怒りも嘆きも、自分の選んだ生き方への迷いや孤独さえ、彼女の笑顔をみれば大したことでは
なかったのだと思える。
初めて出会った日から君の存在が、そのやさしさが、確かに私を支えてくれていたのだと。
そのことを私は一生忘れないだろう。
***
「は……っ、く……!」
大剣で敵の攻撃を逸らし相手の懐に飛び込む。御使いは急な接近にのけぞったが、反撃する
余裕も与えず返すレクスでその喉元を切り裂いた。
私が狙うのは装甲の綻びだ。彼等は頭からつま先までエテリアを吸着しその防護を堅牢な
ものにしている。だが良く見てみればきっちりと覆われた体にもエテリア同士の繋がりが
薄い部分があった。
確かにレクスをもってすれば装甲状態の相手を傷つけることが出来る。だが時間に余裕が無い
私はいつも少ない手数での決着を求めていたため、激しい戦闘のさなかにも相手の最も弱い
部分を探るようになっていた。
それもエテリアの流れを読むのと同じく、逃亡のうちに身に付いたものだ。
びくびくと痙攣する体をほおって私は再び駆けだした。
前には森を歩くのにずいぶん慣れたあの子がいた。先に行けと怒鳴ったからわき目も振らず
進んでいるに違いない。ただひたすらに前を向いて。
早く追いつかなくては。
そう焦る私に後方から凄い速さで接近してくるものがあった。
九人目だ。
倒しても倒しても現れる相手にヒヤリとする。
今晩はおかしい。ヴォロを一体も連れてきていないし、みな気配の薄くなったあの子がどこに
いるのか、居場所を知っているかのように真っ直ぐ目指してくる。
いつものようにうろうろした挙句見つけたというのではなく。
私ははっとした。
ヴィティス……彼だ!
私には遠く及ばないだろうが、エテリアの気配に敏感な者はいる。埒が明かないからと一気に
叩くつもりなのだろう。
まさかここにきて人海戦術で来るとは――。
その可能性を考えないではなかったが、今さらないだろうと油断していた私の失態だ。しかし
予見していたからと言って一体どんな備えが出来たというのか。いくら私でも一度に複数は
相手に出来ない。かかってこられたら逃げるしかないのだから。
もうあの子の白い影が見えてくるという頃、それは視界に入ってきた。
私の逃げてきた道には点々と死体が転がっている。それを見ていないのか、あるいは勝てると
思っているのか、相手は迷いなく私に攻撃を仕掛けてきた。
一瞬で飛びかかってくる跳躍力は凄いものだった。アルミラもかなりのものだったが、この
相手はその速度が桁違いだ。
「……っ!」
なんとか防いだもののさっきの相手と違って今度は私の方が態勢を崩した。
勢いがついていても思ったより攻撃が軽かったのは、もしかして相手が女性だからかも
しれない。
最初に二人を同時に相手にし、あの子を先に行かせたから、いつものように待ち伏せて迎え
撃つなんてこともできない。あがった息を整える間もない戦闘の連続に、さすがに足もとが
怪しくなった。ふらつかぬよう、足を前後に置いて地を踏みしめる。
正面にいる相手は何を語るでもない。だがこちらとしても言葉を交わすより問答無用で戦闘に
入ってくれる方がありがたかった。
相手に心があると思うと、攻撃する手が鈍るから。
それにしてもと相手を眺める。
もしこの御使いが女性だとしたら厄介だ。女性は往々にして私達男より身軽だから。
相手の身のこなしの素早さは、どんなに攻撃が重いかより私にとって重要なことだった。
この柔らかい体で今まで敵を退けてこれた理由がそこにあったからだ。
自慢ではないが私はこの自重、身長で皆が驚くほど反応することができる。それは確かに
多少動きが早いというのもあるが、どんな攻撃を仕掛けてくるか、どう避けるかという方向に
頭が回ったからだ。だから判断を下すのも早く、結果的に敵の攻撃に当たりにくくなる。
しかし運の悪いことに、相手の攻撃は飛び道具系だった。とするとやはり女性なのだろう。
男の場合、レクスは手に持つ物、体に装備する物であることが多い。
ある少女を思い出した。いつか見た……彼女は確かジュジュ、と言っただろうか。今対峙して
いる相手の能力は追尾能力こそないようだがあんな風に周囲に展開するレクスだった。
橙色の鋭い光が私めがけて飛んでくる。
後ろに飛びすさると今まで立っていた場所に何本もの矢が突き刺さっている。あの少女の
物のように一度自分のもとへ戻すのかと思いきや、地に突き立てられたものをそのままに
