このところの───第二野球部との試合に敗れてからの帝王大の野球部は、目に見えて変わっていた。  
 機械のようにただ正確なプレーの繰り返しを義務付けられていたころとは違う、明るい雰囲気。  
 皆が声をかけて励ましあい、互いの長所短所を指摘しあい、より上手くなるためにどうすればいいかを自分たちで考える。  
 そんな「あたりまえ」を取り戻した野球部が、友沢亮は好きだった。  
 あの真っ正直で、無鉄砲で、向こう見ずなバカのおかげだ───褒め言葉として、そう思う。  
 キャプテンをやらないかと監督に聞かれたとき、俺よりもアイツがふさわしいと答えた。皆をまとめ上げるリーダーシップは、自分にはないと。  
「まとめ上げるというのはひとつの形ですよ。君には君の、先頭に立って引っ張っていくという素晴らしいリーダーシップを持っている」  
「もしそうだとしても───今の野球部にはアイツのやり方のほうが向いてると思いませんか」  
 そんなやり取りで就任した新キャプテンと友沢は、部室で来週の練習メニューを練っているところだった。  
「……でさあ、もう少し走りこみの量を増やそうと思うんだよ。これから冬の間に基礎体力の強化は絶対やんなきゃだし」  
「確かにな。あと全体練習と個別練習の割り振りとか……ああ、もうこんな時間か」  
「なんか用事?」  
「病院だよ病院。じゃあな、お先」  
 右肘をポンポンと叩きながら友沢は言った。  
 
 高3の夏に肘をやった。  
 高校ナンバーワン投手・友沢亮が終わった瞬間だった。  
 競合覚悟で1位指名する、そう言っていた球団のどこからも声はかからなかった。  
 ほとんど元通りに強い球を投げられるようになった今でも、肘のケアは欠かさない。  
 肘だけではない。できるだけ完璧なコンディションで試合に臨めるように───  
 大学ナンバーワン野手・友沢亮としての、プライド。  
 
 病院で待たされることもなかったので、まだ陽は高かった。  
 極端な無理をしなければ全く問題はない。いつものように医師に言われた。  
 練習を途中で抜けたせいか、身体を動かしたりない気がする。  
 まだ残ってる連中もいるだろう、と大学まで戻ってきた時のことだった。  
 帽子にサングラス、マスクとあからさまに怪しい二人組が正門の脇から中の様子をうかがっていた。  
「新チームの偵察もここが最後ね、帝王大。ビデオの準備はいい?」  
「はい、みずきさん」  
「攻守ともに要なのはやっぱり友沢亮よね。彼をしっかり撮っておいて」  
「はい、みず───」  
「───俺がどうかしたか?」  
 突然目の前に本人が出てきて───友沢にしてみれば突然でもなければ驚かすつもりもなかったのだが、二人組はあわてて飛びのいた。  
「い、いや、なんでもない、ですよ?」  
 小さいほうがしどろもどろになって言った。女の声だった。  
 その正体が誰なのかは、友沢にはすぐに分かった。  
「……何やってんだよ、橘」  
 イレブン工科大学の新エース・橘みずき。野球ファンの中では話題の女性選手───のはずだ。  
「人違いじゃないかなー。タチバナじゃないですよ、わたし」  
「そのヘタクソな変装でバレないとでも? 帽子からシッポ、見えてるぞ」  
 シッポ。みずきの帽子の脇からいつもぴょこんと跳ねている一纏めの髪を、友沢は勝手にそう名づけていた。  
「シッポって呼ぶなって前も言ったで───あ…」  
 思わず自分が橘みずきである、と認めるような発言をしてしまった相手が、かくん、と首をうなだれる。  
「───とにかくっ! もう帝王大にばっかり大きな顔はさせないってこと! いい?」  
 うなだれたのもつかの間、くわっ、と顔を持ち上げて、橘みずき───と思われる人物は捨て台詞を残すと走り去っていった。  
 ───相変わらず、元気な奴だ。  
 
          * * *  
 
 ───気に入らない。  
 いっつも、そうだ。  
 リーグ戦で敵チームとして対戦してる時だって。  
 大学選抜やアマ日本代表でチームメイトの時だって。  
 あのヨユーの表情が気に入らない。  
 冷静で、自信たっぷりで、妙に大人びて───  
 ──────  
 ───気にしすぎ、かな。  
 みずきは視界を遮るように、帽子を目深に被りなおした。  
 
