味方と言えばこの赤い生き物と戦力とも言えない神々の子だけ。
一方は私のレクスだしもう一方は反射的な攻撃を返すことしかできない。それでも話相手には
なってくれるし、あの子の存在は神々の支配を払うことが出来るのだと私を力づけてくれた。
自分の目指すものがどれほど厳しい道か覚悟はしていた。
暗い結末ばかりを考えていたら前に進めないから仕方が無い。とはいえ、それでも少し
楽天的に過ぎたんだと思う。
次々と追って来る御使い達相手に、私の精神は一月も耐えられなかった。
***
手近にある枝に手を伸ばす。
腹立ちまぎれにそれを引き下ろすと生木の裂ける音がした。両手で掴んで曲げてみれば
一息に折れることなくただぐにゃりと曲がるだけ。
ねじれた私の精神状態を表しているようだった。
「一体いつ生まれるんだ!?」
私の怒鳴り声に彼はふいとそっぽを向いた。
「もうすぐ、もうすぐって……君の時間の感覚は一体どうなっている!カテナと一緒なのか?
それとも、人間と同じなのか?」
「もうすぐはもうすぐだ。それしか言えん」
「まったく!頼りになる従者様だな!」
手にしていた枝を後ろに放り投げる。
くだらない嫌味を言っているのは分かっている。そんなことを言っても仕方がないのに。
しかし連戦に次ぐ連戦にやっとのことで追手を振りきっていた私には、彼を思いやる余裕が
なくなっていた。
逃げ始めたあの日以来、ゆっくり休みをとれたことはない。
短時間で出来るだけ深く眠り、だが周囲のエテリアの気配には常に気を配っていた。
御使いやあの不自然な存在であるしもべが近づいて来れば、それと察することが出来るように。
疲れがたまって寝入ってしまった時など、この赤いレクスに引っ掻き起こされたこともあった。
救いがあるとすればこのレクスを通じて知っているのか、それともエテリアを通して感じる
のか、『神々の子』がゆっくりでも私の後を付いてきてくれることだろうか。
押したり引いたりしなくても動いてくれるというのは、連れて逃げるという点でとても大事な
ことだったから。
追いつかれそうだと感じたら、話しかければその場にとどまってもくれる。
そのたび決して姿を見せないよう言い聞かせて私は追手を迎え撃った。
エテリアを引き寄せる性質がなかったら逃亡はもっと容易だったに違いない。
素直について来るあの子をさらにテオロギアから遠ざけなくてはと、私は私なりに必死だった。
私の言葉に怒るでもなく赤い生き物は淡々と答えた。
「それでもエテリアを呼び集めるということは以前に比べあまりなさらなくなった。多少は
神々の目を欺けているのではないか?」
「ああ……そうだね」
何が原因か、あの子は初めに比べると確かに落ち着いてきたようだった。
ありがたいことだ。
「あまり苛立つな、心を落ち着けろ。ご主人が不安がっておられる」
「……そうだよね……ごめん」
冷静な言葉に、私は後ろにいる白い球体に謝罪した。
最も冷静でいるべきは自分なのにと己の余裕のなさに、内心ため息が出た。
ふと顔を上げる。
遠くで何か聞こえたような。気のせいだろうか。
「……ね、今なにか……」
ゆっくりあたりを見回して赤い生き物に言いかける。
するとその声は、今度こそはっきり私の耳を打った。
「きゃ……!」
女性の声だ。
その瞬間私は弾かれたように駆けだしていた。
こんな森の中で悲鳴を上げる理由とは。
声を上げている人物は逃げているのだろう。誰か、と助けを呼ぶ声は向かう先で移動している
様子。
生い茂る藪をかき分け、私は道なき道を走った。
「助けて、誰か……!」
声の主はすぐそこだ。
ひときわ大きな茂みに飛び込むように突き抜けると、目の前に少女がいた。
「あ……」
交差する視線。
私の姿を認めて、だがどうしてか人が来て安心したと言う顔ではない。
顔を青く引きつらせて身を硬くする。
一瞬で大きな怪我のないことを確認しその後ろに目をやると、今まさに武器を振り上げている
ヴォロがいた。
考える間もなく少女の腕を掴み自分の後ろへと庇う。
しもべの鈍くも重い攻撃を蹴り飛ばし、ふらついたところにもう一度蹴りを見舞わせる。
地に転がったそれは何でもなかったように立ち上がり、今度は私めがけて攻撃の構えをとった。
「カイン!」
後ろから聞こえた鋭い声に、ヴォロに目を向けたまま右手をあげる。
するとものを言うレクスは瞬く間に大剣の形となり、私の掌におさまった。
しっくりと手に馴染んだもの。
振り下ろされる棍棒を跳ね上げて胴体を一薙ぎする。倒れたしもべに駄目押しとばかりに剣を
閃かせると、ヴォロはたちまち光の塊となった。