また背後に数本の光の矢を出現させた。
まずい、と思った。
急接近されてこの攻撃を受けたらさすがに全部避けることは出来ないかもしれない。火照った
体に、だが背中がひんやりとするのを感じて私はわずかに後ずさった。
その瞬間だった。
御使いは一気に間合いを詰めてきたのだ。
「――ッ!」
あまりに早いその動き、あっと思った時には目の前に敵の顔があった。表情の読めない、
装甲化した顔が。
一歩下がり、もう一歩で左手に飛びのける。
あまりに近距離の攻撃、なんとか避けたものの一筋が肩をかすり背後に鋭い音をたてた。
痛みがないのは服をかすっただけだからだろう。
エテリアの守りが込められているとはいえ、この服の丈夫さには本当に助けられる。態勢を
崩したのにたたらを踏んで向き直ると、なんと相手は私に見向きもせずに走って行くところ
だった。
私は御使いが最も優先しているのはなんなのかを忘れていたのだ。
敵に背を向けることに何の躊躇いもないのは私を侮っているわけではなく、障害物が進路から
どいたから進むと、それだけだ。背後の脅威などは二の次で万事神々の意思を優先する。
神命の執行さえ出来れば死さえ厭わない。そう思っているのが手に取るように分かった。
二か月ほど前までは私も同じように考えていたから。
あの足の速さでは先回りすることもかなわない。
私は手にしたレクスを前方へ向け思いきり放り投げた。すると見た目に反して軽いレクスは
瞬く間に黒い翼をもつ猫になった。
それは主人を守るために風を切って宙を飛ぶ。
彼なら私が走るより早くあの子と御使いの間に割り込むことができる。そう確信しての行動
だった。
案の定、敵は接近しつつ前方を行く神々の子を攻撃しようとしたが、矢はあの猫の作りだす
不可視の盾によって弾き飛ばされた。
相手はまさかと思ったのだろう。見たこともないおかしな生き物にこれもまた予想外の能力。
急激に速度を落とし、行く手を阻むよう宙に浮いている生き物に距離をとった。
神々の子を中心に円を描くよう動くとそれにつれてあの猫もその視線を阻むように動いた。
決して通さぬという決意が見て取れる。
私も感心しているばかりではない。急ぎに急いで御使いのいるのとは逆方向へ迂回し、
あの子の前に立った。
私からはあの猫の背中が見える。
彼に任せておけばこの子を傷つけられる心配はないのだろうが、それでは攻撃する手段も
なくなってしまう。
深呼吸をして後ろから羽をもつレクスに近づいた。
「……後は任せるぞ」
「ああ」
猫の言葉に短く答える。
彼もこのままでは埒が明かないと思ったのだろう。守りに終始していては決着がつかないから。
掌に心地よい熱さを感じた直後、正面から光る矢が飛んできた。
隙を突こうとしたのか私のいる場所への攻撃に横へ大きく避ける。だが避けた挙句あの子に
当たっては困るからと間に立ちつつも神々の子を真後ろにすることは避けた。
この剣でいったいどこまで防げるのか。先ほどのように距離を詰められては弾くこともまま
ならない。相手の動きの速さを考えると、怪我することを覚悟の上でかからなければならない
だろう。
一点集中ではなく斜めに並んで飛んでくる橙色の矢を数本打ち落とす。
一、二、三……。
一度に何本まで打てるのか確認しながらの防御。先ほどより少ないと思いながら大剣で
払った後、もう一本が飛んできた。この位置なら後ろにいるあの子に当たらないと一瞬で
判断し体をひねる。
やはりこれで全部、一度に操れるのは七本までだ。
体は攻撃を避けても視線は外さない。
ならば次の攻撃の直後に隙ができるはず。そこまで考えた。反撃の機会を捉えたと。
だが光の矢はもう一本あった。
「な、にっ!?」
大剣を構えなおす間もなく向き直した体をもう一度ひねる。
しかし避けきれなかった。
「ぐ……!」
シュ、と風を切る音に背中を裂かれたのが分かった。さっきと違い、今度の攻撃は肉まで
届いている。だが同時に動けないほどの重症でないことも分かっていた。
御使いは私を攻撃すると同時に走りだしていたのだろう。まさかこの程度で倒せると考えて
いたとは思えないが、それこそ私の脇をすり抜ける隙が出来れば十分と思っていたに違いない。
横を駆け抜ける存在に私は反射的に足をあげた。上半身をかえす余裕はなかったしそれしか
出来なかった。
以前はレクス以外で相手に働きかけることはなかったのだが、一人で闘っているうちに自然と
