なんてことを言うんだろう。  
開いた口が塞がらないとはこのこと。常識を疑うような申し出に、私は半ば少女を叱るような  
口調になっていた。  
 
「君、会って間もない相手に、いきなりそんな――」  
「しいっ!」  
厳しく言われ、慌てて口元を押さえる。  
彼女は人差し指を立て私に口を噤むよう要求した。  
「駄目よ、静かにして。皆御使いのことで気がたってるから、下手に人に見られたら怪しまれ  
てしまうわ」  
「ごめん」  
手で押さえたまま小声で謝罪する。  
「たまにね、やっぱりよその人がふらふらして来る時があって」  
「うん」  
等間隔に並ぶ家を迂回して、森からすぐのところを歩く。  
彼女は小声で話を続けた。  
「……御使いに襲われて命からがら逃げて来たとか、そういう人達……。服を洗濯する余裕も  
ないのね。藪に引っかけたりしてそのままのぼろぼろの格好をしているわ。それで大抵の人は  
ここに置いて欲しいって言うの」  
「だろうね」  
 
逃げ出しても行く当てが無いから人の好意にすがるしかないのだろう。そしてこういう場合、  
どういった対応をするかは村長の判断にゆだねられるものだ。  
「村長や大人達でああだこうだと話し合ってね。本人の話もよくよく聞いて、それからやっと  
ここで生活することが許されるの」  
「とても警戒してるんだね」  
「他人を入れるのが嫌だって言うんじゃないの。ただ……御使いと人とは姿が似ているから。  
こうして隠れるようにして暮らしていると、どうしても慎重になってしまうのね」  
それでも余所者を受け入れてくれるのはおおらかな方だろう。  
身一つで逃げて来た者、食べる物だってない。今はどの村でもお腹一杯食べるなんてことは  
考えられないから、他人の口を賄うなんて嫌がりそうなものなのに。  
「でも基本的には人がいいんだ……だろう?」  
「そうなるのかしら?見殺しにするのは後味が悪くて嫌なだけかも知れないけれどね」  
 
一軒の家に近づくと彼女は私を振り返った。  
「ここよ。裏口からでごめんなさいね。……入って」  
目の前にあるのはなんてことのない普通の民家だった。扉も裏口らしく模様もない簡素なもの。  
鍵を開くと先に彼女が入った。  
少しだけ緊張する。  
「お邪魔します」  
まさか中で待ち伏せなんてことはない。生き物の存在がエテリアの気配で分かるから。  
それでもついそんなことを考えてしまう自分の臆病さに私は顔をしかめた。  
 
中は真っ暗だった。それももう外とも大差ないが。  
慣れた家の中、彼女はどこに何があるのか分かっているのだろう。暗がりを物音も立てずに  
奥へと入って行った。  
「待ってて、今灯りをつけるから」  
その言葉に目を閉じてしばらく、瞼の向こうがほんのりと赤くなった。  
自分のいる場所を確認するとそこは台所で、テーブルの上の燭台に火が灯されている。  
とても温かな色だ。  
 
彼女は突然の客にどうしよう、と手を頬にあてて辺りを見回した。  
「えっと……じゃ、まず手を洗ってもらおうかしら」  
彼女の台詞に子供の頃を思い出した。  
日常が甦ったようでなんだかくすぐったい。  
     
「家に帰った時の基本だね」  
「ええ、そうね」  
桶に水を張ってくれたので言われたとおり袖まくりをし、手を洗った。  
その間に少女はつっかい棒を外し片開きの窓を大きく開いた。かたんと大きく音がなり、  
そこから少し冷たい風が入ってきた。  
 
