開いた扉の外の眩しさに顔をしかめた。
彼女の背後から日が差し込んで大分明るい。洗濯物もよく乾いただろう。そう思った折りも
折り、彼女は手にしていたものを差し出してきた。
きちんと畳まれた、私の黒い上着だった。
「はい」
「ああ――ありがとう」
「この天気でしょう?風もあるし、すっかり乾いたわ。ご飯の支度も出来てるから着替えたら
台所にどうぞ」
言うだけ言うと彼女はさっさと出て行ってしまった。
扉を閉め、寝間着を脱ぐと早速元の服に着替える。まだ日中は暑いと感じる格好だ。袖を
通したものの、少し考えてやはり上着は着ないことにした。
村を出てからの方がいいだろう。見られたらまずいし、もともと防御力の向上のための服だ、
戦闘時に身につけていればいい。
半分着かけて脱いだ服を広げ、首を傾げた。
そういえばこんなに大きな上着、一体どこに干したんだろう。真っ黒でそれこそ目立ちそう
だけれど。人に見られたらまずいだろうに。
上着を手に台所に行くと彼女はお茶を入れているところだった。
「おはよう」
もうそんな時間ではないけれど、私は改めて起床の挨拶をした。彼女も同じことを思ったのか
悪戯っぽく笑って尋ねてきた。
「おはよう。よく眠れた?」
「おかげさまで」
「座って」
勧められるまま椅子に腰かける。と、足元に絡みつくものがある。
下を覗いてみると、あの赤いレクスだった。
戻りの遅い私を迎えに来たのだろうか。
手を差し出すと私の腕を伝って上ろうとし、抱きあげるとにゃあと鳴き声を上げる。
それに気付き、少女が玄関のほうを指差した。
「家の扉の前で入りたそうにしていたの。きっとあなたが見えなくて寂しかったのね」
それはどうだろう。
寂しいというより怒っているのではないだろうか。すぐ戻ると言ったのに約束が違うって。
でもあの子はきっと心配してる。あの子はやさしいから。
猫のふりをする彼の喉を撫でてやってもごろごろと鳴くだけ。何を考えているのか、一見
気持ちよさそうに目を細めているが、私には怒っているようにしか思えない。それとも私の
感じている後ろめたさがそう見せるのだろうか。
質問をしても答えてもらうわけにもいかないと、彼女に聞こえぬようごく小さな声で『ごめん、
もう少しだけ』と告げ彼を床に下ろしてやった。すると彼は壁のほうに行き腰の高さほどの
窓をとび越え、振り向きもせずに外へ出て行った。
「あら……いいの?」
「大丈夫。外で待っていてくれるはずだから」
「賢いのね」
「……そうだね」
ものを言ったり私に説教したり。元がレクスとはとても思えない。ちょっと見には猫の形を
しているあの生き物が人語を解するのだと言ったら、きっと彼女は驚くだろう。
用意してくれた朝食(昼食だろうか?)の内容は昨晩のものとそんなに変わりはない。ただ、
今度はパンが焼き立てで野菜の炒め物が添えてあった。それにスープ。朝だからお腹にたまる
ようにか大きく切った芋がごろごろしていた。中に入っている野菜の種類が減って、代わりに
肉が浮いている。
もちろん内容に文句などあるはずもなく、ありがたく頂いた。
最後にお茶をすすっていると彼女がちらりとこちらに視線を向けた。もっと食べればいいのに、
ともらすのに微笑みが浮かぶ。
「充分頂いたよ」
「そう?それならいいけど」
確かに少しは遠慮もしたけど。
さすがにこのうえ図々しいことは出来なかった。今はどこの人も食べたいだけ食べられる
ような状況ではない。基本的には御使い達に襲われれば山や森へ逃げ出すような生活を送り、
その目を避けるため近隣の村と盛んと言えるほどの物流もないのだ。そんな暮らしをして
いれば蓄えは減り、すぐ餓えてしまう。
こうして余計な客を迎えるのだって結構な負担になるはずだ。
これで辞去しよう。今のところ追手の気配は感じないがあの子も待っている。
それにしても彼女にはなんてお礼を言ったらいいんだろう。久し振りの温かい食事や寝台での
眠りで精神的にも肉体的にもかなり回復した気がした。
お礼の言葉を思案していると向かいでやはりお茶を飲んでいた彼女が口を開いた。
「ねえ」
「なんだい?」
「お願いがあるのだけれど」
「うん」
なんだろう。
とても親切にしてもらったし、私は出来ることならなんでもするよという気分だった。
真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は薄紫のやさしい色をしている。
「お礼代わり……と言ってはなんだけど、どうして神々と袂を分かつことになったのか教えて
くれる?」
「――!」
さあ、と顔が強張るのが分かった。
まったく!
