理解が及ばないものだ。レオンかヴィティスに相談した方が  
いいかもしれん」  
「……」  
「聞き辛いなら俺から言ってやってもいいが」  
少年の気持ちを慮ってガルムが世話を焼いた。  
「ううん、いいよ。もう少しガルムの言ってくれたことを考えてみる。出口が見えないよう  
だったら自分で行くから……ありがとう」  
「礼などはいい。力になれなくてすまんな」  
「ううん、十分参考になったよ。ありがとう」  
 
 
ガルムが立ち去った後、フィールは再び先程の木に取り掛かった。  
しかし心はジュジュのこと、ガルムの話してくれたことを思い出すばかりで一向に作業に  
身が入らなかった。  
普段の倍も時間をかけて木を切り倒すと余計な枝を払って丸太の状態にする。  
その上にどっかと腰を下ろすと彼は空を仰いだ。  
空は透き通るように薄く、雲は見えずどこまでも高い。  
 
お茶を飲んだばかりだったがフィールは大分長いことそのままの姿勢でいた。そして一休みと  
言うには長すぎる程ぼんやりした後、彼は斧を持って立ち上がった。  
 
 
     
  〜つづく〜  
 

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