「いいのかい?」  
「え?」  
出してくれた布巾で手を拭いながら問いかけると彼女は不思議そうな顔で振り向いた。  
「窓をこんなに大きく開いて。外から見えないように気をつけているんだろう?」  
「ああ――、そうよ。でも大丈夫。この村の家はどれもひさしが大きく出来ているの。  
気付いていた?この村自体、森より少し地面が下がっているのよ」  
「へぇ」  
それは気付かなかった。  
上空を通るだけの御使いではなおさら分からないだろう。  
「窓もひさしも大人の目線より低い。だから森に誰かがいても私達の灯りは見えないの。  
そうね、気をつけるとしたら燭台の灯で軒下が明るく映ることくらいかしら」  
言いながら彼女は窓とテーブルの間に小さな衝立を置いた。  
「こうして外にもれる灯りを押さえればそれもほとんど見えないし。夜は問題ないのよ。  
ただ……昼間がね」  
語りながらも彼女の手が止まることはない。  
棚の上から鍋をとり、竈に火をかける。小さな鍋を二つ置き、テーブルの上には茶碗や皿を  
二つづつ並べ始めた。  
「ごめんなさい。お客様を立たせっぱなしにして。どうぞ座って」  
突っ立って話を聞いている私に気付き、彼女は慌てて椅子を勧めてきた。  
「いや、いいよ」  
短く断ってテーブルに寄りかかる。  
視線で話の先を促すと彼女は小さくため息をついた。  
「畑仕事なんかすればどうしたって隠れてはいられないでしょう?子供達だって外で遊ぶ  
から。家から出さないわけにもいかないからそれだけは心配で」  
「外で用事をしている時に御使いが上を通ったら見つかってしまうからね」  
「そうなの。だから皆、煮炊きをするのにもとても気を遣っているのよ。うっかり魚なんか  
焼いたら煙がものすごいからってそんなことまで話し合って」  
 
凄いでしょ、と微笑む彼女に言葉が出なかった。  
そんな日々に心の平安はあるのだろうか。いつ見つかるか、追われるかと怯えて過ごす事の  
辛さはもう身に染みて理解している。  
だが彼女の声に暗い色はなかった。  
「この村の人達は結構行動的なの。近くに御使いが現れたって聞いたら森の中に隠れたり。  
数組分かれて洞窟で寝起きしたこともあるわ」  
それには思わず聞いてしまった。  
「誰がそんなことを?」  
 
定住するべき家を持つ者が森や洞窟で寝起きしようなんて。  
発想をするのはともかく村の皆にその案を受け入れさせたことが凄い。  
私は何度も人間たちの粛清に手を下してきた。だが彼等は危険だと分かっていてもなかなか  
家を離れようとはしなかったのに。  
 
だが彼女は薄く笑っただけでその問いに答えることはなかった。代わりに別の話をする。  
「元々……ここは私達の住んでいた村ではないのよ」  
手にした包丁を置いてゆっくりこちらを振り返る。  
「――?それって……」  
「私達の住んでいた村はずうっと昔御使いに襲われて、もうまるで廃墟。歯向かったもの  
だから徹底的に攻撃されて家も壊されて、人が住めるようなありさまじゃなかった。……まだ  
私が子供の頃の話だけど」  
「それは……」  
昔のことと割り切った口調に、何と言ったらいいのか分からなかった。私の口からいたわりの  
言葉を聞いても、励みにも慰めにもならないだろう。  
     
粛清とはまず人々を神々に臣従させることにある。  
見せしめに数人を犠牲にし、神々に心服せねばこうなるのだぞと知らしめるのだ。  
それが叶わなければいよいよ大きな武力を以って、ということになるのだが、人が住めなく  
なるほどとなると、彼女のいた村の……この村の人々は余程激しく抵抗したのだと思う。  
そこまですれば成り行きとして住民も皆殺しにされそうな気もしたが、今はそれを当然の  
ことと支持するつもりはないので言わないでおいた。  
平然と話して彼女を怖がらせたくなかった。  
 
