「犬神さんは……キス、したこと…ありますか…?」  
 
 
 
「えっ?」  
 
 
 
それは唐突だった。  
 
 
 
昼休み――  
 
「なぁ、犬神。ちょっと頼み事があるけど、いいか?」  
 
修と二人で犬神が弁当を食べていると、修が切り出した。  
「何だ?言ってみろ」  
こいつとは長い付き合いだ。今更畏まる必要もないだろうに。  
「実は生徒会の仕事が溜まっちゃってさ〜。しかも期日が近いんだ。頼む、犬神!」  
そう言って、修は手を合わせている。  
「別に構わんが……。どうしたんだ?お前」  
修は一見だらけているようだが、実際は優等生だ。  
そんな修に手に負えないほどの仕事があるとは思えない。  
「いや〜、実は最近、深夜の通販番組にはまっちゃってさ〜。それで溜まっちゃったんだよ」  
ニシシッ、と修特有の笑い。  
ここ数週間、犬神が食べている弁当は修の差し入れだ。  
「弁当の礼もあるし。やってやるよ」  
犬神は快諾した。  
「ありがと!でも、明日の朝の委員会で提出しなきゃいけないんだ。だからさ、今日放課後残ってやってくれないか」  
放課後か……。  
正直、嫌だが仕方がない。  
「すまん!犬神!」  
「まぁいいさ」  
「それじゃあ、終わったら俺の机に入れておいてくれ」  
 
キーンコーンカーンカーン  
丁度、午後からの始業の予鈴が鳴った  
 
 
カリカリカリカリカリカリカリカリ……  
 
 
放課後の教室にペンを走らせる音が響いていた。  
 
 
犬神は独り教室に残り、書類を作製していたが。  
しかしそれは半端な量ではなく相当なものだった。  
少しばかり後悔していた。  
「修のヤツ……こんなに溜めて」  
彼が言うのだから、かなりの量なのは間違いない。  
「それにしても…、多いな……」  
犬神は嘆息した。  
 
作業を始めて一時間ほど経ちやっと終わりが見えてきた頃には、外に夕日が射していた。  
「もうこんな時間か…」  
犬神はペンダコが出来そうなほど筆を走らせた右手を少し休ませることにした。  
う〜ん、背もたれを使い、大きく柔軟する。  
長いデスクワークに疲労た身体に油を差した。  
窓際の席の犬神は息抜きに何気無く窓の外を眺めていた。  
グラウンドで部活に精を出す生徒がトラックを疾走している。  
またグラウンドの隅では生徒達が野球をしていた。  
バッターボックスに向かうのは綿貫だ。  
その振る舞いから相当な自信が感じられた。  
うむ、綿貫なら長距離打者というのも納得出来る。  
 
 
ストライク  
ストライク  
ストライク  
――バッターアウト!  
 
 
―――しばらく休んだので作業を再開した犬神だが、こういうものは一度息を抜くとなかなか調子が戻らないものだ。  
流石の犬神も集中力が切れてきた。  
 
 
「やれやれ、あともう少しなんだか…」  
 
 
犬神は毒付いた。  
 
 
「犬神さん…」  
 
「ん?」  
犬神が声がした方向に目を向けると、教室の入口に一条がいた。  
廊下から射す夕日をバックに少女は立っていた。  
犬神にはそれが何故かとても幻想的なものに見えた。  
 
「何をしているんですか、こんな遅くまで?」  
一条の言葉にすぐ反応出来なかった。  
「あ…ああ。修から仕事を頼まれてな」  
そう言って犬神は自分の机の書類に目をやった。  
「それは…難儀ですね」  
言いながら、一条は犬神の机に寄る。  
 
「凄い量ですね」  
書類を見回して言った。  
「ああ」  
「でもあと少しですね」  
「そうなんだか…」  
如何せん犬神の集中力は切れかかっている為、実際は終わりは遠いだろう。  
 
「お手伝いしましょう」  
「えっ?」  
 
「学級委員長の一条にお任せ下さい」  
 
 
カリカリカリカリカリカリ……  
 
 
犬神のすぐ横の机で今度は一条がペンを走らせている。  
 
流石学級委員長と言ったところか、一条は作業に慣れているようだった。  
淡々と確実に、しかし素早く作業をこなす。  
意外と言うのは失礼だろうが、一条は手際がいい。  
 