こういう小細工が出るようになっていた。こちらにはなりふり構っている余裕がないのだ。
相手もまさかと思っただろう。神々の子へ必殺の勢いで向かったせいもあり、前のめりに
なったまま前方へ――私の後ろへと転がった。
といっても均衡を崩して地面に倒れこんだ程度だが、その御使いに追いすがるには十分だった。
思いがけないことに混乱したのか、敵のレクスの先端はどこを向けばいいのかとあちら
こちらを向いている。
飛んでこなければこんなもの、脅威でもなんでもない。
雑草を刈るように橙色の矢を払うと這ったまま逃れようとする御使いに対してレクスを振り
上げた。
「は……っ……はぁっ……はぁっ……」
私はなんとか生き延びた、という心境だった。
今までこれほど切羽詰まった状況はなかった。
思いがけない展開、途中の一対複数の戦闘。
守るべきものを敵の目に映しての防衛は大変なものだった。息は切れ、黒い服の下で全身から
汗がふき出している。
よろよろと地に両膝をついた。次いで両手を。
「大丈夫か?」
「ああ……生きてるから、ね……」
それが何より重要だった。
死体の横にごろりと仰向けになる。見上げる木々の間に星は見えなかったが、さらに逃げて
いたあの子が戦闘の終わりを察知したらしい。木陰から寄ってきて辺りを照らしてくれた。
大分数の減ったエテリアがそれでもふよふよと寄ってくるのに私は右手をあげた。
「大丈夫……大丈夫だから……少しだけ、休ませて」
微笑むと神々の子は体を揺らして辺りに光を振りまいた。
額に手をやって手袋をしたままだったことに気付く。指先をくわえて外すと、改めて額が
しっとり濡れているのを拭った。
「ああ、でも……今回はさすがに疲れたよ……君は大丈夫かい?」
「おれサマはレクスだからな。疲労とは無縁だ」
赤い猫は答えつつ両手をついて伸びをした。
あんなことを言っていても大分気を張っていたようだから(当然だろう)やはり精神的には
くたびれたのだろう。
「ならいいけど……」
横を見ると倒したばかりの御使いが斬りつけられた姿勢のまま伏せている。装甲化はすでに
解けていた。
それを見るともなしに見て、目を閉じ反対方向へと顔を向けた。
死に顔は普通の……本当に普通のカテナだ。生きている時は目だけが違った。何かを盲目的に
信じている者の目。異論を受け付けない、鈍く輝く瞳。
右手を握りしめると長い時間レクスを掴んでいたせいかわずかに、強張っていた。胸の上に
両手を合わせ、くたびれた掌を揉みほぐす。
「背中は痛まんのか?」
「平気さ」
それを聞いて彼は神々の子の方を向いた。見上げたという方が正しいか。
ご主人と崇めているだけあって、さすがの彼もこの子の上に飛びのることはしない。
言葉を交わさなくてもある程度の意思を感じられるのは私も一緒だが、やはり彼は正体が
レクスということもあり、エテリアから神々の子の意思を感じることにかけて、私は一歩も
二歩も及ばなかった。
今も『ご主人』が何を考えているのか読み取っているのだろう。
「沢山……」
「うん?なんだ」
肩越しに振り向くのに首を振った。
「なんでもない……」
沢山殺した。
一晩でこれだけの人数を殺したのは御使いを辞めて以来始めてだった。
それも紛れもない自分自身の意志で。
彼等も自分達が支配されていた事実を知らなかったとはいえ、思いを遂げずに逝ったのは無念
だっただろう。それに比べたら背中の傷くらいなんだというのか。だが仕方がない。彼等には
彼等の、私には私の都合がある。
どんなに沢山の相手を傷つけても負けてやるわけにはいかないのだ。
全ての追手を退けて息は上がっていても私は平静だった。少なくとも自分ではそのつもり
だった。
だが彼には私の精神状態がよく分かっていたのだと思う。
暫くの休息ののちいつものように後始末を始めたのだが、遺体の処理も終えぬうちにあの
少女を訪ねるよう勧めてきた。
「どうして。まだ片付けが終わってない……さっさとしなきゃ、もしかしてまた次が来るかも
知れないだろう?」
今回のことを思えばヴィティスのことだ、半日と置かず新たな追手を向けるくらいのことは
するかもしれない。
そう言ったが彼は頑として頷かなかった。
「お前は怪我をしている。手当てをする必要がある」
「だから……大丈夫だよ。こんなもの、かすり傷だ。寝ればすぐ治るさ」
両手を広げてみせるが彼は納得しなかった。
「お前の大丈夫はあてにならん。ただでさえ本来なら寝台で眠るものを、草の上を寝床に