硬い外殻も肉の体ももうない。
エテリアの小さな集合は不自然な器から解放され宙に散っていった。
「はぁ……」
ヴォロ一体で良かった。御使いが相手だったらこうあっさりとは終わらなかったはず。
全速力で駆けたものだからなかなか動悸がおさまらない。額からつ、と流れる汗を拭うと件の
女性を振り返った。
あれきり声を上げないのは恐怖のためだろうか。相変わらず青い顔でこちらを見ている。
声をかけても返事はない。彼女もヴォロから逃げていたためか私と同じように息を切らして
いた。
「君は――」
私は苛立ちを止められなかった。
青ざめている少女の手首を掴み引き寄せると、彼女は一瞬顔をしかめた。
「どうしてこんな所にいる!」
「……!」
彼女は私の声にびくん、と肩を縮こまらせた。
「こんな時に一人で森を歩くなんて!その危険に気付くくらいの想像力もないのか!?」
「ごめんなさい……」
もう一度怒鳴りつけて、それでようやく返事があった。
しゅんとうなだれているのは本当に反省しているからか、それともいきなり知らない男に
説教をされた故か。
怯えているのは構った事ではなかった。これくらいで済んだだけありがたいと思って欲しい
ものだ。私がいなかったらしもべにやられて今頃息絶えていたかもしれないのだから。
「家は?」
私は横を向いたまま、彼女の顔も見ずに言った。
「え……」
「君の家だ。送って行く。……このまま一人で帰すわけにはいかないからね」
出会ってしまったからにはこれ以上一人で森を歩かせるわけにはいかない。本当はこんな
ことをしている場合じゃないのに。
寄り道なんかで時間を潰したくはなかった。だがそれをしなければこれ以上の犠牲を出さぬ
ように、という自分の決意に反する。
忌々しいことだ。
「今ので分かっただろうけど、この辺りは本当に危険なんだ……さ」
「……」
手を差し出せばその手を見つめる。それからやっと顔をこちらに向けた。
どうも動きの鈍い少女だ。
何を迷っているのか彼女は視線を周囲をさまよわせ、躊躇うようなそぶりで口を開いた。
「あの……一つ、聞いてもいいかしら?」
「なに?」
嫌々返事をする。
常識のない相手と口を利くのが嫌だったから自然返答はつっけんどんなものになった。
「あなたは……」
言いたいことがあればはっきり言えばいい。迷うなら言わなければいい。
はっきりしない相手の態度に私は顔をしかめた。
「だからなに?」
「あなた……もしかして、御使い……?」
「――」
そう聞かれた時、私の方こそ青ざめていたかもしれない。
改めて問われるまでもない。この格好が――なにより私が手にしているものが――全てを
物語っていた。
そうか。
だからこの少女は。
反応の鈍い娘だと思っていたけどようやく事情が飲み込めた。
動きづめで熱を持った体と正反対に、心の中は緊張で冷たくなる。
答えなくてはと口を開いたものの喉が震えているのが分かって声が出せなかった。
さっきの彼女もこうだったのかもしれない。
罵倒されるだろうか。
御使いであった時には気にもしなかったが、やはり責められるのは辛い。事実から逃げたいと
いう気持ちがあった。
だがそれは出来ない。
頷いただけで答えを返すと、差し出した手の先で彼女が小さく息を飲んだ。
「君……!」
右手のレクスを放り出してくずおれる体に慌てて両腕を伸ばす。
御使いという存在がどれほど恐ろしいのか。それと知った途端気を失ってしまったのだ。
抱きかかえれば華奢な体は軽く、身に着けているものを見ればやはりこんな森の中を歩く格好
ではない。まるでちょっとその辺りへと散歩にでも行くような。
どこから来たのだろう。
今、意識を失う寸前に死を覚悟したのだろうか。
自分を含む御使いという存在に、私は改めてやりきれなさを感じた。
「その娘、どうする」
すぐそこに草地を見つけ少女をやわらかな草の上に横たえると、後ろからあの赤い生き物が
声をかけてきた。
「どうもこうも……放っておくわけにもいかないし……。仕方ない、休憩がてら傍について
いるよ。そのうち気が付くだろう。君は『ご主人』を連れて来てくれないか?」
私達の後を追って近くまで来ているはずだ。
「分かった」
短く答えると赤い生き物は再び藪の中に入っていった。
「ああ、来たね」
少しして、木々の影にほんのりと輝く光球が見えた。
この子の姿を見るとホッとする。
神々の強制的に収集するのとは違って『ご主人』がエテリアに囲まれて輝く姿は、自然の風景
として調和が取れていた。
先にレクスが下の藪から出てくる。