逃げようのない質問の仕方をしてくる少女だ。
自分の受けた衝撃と絶望――それに向かい合うのは辛かったから、あの時のことはあまり考え
ないようにしていたのに。
だからあくまでも自分の主観で、単なる勧善懲悪の行為としてそれを成し遂げようとしていた。
こんな風に礼代わりと求められれば確かに答える他ない。何よりそれを望んだのが自分なの
だから。
だが、なんて言えば上手に伝えられるだろう。
上手に?
違う。正確に、だ。
私は出来るだけ冷静にと心の中で唱え、考え考えしながらあの夜のことを話した。
思ったより話は長くなった。
表現に詰まっては、言葉を選んでおしまいまで語った。
それでも自身が御使いの長であることは告げなかった。言えば余計な疑いをもたれるかも
知れない。本当なら私のような者は抵抗勢力の偵察に来たと思われても当然だったから。
テーブルの上には空になった食器が並んでいる。
「私は、運が良かったのだと思う」
この言葉に余程気持ちがこもっていたのか彼女も頷いて返した。
「そうね。神々の支配が始まってからそれの解けた人なんて今までいなかったのでしょう?」
「多分。……それに、これは試したから言うんだけど、どうやら本気でやり合うには神々の
支配は強すぎるんだ」
「どういうこと?」
「神々に戦いを挑もうと装甲化すると――人々の村を襲う時にする格好だね。レクスを鎧状に
纏うことなんだけれど――神経を焼かれるような感じになるんだ。多分完全に装甲化しようと
したら、私は再び神々の力に囚われるだろう」
「そんな……!」
「……まあ、もともとレクス自体が神々に与えられた力だからそれを武器として使える
だけでも御の字なんだけどね。それがなくちゃ私達カテナも人間と一緒さ。装甲化した
御使いを相手にまともな抵抗も出来ないで殺されるばかりだよ」
両手の指を組んで顎をのせていたがずるずると顔を下にずらして目を伏せた。
解放後に装甲化しようとした時――あの気持ち悪い感覚といったらなかった。
背中から体を汚染されるような。
何よりそこにほんの少しの安らぎがあったのが恐ろしい。
御使いは全身をあの安心感に包まれているのだ。神々の行いに疑いを持とうはずがない。
「これはまずいと思って――それ以来、本気で戦えたことはないね」
「それで追っ手を追い払えるの?」
「うん、まあ……今のところはなんとかなってるよ。それでやっとだけど」
「強いのね」
「う……ん」
強い、のだろうか。
ずるいと思ったことはあるけれど。
コツと言えばとにかく一度に複数を相手取らないことだ。なんと言ってもこちらは一人なの
だから。それと相手の攻撃には絶対に当たらないようにすること。
注意するのは実際それだけだった。
幸い私にはエテリアという強い味方がいる。
姿が見えないうちから場所も人数も何もかもを彼等が語ってくれた。
追っ手の接近を知るたびに神々の子へ少し離れた場所で動かぬよう言い含め、私は茂みに
ひそんだ。御使い達はあの子を探すという目的から大抵手分けして行動していたから、個別の
戦闘にもっていくのは思ったよりも簡単だった。
ただやはり仲間を呼ばれることもあって、そんな時はとても難儀したけれど。
話している途中何度かあったように内側への思考にとらわれる。
無意識に茶碗を手の中で弄んでいたが、手を滑らせ、かちゃんと耳に痛い音が鳴った。
はっとして顔を正面に向ける。
彼女はまだ私の顔を見ていた。
「あ……」
「味方を増やすのは絶望的、ということ?」
「うん、まあそうなんだけど……絶望的だなんて落ち込む表現はやめて欲しいな」
「ごめんなさい。気に障ったのなら謝るわ」
私は頭を下げる彼女にそっと首を振った。
「いや、ただ……やっぱり一人っていうのは時々とても辛いから、現実を直視してばかりも
いたくないんだ」
「そうね」
こちらの気持ちを思いやってか彼女の表情が暗くなる。
「私もそれについては当然考えたんだよ。でも駄目だった」
「駄目って?」
「あの子……神々の子がまだとても幼い、赤子のようなものだとは話したよね」
「ええ。あなたの攻撃に対する反応も本能的なものでしかなかったと」
「だからさ。私はそれをいまいち理解していなかったんだ。だからその時のように御使いの
攻撃に晒せば、相手に同じ反応を返すんじゃないかと思った」