しておるのだぞ。時々あの娘の所で休ませてもらっていても、数日分の疲れはたまっている
はずだ。……だいたい背中の傷がどれほどのものか、自分では見えぬだろうが」
「見えないけど……大して痛くないから」
「手当てをしてもらえ」
平気さと肩をすくめてみせても険しい顔で言い募る。
いつもに比べて随分親身だと思った。だが傷を案じているというよりは、もっと別の不安を
感じているような態度。
だが私はその痛みが些細なことに思えるほど疲れていたから、すぐにでも横になりたかった。
物を考えるいとまもないほどすぐに。
手袋をはめ直した手で頭をかいた。
普通の人づきあいを考えるとどうにも彼の主張には同意しかねる。
「ついこの間訪ねて行ったばかりだし。あんまりあてにされても、きっと迷惑だよ」
「だったらあの娘はそう言う。また来いと言うのは本当にそう思っているからだ」
「よく分かるね」
いつの間にそんなに理解を深めたのかと、私はなぜか明後日なやきもちを焼いた。
眉を寄せるとレクスはふんと鼻を鳴らした。
「お前が鈍いのだ」
口の悪い彼にもう一度肩をすくめる。逃亡を始めてからこの動作がすっかり癖になって
しまった。
「怪我したまま行ったら驚くんじゃないかな」
「ではたった今完治させて見せるがいい。……あまりぐずぐず言っているとあの娘の方を
呼び出すぞ?」
今度は脅しだ。まったく、本気なのだろうか。あれだけ自分の正体を隠そうとしていたくせに。
だがこの猫はやりかねない。頑固なのだ。
私はあきらめのため息をついた。
まさか彼女をこんな殺人現場に連れて来させるわけにはいかない。
「わかった!わかったよ……行こう」
いつものように戦闘が始まったのが暗くなってからだったから、彼女の家に着くころには
すっかり深夜を回っていた。いくらなんでも人を訪問するには遅すぎる時間だ。
辺りに人気のないことを確認して木陰から出る。
扉をとんとんと叩いて、反応がないのにもう一度叩く。こんな非常識な時間だもの、もう
眠っているのかもしれない。
ではどうしようと思ったとき、扉の向こうに人の気配を感じた。
彼女の問いはいつも同じだ。
「どなた?」
「――!」
予想できたはずの台詞に息をのんだ。
私は焦った。二度目に訪ねた時のように、一体なんて言えばいいのかと。
正面に扉を叩いたまま握った手があった。人を殺してきたばかりの手。
目に見えないけどそれは確かに血で汚れている。手だけじゃない、全身が血まみれだ。
私はどうしてここにいるのか。
いられるのか。
無意識のうちに自分が後ずさりしていることに気が付いた。
いまさらに人殺しの自分を見られたくないのだろうか。
どんなに身ぎれいにしても彼女は知っている。私が同胞殺しの元統率者だということを。
答えに迷っていると扉が開いた。
彼女は手燭を掲げ私の顔を認めてほっとしたような表情をした。
「やっぱりあなただったのね。返事をしてくれなくちゃ分からないわ。……入って」
金色の長い髪をゆるく縛って手前にたらしている。もしかして、もう寝台に入った後だった
のかもしれない。
初めて見た彼女の寝間着姿は若い娘らしく可憐なものだった。まだ夏用のものなのか、彼女が
身動きするたびにひらひらと揺れる。露草の青を水に溶いたような生地は限りなく薄く、
ともし火に透かせば体の線がはっきりと見えそうで羽織っているレースの肩掛けが人前に出る
最低限の体裁を取り繕っていた。
自分の視線に気付き慌てて顔を背けたが、頬が熱を持つのを抑えることは出来なかった。
「――君は不用心に過ぎる」
私に対しあまりに無防備な少女。
心に湧いた焦りをごまかすのについ苦情めいたことを言ってしまった。
「あら、あなたが返事をしないのが悪いんだわ」
注意されるのは心外と眉を上げる。そして突っ立って動かない私に首を傾げた。
「どうしたの?どうぞ」
いつも使わせてもらっている部屋に着くと彼女は中に入るよう身振りで示した。そして申し訳
なさそうに私に視線を向ける。
「ごめんなさい。今夜は来ないと思って、お湯の支度をしていなかったの。体を拭くだけ
でもいいかし……っ!」
その時少女が息を飲んだのが分かった。
「あなた、怪我をしているの……!?」
客室に入る私の背中に彼女の声が覆いかぶさった。
「あ、うん」
答える声は我ながら平然としたものだ。
あの猫にはああ言ったけど、本当は結構痛むんだ。でもあの時は痛いというのすら億劫で。