「そちらには出ていかない方がいいか?」
木陰に隠れていた方が良いかと言う意味だ。
私は頷いた。
「そうだね……見られるのは避けたい。どんな娘かも分からないし、余計な情報は与えない
方がいいだろう」
「ふむ」
彼がそれを伝えると神々の子はそれ以上寄ってこようとはしなかった。
聞きわけのいい子だ。私達の話をきちんと理解しているのだろう。
その様子を見て少女を寝かせた木陰に自分も腰を下ろした。すると赤い生き物もやって来て
隣で丸くなる。こうしてみると本当に猫のようだ……顔以外は。
私は膝を抱えそこに顎をのせた。
「ね……」
「なんだ」
話しかけても顔を上げもしない。
眠たいのだろうか……尋ねたことはないけれどレクスも寝るのだろうか?こうして丸くなる
のは今までただのポーズだと思っていた。疑問があっても素直に聞いたりしないけど(どう
でもいいといえばどうでもいいことだし)、まあそのうち分かるだろう。
「さっきのヴォロだけど、あれは私達を追ってきたものかな」
「さて」
「私達……御使いは人々の粛清に行く時に彼等を連れていくだろう?人間との戦闘で機能を
損ったヴォロが、はぐれて辺りをさまよってるというのは時々あることだ」
レクスは目線だけで先を促してきた。
……これが分かるようになっただけでも大した進歩だと思う。黒目がなくてもそれなりに目で
ものを言えるんだな。
「ご主人を追ってきたものなら確かに危険だが……そうではなかろう。もしもそうならば、
あれ一体ということはあるまい。ヴォロごときの手に負えるご主人ではないからな。最低でも
OZ程度の実力者でなくては話にならん」
彼は億劫そうに答えてくれた。
自分への褒め言葉ともとれる台詞に隣を見ると彼もこちらを向いた。いっそう目を細める。
「ヴィティスにもそれはもう分かっているだろうな」
「あぁ、そ……」
そうだね、と。あまりに自然な流れに思わず頷きそうになったが、彼の発言にあの日以来
会っていない友人を思い出した。
ヴィティス。
私の親しい友達。
彼は私の副官のような仕事をしていた。と言っても命じられてではない。私の仕事ぶりを
見るに見かねてのことだ。
どうして、と問えば毎回同じ答えが返ってきた。
『君の仕事が滞ると下の者に差し支えるからな』と。
つまらない言い訳をするなあと思ったことは多分ばれている。その上で忙しい私を助けて
くれていたのだ。自分だって忙しいのに。
次期の長候補としてその有能さは皆に認められていたから、きっと今頃はその地位について
いるのだろう。
「そうだね……。私が生きてること……あの子を助けているのにもう気が付いているかな」
「さあな。こればかりはなんとも言えん」
無駄に部下の命を散らすような男ではない。
私は死んだと思われてたし、彼等の油断を誘うためにも存在を知られたくなかった。
それゆえ追手のすべてに、本意ではないが――本当に本意ではなかったのだが――止めを
刺して地に埋めた。ヴォロはエテリアに還るが御使いはそうはいかない。遺体を改められれば
レクスによる傷だとばれてしまう。
だから土の中に隠した。心の中で何度も謝りながら。
ヴィティスは戻らぬ仲間、見つからぬ遺体に何かがあるのだと察しただろう。
もういっそ神々の子を諦めてくれればとも願うが、それは叶わぬこと。神々の命令は撤回
されぬ限り止めることはない。かつての私がそうだったし……彼もそうだろう。
「得体が知れないと手控えてくれればありがたいけど」
「そうはならんぞ。そんな消極的な男ではない。よく知っているはずだ」
「うん。君と同じくらいね……」
誘惑に負けて目を閉じる。
瞼の裏がぼんやりと霞がかって来た。
「ねえ、君。ふぁ……」
駄目だ。
「どうした……おい?お前こんな時に寝るつもりか」
ごろりと少女の隣で横になると彼が非難がましく言った。
私は構わず腕を枕に目を瞑る。
「こんな時って言うけどさ、眠い時は眠いんだよ。睡眠時間はまちまちで、量も全然、足りて
な……」
とりあえず敵はいないしいいだろう。何かあれば気配で気が付くから。
彼が耳元でなんだかんだと騒いでいるのを聞いて、だがもうそれを理解できるほど頭は働いて
いなかった。
レクスの声に最後まで答えないまま、私の意識は暗闇に落ちて行った。
「ん……くしゅん!」
空気が冷たくて体が震えた。
寒い。
「うー……」
まずい、空気が冷えるほどの時間まで眠ってしまった。こんなにゆっくり眠れたのは久し振り
だけど。
目をこすりながらそう思った瞬間、完全に覚醒した。勢いよく上体を起こす。
そうだ、あの少女は――!