「そんな――赤子のようだと言ったその口で、御使いが来るたびそれを彼等の前に晒すと
言うの!?」
非道を責める目つき。
それこそどこまで理解しているのか。
彼女にとっては御使い、人間、神々の被造物というものに境界線はないのだろう。あるのは
ただ生命に対する畏敬の念だけ。
だから昨日初めて会った相手にも、怪しいと警戒した物体にもこうして優しさを示す。
これほど純粋な心を持つ人に会ったのは初めてかも知れない。
もう一度首を横に振って否やを示した。
「君は優しいね」
心からの言葉だったのだが彼女の気には召さなかったようだ。
からかわれているとでも思ったのか、きっと私を睨みつける。
「あなた達が他の命に無頓着なだけなのではない?」
こんな皮肉にも腹は立たかった。彼女の言っていることは事実だ。図星を指されて怒るなんて
子供のすることだ。
一瞬自嘲の笑みを浮かべ、だが慌てて引っ込めると小さな頷きだけを返答にかえて、私は腰を
上げた。
「ごちそうさま」
彼女もつられて立ち上がる。
「あぁ――いいえ。大したことは出来なかったけれど」
「とんでもない。君のおかげで久し振りにゆっくり休めた。感謝してる」
私は謝意を示した。なんと嫌味を言われようとこれは嘘偽りのない気持ちだ。
「それなら良かったわ」
にっこりと微笑む。
苛立ちを見せたかと思えばこれだ。気持ちの切り替えの早さには内心感嘆する。この若さで
珍しいほど感情を自制出来る子だ。
私は食器を片づけようとしたが慌てて近寄って来た彼女にその手を押さえられた。
「いいわ。そのままにしておいて。『神々の子』やあの赤い猫、あなたを待っているんで
しょう?」
母親に言われるような台詞に心がじんわりと温かくなった。
こんな子供にと思うけれど。
懐かしい気持ちだとかそんな言葉では表現できない何か。
言われるまま上着を手に持って後ろをついて行く。
彼女は先に表に出ると裏口から森へ行くのに周囲に人の気配がないかを確認してくれた。
きょろきょろと辺りを見回し私を手招きする。
早く、と小声で急かしてくるのに、戸締まりはいいのかと気にしながら駆け足で彼女の家を
後にした。
「ねえ、君。鍵を閉めなくていいのかい?不用心だ」
「すぐに戻るから大丈夫よ」
森はすぐそこだ。
気にしている場合ではないと分かっているのか、彼女は昨日の晩と違って茂みを迂回する
ようなまだるっこしいことはしなかった。
裾をからげてがさがさと音をたてて迷いなく木々の奥へと進んで行く。
私は途中までついて行ってようやく言うべきことを口にした。
「あの……送ってくれなくても大丈夫だ。もう戻ってくれ」
あまり先まで行くと今度はまた彼女を送ってこなくてはならない。
それでも前をゆく彼女は歩みを止めなかった。
うっそうとした森の中でもほんの小さな陽だまりはある。
もう一度同じことを言おうとした矢先、そこで彼女はようやく私の方を向いた。陽光を浴びて
輝く髪は金で紡いだ糸のように輝いている。
彼女の容貌がとても美しいことに、私はこの時ようやく気が付いた。
口元が動く。小さな唇は何もつけていないのだろうに愛らしい桃色をしていた。
「はい」
「え?あ……」
ぼんやりと見とれていたのがばれてしまっただろうか。
何故か焦り、差し出された右手を咄嗟にとった。すると彼女はもう一方の手を添えてぎゅうと
固く握ってくる。
「……?」
「握手よ」
それは分かる。
「これからどこか行く先はあるの?」
「いや、ただ……ただ逃げているだけだよ。常に動いていないとあの子、近辺のエテリアを
みんな集めてしまう。そうなれば神々に気配を察知され易くなるから」
「ではまたここに来るかも知れない?」
「そうだね。通ることもあるかもしれない」
平然を装って答えるが、鼓動が速くなる。
どうしてこんなことを聞くんだろう。
近くを通ることがあってももう来るなとか、そういうことだろうか。
自分で考えて胸が痛んだ。好意を示してくれた相手にそんな風に思われるのは辛い。
落胆が顔に出ないようにと思ったのはちっぽけな見栄だ。
だが彼女が続けて発した言葉はまたしても予想外のものだった。
「じゃあ近くまで来たら、またうちに寄ってちょうだい」
「え――?」
ぽかんと目を見開いて、相当な間抜け面をしていたと思う。あの猫によく言われるけれど、
そうと自覚したのはこれが初めてだった。
聞き間違いだろうか?