「その時に村を捨てたのかい」  
沈黙に居心地の悪さを感じ、私は続きを尋ねた。  
彼女は私の台詞に思うところがあったのか一度口を開きかけて――だが何も言わずにまな板の  
方へと向き直った。とんとんと包丁の音をさせ始める。  
「そうよ。長の決定。ついて行く義務はなかったけれど、それだけの抵抗をしたら御使い達も  
この先目を光らせるでしょうし……それに残ると言う人もいなかったしね。その時も皆で話を  
して。村ごと移住となると、住む先を探すのも大変ですもの」  
「そうだね」  
新たな土地を見つけてそれぞれ家を立てて、井戸を掘って。  
一から作り上げるのは途方もない苦労があるだろう。  
「だからやっぱり御使いに襲われた村を探そうってことに決まったの。村がまだ無事な頃、  
旅人や流れの商人がどのあたりに御使いが来たとか、村は無事なのに住人だけいなくなって  
しまったらしいとか色々な話をしていたから」  
 
彼女は私に背を向けたまま、だが会話は続いている。  
「あなた達、一度襲った村はしばらく来ないでしょう?」  
「ああ……」  
そう言われれば、確かに。  
『襲う』という表現に顔をしかめたものの訂正することは出来なかった。人間にとって我々は  
どこまでも恐怖の対象なのだと改めて思い知らされる。  
「粛清が済めばそこは神々にとって何の意味もない土地だから。……違うかしら」  
その通りだ。  
抵抗を諦めた人々は神々の威光を思い知っただろうし、そうでなければ村ごと全滅させるだけ。  
そうなれば人のいない所になど何の用もない。  
 
殺伐とした内容をいたって普通に話しながら、時々こちらを向いて微笑む。  
反射的に笑顔を返してそんな自分に違和感を覚えた。  
「だからそういうところを探したの。襲われる前は怖いけれど、それをやり過ごせば当面は  
平和に暮らせるもの」  
鍋をのぞき中身をかき混ぜて、大きな匙でこんこんと縁を叩いた。  
「この村もそう。都合よく、なんて言ってはいけないけれど、家はあったけど誰もいなくて」  
 
私は目を伏せた。聞きたくなかった。  
爪が食い込むほど強く手を握りしめる。  
ここで耳を塞ぐのは逃げだろうか。  
 
「皆死んでいたの」  
 
ぎり、と歯を食いしばる音が自分の耳に大きすぎるほど響いた。  
 
「家の裏にも、村の外にも、遺体はあちこちにあったわ。何度も強く殴られた跡のある人や、  
背中から大きく切られた人……一度逆らったら逃げる相手にも御使いは容赦が無いのね」  
胸が苦しい。  
事実を言っているだけの決して責める口調ではないのに鼓動が速さを増していく。  
「子供達は姿も……遺体もなくって。一人残らず御使いに連れていかれたのだと思うわ。皆で  
その人たちをきちんと埋葬して、あった家をそのまま使わせてもらっているの」  
 
そうなんだ、なんて簡単な言葉も返せない。  
『大変だったね』?  
『今まで君達が無事だったのは運が良かった』?  
     
それとも地に額を付けて謝罪すれば、このもやもやと胸に淀んだものもすっきりするの  
だろうか。御使いだった頃は相手の話にあった適切な返しなんて簡単だったはずなのに、  
どうしてか台詞が浮かんで来ない。分かるのはどれも今言うのに相応しい言葉ではないという  
ことだけだ。  
 
彼女は足元を見つめて動かない私に明るく声をかけた。  
「さ、どうぞ。本当に大したものはないけど作りたてよ」  
そう目の前に置いてくれた出来たてのスープ。続いて戸棚からパンを出し、その横に小さな  
壺を並べてくれた。  
「パンはお昼に焼いたものだけど、蜂蜜をつけてちょうだい」  
 
もう一度座るよう勧められる。私たちは向かい合って腰掛けた。  
「随分沢山だね」  
微笑む彼女に思わずもれた言葉だ。  
皿の上には厚みこそないものの両掌を合わせたほど大きさのパンが十枚以上積まれている。  
この少女が一人で食べるのだろうか。まさか一食で?  
驚きが顔に出ていたのか、彼女は慌てて首を振った。  
私の考えたことをあっさり否定する。  
「あぁ――別に一回で食べきる量じゃないから誤解しないでね。食べ物が傷む季節でもないし、  
作り置きしてるだけだから」  
 