          * * *  
 
 頑張市民球場のライトスタンドで、小南修一は兄を見ていた。  
 客として、ではない。  
 小南修一は、パワフル大学の野球部員だ。主将を務め、ショートを守り、不動の一番打者である。  
 だからといって、選手として、でもない。  
 グラウンドで行われている試合は、プロ野球の、パワフルズ対カイザースの試合である。  
 ビール売りのアルバイトとして、兄を見ていた。  
 修一の兄は、小南徹という。頑張パワフルズの背番号1で、レギュラーの外野手である。主にライトだ。  
 背番号1が疾る。  
 右中間の深いライナーをワンバウンドで捕球し、代名詞の強肩で大遠投し、エンドランのかかっていた一塁ランナーを───  
 ホームで、刺した。  
 
「すごい、すごいよ! さっすがぁ!」  
 自分より少し内野寄りのスタンドで、いつもの黄色い歓声が上がるのを修一は聞いた。  
 まーた試合ばっかり見て───もっとも、自分も人のことは言えないか。  
 それに今日は彼女のお気に入りの館西勉が先発だし、無理もない。  
 自分の視線に気付いた彼女が「お兄さんグッジョブだよ!」の親指立てポーズをよこすのを見て、  
 ───ホントに仕事でここにいるって自覚はあるのかな、と。  
 ───売り上げはトップで、常連のお客さんの人気もあるからいいのかな、と。  
 通称エリリンこと伊東絵里に対して、そう思った。  
 
「っじゃ───ん! 何でしょう、コレ」  
 小ぶりの封筒をひらひらさせながら、絵里が言った。  
「何でしょう、って、『大入袋』って書いてるけど」  
「正解! 今日はお客さんいっぱい入ったしね。売り上げもよかったし」  
 観客が満員に入ったときに関係者に配られる小銭入りの大入袋は、頑張市民球場では売り子のバイトに対しても振舞われることになっていた。  
 絵里が嬉しそうな顔で続ける。  
「チームも勝ったし、お祝いに飲みに行こうよ。大入袋のぶんまではワタシのおごり。足が出たらキミのおごりで」  
「500円しか入ってないじゃん、それ……」  
「細かいことは気にしないっ、行くよっ!」  
 ───バイト先のセンパイのカワイイ女のコの誘いだし、断れないのも仕方ない、かも。  
 
 館西勉は外見的にベビーフェイスであり、存在的にもパワフルズにおいてのベビーフェイスである、ということ。  
 小さな体をいっぱいに使った投球フォームが魅力的であり、その童顔にうっすら浮く汗が魅力的である、ということ。  
 今はまだエース「候補」だが、このまま成長すれば向こう10年は安泰の大エースになれる素質がある、ということ。  
 絵里は酔うといつも「館西のどこがそんなに好きなのか」という話をする。  
 自分と同い年で高校からプロ入りして活躍する投手に、修一は少し嫉妬する気持ちもある。  
 コンプレックス、というわけでは、ない。  
 
 小南徹はパワフルズのチームリーダーになる選手だ、と目されている。  
 四番でサードの福家花男はそろそろベテランになろうかという年齢だし、世代交代も必要な時期である、と。  
 パワフルズのファンの多くは、そう考えている、らしい。  
 「だからキミもパワフルズに入ってよ。兄がリーダー、弟が期待のホープ。ゼッタイ応援しちゃうよ!」と絵里は言う。  
 地元球団のヒーローと呼ばれる兄に対して、修一は羨望の眼差しを向けることがある。  
 コンプレックス、というわけでは、ない。  
 
 伊東絵里はバイト仲間であるとともに、イレブン工科大学の野球部のマネージャーでもある。  
 「1強3中2弱」と評される頑張六大学リーグの「3中」に、パワ大もイレ工大も分類される。  
 「1強」は、付属高校の帝王実業とともに全国的に有名な、帝王大である。  
 帝王大には、友沢亮というスーパースターがいる。自分と同じポジションの、スーパースターが。  
 追いつきたい、けれど追いつけない目標に、修一は「勝手に」ライバル心を燃やしているという気分になる。勝手に。  
 コンプレックス、かもしれない。  
 
          * * *  
 
 久しぶりのお立ち台だったとはいえ、既に消化試合に入っていることが小南徹には不満だった。  
 ───まだ10試合以上、シーズンは残ってるんだぜ。  
 パワフルズは2位と3位の間を行ったり来たりと健闘してはいたが、優勝はカイザースがぶっちぎりで決めた。  
 首位打者を狙える位置にもいる。今日が終わって.347。それでも納得はいかない。  
 カイザースの猪狩守には、「やっぱり毎年のように」抑えられたからだ。  
 最後のシーズン───猪狩が日本でプレーする最後のシーズンだったのに。  
 来年からは、アイツはアメリカだ。自分には具体的な話としてのレギュラーリーグ行きは、ない。  
 
 あの暑くて熱い夏をともに過ごしたみんなが、どんどん、どんどん、いなくなる。  
 みんな強敵だったけれど、この素敵なライバルたちと、ずっと野球を続けられる。そう思っていた。  
 ───ずっと。  
 