彼女は私の隣にはいなかった。
焦って辺りに視線を巡らせると少し離れたところであの赤い生き物を構っている。
そちらを見ている私に、彼が最初に気付いた。
少女に抱えられていたのを腕から飛び降りてこちらへと駆け寄ってくる。にゃあと鳴いている
ところを見ると、どうやら猫で通すつもりらしい。……それで通用するのかどうかは置いて
おいて。
足をがりがりと引っ掻くので私も腕に抱えてやる。するとすっかり大人しくなった。彼がその
つもりならと私も普通の猫のように扱う。喉を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めるが
やはり少し怖い顔だと思った。
「やあ……怪我はないかい?」
立ち上がりながら少女に何気なく問いかけた。あまり真剣な顔をしたら怯えられると思った
から。でもよく考えたらあんな風に怒鳴った後では意味がないかもしれない。
「……ないわ」
彼女は少し緊張しているのか声が硬い。
「そう。それなら良かった」
大袈裟でなく安心し、自然と笑みがもれた。
少女はそんな私をじっと見ている。
それにしても、なぜ逃げなかったのだろう。私が眠っている間に立ち去ることだって出来た
だろうに。あんな風に猫を構って遊んでいるなんて。
目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。とりあえず敵の……テオロギアの追手が迫ってくる気配はない。
もう猫の頭を撫でると一歩踏み出した。
「もう一度聞くけど、君はどこから来たんだい?もう日が暮れる。送って行くから」
「……」
ここで初めて彼女は険しい目つきになった。
「そうして私の村を突き止めるの?村の人達を……殺すの?」
「――!」
そうか。そういう発想になるのか。
彼女の攻撃的な台詞に私は自分の鈍感さを思い知った。
「そんなことしやしないよ。確かに……私は御使いではあったが、今は彼等と別の意思で
動いている。人々に信仰を強制したりしないし、従わないからといって殺すつもりも攫う
つもりもない」
「まさか」
「本当さ。疑われるのは分かるし仕方ないけど、でなきゃたった一人でこんな所にいない。
神命に臨む際は普通なら複数人で組んで、あるいはヴォロ達しもべを連れて行動をするからね」
神々が現れて数百年、これくらいはとうに知っているかと思ったが違っていたらしい。案外
知られていないものだと考えていると、今度は違うことを聞いてきた。
「……別の意志って、何のこと?」
これだっていちいち答える必要はなかったが、どうしてか敵ではないのだと知って欲しかった。
彼女の攻撃性が恐れからくるものだと思うから不安を取り除いてやりたいのかもしれない。
「私はもう神々に従うことは出来ないということ」
「仲間を裏切ったの?」
私の台詞が予想外の言葉だったのか、眉をひそめより正確な回答を求めてくる。
「彼等はそう言うだろうね。私の見解は違うけれど。もっと言うなら――神々の支配する世を
終わらせたいと思っている」
「――!」
今度は少女の方が息をのんだ。
「今日はよく驚く日だ?」
思った通りの反応に笑みがもれる。
ヴォロに襲われたりそれを御使いに助けられたり、挙句の果てに御使いが『神々を倒す』
なんて言いだす。人にしてみればそんなことは想像の埒外だろう。
「馬鹿にしないで」
強い語調に一瞬きょとんとした顔をしてしまった。そんなつもりはなかったんだけど。
今のは自嘲的な意味だったのだが確かにそんなことは伝わらなくて当然。私は謝意を込めて
頭を下げた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかった……謝るよ」
すると少女はゆうゆると首を横に振った。
体の前で重ねていた手をぎゅっと握りしめて草地に視線を落したまま呟いた。
「あなたの言うこと、どこまで信じられるのかしら。……分からないわ。今まで御使いがして
きたことを考えると」
「信じられなくても無理はないよ。でも――本当に悪意はないんだ。夜が更けようって時間に