 
「犬神さんは休んでておいて下さい」  
 
 
そう言われたが、そういう訳にもいかない。  
一条はこう見えても強情で、いいよ、と言った犬神だが一条は聞かなかった。  
 
テキパキとこなす一条を犬神は、ぼぅ、っと眺めていた。  
字も整っていて、申し分ない。  
 
いつもの何を考えているか分からない表情とは違って真剣そのものだ。  
「凛々しい一条」といったところか。  
一条にもこんな一面、あったんだな……。  
 
じっと眺めていると  
「どうかしましたか?」  
一条が犬神の視線に気付いた。  
「いや、気を紛らわしてしまってすまん。何かいつもの一条とは違ったから…」  
犬神は答えた。  
「『いつも』、とは…?」  
一条は首を傾げ顔には「?」が浮かんでいる。  
「なんと言うか……そうだな、凛々しい」  
思ったことを犬神はそのまま言った。  
「凛々しい、…ですか」  
一条は感慨深げだ。  
「そうだ。キャリアウーマンみたいだ」  
 
丁度そういった感じ。  
バリバリではなくテキパキと仕事をこなす一条はさながら才女だ。  
 
「私はキャリアウーマンより家庭的な母になるのが夢なんですよ」  
 
優しい母の顔で彼女は言った。  
 
「でも犬神さんにそう言ってもらえると嬉しいです」  
一条の顔には犬神の見たことのない表情が浮かんでいた。  
 
 
「終わりました」  
 
一条は誇らしげに言った。  
元々量は少なかったのだが、それでも一条は早かった。  
 
「流石学級委員長だな」  
しかし一条は得意げに言った。  
「要は慣れですよ、こんな仕事」  
 
今日の一条は表情がコロコロ変わる。  
いつもの何を考えているのか分からない一条とは違う気がした。  
 
「いや、本当にありがとう。助かったよ」  
「当然の事をしたまでです」  
一瞬、犬神はその表現に若干の違和感を感じたが、すぐに振り払った。  
「そうか?でも礼をしなくてはいけないな」  
「お礼なんかいいですよ。それより――」  
一条は近くの机に広がったバラバラの書類を整理し始めた。  
「まだ仕事は終わってませんよ」  
 
さっきの慣れた手付きの一条だった。  
 
 
「本当に助かったよ、ありがとう」  
 
暫くして散らかった書類の整理も終え、犬神はファイルに挟んだ書類を頼まれた通りに修の机に入れた。  
 
一息付いて帰り支度をしているときに一条が口を開いた。  
 
「あの…犬神さん…」  
それはあまりにも小さい声だったので、犬神にはよく聞き取れなかった。  
「ん?」  
犬神は聞き返した。  
「えっとですね…」  
妙に歯切れが悪い。  
今日の一条は本当に別人だ。  
あの一条がもじもじしているようにも見える。  
一条が緊張しているように見えて、犬神まで何か緊張してきている。  
「頼み事なら大丈夫だ。礼もあるし引き受けるよ」  
犬神がそう言うと、  
「いえ、頼み事ではないんですが…」  
一条の顔が赤いのは夕日のせいなのかは犬神には分からかった。  
 
 
「犬神さんは……キス、したこと…ありますか…?」  
 
 
「えっ……?」  
 
 
犬神は何を訊かれたか一瞬、理解出来なかった。  
「あの…ですから…、キス…したこと……ありますか?」  
 
後半は消え去りそうな小声だったので聞き取れなかった犬神だが、一条が何と尋ねているのか分かった。  
 
 
「ど、どうしたんだ…一条…」  
 
 
これを言ったのが修なら犬神は、まだすんなり返事を返せただろう。  
しかし、まさか一条からそんなことを訊かれるとは思わなかったので、犬神はうろたえた。  
二人が硬直していると、一条が口を開いた。  
 
「ですから…犬神はキスしたこと、あるんですか?」  
今度の一条の口調はイラついているようだった。  
犬神がまだ返事をせずに固まっていると、更に一条が語気を荒げた。  
 
 
「だから!犬神さんはキスしたことがあるんですか!」  
一条の初めて見せる激情だった。  
こんな声、彼女の口から聞いたことがない。  
 
「いや…ないが…」  
そう答えるのが精一杯の犬神だった。  
「ないんですか!」  
「あ、ああ…」  
「ないんですね?」  
そこまで言うと一条は落ち着きを取り戻した。  
 