 猪狩はアメリカに行く。  
 弟の進くんは、一足先に行っている。  
 一ノ瀬さんと二宮さんのバッテリーだけが、今も変わらずスワローズで活躍している。  
 高校時代はバケモノだと思っていたあかつき大附の他のメンバーは、プロ入りすることはなかった。  
 そういう面では、自分は幸運かもしれない。当時は弱小だったパワフル高校で、まぐれだとしても甲子園で優勝し、プロになった。  
 阿畑さんは、昨シーズン限りで引退した。  
 あおいちゃんも、昨シーズン限りで───  
 
 無意識に取り出した携帯電話のボタンを、押した。  
 
 
 ───ひさしぶり。元気だった?  
 
 ───見てたんだ。うん、ありがと。  
 
 ───監督にはもう慣れた?  
 
 ───ははは。でもあんまり褒めると、すぐ調子に乗るからさ、アイツ。  
 
 ───うん、それで……  
 
 
 …………  
 
 
 ───今度、ゆっくり会えないかな?  
 
 
 
2.  
 
夢を見た。  
 
「別れましょう」  
 彼女に呼びつけられて、第一声がそれだった。  
「私のほうから付き合って欲しいって言っておいて、勝手だとは思うけど」  
 勝手、かもしれない。  
 でも、仕方ないことだとも思う。  
 彼女が好きになった───彼女が望んでいる友沢亮は、もういないから。  
「……そうか」  
 そうか、って何なんだ。  
 確かに向こうに告白されて、それまで俺は彼女の名前さえ知らなかったけれど。  
 練習に差し入れを持ってきてくれたときのこと。  
 帰りの遅い俺を待っててくれて、ふたりで下校したときのこと。  
 勝利のおまじない、といって突然キスされたときのこと。  
 甲子園の宿舎をこっそり抜け出して、夜の大阪でデートしたときのこと。  
 思い出なんて、数え上げればキリがない。  
 いつの間にか、俺だって同じくらい好きになってたってのに。  
 そうか、で済ませていいのか。  
 どうにもならないこと───自分がどう足掻いても仕方ないことが、立て続けに起こりすぎたせいだ。  
 肘の故障。父の不幸。母の病気。ドラフト指名なし───  
 だから、弱気になってる。  
 待ってくれ、と言うことさえできなかった。  
「引き止めて、くれないんだね」  
 そうなることが分かっていたような、寂しそうな微笑が焼きついて離れない。  
 引き止められるだけの価値が、俺にはないから。  
 野球を失った友沢亮に、価値など何もないから。  
 
 思い出したくもない、過去の、現実。  
 
          * * *  
 
 イレブン工科大学には、硬式野球部があるにもかかわらず、専用の野球場がない。  
 野球部とサッカー部で、ひとつのグラウンドを使って練習している。  
「みずきちゃーん。もう少し待っててよ。ゴハン食べ行こうよ」  
 橘みずきが練習を終えて帰り支度をしていると、サッカー部の軽井沢大輝に呼び止められた。  
「んー。他、誰が行くのよ」  
 軽井沢が部員の足りない野球部に助っ人として一応所属していることもあって、共通の友人も多い。  
 今日は土曜でまだ時間も早いし、みんなで食事をした後ちょっと遊ぶのもいいかな、とみずきは思った。  
「誰も? 僕とみずきちゃん、二人で」  
「……デートのお誘い?」  
「うん。今日こそOKしてくれるよね?」  
 何度目だ、とため息が出る。そのたびに断ってきたというのに。  
 嫌いじゃない。  
 悪いヤツじゃないし。  
 贔屓目抜きに、見た目はかっこいい。  
 軽そうに見えて、サッカーに対しては真剣で。  
 人数合わせで参加している野球にも、手は抜かない。  
 ノリがよくて、話も面白い。  
 そう。いいところだって、たくさん知ってる。  
 ───でも。  
 でも?  
 でも何なのか、は上手く言えない。  
「いつも言ってると思うけど」  
 だから。  
「わたし、軽い男はキライだって」  
 そういうことに、している。  
 