まさか、そんな。
だが彼女は先と同じことを同じ表情で言った。
「うちで休んだらいいわ。帰るところもなく逃げ続けるのはくたびれるでしょう」
「え……あ、でも」
何と返せばいいのか、言葉にならない。
だって、どうして……どうしてそんな申し出を。
何か企んでいる?
私が訪ねて来るのを待って、今度こそ村人達と共に待ち伏せにするつもりなのだろうか。
その為の布石として親切にしてくれたのだろうか。
分からない。そんな風には見えなかったけれど。
いや、違う。
常に疑うことを忘れてはいけない。身を守りたければ流されない強さが必要なんだ。
でも。
だけど。
あの時以来の混乱に返事が出来ず顔をそむけた。
「迷惑?」
私の気持ちをうかがうような声。
迷惑だなんて、そんなわけはない。
でも信用できるのか。していいのか。第一あの猫だって反対するかも知れない。いや、普通に
考えたら反対して当然だろう。
「どうして……」
やっとそれだけ口にする。
「理由を?」
「ああ。私は――最前まで君達の敵だった。どうしてそんな風に言ってくれるの?」
問いかけた直後ほっと胸をなでおろした。
そうだ。初めからこう聞けばよかった。
年を取るとどうしてか直接的な物言いが出来なくなる。ひたすら相手の思惑を推し量って、
あるいは勝手に誤解をして。
知りたければこうしてはっきり聞けばいいだけのことなのに。
「そうね……」
視線を森の中に移し、彼女はわずかに目を伏せた。
「理由……そう、理由は一つよ。あなたの主張が正しいと思ったから」
「主張?」
聞き返すと真っ直ぐに私を見上げてくる。その瞳の美しいこと。
「ええ。神々の行っていることは正義ではない。あなた、さっきそう言ったわ」
「うん」
静かに頷いた。
「神々を倒すのだと」
「……うん」
確かに言った。
返事が重いのは、目を逸らしてしまったのは、本当は倒せると言いきるほどの自信がない
からだ。
神とは、やはり神なのだ。
その支配は強力で、打倒を考えてもそこにたどり着けるかどうか。装甲化無しでは周囲を守る
御使い達全員を振り払うことは困難だし、装甲化すれば再び精神を支配されてしまうだろう。
見上げる先は高過ぎて、のけぞり倒れてしまいそうになる。
だが私にも希望を与えてくれるものがあった。
まだ赤子のようなあの子。あの子の存在が私を力づけてくれた。
御使い達がカテナとして自由を取り戻せば、あるいはと。だから――決して敵わないとは
思いたくないのだ。
「神々を倒すなんて私達人間には叶わないことだもの。もし出来る人がいるなら何だって協力
するのにってずっと思ってた。そんなの夢だとばかり思っていたけれど。……だから私も
あなたの力になりたいの。休む場所や食事くらいなら提供できるわ」
その台詞に顔を見返せば、すみれ色の瞳の中に私の顔が映っている。
いつもこんな風に人の顔を真っ直ぐ見ているなら、どれほど迷いのない人生を歩んでいるの
かと思う。
それを羨ましく思う自分が情けない。
ちくりと胸が痛んだ。
「気持ちは嬉しいけどそこまで甘えることは出来ないよ」
「どうして?」
今更だけれど事情を話すべきではなかったかと後悔した。
彼女はここでとりあえずの生活を送ることが出来るのだし、こんな得体の知れない男の世話を
していると知れたら村人に怪しまれてしまう。
不和の種をまくつもりはなかった。
もし何らかの疑いをかけられても、知らなければ話しようもないのだから。
……それでも。
彼女の台詞を心の中で反芻する。
その気持ちは嬉しかった。最終的には自分達人間のために、ということでも。
ふ、と息をついて微笑む。
ちゃんと笑顔になっているだろうか。感謝を伝える時は出来るだけ笑っていたい。
「こんな時だしね。あんまり余所者がうろうろしているのは良くない。君だって村の人に
見とがめられたら言い訳するのが面倒だろう。一晩泊めて貰っただけで助かったもの。これ
以上のことは遠慮するよ」
「……つまり見られなければ済むってことだわ」
