少し狭いけど、綺麗に整理された部屋のベッドに座り、二人並ぶ。  
…そうしてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。  
 
窓の外は、怖いくらいに暗く、綺麗な景色。  
静かな夜。  
 
「…あ、あのぉっ…」  
「えっと…」  
 
お互いに何か言いかけて、それを譲り合う形に。  
結局後が続かず、朋美さんも俺も下を向いて口を噤んでしまう。  
 
…妙な間が流れる。さっきからこれの繰り返しだな。  
 
これじゃあまるで、10代のカップルみたいだな。  
 
「…今日は「さっきは」…っっ…」  
 
…あー、又だ。  
でも、良い具合にタイミングがずれたし、ここは流れを変えるには絶好のチャンス。  
 
…というか、今変えないとこのまま夜が明けてしまうかも。  
 
「…えっと、お先にどうぞ。」  
「あ…はいぃ。  
えっと…今日の試合は、とってもかっこよかったです。  
猛打賞、おめでとうございました。」  
「あ…ありがとうございます。  
…というか、試合を観に来てくれるなら前もって教えて下さいよ。ビックリしました。」  
 
本当なら、デーゲームが終わってから朋美さんを食事に誘うのが今日の予定だった。  
…そうしたら、わざわざ試合前から球場に来てくれて、自分に声をかけてくれたという話。  
 
今日の試合、敵味方共に先発投手の調子が良かったこともあって、自分が派手な活躍を狙うのは難しそうだった。  
ただ、それでもどうにか口火を切ってピッチャーを楽にしたかった。  
 
結果的に3安打、その内2度ホームを踏むようなことができて、チームも接戦をものにした。  
…ヒーローインタビューは自分ではなく、その『俺を返してくれた』バッターと、先発のピッチャーになっちゃったけど。  
 
「…ふふっ。ごめんなさいね。  
実は私も、今日の朝になって目処が立ったので、それならば驚かせちゃえと。」  
「でも、来てくれて嬉しかったですよ。  
『絶対に良いとこ見せる!』という気にもなりましたし、それがきちんと形に出せて良かった。」  
「…ただ、前みたいに『全部初球を打ちにいって凡退』みたいなことになったらどうしましょうと、ちょっぴり不安でしたよ。」  
「それはもう忘れて下さいよー。」  
「フフッ、ごめんなさい。  
…でも、今の打席に立っている時の高坂さんは、本当に落ち着いていらっしゃいますね。」  
「これも朋美さんのおかげですよ。  
今、自分がチームのスタメンで試合に出て結果を残し、皆に貢献できているのは、朋美さんのおかげです。」  
「そんなことありませんよぉ。私は何もしてません。  
高坂さんの努力と、高坂さんを支え、助けていらっしゃる皆さんの力ですよ。」  
「それなら、やっぱり朋美さんが一番今の俺を支えてくれてますよ。」  
「‥‥‥何だか照れちゃいますねぇ。」  
 
良かった、普段の朋美さんと俺とのやりとりだ。  
 
最初は札幌遠征へと向かう飛行機の中。  
『読んでいた小説にジュースを引っ掛けられて台無しにされる』というおかしな出会い。  
 
それから良く分からないままに、その小説のお返し、更にお返しのお返し、なんて出来事があったりして…  
 
色々あって今に至ってるけど。  
 
…いや、以前だったらこんなことは言えてないかな。  
普通は恥ずかしいと思ってしまうような事も、躊躇い無く言えてしまう。  
好きな人の前ならね。  
 
「おかげで、今日は気分良く食事にも招くことが出来ましたし。  
…今日のお店、どうでしたか?」  
「とっても楽しかったですよぉー。」  
「‥‥‥あ、ハハ。  
…その、お味の方は…」  
「あ、ごめんなさいぃ。  
それは、高坂さんが連れて行ってくれるお店なら、どこへ行ってもおいしいに決まってるじゃないですかぁー。」  
「そうですか…良かったです。」  
「…それにしても、本当に高坂さんはすごいですね。  
野球の方でも常に一生懸命やっていらっしゃるのに、私なんかの為にこうしていつも時間をとって下さって…  
本当に私なんかの為に…」  
 