二人の間にまた何とも言えない空気が漂っている。  
静寂を破ったのは、またもや一条だった。  
 
「じゃあ…私と…二人で練習…してみませんか…?」  
 
「はぁ!?」  
今度は犬神が大声を上げた。  
 
「犬神さんに好きな女性が出来たとき…苦労するかも知れませんよ」  
 
 
――そう言いながら、一条は鞄を持ったまま固まっている犬神に近づいて来た  
 
 
「いや……でも…」  
 
逃げるように後ずさるが、犬神の後ろには窓しかない。  
一条はもう手を伸ばせば、触れる距離まで近づいていた。  
 
「私とするのが嫌なんですか?」  
不満そうに口を尖らせる一条。  
 
「そうじゃない、そうじゃないんだ…」  
自分に言い聞かせるように言う犬神。  
 
犬神は硬派な男だ。  
初めてはこんな形というのも抵抗を感じる。  
それになにか一条にも申し訳ない。  
 
「ちなみに私も初めてですよ」  
 
……そんなこと言われれば、余計にやりにくい。  
「初めてなのに……そんなのは…」  
 
しかし、一条も切り返す。  
「だから、二人揃って練習です」  
 
そう言って一条は再び犬神との距離を詰める。  
 
じりじりと犬神に迫る一条。  
それはさながら小動物を狙う猛禽類だ。  
 
「じゃあ…いきますよ…」  
そう言って一条は犬神に顔を近付ける――  
 
「やっぱり、いちじょ――」  
その抗議は犬神の口から漏れることはなかった。  
 
 
 
そっと触れ合うだけのキス――  
それはレモンの味なんかしなかった。  
 
 
 
(やわらかい……)  
身体は全く動かない犬神だが、頭の方は辛うじて働いていた。  
 
どれくらい経っただろうか。  
ほんの数秒程だろうが犬神にはずっと長く感じられた。  
 
すっ、と顔を離し一歩後ずさる一条。  
頬を赤らめ恥ずかしそうにうつ向いていた。  
一方犬神は一条によって口を塞がれたときのまま固まっている。  
 
「どう…でしたか……?ちゃんと…練習になりましたか…?」  
 
しばらくして口を開いた一条だが、頬は赤いままだ。  
 
「……あ…いや…、その………」  
やっとのことで反応する犬神だが、どう返事をすればいいのか分からない。  
そもそもキスの練習にもなっていない気がするが、そうとも言いにくい。  
何か返事をしなければ……。  
そううろたえていた犬神だが、犬神の返事を待つまでもなく一条が再び口を開いた。  
 
「ダメ…でしたか…?」  
その表情は不安気だ。  
「練習に…なりませんでしたか…?」  
続けて言う。  
「もしかして…、嫌でしたか?」  
 
「あ…そうじゃなくて…なんと言うか…」  
犬神は返答に窮している。  
 
それを見て一条は質問を変えた。  
「じゃあ質問を変えます。えっと……私のは……どうでしたか……」  
 
質問の意図を察知し犬神はよく考えず言ってしまった。  
「あぁ…やわらかかったよ……」  
言ってから後悔した。  
(なに言ってるんだ俺は!)  
 
しかしもう遅い。  
 
「じゃあもう一回してみたいですよね…キス」  
 
もう一回してみたいか――  
そんなこと尋ねられて「したくない」なんて言える訳がない。  
 
再び返答に窮してしまう犬神だが、今度の一条の行動は素早かった。  
すっ、と犬神の正面まで寄り、一条は両腕を首に巻きつけた。  
 
「ちょっ――!」  
 
抗議の声を上げる犬神の口を自らの口で強引に塞いだ。  
間髪を入れずに舌を滑り込ませる。  
 
犬神の首に巻きつけられた腕に、ギュッと力が篭る。  
 
「ん……くふぅ……」  
お互いの口から同じ音が漏れた。  
 
 
 