話を終わらせようとする私の台詞を無視し、子供のようなことを言う。
「そういうことを言いたいんじゃないよ。わかっているだろう?」
「あら。もちろん私だって気をつけるけれど、あなたも人に見られるなんてそんなへま、
しないでしょう?」
くるくるとよく表情の変わる子だ。
怯えたり、怒ったり、微笑んだり――挑発したり。
こんな時どういう態度を取るのが相応しいのだろう。
私は目を閉じた。そして熟考と言えるほどの時間をおかず、再び目の前の少女に目を向けた。
迷いはまだあったがあんな風に言われては答えは一つしかない。
「……私はそんな間抜けじゃない」
「でしょう?なら何も問題はないわ」
嬉しそうに頷く。なんて少女だろう。
「そうだね」
短く答えるとずっと握られっぱなしだった彼女の手をよけ、逆にその右手をとった。
家事を行っているせいか少し荒れた、だがほっそりと白い指先。
「えっ?」
身をかがめると頭の先で彼女の声が聞こえた。
手の甲に小さく口付ける。
我ながら気障な仕草だと思ったけれど、まさかいきなり抱きしめるわけにもいかない。感謝を
態度で示したかった。
「――!」
顔を向けると彼女は照れくさそうな表情をしていた。
「ふふ、淑女として扱われているみたいでちょっと恥ずかしいわ」
目元をほんのり赤く染める。
手を取り戻すと、さあ、と私にもう行くよう促した。
「あの赤い猫と『あの子』が待っているんでしょう?」
「うん」
彼女を向いたまま森の方に一歩後ずさる。
「また、来て」
「うん」
「気がねはいらないわ」
「うん――ありがとう」
胸の前で手を振る彼女に頷きだけを返して、私はさらに森の奥へと入っていった。
下生えをがさがさ踏み分けながら頬に手をやると熱を持ってるのが分かる。
うん、うんと子供のような返事。そうとしか返せなかった自分が恥ずかしかった。
そしてなにより彼女の好意が嬉しかった。
数歩行くと隣にあの猫がそっと寄り添ってきた。
「随分ゆっくりだったな」
「……ごめん。心配したかい?」
こちらを見上げる猫に改めて尋ねると彼はぷいとそっぽを向いてしまった。
「おれサマは心配なぞしておらん。ただご主人が気にしておられたから迎えに行ったまでの
こと。お前はすぐ戻ると言っておったからな」
「そっか」
意地っ張りな彼の台詞に口元がほころぶ。
口ではこんなことを言っていても彼が本当は自分を案じてくれていたのを知っている。
この赤い生き物は少しひねくれているというか、あの子以外には感情を素直に表現するという
ことをしないんだ。以外、といっても他にいる相手は私だけだけれど。
「なにか面白いことでもあったのか?」
笑いを堪えようとし、だが抑えきれずにやけていたのだろう。彼は私の態度の原因が彼女と
過ごした時間にあると思ったらしい。
首を振って彼の予想を否定した。
「面白い、というか……うん……彼女、変わった娘だった」
「それは最初から分かっておろう。でなければお前にあのような申し出をするわけがない」
「確かに」
危ない所を助けられたからとはいえ、敵である御使いをあんなふうにもてなすなんて。しかも
隠れて住んでる村に案内までして。知られぬよう生活するのに苦心していると言っていたのに。
しかも……しかも、また訪ねて来てもいいと。寄っていってと。
まさか分かってくれる人がいるとは思わなかった。彼女の言葉を反芻しているうちに目の奥が
じわ、と熱くなるのを感じ、私は慌てて目を閉じた。理解してくれる人がいるということが、
こんなにも嬉しいことだったなんて。
興奮が冷めたら、さっきからずっと続いている動悸が治まったら二人にこのことを告げよう。
赤いレクスは私の様子をみて訝しげに目を細めたが、なにも言わなかった。
***
それを提案したのは一体何度目だったか、仲間をしりぞけた後のこと。
これまでの展開からしてみれば、ああいう話になったのは当然だった。でもやはり少し考えが
足りなかったかもしれない。
一休みしようと木にもたれているとき、ずっと思案していたことを相棒に告げた。
「なんだと……!?」