そう言って、ふと言葉を詰まらせ俯く朋美さん。  
 
…変わらないなあ、本当に。  
この人は自分を低くしだすと、止まらなくなるからなあ…  
 
時間は、その場の空気も出来事もお構い無しに過ぎていく。  
部屋の時計の秒針が奏でる規則的な音が、やけに耳に響く。  
 
外の方では、又さっき何台かの車が道路を走り去ったらしい。  
こんな時間にどこへ向かうのやら。  
 
「朋美さん、俺は「…高坂さんは、」  
 
俺の気持ちを伝えようと、口を開いたところで朋美さんに遮られた。  
頭はそのまま、軽く俯いたまま。  
でも、その口調は強い。  
 
「高坂さんは、とても…魅力的な方です。  
年上の筈の私に、いつも色々なことを教えて下さいます。  
 
今日の食事の時も、私が前から興味を持っていたあの新刊の話をしてくれました。」  
「いや、あの本は多分朋美さんなら絶対に気にかけているだろうなと確信していましたからね…。  
俺にしてみれば、してやったりという感じでしたよ。」  
「…フフッ、ありがとうございます。  
 
…そうやって、さりげなく気を遣ってくださるところも、普段から明るく皆さんと接していらっしゃるところも、とても魅力的だと思います。」  
 
…普通に聞くならば、思わず口元を緩めてしまうような一つ一つの言葉。  
 
でも、これから発せられるであろう言葉を考えると、そんなことはしていられない。  
 
無意識の内に、背筋を伸ばして身構えてしまう。  
これまでの付き合いで得てしまった、いわば『刷り込み』的な行動。  
 
そんなことを行ってしまう自分が何だかおかしくて、少しばかり口元が緩む。  
 
「…そんな高坂さんに、私みたいな女がこうして会っている資格があるのか、それを思うと不安でたまらないんです…。」  
 
…ほら来た。  
この人は俺の気持ちとは裏腹に、こうやって自分を責めるような言葉を紡ぎ始める。  
 
又一台、車の走る音。  
それと一緒に、クラクションの音が響く。  
こうやって聞いてみると、このクラクションというのも意外と澄んだ音色であるということを何の気なしに考える。  
 
「今日も、高坂さんが打席に立つ度、守備に向かう度、球場のお客さんたちから高坂さんにかかる歓声が凄かったんです。  
そして、高坂さんはそれらの声援にちゃんと応えられるだけのプレイをしていたんです。  
 
それが、とってもかっこ良かったんですよ。  
 
でも、その時に思っちゃったんです…。  
この人は、又少し私から遠いところにいってしまったのかなって。」  
 
…ちょっと、今回は重症だな…。  
そろそろこの辺で止めないと、俺が持たないや。  
 
 
 
 
怒りで。  
 
しばらくの間、車の通る音は聞こえていない。  
 
 
「それで…分かるんです。  
自分がどんどんひどい女になっていくのが。  
 
ここにいる人たちの誰かに、ひょっとしたらすぐにでも高坂さんを取られてしまうんじゃないかって思う自分がいるんです。  
自分よりも高坂さんには似合いそうな方がいっぱいいるんじゃないかって思う自分がいるんです。  
 
私だけが知らないような高坂さんの姿を、他のみんなは知っているんじゃないかって…そう考えてしまうと…  
 
こんな女、高坂さんみたいな人に‥‥‥ん、んんんっ!?」  
 
 
 
 
限界。  
これ以上聞いていたら、おかしくなりそう。  
そう思うと体が勝手に動いていた。  
 
 
この人はいつになったら分かってくれるのだろうか。  
 
俺が好きなのは、この人なのだと。  
 
俺が、どれだけ強く、『あなたが好きだ。あなたじゃないと駄目なんだ』という思いを抱いているのかと。  
 
 
 