女の子を一人歩きさせるなんて私には出来ない。さっきみたいなことだってあるしね。もし
私が付いてくるのは嫌だって言うならこいつを連れてってくれてもいい」
彼なら何かあれば私のところへ飛んできて知らせてくれるだろう。
そう思って猫を示したが彼女は頷かなかった。じいっと私の顔を見つめて、そのまなざしの
真剣さに目を逸らすことも出来ない。
そして次に彼女の発した一言はまさに予想外だった。
「いいわ。信じるわ」
私こそ目を見開いて相当な間抜け面だったろう。
口ばっかりでもそんなことを言ってもらえるとは思わなかったから、何と答えたらいいのか
分からなかった。
彼女の目は鋭い光をはらんでいて――もし嘘をついたら怖いわよと――信じると言ったのが
口先だけでないのがはっきりと見て取れた。
そして一転、彼女は眉尻を下げ申し訳なさそうな顔になった。
「私、まだお礼も言ってなかった」
「ああ……」
「助けてくれてありがとう。近くに御使いが現れたって話も聞いていなかったし、まさか
こんな事になるとは思わなかったの」
ゆっくり近づいてくる。
まさかそれを言うためだけに危険と知りながら私の目覚めを待っていたのだろうか。
にゃあ、と手元で声がして、赤い猫が私の腕から飛び降りた。少女の元に駆け寄るとさっきの
ように抱きあげられる。
ふふ、と微笑みながら彼女は猫の頭を撫でたり喉を鳴らしたりした。
そしてそのままの顔で私を見て言った。
「申し訳ないけれど家まで送って行ってくれる?」
「それはもちろん」
頷くと彼女はにっこりと笑った。
誰かのこんな笑顔を見たのはどのくらいぶりだろうか。仲間と袂を分かってからしばらく、
やさしい顔を向けられたことがなかったからそれだけで胸の奥がじんとなった。
「どっちから来たのかは分かる?」
「ええ。こちらよ」
もちろん、と示してくれたのにはほっとした。こんな道のない森の中は目印なしでは迷っても
当然。送るとは宣言したものの、どっちだったかしらなんて言われたら途方に暮れる所だった。
「君はこの辺りに住んでいるの?」
「でなければこんな格好で森の中を歩いていたりしないわ」
「確かに」
その通りだ。森を歩くに相応しい格好ではないという自覚はあるらしい。
しかし村などあっただろうか。
この辺りを通ることは時々あった。
と言ってもテセラを使い上空を通り過ぎるばかりだったが。それでも人が住んでいる様子は
なかったはず。自分が見落としていただけだろうか。
「こっちよ」
彼女の足取りに迷いはない。
この辺りの地理がしっかり頭に入っているのだろう。とすればやはり私達が気付かなかった
村が存在するのか。
「道もないのによく分かるね」
「あら。うろうろしてればそれなりに覚えるわ。最も、だからあんまり行ったことのない
ところには行かないけれど。谷間の中だからなんて気を抜いていたら遭難してしまうもの」
彼女は茂みのないところを選んで歩いている。
藪なんか裾をからげて通らなければ枝に引っ掛けて破れてしまうからだろう。
「聞いてもいいかしら」
「なんだい?」
「あれ……なんなの?」
彼女はちら、と後ろに視線をやった。
そう、そこにいるのは光る球体。
神々の子だ。
言われた通り隠れていたのだが移動を始めたらいつものように私の後をついて来てしまった。
とはいえあの場所に残しておくわけにもいかないし、だからといってあの子のことは丁寧に
説明する気はなかった。
「怪しくないから大丈夫だよ」
「……」
とりあえず微笑んで見せたけれど効果はなかったらしい。疑わしそうな表情だ。
「この上なく怪しいと思うけど……あれも神々の作ったもの?人を殺すの?」
「あ……」
そうだった。彼等人間の関心は常にそこにあるんだ。
私は説明不足を知り、慌てて付け加えた。
「いや、この子はそういう目的で造られたんじゃないんだ。まだ子供だけど神々の支配からは
自由だし、そんな危険な存在ではないよ」
「だからなの?」
「え?」
「その子を連れて逃げているのかしら、と思って」
私は息をのんだ。
どうして追われているということを?何故――。