 軽井沢の誘いを断ったものの、みずきには特にやることがあるわけでもなかった。  
 誰かとの約束もなければ、バイトのシフトからも外れている。街に繰り出すにしても、ひとりではいまいち、つまらない。  
 ───帰ってテレビでプロ野球でも観よう。  
 ───華のない生活してるよねー、わたし。  
 公園のブランコに座って、ぼーっと、そんなことを考えていた。  
 5時を知らせるサイレンが鳴り、ひとり、またひとりと、周りで遊んでいた子供たちが家路へとついていた。  
 ぼくも帰ろ、おうちへ帰ろ───か。  
 懐かしい歌のフレーズを口ずさみながら、でもわたしの帰りを待ってる人はいないし、ほかほかごはんも用意されてないもんなぁ、と思う。  
 野球推薦で採ってくれたのがイレブン工科大学だけだったとはいえ、親元を離れて2年半になる。  
 慣れたといえば、慣れた。少し寂しいけれど、気楽で、身軽だ。  
 野球だって、誰に気づかうこともなく、好きなだけ打ち込める。  
 タチバナさんちのイモウトさん───そう姉と比較されることもなく、ひとりの橘みずきであらしめてくれた野球を、いまは精一杯やろう。  
 よっし、と立ち上がったみずきが見たものは、およそ信じられる光景ではなかった。  
 友沢亮が───「あの」帝王大の友沢亮が。  
 小さな男の子と女の子の手を引いて。  
 やさしく微笑んでいる。  
 そんな光景。  
 人違いだと、思った。  
 でも。  
「……よぉ」  
 目が合って、気まずそうに会釈されて。  
「……こんにちは」  
 そう言うしか、なかった。  
 
          * * *  
 
 見られたくないところを見られたな、と友沢は心の中で舌打ちした。  
 「友沢亮のイメージ」が意外に勝負の駆け引きの役に立つことを、経験として知っているからだ。  
 打者としての風格、自然に発せられる威圧感───それだけで相手投手はビビってまともに勝負できない、なんてこともある。  
 投手としての挫折から、華麗に蘇った天才打者。  
 あくまで、友沢亮はそうあるべきだと。  
 父を亡くし、アルバイトで家計を支えていることだとか。  
 母が入院し、幼い妹や弟の面倒を見ていることだとか。  
 練習後にも、他人の何倍もバットを振っていることだとか。  
 いち個人としては褒められこそすれ、野球選手としての評価に関係のない部分は、チームメイトにさえ見せずにいたというのに。  
 監督には事情を話さなければならなかったし、主将にバレたのも四六時中付きまとわれていれば仕方ないと諦めもつく。  
 よりによって、ライバル校のエースが3人目だとは。  
 ふと、手を繋いだ弟と妹のほうに意識がいく。  
 コイツらの前では、兄としての友沢亮でいなければならない。  
「ほら、アイサツ」  
「こんにちわー」  
「こんにちわー」  
 幼いふたりが声を揃える。みずきがにっこり笑って、こんにちは、と返した。  
 ───こんなとこを見られ続けるのも考え物だし、今日は公園は切り上げて散歩にするか。  
 友沢の考えを見透かしたかどうかはともかく、みずきが先んじて言った。  
「友沢くん。ちょっと時間、いいかな」  
 人にものを頼まれたら、出来ないことと悪いこと意外はやるように───弟たちには常日頃そう言っている。  
 よくない、と自分が言うわけにもいかなかった。  
「兄ちゃんはこのお姉ちゃんと話があるから、ちょっと向こうで遊んでろ。な?」  
「ナイショバナシかー。おねーちゃんは、リョウにーちゃんのカノジョなのー?」  
「違うよ……ったく、ドコで覚えるんだそういうの」  
 弟の頭を軽くパシッとはたいて、妹と一緒に砂場のほうへと促した。  
 
「……で、何だよ」  
 みずきの隣のブランコに腰掛ける。プロ野球選手と比べても遜色ない友沢の身体には、いささか窮屈だった。  
 みずきは何か言いたげに友沢の顔をのぞき込む。  
 そして、ひとこと。  
「リョウにーちゃん」  
 笑いをこらえながら、言った。  
 みずきの知っている「友沢亮」と、目の前にいる「リョウにーちゃん」がどうにも結びつかずおかしい、といった風だった。  
「……いま、親がいなくてな。そのあいだは俺がアイツらの親代わりさ」  
 口をへの字に曲げて、しかしつとめて軽い口調で、友沢は言った。  
 嘘は、何ひとつ言っていない。  
 なぜいないのか、どれくらいいないのか───それは、言わないけれど。  
「ふーん。友沢くんがちゃんとそういうことできるの、ちょっと意外」  
 夫婦で温泉旅行にでも行っているのだろう、という程度のみずきの言い方だったので、少しほっとする。  
「それで、話なんだけどね」  
「ああ」  
「友沢くん、彼女、いる?」  
 ───いない。  
 今は、いない。大学に入ってからずっと、いない。  
 高校時代は、彼女と呼んでもおかしくない相手はいた。  
 甲子園のスターだった友沢の多くのファンの女の子の中で、いちばん積極的な子だった。  
 野球に明け暮れてあまり時間はなかったけれど、それなりに付き合う余裕はあった。  
 落第しない程度に勉強して、家に帰れば食事が用意されていて、人並みに小遣いをもらって───  
 普通の高校生としての生活が、そこにはあったからだ。  
 ───あの日までは。  
 