 
言葉で伝わらないのなら、態度で示すだけ。  
その弱弱しい唇を、俺の口で塞ぐだけ。  
 
トラックらしき、重々しく風を切る音が外からは聞こえていた。  
 
 
 
−外交官である父親と、その父を支える母親。  
そして自分と、一人の弟。  
 
幼い頃から、優しい両親の元で幸福に育った姉弟。  
 
父親は仕事柄、中々家にいる機会に恵まれなかったが、帰ってくるときにはいつも彼女らが見たこともないような外国の品物を買っては、プレゼントしてくれていた。  
 
そして、天真爛漫な少年は、そうしたものの珍しさに触れることによって、幼い頃から大きな夢を抱き続けるようになっていた。  
 
 
 
 
『ボク、大きくなったらパイロットになっていろんな国を旅するんだ!』  
 
そんなやんちゃな弟を守る『良き姉』として、朋美は苦労の絶えない、しかし楽しい日々を送っていた。  
父親が買ってくる外国の絵本を母親が読んで聞かせてくれたり、時には自分で読んだりすることが、幼少期からの彼女の喜びであり、そうした習慣は大きくなってからも本の質を変化させながら続き、続いている。  
 
 
 
 
彼女が中学生の時、弟が世を去った。  
自転車で交差点を強引に渡ろうとして、横から来た車に跳ね飛ばされた。  
本当にあっけない幕切れだった。  
 
彼女は普段から、『弟には絶対に夢を叶えて、幸福になって貰いたい。それが自分の幸せでもある』と考えていた。  
弟の葬儀で、彼の二度と物言わぬ顔を見た時に、その感情は『弟の夢は、自分が代わりに叶えなければならない。それが自分の生きる意味である』という具合に変化した。  
 
外国語に興味を持ち、学ぶことに関しては、彼女は非常に環境に恵まれていた。  
そして、その外国語を筆頭に日頃から学問に対しての努力を惜しむことなく、それが結果として彼女を高校・大学と優秀なレベルの学校へ進学させ、更にアテンダントとしての資格をスムーズに取得することへと繋がった。  
 
…一方で、常に『夢を叶えること』を念頭に、学問ばかりを是として頑張ってきた彼女は、それ以外の部分を疎かにしてしまっていた。  
高校、大学と、天性的なその顔立ちを持ちながら、基本的に友人付き合いは薄く、大学などでも最低限の交友の他は築かず、ましてや男性との交際など考えすらしないままに航空会社の採用を得た。  
 
 
 
 
故に『コミュニケーション』という部分において、彼女は早々に壁にぶつかることとなる。  
 
フライトアテンダントは、利用客との交流が少なからず重要となる職種であり、それには訓練もさることながら、元来からの気質というのも大きく影響する。  
内気で、又一挙一挙が基本的に早くなく、危なっかしい彼女は、結果的に初期の段階から失敗・ミスを連発。  
 
更に、ここまでの道のりをただ前だけ見て歩んできていた彼女にとって、これらの事態が初めて自身を我に返らせることに。  
 
彼女の両親は、娘のここまでの軌跡を『本人が心から目指そうとしていることであり、口出しする理由は無い』と解釈しており、彼女からすれば今更泣き言を言える相手ではない。  
そもそもこうした事態に初めて陥った彼女にとって、『誰かに相談してみる』という選択肢自体が生まれないまま、それでも何とか国内線での研修を続けていくことに。  
 
−桜も散り終わり、各地では快晴の空模様を呈したある日。  
場所は札幌行きの機内。  
 
先日も『コーヒーと紅茶を間違える』というミスをしたことによって、少々精神的に不安定な彼女。  
 
…ちなみに、彼女がそれまで犯してきたミスというのは、実際のところその程度に関係なく『受けた側が気に留めていない』場合がほとんどであるが。  
その辺は元来の雰囲気によるものというか、人徳というか。  
 