無意識に睨んでいたかもしれない。
そのせいか彼女は少しひるんだ風に私の顔をうかがった。
「あの……あなたの格好、随分くたびれているみたいだから……それに、さっきまでずっと
寝ていたし」
「……!」
「あんな所なのによく眠っていたわ。……疲れてるんでしょう?」
言われて自分の体を見下ろす。
確かにくたびれてるかもしれない。この服は戦闘用でそれこそ随分丈夫なのだが、時折り川を
見つけては洗濯するだけであとはずっと着続けだったから。
着たきりなのは自分がOZを離脱した状況から仕方がないこととはいえ、それを人に知られた
のはなんだか恥ずかしかった。
「洞察力があるね」
感心を肯定ととらえたのか、彼女は少し得意げに片目を閉じてみせた。
「ふふ、よく言われるわ。でも、あんまり女の子に対する褒め言葉でもないわね」
「確かに」
久し振りにあの猫意外と話をして笑った。
アルミラ達と別れてからまだたった一か月と少ししか経っていないのに、御使い時代がとても
遠い昔に思えた。
もう辺りは真っ暗だ。
私は夜目が利くからいいけれど彼女には見えているのだろうか。しかし木の根につまづく
様子もないし、本人が言っていた通りこの辺りをよく知っているのだろう。
そう思った折りも折り、少女は立ち止まり前方を指差した。
「あそこよ」
「……?」
木々の向こうには確かに建物の輪郭が見えた。だが灯りがない。
私は目をすがめた。
こんな時間に人が住んでいて灯りをつけないなんてことがあるだろうか。
「村……?」
「そうよ。家が並んでいるの、見えるでしょう?何家族もいる……どうして?」
横にいる少女を見やる。
「灯りがない。皆もう眠っているのかい?」
「いやだわ」
彼女は再びくすくすと笑い声を上げた。
「まだ日が暮れたばかりよ。灯りが見えないように――人が住んでるのが分からないように
してるの」
「ああ……」
そうか。みんな御使いの目を逃れるためなのだ。
少女の言葉に納得したものの、人がいるはずなのに灯りのない風景はとても寂しかった。
「ここまでで大丈夫だね」
森の出口で私が立ち止まると彼女も隣で足を止めた。
「わざわざ送ってくれてありがとう」
「いや」
丁寧に頭を下げてくるのに私は首を横に振った。
最初の印象こそ悪かったけれど、話をしてみるとものの分かる少女のようだった。そう思うと
勝手なもので、自分が怒鳴りつけたことも申し訳なかったと感じてしまう。
あんなにきつく言うほどのことじゃなかったかもしれない。あの時は逃げるのに疲れて、少し
苛々していたから。
「こんなのは何でもない」
「そう……?ね、よかったら私の家で休んで行って。面倒をかけてばっかりだったもの。
お礼にご飯くらい用意するわ」
「え――」
思いがけぬ申し出に、私は目を見開いた。
「そのかわり上着は脱いで。あなたの格好は不吉なの」
「不吉……」
彼女は頷いた。
「御使いの中で最も強い人達……『OZ』のメンバーは真っ黒だって話だから。伝説のような
ものだし見たことのある人はいないんだけど。それでも知らない人が見たらきっと驚くわ」
どうやら私を一般の御使いだと思い込んでいるようだった。
だが否定する気はない。わざわざ怯えさせるようなものだ。
彼女は私が後ろをついてくると信じて疑わない足取りで先を歩いて行く。
私は迷った。
ついて行きかけて、だが森をほんの少し出たところで立ち止まる。
足音がしないのに気付いたのか、彼女が振り向いた。
「どうしたの?」
「……やっぱり、遠慮しておくよ」
「どうして」
不思議そうな表情で戻ってくる。
村の人に見とがめられぬよう木々の影へ入ると彼女もまた同じようについてきた。
「私は……そんな風にしてもらえる立場じゃない」
「あら。立場なんて関係ないわ。私を助けてくれて、こうして夜道を送ってくれて。それに
お礼をしたいっていう気持ちにあなたの素性や立場なんか関係ないでしょう」
「でも」
そういう問題ではなく私が罪悪感をもってしまうからなのだが、ここできっぱりと断れない
