4.  
 
 ───亮……亮。朝練あるんでしょ、遅刻するわよ  
 うん…あと5分だけ……  
 ───早く起きちゃいなさい。朝ゴハン、できてるから。  
 わかったよ……起きる。  
 
【13:00 帝王大学】  
 
「お目覚めになって?」  
 友沢亮がほんのひと時のまどろみから現実に引き戻されて、眼前にあったのは我間摩夕の顔だった。  
 凛とした顔立ちのいかにも良家のお嬢様然とした美人で、普通の主婦の母とは似ても似つかない。  
 話し方や仕草からも育ちの良さがにじみ出て、やはり母とはかけ離れたところにある存在だ。  
 なぜ母に起こされた記憶と重なったのかは、友沢にはよく分からなかった。  
「お疲れかしら? 顔色もあまりよろしくないようですけれど……」  
「ちょっと寝不足でさ。大したことじゃない」  
 大学生であり、一家の大黒柱でもあり、家事もこなさなければならない。ゆっくり眠るヒマなどなかった。  
 いつでもどこでも仮眠をとれるようにはなった。なかでも、第二グラウンドの外野の芝の上は特に気に入っていた。  
 第二野球部と統合されてから、めったに誰も来ることがないからだ。  
「あまり無理をなさらないで。わたくしが力になれることでしたら、遠慮なさらず申し付けてくださいね」  
「キミにそんなことを言われるとはね」  
「これでもマネージャーですから。部員の体調を気遣うのは当然のことですわ」  
 一年半前、摩夕がマネージャーになったときのことを考えれば、とても同じ口から出た言葉とは思えなかった。  
 ───わたくし、野球にはまったく興味ありませんの。社会勉強の一環として、経験を積むためにやっておくだけですわ。  
 最初の挨拶からして、すぐにやめてしまうか、部をめちゃくちゃにしてしまうか、とにかくロクでもない予感しかしなかった。  
 しかし、常識のなさや要領の悪さはあったけれど、摩夕はマネージャーを務め続けた。  
 友沢の昼寝している場所を探し当てるくらい、一人前になって。  
 
「実は、お願いがあって参ったのですけれど」  
 カバンからハンカチに包まれた箱状の何かを取り出しながら、摩夕は言った。  
 それが弁当だということは、考えるまでもなかった。  
 そういえば、まだ昼食をとっていなかった。コッペパンひとつきりの、あまり誰かに見られたくない、いつもの昼食。  
「これを、俺に?」  
「ええ。おいしいか、おいしくないか。おいしくなかったら、どこがおいしくないのか……教えていただけませんか?」  
 いいけど、と言って友沢は包みを受け取った。弁当を作ったから食べてくれ、と言われるよりは、素直に受け取りやすい理由だった。  
 摩夕が気を利かせて理由付けをしたのかとも思ったが、そうではなかった。  
 弁当の玉子焼きは普通より甘めがいいとか、揚げ物は冷めてから入れないとビショビショになるとか───  
 友沢の指摘にいちいち真剣に頷く摩夕が、本気で料理が上手くなりたいと思っているのが伝わったからだ。  
 そして、上手くなった料理を食べさせたい相手が誰かも、想像はついた。  
「お詳しいんですのね、料理のこと」  
 感心したふうに摩夕が言った。  
 毎日やってれば嫌でも上手くなるさと友沢は思ったが、それは言わずにおいた。  
「でも、俺じゃなくて家の人に見てもらえばよかったのに」  
「家の者は、わたくしが料理する必要などないと言うに決まってますわ。友沢さんなら口も堅いでしょうし、安心かと」  
 ふうん、と実感の沸かない返事しかできなかった。あまりにも住む世界が違う。  
 弁当の味は正直なところ今ひとつだったが、「女のコの手作り弁当」の肩書きがつけばまあ及第点かな、と友沢は思った。  
「アイツにウマいって食べてもらえればいいな」  
 摩夕の去り際に、ちょっとカマをかけてみる。  
「なっ、き、キャプテンは関係ありませんことよ!」  
「俺はヤツのことだなんて言ってないぜ」  
 一瞬赤らめた顔をさらに真っ赤にして慌てる摩夕に頑張れと思うとともに───  
 大変なコに惚れられちゃったよ、オマエは。と主将に向けて、思った。  
 
          * * *  
 
【16:00 パワフル大学】  
 
 夕方の練習を前に小南修一が部室へ行くと、小田谷加奈がまだボール磨きをしている最中だった。  
「講義がちょっと長引いちゃって。すぐ終わらせますから」  
 申しわけなさそうに加奈が言った。  
 すぐに終わる量でないことはひと目見れば分かったし、加奈がいつも以上に一生懸命に手を動かしているのも分かった。  
 俺も手伝うよ、と修一は言った。  
「いいんですか? ちゃんとアップしとかないと、ケガしますよ?」  
「うん。昼のコマが両方、休講だったから」  
 他の部員たちは思い思いにランニングやストレッチをしている最中だった。  
 修一は講義が潰れた時間に軽くウェイトをやって、その後はグラウンドでじっくりと身体をほぐしていた。  
 ボールの入ったカゴの前にどかっと腰を下ろして、予備の布を加奈から受け取る。  
 ほかに誰もいない部室の中で、キュッキュッと布とボールが擦れる音がリズムよく続いた。  
 自然と顔が緩んだり、鼻歌を歌っていたのかもしれない。  
「なんだかゴキゲンですね、先輩」  
 加奈にそう言われるまで、修一に自覚はなかった。  
 自覚はなかったが、ゴキゲンかと改めて聞かれれば───間違いなく、ゴキゲンだった。  
「もしかして、デートとか」  
 加奈の問いにイエスかノーかで答えるのは、少し難しかった。  
 一週間ぶりに伊東絵里と会う約束をしていたし、そのために兄に頼んで車も借りた。  
 ただ、まだ「デート」という言葉がしっくりくるような関係ではない気もする。  
 だから肯定も否定もしなかったが、かわりに逆に聞いてみることにした。  
「加奈ちゃんだったら、初めてデートに行く時って、どういうのが嬉しい?」  
 