何故か理由が分かった以上の安堵を覚えつつ、小さく頭を下げた。  
「いただきます……」  
「本当はもっと作ってあれば良かったんだけど、スープにすれば料理の手間が省けるでしょう?  
一人だし、いつもそれで済ませてしまうの。今から何か作っても時間がかかるだろうし。  
……その代り野菜を沢山入れたから。おかわりもあるわ。言ってちょうだい」  
 
誰かと向かい合わせに食事をするなんて久し振りだった。  
温かなものを食べるのも。  
ゆらゆらと湯気の立つスープも蜂蜜を塗ったパンも、大袈裟ではなく、今まで食べたものの  
中で一番美味しいと思った。  
 
向かい側に座っている彼女が口を開いた。  
「こんな風に誰かと食事するの、久し振りだわ」  
私達が着いているのは台所にある小さなテーブルで、手を伸ばせば相手に届くくらいの距離。  
燭台の灯りを間に置いて、私達は数瞬見つめ合った。  
 
なんとなく気まずさを感じて当たり障りのない話を振る。  
「招待する相手はいないの?」  
彼女くらいの年頃なら恋人がいてもおかしくはない。家に呼ぶのも。ましてや親がいないの  
だからそのあたりは普通の家よりもずっと自由が利くだろう。  
私の質問に彼女は困りながら笑うといった器用な表情で答えた。  
だがそれは私の予想とは違う返事だった。  
「うーん。招待されることは時々あるんだけど……お隣さんとか。賑やかよ。私一人で食事を  
するのは寂しいだろうって心配してくれているみたい。だからうちに誰かを呼ぶってことは  
ないわね」  
彼女はちょっとつまらないかしら、と肩をすくめた。  
「父も母も亡くなって大分経つしすっかり一人に慣れてしまって。今はもう寂しいとも思わ  
ないわ」  
「状況に順応するというのは大事なことだよ。いつまでも慣れなかったら心が病にかかって  
しまう」  
 
今の状況が腑に落ちない様子に私は慰め事でなく声をかけた。  
何となく自分も同じような感じだと思ったからだ。  
仲間と離れ逃げ回っていても常に二人(?)がそばにいる私と、落ち着いた生活をしていても  
一人の彼女とはどちらが幸せだろうか。  
だがすぐにそんなことは比べても仕方のないことだと頭を振った。  
     
「ここには御使いが来たことはないんだね」  
「……来ても、彼等に従えば何の恐怖もないんでしょうけどね。……どれほど恐ろしくても、  
人間にだって従えないこともあるわ」  
彼女には強い信念を感じる。こういう人が御使いと出会った場合に抵抗勢力と判断されるのだ  
ろう。言う通りはい、はいと言っていればいいものをそれをする自分が許せないのだ。今の  
世にそれでは生き辛いと分かっていて従うことが出来ない。  
私は以前、それを強さではなく愚かさだと思っていた。  
 
頷くと彼女は『でしょう?』と匙を振った。が、慌ててその行儀の悪さに引っ込める。  
恥ずかしそうにこちらをうかがい謝った。  
「ごめんなさい」  
「いや」  
随分落ち着いていると思ったが、始めに感じたより若いのかもしれない。言うことは大人  
びているし、筋が通っているけれど。  
「聞いてもいいかしら」  
「なんだい?」  
心なしか姿勢を正したような、すみれ色の瞳がまっすぐこちらを見ている。  
二度瞬きをして、彼女は口を開いた。  
「あなた達に捕らえられた人は……どうなるの?」  
「――!」  
 
これには動きが止まってしまった。  
同じように匙を握ったまま頭を懸命に働かせる。だがどれだけ考えても人間の納得するような  
耳触りのいい言葉は出てこなかった。  
どう表現しようと結果は一つしかないのだから。  
 