「いや、いない」  
 事実だけを、友沢は言った。  
 みずきはまた意外そうな顔をする。  
「ホント? でも、モテるでしょ?」  
「そうかな……そうかもな。ただ、いないっていうのは本当だ」  
「付き合ってくれって言われたりは、しない?」  
「……するよ。でも」  
 断る時のために用意してある、いつものセリフを口にする。  
「野球、野球、野球───私と野球とどっちが大事なの、がオチさ」  
 それがすべてではないけれど、シンプルで、分かりやすい理由だから。  
 すべてを話すのは面倒だし、あまり知られたいものでもない。  
 ───だけど。  
 みずきにはもう少しだけ、あくまで抽象的にではあるけれど、話そうと思った。  
「まあ、ありのままで、かな」  
「えっ?」  
「無理しない、作らない、ありのままの自分で付き合える相手ならいいんじゃないか、ってこと」  
 周りが求める「友沢亮」があるように、同じく「橘みずき」がある、それは友沢にも分かる。  
 「友沢亮」に合わせてきた自分と違って、この天真爛漫な娘がそうしているとは考えにくいが───  
 だから、どちらかというと自分自身に向けて、言った。  
「ふぅん」  
 空を見ながら、みずきがつぶやく。  
「じゃあさ」  
 友沢に視線を移して。  
「友沢くんのありのままは?」  
 言った。  
 
          * * *  
 
 純粋な興味だった。  
 これまで見てきた友沢。今ここにいる友沢。もっと別の友沢がいるのかもしれない。  
 知りたいと、みずきは思った。  
 答えてくれないだろうとも思っていた。正確には、友沢にもよく分からないのではないかと。  
「さあな」  
 ───やっぱり。  
 ひとつだけ、確かなことがある。  
 友沢亮は多くを語らない、ということ。  
 そしてもうひとつ。こちらは不確かながら、おそらく。  
 多くを語らないのは、知られたくないからだ、ということ。  
 いつか、話してくれる日がくるだろうか。  
 もっとも、友沢が自分に話す理由は何もないけれど。  
「わたし、もう行くね。今日は、ありがと」  
 傍らに置いてあったスポーツバッグを肩にかけて、言った。  
「ああ、またな」  
 「またな」は「また球場でな」の意味に聞こえた。  
 「またこうして話そうな」ではなく。  
 自分から言うのは、少し照れくさい。  
 ───だから。  
「またね、リョウにーちゃん」  
 思いっきり悪戯っぽく、笑ってやった。  
 
 
 
3.  
 
「お弁当にコーラ、ウーロン茶はいかぁあっすかぁ───っ!?」  
 小南修一は声を上げてライトスタンドの階段を練り歩いていた。  
 秋風が吹きさらしの頑張市民球場ではビールもあまり出なくなり、歩合制なだけに弁当の担当でよかったかも、と思った。  
 パワフルズ対カイザースの20回戦。先日の台風で流れた、今シーズン最後の試合だ。  
 カイザースはとっくに優勝、パワフルズも2位を確定したにもかかわらず、球場には大勢のパワフルズファンが詰め掛けていた。  
 9勝9敗1分。ここを取れば、猪狩カイザースに対して初めての勝ち越しが決まるのだ。  
 前身のたんぽぽカイザースはあまりの弱さにわずか二年で身売りしたほどで、その時に勝ち越して以来となる。  
 しかし最後の難関とばかりに、台風で流れた試合の前日に投げた猪狩守が、カイザースのマウンドに上がっていた。  
 本来なら絶対にありえない先発である。大の苦手、という以前に既に19勝をあげている球界のエースに対して、今日も3回までランナーが出せていない。  
 ───何とかしろよ兄貴。首位打者、獲るんだろ。  
 ライトのポジションからベンチへ走る兄の小南徹に向かって、そう思った。  
 今日2本のヒットを打てばほぼ確実に、初タイトルとなる首位打者に手が届くのだ。  
「ウーロン茶、ひとつもらえる?」  
 呼ばれて、笑顔を作って、振り向く。  
「はいっ、200円になりま───……って、何してんスか、監督」  
「頑張ってるね、勤労青年」  
 修一の所属するパワフル大学野球部の監督、早川あおいが笑っていた。  
 珍しく化粧をしてめかし込んだあおいには、普段とは違う──年相応なのだろうけれど──色香が漂っていた。  
「よく来るんですか? 普段は内野とかで?」  
「ううん。今日はふたりの最後の試合かもしれないから、トクベツ」  
「猪狩さんと、兄貴の、ですか」  
「うん。最高のライバルで───ボクにとっても、大切な友達」  
 