口は離れたが、一条の腕はしっかり首に巻きついたままだ。  
二人の顔は息を止めていたので、真っ赤になり、息は荒い。  
相手の吐息を感じられる距離。  
 
犬神の口のなかには自分以外の唾液が混じっていた。  
それは一条も勿論のことだ。  
彼女の唇はほんのり濡れている。  
 
「犬神…さん…」  
切なげに彼の名前を呼ぶ。  
 
(…まずい………)  
犬神はこの異様な雰囲気に流されそうになっていた。  
 
このまま済し崩しになってはいけない。  
なにより一条の本意ではないはずだ。  
 
犬神は必死に全ての理性を動員した。  
両手で一条の肩を掴み、強引に自分から引き剥がす。  
 
「…え……?」  
 
二人の息だけが放課後の教室に流れている。  
 
「私じゃ…駄目なんですか……?」  
一条は目に涙が浮かべ、立ち尽くしている。  
 
「違う」  
即答した。  
 
相手が駄目なんじゃない。  
何が駄目なのか。  
自分でもよく分からない。  
 
でもこれだけは確実に言える。  
 
「そんなに慌てなくても、大丈夫だ」  
思ったことをそのまま言う。  
「俺は何処へにも行かないし、この学校に居る」  
犬神もだいぶ落ち着いてきた。  
「もうちょっと時間を掛けてもいいんじゃないかな?」  
 
涙目になりながら、一条は犬神の言っていることをやっと理解する。  
 
「じゃあ…私で…いいんですか……?」  
 
後半は殆ど聞き取れなかったが、犬神には何を言っているか分かった。  
 
「ああ、こっちこそ俺なんかでいいのかな」  
照れ隠しに言う。  
 
 
「はい!宜しくお願いします!」  
「こちらこそ」  
 
 
一条は泣き笑いと言った表情だった。  
 
 
「それにしても、学級委員って凄いな」  
 
外はもうすっかり暗くなり、二人で下校しているときだった。  
グラウンドで部活動に励む生徒も、少なくなってきた。  
「何がですか」  
?の文字を頭に浮かべる一条。  
「あの書類、かなりの早さで片付けたじゃないか」  
「ああ、あれはですねぇ……」  
何故が歯切れが悪い。  
「実はあの書類…私の物なんです…」  
「え?」  
「わざと溜めた仕事を百瀬さんに頼んで、それから犬神さんに放課後にやってもらうように言ってもらったんです」  
「なんでわざわざそんなこと……」  
「すみません……」  
申し訳なさそうに謝る一条だが、犬神は微塵も怒っていない。  
ただ不可解なだけだ。  
「だって……」  
今度はさっきより俯いて言う。  
 
「そうでもしないと、犬神さんと二人になれなかったんですから……」  
 
一条の声は消え去りそうだった。  
 
 
別れ道がやって来た。  
 
「私はこっちですので」  
「ああ、じゃあまた明日」  
「はい、また明日」  
 
明日の二人は今までの二人とは違いそうだ。  
 
 
次の日――  
 
なんの変化もない午前中を過ごしてしまった。  
クラスが違うので当然と言えば当然なのだが、なにか納得出来ない。  
それどころか一条と会話すらしていない。  
どこか悔しさを噛み締めながら、いつも通り修を昼飯に誘おうとした。  
そう言えば、昨日の出来事の全てはコイツが始まりだったんだ。  
 
「昨日はどうだった?」  
意味深な問いかけをする修の顔には、ニシシッと書いてあった。  
「疲れたよ…色々とな…」  
正直な感想を漏らす自分。  
「その様子だと、上手くいったみたいだな」  
「まぁな…」  
こういう事はあまり詮索しないで欲しい……。  
 
「あ、そうそう。これからもう弁当作ってこないからな」  
「え?」  
確かに、自分は施しを受けていただけの身だがイキナリはキツイ。  
「それなら、昨日にでも言ってくれれば」  
今日の昼飯は抜きか……。  
 
教室で一人ご飯がないのは寂しすぎるので、どこかで時間を潰すことにした。  
ガラガラ、扉を開けるとそこには一条がいた。  
 
「「あ」」  
 
昨日の今日なのでやや気まずい。  
 
「あの、お昼ご飯…無いですよね…?」  
なかなか直球な質問をする。  
「ああ」  
と言って手を広げて見せた。  
 
「それじゃあ…これ…どうぞ」  
と、一条から差し出されたのは弁当だった。  
「一緒に食べませんか…?」  
 
はっ、と振り返るとやっぱりアイツは独特の笑顔をしていた。  
 
ふっ、と自嘲気味の笑いが出る。  
「ありがとう、戴くよ」  
「じゃあ、どこで食べましょうか……」  
 
楽しい昼休みの始まりだ  
 

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