珍しく怯えている少女に、心配しないよう片目を閉じて見せた。そしてやっぱり見栄を張って
しまう。これは男だから仕方がないだろう。
「ちょっとしくじってしまって。そんなに痛くはないんだ。それで……当て布と包帯でも
あったら借りたいんだけど」
すると彼女は眉を寄せ私を非難した。
「そういうことはすぐに言ってちょうだい!もう……待ってて。持ってくるから」
余程慌てているのか、扉はばたんと大きな音を立てて閉まった。
「そんなにひどいのかな?」
彼女は桶と畳まれた布やなんかを手にすぐに戻ってきた。ぼうっとして動かない私を見て
目をいからせた。
「まだ脱いでなかったの?さ、早く!早く脱いでちょうだい!」
「ご、ごめん」
あまりの剣幕に反射的に謝って胸元の留め具に手をかけた。だがどうしてか指先が震えて
うまく外せない。
「あ、私が」
「大丈夫、自分で出来る……ありがとう」
見かねて申し出てくれたが断った。痛みのせいだと思われただろうか。
本当なら裸になるところだ。彼女には出て行ってもらうのだが今は傷を見てもらわなくては
いけない(さすがに背中を自分で手当ては出来ない)。せめて脱ぐくらいのことは自分でと
思ったのだが、彼女は一つ首を振るとさっと手を出してきた。
器用に留め具を外し、瞬く間に上着を脱がせてしまった。むっと汗のにおいが広がったが
彼女は構わないようだった。
黒い上着を椅子の背にかけると表情を変えることなく肌着に手を伸ばす。首の部分を緩めて
やはり釦で留めてある前を開くと改めて背後に回った。
肩からそうっと脱がせてくれる。
「っ……!」
傷口が肌着に張り付き、傷が攣れてつい声をもらしてしまった。
彼女は一瞬動きを止めたものの、脱がせなくてはと思いきったのか真剣な声で少し我慢して、
と言って一息に剥いだ。
「酷い傷……でもなんだか……切り傷というより火傷の跡みたいだわ。出血は止まっている
ようだけど」
「火傷?そうか……多分相手のレクスがそういうものだったんだろうね。でも、本当なら
心臓を貫かれてもおかしくなかったんだ。運が良かった」
「そう……」
大袈裟に言うのはそれに比べればこんなの軽いものだと言いたかったから。でも大して効果は
なかったらしい。彼女の返事は重たげだった。
「座って」
言われるまま寝台に腰を下ろす。すると絞った布で何度も傷口を拭いて、その後は傷の上に
何か薬をつけてくれたようだった。ようだ、というのは私からは見えないから。熱をもった
部分にひんやりしたものを当てられたのが分かったから、なにか薬草でもつけてくれたのかも
しれない。
布を当て包帯を巻き終わるまで、あとはもう互いに何も言わなかった。
手当てが済んで部屋を出て行く途中、彼女は思い出したようにこちらを振り返った。
「着替えは棚から出して使って。お腹は?食べれるかしら。なにか用意してくるから」
台所だってもう火を落としたのだろうに当たり前のように声をかけてくれる。すっかり寝る
つもりだっただろう彼女に改めて恐縮した。
「いや、怪我をしたせいか食欲はないんだ」
「駄目よ。そういう時だからこそちゃんと食べないと。体だって回復しないわ」
人差し指をたてて言い聞かせる姿は母親のよう。
そんな彼女にお腹は空いてるんでしょうと念を押されては断りきれなかった。
「……じゃあお言葉に甘えて……でも本当に少しでいい。そんなに食欲がないんだ」
「分かったわ」
頷いて彼女は扉を閉めた。
自分しかいなくなった室内を見るともなしに眺める。
寝台の脇に置かれた燭台。小さな棚と一脚の椅子のほかは余計な家具のないすっきりした部屋。
いつにもまして違和感を覚えるのは戦闘の余韻が残っているからだろうか。
目を閉じると嫌でもさっきの光景が浮かんでくる。
数人を相手にして、私は必死だった。生き残るのに。
連戦に次ぐ連戦。途中で図らずも二人を相手にした時はさすがに死ぬかと思った。
あの時――これで終いかと死を感じたとき強く思ったのは神々を倒すためにとか、あの子を
守るんだとかそんな耳触りのいい決意ではなく、まだ死にたくない、ということだった。
死んでもいいと思った事さえあったというのに。
正直言ってこの世にどんな未練があるわけでもない。本当は自分のしていることは偽善なの
だと頭の片隅にいつもそんな考えがあった。正義に酔っていたくてそのことから目を逸らして
いただけなのだ。
だから何も考えたくなかった。これまでのように気付かない振りをしていたかった。