のは逃げ続ける毎日で誰かと(あの赤いレクスは置いておいて)話をしたかったからかも
しれない。
彼女は私の手を取った。小さな手が励ますように握りしめてくる。
「あまり気にしないで。たいしたものは出せないけど、どうぞ休んでいって」
握られた手を見つめて黙り込んでいると少女の首をかしげるのが見えた。
「ね」
「……それじゃ、お言葉に甘えるよ」
重ねての申し出に、厚意をありがたく受け取ることにした。
「ちょっと待っていてくれる?あの子達に言ってくるから」
断りを入れて森の中へと戻る。ちゃんと事情を伝えておかないとあの子達までついてきて
しまうからだ。
茂みを飛び越えて数歩行くと、木の陰から姿をのぞかせる二人が見えた。
あのレクスが『ご主人』を押しとどめてくれたらしい。
「ねえ、君――」
少女に聞こえないようあくまで小声で話しかける。だがみなまで言わないうちに彼は分かって
いる、とうるさげに顔をそむけた。
「ふん、あの娘の家で飯を食べてくると言うのであろう。聞こえていたぞ」
「……いい、かな」
さすがに自分一人だけゆっくり食事をとるというのが後ろめたかった。彼にも恩恵を分けて
やりたかったが、もとはレクスのためかこの赤い猫は食事というものを必要としない。
食べようと思えば食べられるらしいのだが、今の世は人々の食糧事情があまり良くない。そう
知っていることもあり、それをあえて食べさせてあげてとも言えなかった。
そのせいで自然と彼の顔色をうかがうような聞き方になる。
赤いレクスはふん、と鼻を鳴らすと私の上に飛び上がった。
相変わらず体格の割に凄い跳躍力で、あっと思った時には私の頭は彼の踏み台になっている。
「良いも悪いもなかろう。すでに約束は成っているのだ。おれサマ達のことは気にしなくて
いい。ご主人ともう少し戻って辺りから見えにくい場所にいよう。場所は分かるな」
「うん。もちろん」
エテリアの気配を辿れば居場所を掴むのは容易だ。
頭を前足でたしたしと叩かれながら神々の子に向き直った。
「ごめんね。ちょっと行ってくるよ。すぐに戻るから心配しないで」
すると上から彼がちゃちゃを入れてきた。
「戻ってきたらこれまで以上に働くのだぞ?」
「ああ。分かってる」
「さっさと行け。こんな暗闇で娘を一人で待たせるものではない」
「それも分かってるよ――じゃ、行ってきます」
紳士的な彼の台詞に口元があがるのがわかった。笑い交じりに小声での会話を切り上げて、
私は再び森の外へでた。
全くあれで猫だと主張するつもりらしいから笑える。あんな口うるさい猫が他にいるだろうか。
彼女はこちらを向いて待っていた。手をあげて戻ってきたことを知らせる。
「お待たせ……っと」
茂みをまたごうとし、私はまたも森の出口で立ち止まった。
そうだ。
脱ぐよう言われていたんだった。
前を緩め袖を抜くと私は言われたとおり上着を脱いで手に持った。少女に近づきながら癖で
くるくると丸める。すると彼女が手を差し出してきた。
「貸して」
「……?」
言われるままに渡してしまう。
村のほうを向いていたのにこちらを見て微笑むのが分かった。
「ついでに洗濯してあげるわ」
「えっ?」
思わず聞き返すが彼女はもう自分の家に向かって歩き始めていた。
「そんなくたびれた服見ていられないもの。明日の朝一番に洗濯するから、そしたら天気も
いいし昼には着て出られると思うわ」
さっきまでの疑いの眼差しは嫌だったけれど、いきなりこれは好意的に過ぎるんではない
だろうか。
何か裏があるんじゃないか、なんて考えたくもないけど、ついさっきまで自分は敵だと認識
されていたはず。急にこんな風に扱われたら普通は驚く。
疑い半分困惑半分で首を横に振った。
「さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないよ。返してくれ」
取り返そうと手を伸ばしたが、彼女も私の上着を背後にまわし抵抗した。
「気にしなくても大丈夫。うち、父さんも母さんも亡くなっているから部屋はあるの。だから
誰に何を言われる心配もないし泊っていったらいいわ」
〜つづく〜