          * * *  
 
 ─── 大切な、友達なんだ ───  
 
          * * *  
 
 パワフル高校はじつに何十年ぶりかの県大会ベスト4へと駒を進めていた。  
 しかし連戦と猛暑で溜まった疲労はピークだった。特に投手陣の負担は大きかった。  
 あかつき大附属のように絶対的なエースもいなければ、そよ風高校のように枚数が揃っているわけでもない。  
「手塚。明日は無理なら無理って、ちゃんと言えよ。壊れちまうぞ」  
 徹は隣で一緒にマッサージを受けているピッチャーを気遣うように言った。  
 今日の試合で8回から15回までをひとりで投げぬいた手塚は、まだ身体も出来上がっていない一年生なのだ。  
「大丈夫っスよ。オレっちは安全運転の、壊れるほどには動かない快速電車ですから」  
「……ならいいけど、さ」  
 正直大丈夫じゃないことは、誰の目にも明らかだった。  
 それでも、あとふたつ───今日引き分けて再試合になった準決勝と、決勝を勝てば、甲子園が待っている。  
 だから、多少の無理は通すのだ。徹も、先輩たちも、後輩でさえも。  
「これが若さでやんすか……」  
「何が?」  
「……何でもないでやんす。ただの先人の名言でやんす」  
 徹と右中間のコンビを組む矢部明雄は、元ネタを分かってもらえないのが悲しいといった様子だった。  
 入学以来ずっとツルんできた仲だけあって、徹は気にも留めない。  
「向こうのピッチャー、明日は打てるかな。特に先発してた早川……あおいちゃん、だっけ」  
「そうでやんす。オイラの調べによると、恋恋高校2年A組、3月3日生まれの血液型は───」  
「も少し役に立つこと調べてくれよ……」  
 恋恋高校が準決勝まで残っている、と大会前に予想した人間はおそらくいなかっただろう。  
 初出場というだけでなく、女子高から共学になったのが昨年で、野球部が正式に発足したのは今年からなのだ。  
 学校が金で選手を集めたか、それとも実力のある選手がたまたま恋恋を選んだのか、徹には知る由もないけれど、かなり力のあるチームに仕上がっていた。  
 
 加えて、あのピッチャーだ。  
 サブマリンから繰り出される切れ味鋭い変化球。独特のフォームのせいか打つポイントがつかみ辛い。  
 長い髪をひとつに纏めてお下げにした、ぱっちりした目がカワイイ───  
 脱線しかけた徹の思考を現実に戻したのは、職員室へ連絡を受けに行っていたキャプテンの尾崎のひと言だった。  
「……みんな、聞いてくれ。素直に喜んでいいのかどうか分からんが……明日は不戦勝になった」  
「不戦勝? どうして?」  
「女子選手が出てたのが規定違反だとかでな。出場停止処分だそうだ」  
 愕然と、ただしかし受け入れるしか、なかった。  
 
 一日空けて行われた決勝戦では、あかつき大附属が順当勝ちを収めた。  
 前年のレギュラー野手がそっくり8人残り、常勝あかつきの歴史の中でも「最強」の呼び声高いチームだった。  
 スワローズで新人王間違いなしの活躍を見せている一ノ瀬塔矢に代わってエースを張っているのが、二年の猪狩守だ。  
 甲子園を残すあかつき大附属よりもひと足早く新チームに移行したパワフル高校では、打倒・猪狩守を掲げて練習に励んで───いなかった。  
「署名、お願いしますっ!」  
「お願いするでやんすっ!」  
 市内の駅や商店街に散って、ビラ配りをしながら署名を集めているのだった。  
 新キャプテンに就任した小南徹は、矢部を伴って頑張駅前まで足を伸ばしていた。  
 
「お願いしますっ! 高校野球にも───わわっ!?」  
 風が舞って、脇に抱えていたビラも舞った。徹はあわてて拾い集める。  
「思ったようにはいかないなぁ……あっ、スミマセン。ありがとうございま……」  
「何をしてるんだい? キミたちは」  
 自分の足元に落ちていたビラを拾って手渡してくれたのは、猪狩守だった。  
「何って、それに書いてる通りだよ。よかったら猪狩も署名してくれよ」  
「……『女子選手にも甲子園大会の出場権利を』か。無駄だし、無意味だな」  
「どうしてさっ!?」  
 いきり立つ徹に、守はヤレヤレと首をすくめてみせた。  
「高野連のお偉方は頭が固いからね。それに、女子選手っていうのは、あの恋恋高校のピッチャーのことだろう?」  
「うん。早川さんっていうんだけど」  
「知ってる。まあ仮に、万が一、出場が認められたとしても……県大会で僕に勝つことは不可能だから、甲子園は無理さ」  
 過信ともとれる自信、しかし守には、そう言えるだけの実績と実力があるのだ。  
 徹も、守とあかつき大附属の力は───実際にやってみて嫌になるほど、分かっていた。  
「……かも、ね。でも、予選だけでも」  
 あおいの投げている姿が、もう一度見たい。  
「確かに限りなくゼロかもしれないけど、やる前からゼロには、したくないんだ」  
 あおいの躍動する野球が、もう一度見たい。  
「それに、オレたちは彼女との決着もついてないし」  
 あおいの明るい笑顔が、もう一度見たい。  
「だから頼むよ、猪狩。ここに名前書いてくれるだけでいいんだ」  
「……キミは他人のことにかまける前に、もっと練習したほうがいいんじゃないか? 無駄だとは思うけどね」  
 憎まれ口をききながらもペンをとった守に、ありがとう、甲子園ガンバレよ、と徹は言った。  
 