やるべき作業で頭をいっぱいにして、やるべきことをやったら泥のように眠りたかった。
どれだけ御使いを犠牲にしても、私には彼等の死を悼む権利などない。なぜならこんなにも
自分の無事に安堵している。あの子も関係ない。結局彼等の命より自分の命のほうが大事な
だけだった。
ぎゅっと目を閉じて歯をくいしばった。
気を抜くと涙がこぼれそうだった。
暫くして彼女が戻ってきた。
手にした小さな盆にはパンとお茶が載っている。
「抱えて食べて」
そう言って寝台に腰かけたままの私に寄こした。
「ありがとう」
答える声はしっかりしていただろうか。
彼女は少し首を傾げたが、何も言わず正面の椅子に腰かけた。
この少女には世話になってばかりだ。申し出があったからとはいえ、かなり助けられている。
こんな風に支持し助けてくれる相手がいるのにぐずぐずと考え込んではいられない。気持ちを
切り替え無くてはとチーズを挟んだパンにかぶりついた。
食べるものと、休む場所と。提供してくれる相手がいることに私は感謝しなくてはならない。
まだそんなことを思いながら口をもぐもぐと動かしていると、椅子に腰かけて見ていた少女が
心配そうに問いかけてきた。
「傷が痛むの?」
「え?」
「元気がないから。……怪我したこともあるし、今日は食べたら早く休んで」
「ありがとう……でも大丈夫」
思いやりある言葉に笑顔を向ける。
本当はあまり心配をかけるようなことはしたくなかったんだけれど。こんな女の子に切った
張ったの話をするのは控えたい。でもあの猫の言う通りきちんと傷の手当てをしてもらえた
のは助かった。
そんなことを思いながら茶を一口飲む。と、彼女の口からため息がもれた。見れば目を伏せ
沈痛な面持ちをしている。
「どうかしたの」
「……いつも大丈夫って言うのね」
「え?」
寂しげな彼女の微笑みに私はどきりとした。
「ここに二度目に訪ねてきた時のこと、覚えてる?」
あの猫に帰りにこの少女を連れて来いと言われた時のことだ。
「さっきあなたを出迎えた時、あの晩と同じような顔をしていたわ」
「同じ顔?」
「ええ。どうしたらいいのか分からないって、そんな顔」
彼女の台詞にぎくりとした。
確かに私の訪問を知らせようとして、あの時と今日とで同じような戸惑いを覚えたから。この
少女が言うように、どういう態度をとるべきかという迷いが顔に出ていたのだろう。
なんだか気まずくて目をそらしたが、それは逃げのような感じがして彼女に顔を戻した。
すると気の毒そうな、だがどこか責めるような目が私をしっかと見据えていた。
思わずたじろいでしまいそうなほど真摯な表情で。
「あなたは私が何か言うといつも『大丈夫』って答えるわ。それは本当にそうなのかも
しれない。けれど……私には自分に言い聞かせているように思えて仕方がないの。『まだ
大丈夫だ』って日々の疲れや不安を自分自身にすら隠しているみたいに」
大袈裟な言い回しに首を振った。彼女の話を聞いていると、どれだけ自分は繊細だと思われて
いるのかとおかしくなる。
「でも、本当に大丈夫なんだ。この怪我だって大したことは無いし、疲れていてもこうして
休ませてもらえれば回復するから」
「そうね。その通りだわ」
「そうだよ。痛いのもだるいのもいっときのこと。平気さ」
冗談ぽく言ったが彼女は乗ってこなかった。
じっとこちらを見ていたが眉をよせ下を向いてしまった。
「でも辛いんでしょうに」
目を伏せているのに瞳が輝いて見えるのは水が張っているからだろうか。
問いの形をした言葉に答えず、私はどうして彼女は泣きそうな目をしているんだろうとそんな
ことを考えていた。
「一時でも怪我すれば痛いわ。疲れていたら休みたい。なのにそう口に出すことすら我慢を
して。あなたはなんでも辛抱しすぎる。私は誰かを殺したり……なんて、話に聞いただけでも
怖くなってしまうし、だからあなたも口にしないよう気を使ってくれているのかもしれない
けれど、私にも話を聞くくらいのことは出来るわ」
「私は話なんて、なにも……」
「ね?そうやって拒むの。一人で抱え込んで。どういうつもりか知らないけれど……私に
対しては、それは優しさじゃないわ」
「……」
今度こそ私は正面を向いていられなくなった。
俯く顔、早まる鼓動に呼吸が荒くなる。異常を悟られまいと自分よ落ち着けと膝の上できつく
手を強く握りしめたが駄目だった。その拳すら小さく震えだした。
どういうつもりなのかって?