彼の顔にようやく慣れてきた私にも、それまで見たことのないほど見開かれた目は、それは
それは恐ろしいものだった。
それとなく体を後ろに引きながら、もう一言添える。
「ああ。そうすれば、私にしてくれたみたいに神々の支配から解放してくれるかと思って。
……どう、かな?」
レクスはむう、と俯いた。
険しい顔をしてよくよく考えているのだろう。質問して大分経ってからようやく口を開いた。
「分からん。その場になってみなければ。ただその可能性はある、と思う」
「どうしたって私一人であの子を連れて逃げるのは難しいんだよ。ヴィティスは馬鹿ではない
からね。最初はよくても、いつかきっと追い詰められる」
それは初めて御使いを敵にした時から分かっていたことだ。
一人でも協力者がいればどれだけ助かるだろう。
隣にいる赤い猫もそれは理解しているようだった。きゅうと目を細め真っ直ぐ前方を見詰め
ている。彼はいつまでたってもそのまま動かなかったが、私は急かさずじっと答えを待った。
迷うのは仕方がない。
何故なら私の意見を受け入れるということは、彼の主人を御使い達の攻撃に晒すということに
他ならないからだ。
その安全こそを第一と考えている彼には私の提案は賭けのようなもの。万一のことがあったら
神々の子は御使いのレクスの前に儚く散ってしまうだろう。
すでに糸のように細くなっていた目を瞑り、尻尾をぴんと伸ばすとようやく彼は口を開いた。
「諾……と言うほかあるまい」
忠実な従者の答えに思わずほっと息をついた。
これが上手くいけば、あの子を助けられる確率が上がる。それでも最悪の可能性を考えて
一応念を押した。
「本当にいいんだね?」
「ああ、だが条件があるぞ」
「何なりと――私が出来る事だったら」
主人の身を危険にさらすのだからその位は予想できた。彼が何を言うのかも。
「ご主人を敵の前に置くのは相手が一人でかかって来たときのみだ」
「ああ。同行者を片付けてから、ってことだね?」
「そうだ。お前が並みの御使い以上にできるのは知っている。だが御主人を背に一人を相手に
しているとき、脇からもう一人出てきました、襲われました、というのでは困るからな」
私は頷いた。彼の言う通りだ。
「分かった。他には?」
「そのくらいか。あとは……お前が心得ておろう」
はっきり言葉にはしないがその一言に私への信頼が見える。彼の期待を決して裏切ることの
ないよう、自分自身と彼に対してはっきりと誓った。
「君をがっかりさせるような真似はしないよ」
「……ふん」
「このこと、あの子には伏せておくよ。いいね?」
そう言うと彼は顔をそむけてしまった。言われるまでもないという態度だ。
「あらかじめ知っていては『攻撃に対する反射的な反応』は期待できんからな……しかし、
上手くいくか……」
呟きには主人を囮にする苦さが混じっている。
私にはフォローする言葉がかけられなかった。
それから幾日か過ぎ、再び御使い達が姿を現した。
「ふー……」
エテリアの気配にそれを察し、私は緊張を解くのに大きく深呼吸をした。
これは今までと違って仲間を増やすための戦い、彼等を皆殺しにする必要がない。と言っても
あの子の前まで通せるのはたった一人だ。それでも一人は助けられると、私にはそれが震える
ほど有難かった。
赤い猫を振り返る。
「準備はいいかい?」
「無論――しくじるなよ」
「ああ。分かってる」
きっぱり頷いて返すと赤い猫は光の塊になった。閃光を放つそれは私の掌の中で大きな剣の
姿になる。
レクスの感触を確かめるようにさっと一振りし、私はそれを肩の上へと構えた。
ざざ、と遠くで下草を踏みつけ駆け抜ける音がする。森の中だというのに、何が潜んでいるか
分からないというのに、警戒することなど知らぬかのようにその音は急速に近づいてきた。
これだけ近づけば普通の御使い達でもエテリアの流れが一か所に集まっているのを感じて
いるはず。私の背後にいるあの子めがけて――その命を断つために――そのためだけに数人