 
 
 
…ミスはミスなんだけど。  
 
重い気分を払拭できないままに、空いた分のカップに代わりの飲み物を注ごうと、ある男性客の所へ。  
 
「あのぉ〜、お客様、お飲み物をお持ち…キャッ!」  
 
…ちなみにこの時間、一切の乱気流の類は飛行機の周囲に存在せず。  
 
そして、その男性客−高坂の読んでいた小説へと、彼女の手にあった筈のきゅうすの中身がしこたまかかってしまっていた。  
 
…ただ、この時にきゅうすに入っていた紅茶が『アイス』であったのは、不幸中の幸いか。  
 
−がむしゃらに練習する。必死に動き、走り続ける。  
バットを持ち、振る。打つ。  
グラブを持つ。ボールを追う。取る。投げる。  
 
試合で、それらの成果を存分に発揮する。  
 
練習は嘘をつかない。  
流した汗は報われる。  
 
それらをひたすら信じ続けた者が、一流になれる資格を持つ。  
 
そして、ある年のドラフト、一人の高校球児が一流と認められ、プロの世界へと身を投じた。  
 
 
 
 
プロという世界は、一流であるからこそ入ることが許される、狭き門。  
その中で成功するには、結果を残して認められること、そしてそれを続けることが必要となる。  
 
新人、ましてや高卒の選手にそれを求めることは、基本的に酷であり、球団や現場の人間も当然そのことは分かっている。  
すなわち、将来一軍でフルシーズン活躍できるような選手を目指し、数年間は二軍で体作りを始めとしてじっくりと鍛え、育てていくのが一般的な考え方である。  
 
但し、時にはそうした首脳陣の思惑を裏切り、彼等が予想した以上の早さで成長を見せた上、一軍の場に足を踏み入れるような選手も現れる。  
…無論、その逆のケースも少なくないわけだが。  
 
彼−『高坂 忍』も、そうした選手の一人。  
彼の打撃、とりわけそのバットコントロールは、入団から数年で既に二軍にいる投手を敵としていなかった。  
 
「この打撃は一軍でも通用する」  
二軍監督やコーチ陣は彼の一軍昇格を要請し、一軍の方でも、選手達の状況を見ては彼を一軍へと呼ぶようになっていた。  
一軍−幼い野球少年から、現在プロにいる選手まで、その誰もが憧れるフィールド。  
ここで活躍することを、誰よりも本人が最も強く望んだ。  
 
 
−…俗に、『一軍半』と形容される選手が存在する。  
彼等は、既に二軍では優秀な成績を残せる力を持ちながら、巡ってきた一軍の舞台で結果を残すチャンスを思うように生かせず、一軍には定着できない選手達のことであり、それに該当する選手は少なくない。  
 
但し、彼等のような選手がいる一方で、一軍レギュラーの座を掴んでおきながらも結果が残せずに、その席を没収されてしまう選手もいる。  
 
つまり、彼等の間には、目立つような力の差はほとんど存在しないということ。  
結局、『与えられたチャンスを如何に逃さないか』、最終的にはこれだけがモノを言う世界。  
 
高坂は、そのチャンスを中々生かすことができずにいた選手の一人である。  
もっとも彼はまだまだ若く、首脳陣はこの段階で『今の内から一軍の試合の雰囲気に慣れさせておくこと』を最重視し、基本的には彼に出番を回すこと自体があまりなかったのも事実。  
間が空いたら、試合勘を忘れさせない目的で二軍に落とし、彼は当然の如く打ちまくった。  
 
 
 
 
…結果が出ている、又結果を出す自信があるのに、中々試合で使ってもらえない選手というのは、徐々に不安や不信などの感情からモチベーションを下げていきがちになる。  
『焦るな』と言われても、納得しきれないのが正直なところ。  
 
その感情を日頃の練習や、元来からの趣味である読書に宛てつつ、ある日帯同していた一軍の遠征先である札幌へと向かう途中の飛行機内で、暇つぶしを兼ねていつものように本を読んでいたときにそれは起こった。  
 