そんなのはこちらの台詞だ。そっちこそどういうつもりでそうやってずけずけと人の心に踏み
込んでくるんだろう。隠されていると感じたのなら気付かないふりをするのが礼儀ではないの
だろうか。
分からない。
どうしてそんなにも無遠慮なのか。
どうしてそんなにもやさしいのか。
「泣かないで」
「え……?」
彼女の言葉に顔を上げると、瞬きに頬につうと水が流れるのが分かった。
知らず知らずのうちに泣いていたらしい。
「――っ!」
言われたとたん自分がひどく悲しんでいるのに気付いた。
おかしいのは『一体何が悲しいのか』をはっきり認識できなかったことだ。
悲しい理由が分からない。
自分を見損なっていたことだろうか。
世話好きの母を疎ましがるように彼女に対して意地を張っていたことだろうか。
頬を濡らす滴を手の甲で拭って、それでもまだ涙はあふれてくる。
ごしごしとこするのは無駄な抵抗だった。
「わ、私は……」
自分を取り戻した夜あんなに泣いたのにまだ泣き足りないのか。涙はすでに尽きたとさえ
思ったのに。感傷的になるのはこれきりと誓ったのに。
右手で隠すように顔を覆う。それでも涙は止まることはなかった。
ぎっと寝台がきしみ、隣から伸びた手に頭を持って行かれた。頭をかかえるように抱きしめ
られて、丸まった背中をとんとんと叩かれる。
幼子をあやすような仕草にも私は抵抗しなかった。
「どうしてそんなに優しいんだ、君は……」
言った声はくぐもって聞こえなかったかもしれない。
瞑った目尻から頬へ、さらに顎の先を伝って雫が落ちた。
敷布の上に一つ、また一つと落ちて黒い染みを広げてゆく。俯く目の先にそれははっきり
見えていたものの、人前で涙を流すことの恥ずかしさを何故か感じなかった。
「そんな風にしてもらう権利は……私には、ない……」
ただ罰だけを。
望んで行ってきたことでないとはいえ、この先は苦しんで、悔やんで生きていくのが相応しい
のだと思っていたのに。
「生きているんですもの。喜びを否定することはないわ。あなたは自分の犯した罪の重さを
知っている。それを受け止めて償おうとしている人を、どうして責めることが出来るの?」
「でも……君達にはその権利があるんだ」
「そうね。でもそれを出来るのは……あなた達によって家族を奪われた人の身内の方だけ
なんじゃないかしら」
声は耳からも聞こえたが、それより近く抱きしめられ接した部分から直接響いてきた。
私をなじるでもない、だが庇うでもない。ただ事実を語っているだけの。
「君は、許せるの……?」
体が揺れ、そっと首を振ったのが分かった。
「もちろん許せる行為じゃないわ。あなた達はいろいろなものを奪い過ぎた。世界を潤す
エテリアも、住むべき村も、家族も。でも――そういう意味ではあなたをその人達から奪う
ような真似は出来ないわ」
あくまで落ち着いた声。
目が勝手に閉じてしまい、また涙がこぼれた。
何故この人はこんなにも静かに話すのだろう。
こうして大の男が、それも大量殺人者が泣いているのに甘ったれるなと罵ることもしない。
ただやさしくしてくれる。
「ね、泣かないで」
小さな手が何度も何度も頭を撫でて慰めてくれる。
涙を拭うこともせず顔を上げれば、正面には心配そうな表情の彼女がいて胸が詰まった。
頭なんか働いて無かった。
彼女の手を掴まえて抱きしめる。
力の強さに驚いたのか体を硬くしたのが分かったが、その温もりを逃がしたくなかった。
「ごめんなさい……ごめん……」
うわごとのように呟く。
この世界に、そして今まで手にかけてきた人々に。
少女はそっと私の後ろに手をまわし、また宥めるようにしゃくりあげる背中を撫でてくれた。
随分長いことそうしていた気がする。彼女が何も言わないのに私は薄い肩口から顔をあげた。
瞬きした拍子に涙の粒が落ちて頬を伝う。
ほっそりした指が流れを断つようにそこを拭った。
顔をあげたその一瞬目が合ったものの、泣きはらした目にも何も言わない。
彼女は少し視線を上に向けて私の乱れた前髪を梳いてくれた。
そして顔が近付いてきて、私は目を閉じた。
額に、瞼の上に。あたたかい感触が落ちてくる。何度も、何度も。
――誘ってるの?