 修一が期待していたような答えは、返ってこなかった。  
「どこだっていいんじゃないですか?」  
 投げやりな言い方だったのを改めるように、加奈はゆっくり言葉を切って、言い含める。  
「どこだって、いいんですよ。好きな人と一緒だったら……ただ一緒にいるだけでも、楽しいし」  
「……そっか」  
 言われてみれば、その通りだ。  
 別にどこに行くとも決まっていなかったけれど、絵里と会うというそれだけで、心が躍っている自分がいるのだ。  
 絵里もそうだという自信がなかっただけで───きっと楽しみにしてくれているはずだ、と今は思えた。  
「やっぱり野球ばっかりやってちゃダメですよ、先輩は」  
 出来の悪い弟に言い聞かせるように、加奈が言った。  
「雑誌のモテる男特集とか真剣に読んでる中学生みたい」  
 ひとつ年下のこのマネージャーは、時に修一を子供扱いすることが少なくない。  
 修一は修一で、加奈を妹のようにかわいがっているつもりでいるのだけれど。  
 働き者だし、よく気がつくし、自分を慕ってくれていると思うし───  
 でも、頭が上がらないのは事実だし、きっと周りもそう思っていることだろう。  
「……よし、行こうか」  
 最後のひとつをカゴに投げ入れて、修一は立ち上がる。  
 はいっ、と元気に返事をした加奈が、その後ろに続いた。  
 
          * * *  
 
【18:00 イレブン工科大学】  
 
 陽が落ちるのが早くなったぶんだけ、野球部の練習も短くなった。  
 強豪校ならナイター設備が使えるところもあるのだろうけれど、専用のグラウンドさえないイレ工大野球部には望むべくもない。  
 しかし練習時間が短くなるのは、何も悪いことばかりではなかった。人一倍練習熱心な橘みずきにとっても、だ。  
 バスケ部やバレー部といった屋内スポーツの部の練習が終わるまで、ゆっくりシャワー室が使えるからだ。  
 夏のあいだは順番待ちをしなければならなかったし、後ろにはまた並んで待っている者がいる。  
 せいぜい泥を落とす程度で、汗を流してさっぱり、というわけにはいかなかった。  
 いまの時期は自然と、シャワー室へ向かう足取りも軽くなる。  
 案の定シャワー室はすいていたし、顔見知りのソフトボール部員が髪を乾かしているだけだった。  
 おつかれっ、と互いに会釈する。みずきが服を脱ぐあいだ、部のことなどで少し雑談を交わした。  
 
 髪を洗うでもなく、体を洗うでもなく、ただたっぷりの熱い湯を浴びているのが好きだった。  
 首や肩の張っていた筋肉が、ほぐされていくのが心地いい。  
 体のラインに沿ってできる湯の流れは、それだけで汚れを洗い流してくれるように思う。  
 練習でできた擦り傷にはちょっと沁みるが、それも野球をやっていなければ味わえない感覚だ。  
 何よりも、頭を湯に打たせているときの、からっぽになったような、思考から解き放たれる感じがたまらない。  
 いつまでもこうやって───  
 
 最近また筋肉がついた実感があったのだが、見た目にはさほど変わっていないようで、少し安心した。  
 みずきが憧れた早川あおいは、強く、しなやかで、美しかった。  
 あおいのようになりたい、そう思ったから、本格的に野球にのめりこんだのだ。  
 人間としての内面や、選手としての技量は、自分なりのやり方で磨いていかなければならないけれど───  
 あおいのような、一見してわかる女性らしさは持ち合わせていたかった。  
 子供のころに流行った、両腕で乳房を挟み持ち上げるポーズを、ちょっと真似てみる。  
「うん」  
 わたしも捨てたもんじゃないな、とみずきは思った。  
 
 随分とシャワーに時間をかけたので、正門前で伊東絵里と会うとは思っていなかった。  
 部室に鍵をかけるまでがマネージャーの仕事だとはいっても、とっくに帰っていておかしくない。  
「どしたの? 誰かと待ち合わせ?」  
「うん、そんなトコ」  
 そんなトコ、と言った絵里はどこか嬉しそうだった。  
「ひょっとして、カレとか?」  
「そんなんじゃないよー。ただのトモダチ……まだ、ね」  
「その気は、あるんだ」  
 どうかな、とはぐらかした絵里が、今度は逆に聞いた。  
「他の大学の野球部のレギュラーと、そういうことになったら、マズいかな」  
 みずき自身は問題があるとは思わないが、良く思わない人間もたぶんいるだろう、とは容易に想像できた。  
 だからどう言えばいいのか───  
「ありのままで、かな」  
 不意に口をついて出た言葉が、それだった。  
「無理して付き合うことも、無理してガマンすることもないし。エリリンが思ったようにするのが一番じゃない?」  
 友沢が言っていたのとは少し違うかもしれないけれど、おそらくこんなニュアンスだった気がする。  
「受け売りだけどね。野球部のレギュラーだし、もしかしたら同じ人だったりして」  
「それはないかな。あんまり深くは考えなさそうなタイプだもん」  
 笑って否定されるその相手に、ほんの少しだけ同情する。  
 どこの誰かは興味があったけれど、あまり深入りするのも絵里に悪いかな、と思った。  
 また明日ね、と言って、みずきは手を振った。  
 
(つづく)  
 

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