 
「…ん、んんっ!? …ん…」  
 
不意のキスに、朋美さんが目を見開く。  
その弾みに、彼女がそれまでに目に溜めていた涙が溢れ、頬を伝っていった。  
 
真っ直ぐに目を見つめていると、彼女が泣きそうな…既に泣いている状況でこの表現は妙だが…目で視線を合わせ、それから何かに安心したかのように、目を閉じる。  
 
…これでひとまずは大丈夫。  
 
 
 
 
だけど、折角なのでこちらもひとまず、報復ののろしを上げておくことにする。  
覚悟して下さいね。  
 
彼女の少し薄い唇へとこちらの舌を伸ばし、軽くノック。  
一瞬体をビクッ、と震わせる朋美さん。  
おそらく彼女はこのキスを、唇を合わせて終わるものと思っていたのだろう。咄嗟にどうしていいのか分からないらしい。  
 
…ですが、あらかじめあなたの首元には既に片手をまわしてあります。  
選択肢は一つしかありません。  
 
「…ん、ふっ、ちゅ…」  
 
やがて、こちらの意図を理解したのか、おずおずと朋美さんが唇を開いて、俺の舌を招き入れる。  
 
…こうなってしまったらこちらのもの、少々荒っぽいですが、覚悟して下さい。  
 
「…ちゅっ…ん…む!?ん、んくっ……んむ…ぅ…」  
 
舌同士を絡ませ、まずは睡液の、ほぼ一方的な交換を行う。  
彼女が喉を鳴らし、それを飲み込んでくれるのを待ってから、改めてその口内を蹂躙。  
彼女の舌を執拗に追いかけては、容赦なく攻撃を加える。  
 
愛しい女性の睡液というのは、心なしか甘い。  
そして、顔を密着させた時からほのかに鼻をくすぐる、女性の香り。  
 
その両者が合わさり、自分が軽くのぼせてしまっているような感覚を覚える。  
 
攻めている俺でもこんなになっているのだから、攻められている彼女は…  
 
さっきつぶってしまった目を頑なに開けようとはせずに、こちらの舌のなすがままになっている朋美さん。  
…息は酸欠寸前、顔もすっかり真っ赤になっている筈。  
 
今から、あまりやりすぎるのは考えもの。  
なので、頃合いを計って一度終わらせてしまうことにする。  
 
「…ぁ…?んっ…ぅ」  
 
上気している彼女の舌を誘い、従うままに付いてきたその舌を甘噛み。  
彼女の体をこちらに寄せて…  
 
思い切り吸い上げた。  
 
「ぅ…ふ…ふむっ!?…ふぅぅぅんっ!!  
 
……う…ぁ……ぁぅ…」  
 
同時に、それまで閉じていた目を見開き、声にならない声を上げて体を痙攣させる朋美さん。  
目からはポロポロと涙をこぼしながら軽く達したことを示し、すぐにくたりと力を抜いて俺の方に体をあずけてきた。  
 
○  
 
「ご、ごめんなさいぃ…。  
その本、私が弁償させていただきますぅ」  
 
…何が起こったのか理解するのに数刻。  
 
とりあえず、俺は本を読んでいた。  
そこに、空になったコップにおかわりを注ごうと、スチュワーデスさんがやってきた。  
そのスチュワーデスさんが、何故だか知らないけど体勢を崩して、持っていたきゅうすから紅茶が俺へとダイブ。  
 
で、本が台無しに。手や、後は簡易テーブルにも結構な被害。  
幸い、ホットじゃなかった為に大騒ぎ(俺中心の)にはならず。  
それ以外の持ち物やスーツも無事だったし。  
 
 
 
 
…しかし、だ。  
 
本の心配よりも前に、『大丈夫ですか』の一言が無いのは接客を仕事とする人として問題だ。  
声のトーンも何だか悠長だし、人によってはこの段階で大変なことになるな…。  
そんなことを思いつつ、返事をしようと顔を上げる。  
 