「最終的には……」  
 
最後まで言えない。  
それを行ってきた者として人々の結末を伝える程度の責任も果たせない、意気地のない自分。  
だがそれは彼女も分かっていたらしい。感情のこもらない声でさらに追求してきた。  
「亡くなっているのでしょう?そのくらいは分かるわ。村の皆だって……。そうじゃなくて、  
どのようにして、と聞いているの。考えるのも嫌な話だけど、まさか拷問、とか……してるの?」  
まゆをひそめ、恐る恐る聞いてくる。  
 
「あ……」  
私は迷った。  
どう答えればいいのだろう。  
実験に使われた挙句、廃棄されたりしもべとして造りかえられているなんて聞いたら、気を  
失ってしまうかもしれない。  
それでも教えるべきだろうか。  
そうしたらこの少女は村人に伝えるかもしれない。事実を知った人々は一層神々を恐れ、  
嫌悪し、さらに抵抗を激しくするだろう。それじゃ人死にが増えるばかりだ。  
あるいは反転、恭順の意を示す可能性もあるが今抵抗している人々ならば、多分そんなこと  
にはならないだろう。  
 
そんな風に人間のことを考えるふりをしているが、自分は本当は糾弾から逃れたいのだと思う。  
ずるい考えだ。そんな男ではありたくないと思っていたのに。  
では、どうすればいいのか。  
彼女は真剣な眼差しでこちらを見ている。答えを待っている。  
「……」  
視線が手元に落ち、匙をそっと皿の上に戻した。何と言ったものかと口を開きかけると、  
ものを食べている最中だったというのに唇が乾いていて、この質問に自分が思った以上に緊張  
していることを知った。  
私は逃げられなかった。  
 
「実験に、使われるんだ」  
「何の?」  
     
『実験』という不吉な響きに彼女の顔が強張る。  
「しもべを改良するために……。自律行動をする生き物から全ての感情を取り払ってしもべ  
としての行動を植え込むんだ。道具を使える生き物を一から作り上げるより、たやすいから」  
過去に自分が教えられたことを――なぜ実験に使われるのが人間なのか、あるいは出来の悪い  
仲間なのか――その理由を一息に告げた。  
 
「――あぁ……」  
彼女はわずかに声をあげ、顔を覆ってしまった。  
そうしたくもなるだろう。  
御使いと同じく敵としていたものが、以前は同じ人間だったなんて。  
原型を留めていなかったとはいえ仲間だった。それを知ったら大抵の人間はこういう反応を  
見せるだろう。  
そういう意味では御使いは冷たいと思う。彼等は――いや、『私達は』連れているしもべの  
正体が元は自分達の仲間であったかなどと、思ったりすることもなかった。  
「なんてこと……!」  
目尻に涙を滲ませて、だが心を落ち着けようと大きく息をつく。何度も吸ってはいてを繰り  
返し、ようやくこちらに視線を戻した。  
さっきから二人とも食事の手が止まっている。  
当然だ。のんきに食べていられるような話題じゃない。  
 
「君達には……謝るべき言葉も浮かばない。なんと責められても仕方がない」  
「仕方がないだなんて……!」  
だが責めるように言った直後、彼女はゆるゆると頭を振った。  
すこし青い顔をして。ぎこちない笑顔で。  
「ごめんなさい。こんなことを言ってもそれこそ仕方がないのに。あなた達は神々の支配を  
受けていたのだから」  
もう一度ふう、と息をつき、彼女は話題を変えた。  
「今するような話ではなかったわね。私ったら――冷めてしまうわ……食べてちょうだい」  
「ありがとう」  
 
感謝ではなく謝罪するべきだっただろうか。  
だがそれ以上話を続けるのも苦痛だったから(彼女もそうだろう)、私は当たり障りのない  
話題をとこの村での生活について話を振った。  
彼女はそれにぽつりぽつりと答えてくれる。そのうち気分も紛れたのか再び笑顔が見える  
ようになって内心安堵した。  
 