 恋恋高校野球部は夏合宿の真っ最中だった。  
 今日の午後は、猛練習の疲れを抜く意味も兼ねて、甲子園大会の決勝をテレビ観戦というスケジュールだ。  
 マネージャーの七瀬はるかと、この合宿からマネージャーになったあおいは、広間に人数分の座布団を並べていた。  
「もしかしたら、あおいが投げてたかもしれないね」  
「あはは。今のボクたちじゃまだまだ。でも来年こそ、みんなに頑張ってもらわなきゃね」  
「あおいは───あおいは、いいの?」  
 いいわけ……ないじゃない、とあおいは内心は思っていた。  
 野球をやるために、あえて野球部のない恋恋高校を選んで、自分の手で愛好会を作って。  
 少ない男子生徒に頼み込んで、初心者も多かったけれど、人数も揃って野球部になって。  
 学校の理事長や顧問の加藤先生の協力もあって。部員のみんなの頑張りがあって。  
 運にも恵まれたけれど、とにかく勝ち進むことができて。それなのに───  
 ───引きずるのは、やめよう。  
 もう、叶わない夢なんだ。  
 街でパワフル高校の野球部が署名運動をやっている、ということは人づてに聞いていた。  
 しかし、それで何かが変わった、というわけでもなかった。  
 彼らは彼らで甲子園を目指しているわけで、これ以上自分のために時間を割くのは勿体ない、とさえ思った。  
「……うん。たとえマネージャーでも、みんなと一緒に甲子園に行ければ、ボクはそれで十分」  
 上手く、笑えていただろうか。  
 
 試合は、あかつき大附属・猪狩守、帝王実業・山口の、二年生エースの投げあいになった。  
 どこまでもゼロが並ぶかと思われた延長11回の裏、あかつき大附属の3番・二宮の渾身のひと振りが、左中間スタンドに深々と突き刺さる。  
 殊勲打の二宮に、最後まで投げきった守に、ナインの手荒い祝福は続いた。  
 校歌が流れる。表彰式が終わり、優勝監督インタビューが行われる。キャプテンの四条も取材に応じていた。  
「どうですか? 二年生にして早くも頂点を極めた感想は?」  
 インタビュアーにマイクを向けられ、この甲子園での最後のひと仕事だな、と守は思った。  
 
「───頂点、ですか」  
「地方大会の緒戦でも、甲子園の決勝でも、優勝できなかったチームは必ず一度は負けるんです」  
「でも、僕たちのほかにも、負けていないチームがあります」  
「僕たちと県大会の決勝を戦うはずだった恋恋高校……そこのエースが女子選手というだけで、出場停止になりました」  
「この僕が見ても素晴らしい投手なんです。彼女に投げ勝つまでは、頂点という気分じゃない」  
 多少の誇張は承知で、守は全国の野球ファンに向けて言った。  
 
「やられたね」とテレビの前で徹は言った。  
「さすがに大物は違うでやんすね」と矢部も言った。  
 署名運動はメディアにも取り上げられ一時は話題になったが、皮肉にも甲子園大会の盛り上がりにかき消されるように、次第に忘れられていた。  
 しかし、甲子園の優勝投手が認めたとなれば、世間はまた興味を取り戻すかもしれないのだ。  
「でも、決勝を戦うはずだったってのはひどいな」  
 