がかりで、しもべを引き連れてかかって来るのだ。
茂みの向こうから見慣れた格好が飛び出してきたのと同時に、私はその前に立ち塞がった。
相手はぎくりと立ち止まる。
『神々の使い』は今までの相手と同じように私の姿を視認し、口元をわずかに動かした。その
かたちからカイン、と呟いているのが分かる。
死んだと聞かされた相手が生きている。それが一体どういうことかと考えているのだろう。
私は躊躇わなかった。
まだ一人目だ。
相手が装甲化をしていても、こちらが生身でも、レクスをもって殴り、切り裂けばダメージは
ある。
時間をかけている暇はなかった。残りの者がエテリアの流れを感じすぐにでも駆けつけてくる
だろう。手間取ればたちまち一対多数に持ち込まれてしまう。
相手は一直線に近づいてくる私にすぐには反応できなかったらしい。片付けるのは簡単だった。
腕を振り上げる隙も与えず斜め上から必殺の勢いでレクスを叩きこんだ。正確に言うなら
切り裂いた、かもしれない。
装甲の下でみしりと肉にめり込む感触がし、一瞬だけ気が遠くなった。だが半端なことは
出来ない。腕を振り切り傾く体にもう一撃をくらわせるとあとは絶命を確認することもせず、
地に伏した遺体を足で転がし脇へと追いやった。辺りに放置しておいて足を取られでもしたら
かなわないからだ。死者に対する尊厳なんて言っている暇はない。
後ろにいる灯台をめがけて次が来るのだから。
自分は器用な方だと思っていたが、それでも常にエテリアの様子に気を配りながらの戦闘には
なかなか慣れることが出来なかった。
エテリア達が教えてくれると言っても、彼等は基本的にそこにただ『在る』だけだ。
宙を流れる輝きに周囲の状況を知ることが出来るというだけのもの。
気持ちをそちらに向けなければ読み取ることは叶わない。
だがエテリア達は私はあの子をかばっているせいだろうか、ことさら集中すれば逆に霧散して
しまいそうな儚さ、やわらかさで、時に私にも察することのできない事柄を知らせてくれた。
それは戦いに臨む際も同じで、敵に集中してしまっている私の耳元でそっと囁くように。
彼等にこれという意思が生まれるのは知識としては知っていたが、実際にそれを目の当たりに
したのは逃亡を始めてからだった。
奇跡を見るような思いだった。
神々に疎まれ捨てられた存在だというのに、あの子はエテリア達を魅了し、あの子自身が望む
以上の輝きをその身に集めた。
彼等は揺りかごのようにあの子を包みこみ、あたため、歌った。
歌声は空気を震わせ木々の間を渡る風のようにさやさやと、人々の耳に聞こえる音には
叶わないほど遠くまで響き、さらに沢山のエテリア達を誘った。
新たに近付いてくる気配にはっとし、慌てて仕事の後を片付けた。と言っても何人分もの
遺体を茂みの奥に押し込んで見えないようにしただけだが。
亡骸をさらしたままにしておいては相手を警戒させるだけだ。目標の物を見つけたままの
勢いで、神々の子に向かって行って欲しかった。
そうすれば生きたいという本能があの時のようにあの子自身を守るだろう。
木々の間から大きな影が飛び出してきたが私は動かず、茂みの影にじっと潜んでいた。
あれが残り一人というのは分かっている。暴力にさらされるあの子には悪いが、追い詰められ
私のように支配から解き放ってくれればと――せめてもう一人なりと味方が増えてくれれば
助かる確率は格段に上がるのだからと――そう祈るような気持ちで御使いが武器を振り上げる
のを見ていた。
だがその瞬間、脇から切迫した声が上がった。
「いかん!!」
共に成り行きを見守っていた猫が鋭く言う。
「止めろ、カイン!!」
「な――!?」
驚く私に言うが早いか、彼はものすごい勢いで飛び出して行った。
主人を、という気持ちが彼を急きたてたのか、彼は間一髪というところであの子と御使いの
間に入り盾となった。
御使いにしても必殺の勢いでかかったのだろう。攻撃を加える、あるいは防ぐ力がせめぎ合い、
彼等を中心にして辺りに強い風が吹いた。
私もすでに木陰から駈け出していた。