なんて。
こんな風に口付けられて、いつもの私だったら意地悪く聞いていたかもしれない。
でもこのときはただすがる相手が欲しかった。抱きしめて、頭を撫でてくれたらどんなに
この心細さが和らぐだろうかと。
だが心の中からそうじゃないという声がする。
その声のまま頬に置かれた手をとって、ぎゅっと握りしめた。
離せない。
離したくない。
このあたたかい人を、どこにもやりたくなかった。
自分がされたように彼女の顔に手を伸ばす。
薄金の髪を結わえた紐はいつの間にか落ちてしまっていて、いつものように長い髪を下ろして
いる。
頬を撫でれば肌はしっとりとして指先に心地良い。指の背で顔の輪郭をたどって顎に至り
そっと上向けても少女は目をそらさない。
真っ直ぐに私を見つめて――顔が近づいても、彼女は逃げなかった。
重なる私の唇を目を閉じて受け止めた。
深く絡ませることもしない、そっと触れるだけの。
嫌がるそぶりを見せない少女に私はなぜかほんの少し苛立ちを感じた。
彼女の気持ちが分からない。何を考えているのか。今の流れではどうしたって慰めを求めて
いるようにしか思えないだろうに。
「どうして……」
呟けば不思議そうに瞬きをする。私は言葉を継いだ。
「嫌だって言わないの?」
「なぜ。だって嫌でないのに必要がないでしょう?」
首を傾げて、本気でそう思っているらしかった。
顔にかかる前髪を避けると反射的にか目を閉じる。そこに隙を見てまた口付けた。
額に、瞼の上に、頬に。
彼女は子供のように目をぎゅうと閉じていた。私が離れるとおっかなびっくりと言った風に
こちらを見て、そしてほんの少し顔を赤く染め恥ずかしそうに笑った。
それ以上言葉を重ねるのが怖くて、彼女の口からの否定の言葉が出るのを恐れて私は口を
噤んだ。
拒まれないことに甘えていいのか。
心の奥にそんな迷いもあったが止めることは出来なかった。すでに苛立ちなど吹き飛んでいる。
近づけば目を伏せる彼女に再度唇を落とした。
ちゅ、と数回ついばんだのち、そっと自身のそれで入口を開いた。舌を滑り込ませると彼女の
体がわずかに逃げる。離れないように肩に置いていた腕を背中へと回した。
抱きよせる体の細いこと。
こんな華奢な、儚げな少女が本当に……受け入れてくれるのだろうか。
私は憐れまれているのか。
その気持に感謝をし、受けとっていいのか。
たったふた月程度の孤独が私をこんなにも心弱くしたのだろうか。語り合う愛のないまま
関係を持とうなんて。
脳裏をかすめる自身への問いかけも、だが今の私には何の抑止力にもならない。
だが、それだけ寂しかった。一人で立っているのが辛かった。
仲間を迎え撃ち、殺す。
他に道がなかったとはいえ罪は深い。いずれ罰せられる時が来るのだろうが、今はただ慰めが
欲しかった。
抱き締めてくれる誰か。
自分の選択は正しいのだと、私の生き方を支持してくれる誰か。
そんな相手が目の前にいて弱音を吐かぬ事など出来るだろうか。
「ん……っ、ぁ……」
決して強引にはならないようにと絡ませた舌を最後にやさしく噛んで、顔を上げた。
視界はまだ僅かに水気で滲んでいたが、正面にいる彼女の笑顔はたがえることなく私の心に
沁みこんできた。
「笑顔の方が似合うわ」
そう言って頬に口付けてくれる。
まるで母親のように。
無償の愛の存在を信じたくなった。
応えるよう彼女に笑いかけたがぎこちなかったと思う。それでも彼女はその顔の方がいいわ、
と言ってくれた。
膝の上に抱きあげると思っていた以上に軽い。ちゃんと食べているのだろうか。
彼女は大人しくされるままになって私の肩に両腕を置いた。
そして頭に何度も口付けてくる。
今度こそくすぐったくて、私は笑い声をもらした。
重ね合う唇、服を脱がせながら時折指先に触れる肌の感触に安らぎを感じる。
人の肌とはこんなにも心地良いものだったのか。
以前は生暖かさに気持ちが悪いと思ったことさえあったのに、今はそれにため息がもれる
ほどの安堵を覚えている。
私は息が上がるほど激しく彼女の唇を求めた。
何度も離れては舌を絡ませ、吸って彼女の口中を存分に味わいながらその細い体を寝台に
横たえる。
天井が視界に入っても彼女は逃げようとはしなかった。
〜つづく〜