「よう、アメリカ帰り」  
先頭打者として打席に入る俺に、マスク越しに二宮さんが声をかけてきた。  
神宮球場での開幕戦。  
今年、プロ野球選手の中で、最初に打つ権利を与えられたひとり。  
一ノ瀬塔矢、二宮瑞穂。若くして球界を代表するスワローズの黄金バッテリーが相手。  
なにより、俺の一軍デビュー戦───  
そんな色々が重なって、もしかすると俺の膝は震えていたのかもしれない。  
「よろしくお願いしますよ、ハイパーキャッチャー」  
軽く皮肉られた気がしたので、俺も皮肉で返しておいた。  
足場を踏み固め、左手の小指から巻くようにバットを握り締める。  
構えをとって、プレイボールのコールを待った。  
 
アメリカ帰り。  
そう呼ばれるように、俺は昨シーズンをアメリカで過ごした。  
野球留学、むしろ、野球武者修行。  
シングルスターでの過酷なバス移動から始まり、最後に少しだけレギュラーリーグも経験した。  
アメリカで培った体力、技術、精神力。そこで多くの人たちに教わった様々なこと。  
すべてがひとつになって、俺の中を流れている。  
そして何よりも───  
 
アメリカで出会った、かけがえのない宝物───  
 
シャワーの音だけが室内に響く。  
俺の所属するレッドエンジェルスが籍を置く地方都市、スペース。  
その街外れの小さなホテルのベッドの上で、薄暗い照明をぼんやりと眺めていた。  
最後のデート。そう、たぶん最後の。  
明後日の最終戦が終われば俺は日本に帰る。  
レギュラーリーグの試合に出ていても、俺は本当のレギュラーリーガーじゃない。  
日本の頑張パワフルズから本場の野球を学びに来た、それだけの選手。  
試合中はそんなことを考えたりはしない。どこで野球をやっていようと、全力を尽くし、ベストのプレイをする。いつもと  
 
何も変わらない。  
ただ、帰らなくてはいけない。最終戦が終わったら。日本に。  
いつの日かレギュラーリーガーになってアメリカに戻ってくるという保証は、どこにもない。  
これが最後の───  
「何か考え事?」  
そのひとことで我に返る。  
蒼い瞳がじっとこちらを見ていた。  
普段はふたつに結んである髪が下ろされていて、湿り気を帯びて黄金色に輝いている。  
バスタオルを巻いた体から上る湯気。そこから覗く手足にわずかに残る水滴。どこか艶めかしく思う。  
何も、と答えて、隣に座るように促す。  
音のない部屋の中で唇と唇が触れた音がそっと、しかしはっきりと、聞こえた。  
 
エミー───エミリ=池田=クリスティンと出会ったのは、7月の暑い日だった。  
まだシングルスターの選手だった俺の試合を、たまたまエミーが見に来ていたのだという。  
試合後、移動バスに乗り込む時に声を掛けられた。  
「ネーネー。そこのカッコイイおにーさーん」と。日本語で。  
それで「え、俺?」と振り向いたところに「Are you Japanese?」はないだろう、と今になって思う。  
俺が「い、いえすあいあむ?」としどろもどろに答えたことは、完全に笑いの種になっていた。  
差し出されたサイン帳に書いた下手糞なサインの脇に、俺は連絡先を沿えてエミーに返した。  
 
本拠地で試合があるたびに、俺とエミーはデートを重ねた。  
デート、というほどのものではないかもしれない。  
買い物に行ったり、食事をしたり。彼女が他の男友達とそうするように遊んでいただけ。  
俺も、秋になれば日本に帰ることは分かっていた。ただ、話し相手ができたことは嬉しかった。  
この上なく、嬉しかった。  
 
待ち合わせ場所に着くのは、決まって俺が先だった。  
エミーが来るのが遅いわけではない。もちろん、一度や二度の遅刻はあったけれど。  
いつも約束の時間より随分早く来てしまう自分が、どうにも可笑しい。  
エミーはそんな俺を見つけては、こっそり後ろから「そこのカッコイイおにーさん」と呼びかけてくるのだった。  
恥ずかしいからやめてほしいと言うと、誰も日本語分からないから気にすることないヨ、と返された。  
最初のデートの日も。  
そして、今日も。  
 