視界を塞がんばかりの風に目を細める。だが足を止めることはせずレクスの後を追うように
御使いの前に立った。
右手を前方に向ければ彼も心得たもので、猫はたちまちそこに武器として収まった。
得体のしれない生き物に御使いは硬直していたが、私の姿を認めると後ずさりした。
死んだはずの男の登場に恐れたのか、あるいは予想外の展開に一時退却するべきと思ったのか。
だがこちらには相手の都合に構っている暇はない。あと一人なりと味方を、との思惑が外れた
今、それなりの対処をしなければならないのだ。
相手に追いすがり、反射的に繰り出される攻撃をかわして一撃を加えると、御使いはほんの
少し呻いただけで地に崩れ落ちた。
相手を行動不能にするだけならこれで十分。だが私の目的にはそれでは足りない。
今さら自分の罪深さを恐れるわけではない。それでもいつも、とどめを刺す前には天を仰がず
にはいられなかった。
私という存在を気取られてはいけないのだと。
そう自分を戒めてもう一度レクスを握り直した。
「……っ……」
動かなくなった敵の傍らにしゃがみこむ。
すでに装甲化は解け、本当の姿を取り戻している。世が世ならカテナと呼ばれていたはずの、
同胞の遺体。薄く開かれた目。
瞼を閉じてやり、だがとても見てはいられず顔を背けるように立ちあがると頭の上にいる
レクスに声をかけた。
「ねえ」
「なんだ」
ふん、と鼻を鳴らして偉そうな態度。あんなに張りつめた声を上げた相手とはとても思えない。
だが私は気にならなかった。彼は弱みを見せるのを嫌うところがあるから、わざわざさっきの
様子を言い立てるような真似はしない。
「あの子、一体どうしたんだろう。攻撃されようって時に何故あんなに無防備だったのか……」
「分からんのか」
「……?だからどうしたんだろうって――」
言ってるんだろう、とそう言いかけたのを追うように彼は言葉をかぶせてきた。
その苦々しげな声。
「お前のせいだぞ」
「え――」
思わず頭上の猫を振り仰ぐと、足場が揺らいだのに彼はひょいと飛び降りた。
私のせい?
分からない。何故私のせいなんて言われるんだろう。それとも知らず知らずのうちに、何か
していたのだろうか。
頭を必死に回転させているとレクスは顔も上げずに言ってきた。
「お前、御主人と出会ってどのくらいになる」
「え……っと、二……三週間……にならないくらい、かな?なんだかもっとずっと一緒にいる
ような気がするけれど」
曖昧な答えにも満足そうに頷く。いつもならはっきりしろと怒鳴られるところだ。
「そうだな。そんなものだ。だが、たったそれだけの期間お前と共にいたせいで、御使いを
知ってしまった。いや、お前を知ったことで御使いを知ったつもりになった……と言えば
いいのか。とにかくそのせいでご主人はあの時のような恐怖を御使いに対して感じなくなって
しまったのだ」
「そんな――!」
青天の霹靂とはこういうことを言うのだろう。
私に慣れてくれたことによる弊害がこんな風に表れるなんて。
「とりあえず、これで味方を増やすのは無理だと分かったな」
「ああ……だね」
気付かないうちに、この作戦に随分自信を持っていたらしい。予想以上に気落ちしている
自分に、頭を振った。
当てが外れたときの落胆が嫌であまり期待しないでおこうと思っていたはずなのに。
こんなことすら以前は自制出来ていたのに。
これが支配を脱するということなのだろうか。自身の感情すらままならず、苛立ちを抱える
ことが。
「立て」
まだぼうっとした頭で言われるままに立ち上がる。すると赤い猫は前足で私の足の甲を叩いた。
さっさとしろとはっぱをかけているのだろう。
「その者どもを埋めるのに墓穴を掘るのだろう」
そうだ。彼らの遺体を隠さなくては。戦闘の痕跡を完全に消すのは無理だが、出来る限り
なにがあったのかばれないようにしなくては。
とはいえ地を掘る道具もない。
「……いいかい?」
不承不承という風な彼を説き伏せ、私は後始末を始めた。
***
〜つづく〜