食事が済むと彼女は私を居間に案内し、お茶を供してくれた。  
「座っていて。部屋の支度をしてくるから」  
「あ……」  
 
これ以上の手間をかけさせるのも申し訳ない。  
慌てて彼女の背に声をかけた。  
「私は、本当に……その、この長椅子だって構わない。こうして屋根の下で休ませてもらえる  
だけで助かるから――」  
いまさらと思ったのだろうか。彼女は眉をあげて、だが私に言い聞かせるようにゆっくりと  
言った。  
「どうせ家の中ですもの、寝台で寝ましょう?だいたいあなた背が高いじゃない。長椅子じゃ、  
脚がはみ出してしまうわ」  
こともなげに言う。  
 
湯を使わせてもらいお休みなさいと寝室に入るまでずっとこんな風で、あれやこれやと面倒を  
見てくれる彼女に、私は恐縮するばかりだった。  
 
「ふー……」  
寝台の上に倒れ込む。  
アルミラやレオンと別れたあの日以来のやわらかな寝床だ。生成りの掛布がふかふかと、頬に  
心地良い。  
私はうっとりと目を瞑った。  
     
「やっぱりちゃんとしたとこで横になるのは気持ちが良いなあ……」  
思いがけない展開になったがこれでここしばらくの疲れがとれるだろうと、それだけで私は  
嬉しくなった。  
だが直後に残してきた二人の姿が頭をかすめて少し胸が痛んだ。  
いつまでも戻ってこない私を心配しているだろうか。あとで謝らなくちゃ。  
 
だがしっかりものを考えていたのはそこまでで、私の意識はたちまち夢の中へと吸い込まれて  
いった。  
 
 
 
鳥のさえずりが聞こえる。  
閉じた瞼にも外はまだ暗いのが分かった。まだ夜明け前だ。  
「ん……」  
そう、あの鳥は目覚めが早いから朝方休む時にはいつもうんざりさせられるんだ。  
半分寝ぼけた頭でそんなことを考えながら寝返りを打ち、はた、と夕べからのことを思い  
出した。  
そうだ。ここは……森の中じゃなかったんだ。  
そんなことを思いながら上体を起こしてぼさぼさの前髪をかき上げた。  
 
久し振りによく眠れた。  
それほど長く寝たわけでもないのだが久方ぶりのちゃんとした寝床に体が驚いたのか、寝起き  
だというのに節々が痛い。それとも日々の疲れがどっと出たのだろうか。  
私は手洗いを借りようと廊下へ出た。  
そこには窓があり、遠く山の向こうは明るくなり始めているのが分かる。  
 
夜明けの赤、夕暮れ時の赤は紫色を帯びて寂しい色だ。  
こんな風に思ったのは……今、帰るべき場所もなくて心細いからだろうか。  
 
気分が萎えるような発想に頭を振り、ごまかすよう近景に視線を向けた。  
この家は少し大きく、庭をぐるりと囲むように建っている。その中庭に大きな木の影が  
ぼんやり浮かび上がって見えた。  
建物からは結構離れているのに梢は屋根に届きそうなほど伸びている。夏などこの木の下に  
いれば風が吹き抜け、それだけで大分涼しいだろうと想像がついた。  
 
幸い庭の切れ目は村の中心ではなく森の方を向いている。誰に見られることもないだろう。  
私はそっと窓を開けると窓枠を乗り越え表に出た。  
木に近くで見ると本当に大きい。森の中でさえこんな立派な木は見かけなかった。  
樹齢はどのくらいだろう。百ということはない。二百、あるいは二百五十……私と同じか、  
それ以上かも知れない。  
とにかくこの家よりも古いことは確かだ。  
「元から生えてるのを、わざわざ囲うように建てたのかな」  
近寄って上を見上げれば途中折れた部分もある。  
さっきの鳥の声が聞こえた。巣があるのかもしれない。一眠りした後ですっきりしている  
せいか、いつものように煩わしく思うことはなかった。ただ可愛らしいだけの鳴き声に、私は  
上を向いたまま目を閉じた。  
 