「あおいのこと……だよね」  
 はるかは呆気にとられた様子で画面を見つめていた。  
 あおいも同じ、いやそれ以上に、よく分からない、という面持ちになっていた。  
 どうして皆がこうまでして自分が野球を続けられることにこだわってくれるのか、あおいには分からなかった。  
 野球愛好会を一緒に立ち上げた最初のメンバーでもあるキャプテンにはしかし、簡単な答えだった。  
「みんな見たいのさ。あおいちゃんが最高に輝いてるとこ───野球してるとこをね。もちろん、俺たちも同じさ」  
 部員たちがそれぞれに、自分の思いを口にする。  
「あおいちゃんがまた投げる時に、安心してバックを任せられるような選手になろうってね」  
「早川が戻ってくるまで、1番はずっと空けとくぜ」  
「俺たち、あおい先輩と一緒に甲子園に行きたくて恋恋を選んだんですから!」  
「みんな……」  
 笑顔のはずなのに、涙があふれてきて、言葉にならない。  
 ありがとう、野球部のみんな。ありがとう、パワフル高校のみんな。ありがとう、猪狩くん。  
 ボクはもう、何もあきらめない。このチームで、ボクが投げて、甲子園に行くんだ。  
 
          * * *  
 
「……カントク?」  
 修一にタオルを差し出されて、あおいは自分の目から涙がこぼれていることにはじめて気付いた。  
「どうか、したんですか?」  
「ううん、なんでもない。ちょっと思い出しちゃって」  
 嬉しくて泣いたあの日のことを、思い出して。  
 ───へんなの。  
「そこ───ッ! 仕事中にナンパした上に泣かすかぁ───!?」  
 修一のバイト仲間らしい女の子が、こちらへ向かって叫んでいた。  
「ちち、違うッ! 誤解だってば!!」  
 周囲の客がどっと笑う。ふたりの掛け合いは、おなじみの光景なのだろう。  
 あおいも一緒になって、笑った。  
 
          * * *  
 
 勝ち越しも首位打者もならなかったが、最後の最後に一矢報いた弾丸アーチの感触が、まだ徹の掌には残っていた。  
 来年は30本も狙える───30本必ず打つ、という手ごたえだった。  
「これで勝ち逃げって気分じゃなくなったろ?」  
 選手サロンで一緒のテーブルを囲む守に向かって、徹は言った。  
 シーズンが終わり、ほんのひとときのノーサイド。あおいと矢部を加えた4人で、ひさしぶりにただの友人に戻った時間だった。  
「たまたま最後に出ただけだ。トータルでなら圧倒的に僕が勝ってる」  
「オレは土壇場に強いんだよ。昔っから、な」  
「チームが負けておいて、土壇場に強いとはよく言ったものだ」  
 ケンカ腰に聞こえるやりとりも、ふたりのライバルとしての信頼があってならではだと、あおいも矢部も知っていた。  
「まあまあ、続きはゴハン食べながらにしようよ」  
「美味いしゃぶしゃぶの店を見つけたでやんすから、そこにするでやんす」  
 とんでもなく値段が高い店だから守にタカる気でいるな、と徹はすぐに見抜いた。  
 
          * * *  
 
「あったかいねー」  
「肉まんの季節だもんなぁ、もう」  
 球場のそばのコンビニで買った肉まんを頬張りながら、修一と絵里は歩いていた。  
 今年最後の試合が終わり、今年最後の仕事を終えた、帰り道だった。  
 パワフルズが負けた試合の後はいつも采配やプレイのミスを鋭く指摘して聞かせる絵里も、今日はそうせずに黙々と歩いていた。  
 いつもと違うねと修一が言うと、絵里は球場を振り返って、長かったペナントレースを思い起こすように言った。  
「今年は、終わったからね。来年はまた頑張ってもらわなきゃだけど、今年のぶんはホントにただ、お疲れさま、って」  
「ふーん」  
 パワフルズの選手たちは幸せ者だな、と修一は思った。  
 シーズン中は叱咤もあるけれど、結果がどうあれ、戦い抜いたことを労ってくれるファンがいる。  
「好きだからね」  
「……えっ?」  
 修一は一瞬、自分の耳を疑った。  
「パワフルズも、パワフルズの選手も、好きだから」  
 ───なんだ。  
 絵に描いたような勘違いをしてしまったことが、少し恥ずかしい。  
 話題は自然にパワフルズの選手たち個々人の今シーズンを振り返るものになっていた。  
 館西、福家、古葉、そして徹───まだまだ尽きないうちに、駅に着いた。絵里は電車で、修一は徒歩だ。  
「それじゃ、また来年」  
 別れ際に修一は言った。絵里は意外そうに「来年?」と聞き返してきた。  
「うん。俺も球場のバイト続けるし、その前にリーグ戦もあるし」  
「そうじゃなくてさー……近いうちにどっか遊びにいこうよ」  
 絵里にしては珍しく、どこか口ごもったような感じだった。  
「小南くんが練習終わった後だったら、たぶんワタシもヒマしてると思うから」  
「じゃあ、明日にでも電話するよ」  
「早すぎるっつーの」  
 ツッコミを入れながらも、絵里は改札をくぐった後で改めて、待ってるよ、と言った。  
 
(つづく)  
 

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