そっと触れ合った唇は、同じようにそっと、離れた。  
「・・・あのサ」  
エミーの目元が憂いを帯びていた。  
常に明るい彼女が人前で見せることのない───少なくとも俺の見たことのない、表情。  
「こっちにずっといるワケじゃ・・・ないんだよネ」  
あたりまえのことだと分かっていても、あえて確認するようにエミーが訊いた。  
俺も、自分に言い聞かせるように答える。  
「うん・・・試合が全部終わったら・・・ね」  
いま鏡を見たら俺はどんな顔をしてるだろう。  
アメリカでの充実感とか、来年への希望とか───  
きっとそんなものはどこにも見当たらなくて、そこにある寂しさだけで一杯なんだろうなと思う。  
目の前でエミーがしているのと、たぶん同じ表情の俺が映ってるんだろう。  
このまま時が止まっていればいいのに。  
「・・・魔法にかかってたみたいだヨ」  
沈黙を嫌うように、エミーが言った。  
「その魔法がとけちゃうんだ。まるで、すべてが夢だったかのようにネ・・・」  
何も答えられなかった。そうだ、と認めることも。そうじゃない、と嘯くことも。  
蒼い双眸が俺に訴えかけてくる。  
うまく言葉に変えられない、明確に表すことのできない、想いを乗せて。  
愛しくてたまらなかった。小さな体を腕の中に抱きしめて、その名前を口にした。  
「エミー・・・!」  
再び唇が重なって、どちらからともなく舌が絡んだ。  
 
「あ・・・はぁっ・・・」  
エミーの吐息に、触れている。  
いつになく情熱的な舌の動きさえも、愛しく、そして、切ない。  
すうっと頭を抱いて、頬をすり合わせる。  
暖かい。柔らかい。壊れそうなほどに、柔らかい。  
耳元から首筋へ、舌をつうっと滑らせる。  
「ひゃうっ! ・・・ん・・・・・・ふうっ・・・」  
腕の中でエミーが、びくん、と震えた。  
時に強く吸いながら、下へ、下へ。とてもゆっくりと。  
エミーを隠しているバスタオルを解く。  
かたちよく実ったふたつの果実。  
やや小ぶりのそれから始まる全体に起伏の少ない躰に、エミーに半分流れる「日本人」の部分を感じた。  
「あんまり・・・見ないでヨ・・・」  
朱に染まった頬。あどけない表情は、いまだ少女の面影を残している。  
「きれいだよ。とっても」  
ほんのり桜色の丘の先を口に含み、舌の上で転がす。  
赤ん坊のように、吸う。  
俺の背中に回されたエミーの手に力が入る。指がわずかに背中に食い込む感覚。  
口の仕草はそのままに、右手を彼女の秘所へとあてがう。  
もう一度大きく、その躰が震えた。  
 
すでにしっとりと湿っているエミーの秘所に指を這わせる。  
「・・・ふぁ・・・はぅん・・・・・・っ!」  
リズムを刻みながら指の出し入れ。時には一定の、時には急激に変えたリズムで。  
そのたびにエミーは小刻みに躰を震わせ、喘ぎ声を洩らした。  
指を一本から二本に。中指で奥を。人差し指で手前の上を。  
「んん・・・んっ・・・! ・・・はぁあん!!」  
エミーの中から溢れ出る露がシーツを濡らした。俺はゆっくり指を引き抜く。  
力の抜けた躰を俺に預けてくるエミー。その重さが、心地いい。  
耳元で聞こえる呼吸は、最初は荒く、徐々に落ち着いていくのが分かる。  
「・・・ひとつに・・・なりたいヨ」  
 
「離れ離れになっちゃうケド・・・心は繋がっていられるように」  
「エミー・・・・・・」  
「『ずっと待ってる』なんて言わない。待てないヨ。ずっと想ってるだけなんて、きっと壊れちゃうヨ・・・」  
肩に感じる冷たい水の感触。汗とは違う。たぶん、涙。  
「俺も・・・」  
言いかけて、必死に言葉を探す。  
「『待っててくれ』なんて言わない。でも、エミーのことを忘れたりしない」  
エミーの躰を、そっとベッドに横たえる。  
俺を見つめる目は、やっぱり真っ赤に腫らしていた。  
「いま繋がれば・・・心はより長く繋がってられる・・・よな」  
「・・・・・・ウン」  
涙まじりに微笑むエミー。  
覆いかぶさるようにして、もう一度軽いキスを。  
そして、下半身を重ねる。  
勃ちきったモノに感じる、かすかな抵抗感。  
ありったけの想いを込めて、俺はエミーを貫いた。  
「あっ・・・ぁあああっ! んくぅ・・・・・・ぁんっ!!」  
 
 
数日後、俺はひとり日本へと向かう飛行機の中にいた。  
エミーとは、あの夜以来会わなかった。  
 
 
───  
 
4球続けてのファウルボール。  
ツーストライク、スリーボール。次で10球目。  
快速球と巧みな変化球をコーナーに投げ分ける一ノ瀬さん。  
なんとか喰らいついている俺。  
我慢比べだ。こうなったら、どこまでも。  
いったん打席を外して呼吸を整える。  
素振りをして気持ちを高める。二度、三度。  
不意に、バックネット裏で誰かが叫んだ。  
「そこのっ! カッコイイ!! おにーさーん!!!」  
いつかと同じ、あの時と同じ、声。  
振り向いた俺の視界に───  
 
鮮やかなブロンドの髪と、笑みの中に涙を浮かべた蒼い瞳が映っていた。  
 
(終)  

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