いつもは逃げ回るのに必死でそれどころではなかったのだけれど、こうして自然に向き合うと  
自分の鈍さをしみじみと考えさせられる。  
 
元々エテリアとの交感能力が極端に高かった。それは他の御使いには見られない私の特性だ。  
それなのに二百と数十年も生きていて、彼等の真実の声に気付かなかったのだ。  
目を閉じれば確かに自分を取り巻く気配を――この身の内にすら流れているものを――感じる  
ことが出来た。  
そう、こんなに容易にエテリアの悲鳴を聞きとれるのに、なのにあの子に出会うまではその  
歪みもざわめきも、それこそが調和を示しているのだと思っていた。  
神々の支配下にあった時も知ろうとすれば分かったはず。だが何も疑うことがなかった。  
盲目的に彼等を信じていたのだということ、自分の至らなさにただため息がもれた。  
     
向かい合うように寄りかかると額に触れる木肌はごつごつとしていて、だが温かかった。細い  
枝の末、若葉の端にまでエテリアの流れを感じる。  
私達はこうしていつも彼等に包まれて生きてきたのだと、改めて実感した。  
「ごめんよ……」  
 
「何がかしら?」  
「――!」  
 
一瞬体が硬直する。  
呟きに返事があって驚いた。  
後ろを振り向くと軒下にあの少女が立っている。なんの気配も感じなかったのは私のせい  
だろうか。それとも彼女の身ごなしのせいか。  
ほっと緊張をとき、でもどんな表情をしたらいいのか分からず、目線を合わせることが出来な  
かった。  
「懺悔をしていたんだ」  
「庭の木に?」  
彼女は不思議そうに首を傾げる。  
いつの間にそんなに時間が経ったのか、些細な表情さえ見える程あたりは明るくなっていた。  
「この世界のすべてに」  
チチチ、と再びの小鳥のさえずりに幹を真っ直ぐ見上げたが厚く葉に覆われて、やはり姿は  
見えない。  
こうして誰かがいても飛び立つ様子はない。やはり天辺の方に巣でもあるのだろうか。  
 
人が来たのにいつまでも木の下にいても仕方がない。私は部屋へ戻ることにした。  
少女の後ろに見える扉へと向かう。  
互いに視線をあてたまま近付いてゆくと、まだ夜も明けきらぬというのに彼女はすでに寝間着  
を脱いでいるのに気が付いた。  
 
私は眉を上げた。  
「早いね。もう起きるのかい?」  
「あなたこそ」  
「私はお手洗いに通りかかっただけなんだ」  
「それでどうして外に」  
確かに。  
この問いに顔は笑っていたように思う。そんなつもりはなかったのだけれど。  
「この世界で――自分一人だけでは生きていけないんだってことを再確認していたんだ」  
返したのはそれだけ。  
やはり意味が分からなかったのだろう。彼女は不思議そうにこちらを見て、そして話題を  
変えた。  
「折角だからお昼まで寝ていたらいいわ。いつもはこんなに休めないのでしょう?洗濯物も  
あるし、食事が出来たら声をかけるから……ね?」  
 
「なんだか悪いみたいだけど」  
今さら遠慮するのもおかしな話、彼女の勧めに従うことにした。  
「それじゃ、お言葉に甘えて」  
「ええ、おやすみなさい」  
「おやすみ」  
朝の挨拶には大分違和感のある言葉を掛け合って、私は客室に戻った。  
 
寝台に横になるとやはりまどろみを楽しむ間もなく眠りこんでしまい、再び彼女に声を  
かけられた時にはすでに昼をまわっていた。  
 
「目が覚めた?」  
「うん……」  
頭が変に重たくて均衡の取れていない感じがする。ひどい寝ぐせのせいかもしれない。  
 
 
 
     
 〜つづく〜  
 

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