 
 
 
そして、一気に毒気を抜かれた。  
 
何だか、その端正な顔立ちが如何にも困り果てている表情に加えて、眼鏡の奥の瞳が幾分か潤んでる様。  
それを見て、『ひょっとして、悪いのは自分では?』という錯覚を軽く覚えてしまいそうになる。  
それでもとりあえずは、「気にしないで下さい。というかこれ、どうしましょうか?」と、処理を促すべく言葉を紡ぐ。  
 
スチュワーデスさん…とりあえず、名札で『甲斐』さんと判明…は、一瞬の間を経てはっと我に返り、「す、すいません」と言った後ですぐにおしぼりや台布巾を取りに奥へ。  
すぐに戻ってきて、機敏に各事後処理を行った。  
 
…なんだ、やればできるじゃん、この人。  
 
非常にあっさりと作業は済み、一件落着。  
…ただ、本だけはやはり、かかった紅茶の色や水気にやられててアウト。  
 
「あの…この本ですけど…私、弁償させていただきます。」  
「あ…いや、気にしないで下さい。」  
「え、でもぉ…」  
甲斐さんが、駄目になった本を見て、申し訳なさそうに言う。  
 
…正直、本は別に良いからこの顛末を終わらせたくて仕方なかった。  
他の客や、中にはチームメイトも先ほどからこちらを注目していたようだし。  
 
結局、「やっぱり悪いので、どうか連絡先を教えて下さい」という願いに折れ、飛行機が空港に着陸した後の機内にて、現在住んでいるマンションの住所を教えた。  
 
他の皆よりも集合場所に来るのが遅かったことについては、一連の出来事を見ていたらしいチームメイトから「おい、さっきは一体どうしたんだよ」とか「あのスチュワーデスさん、中々の美人だったよな?お前、まさかナンパでもしたのか?」などと茶化された。  
 
…この時は、只『厄介な人も世の中にはいるんだな』とだけ考えた。  
 
○  
 
「…ぷはぁっ……はぁ…はぁ……ぁ」  
 
唇を放し、首から肩へと回していた手を放す。  
 
目を潤ませ、口を開けたままで、それでも何とか我に返ったのか、ベッドに両手をついた状態で荒い息を整えようとする彼女。  
…扇情的ながら、苦しそうな表情に少し罪悪感を得る。  
 
「朋美さん」  
 
声の抑揚を抑えて、俺が彼女に話しかける。  
 
「…ぁ…高坂…さん…?高坂さん…」  
 
幾らか落ち着きを取り戻したのか、こちらの声に応じる彼女。  
 
「高坂さん…私、私は…「俺、怒ってます。朋美さん」  
 
俺の名を呟きながら、又悲しそうな表情になっていく朋美さん。  
おそらく「私は…」の後は「又何か、悪いことを…」と続いただろう。これでは又さっきに逆戻りだ。  
…かくなる上は、俺がここからは一方的にいかせてもらいます。  
 
「俺って、そんなに朋美さんに信用されていないんですか?」  
「…!そ、そんな、私…「そんなにも朋美さんを傷つけ、不安にさせてしまうような男なんですか?俺は。」  
「わ、私、そんな…「朋美さん」」  
 
悲しげな顔をこちらに向け、俺の言葉に反論しようとする彼女。  
眼鏡は外し、髪は下ろしているので、普段とはまるで違う雰囲気。  
 
「俺の方こそ、いつもこうして時間をとってまで会ってくれる朋美さんには感謝してるんです。  
それに、俺が今プロの選手として頑張れているのはあなたがこれまで支えてくれたから、ってさっきも言いました。  
あなたがいてくれるからこそ、今までも、そしてこれからも頑張れるんです。間違いありません。」  
「‥‥‥」  
 
俺の言葉に、少し恥ずかしそうに俯く朋美さん。  
そりゃあ、今俺は客観的に見て非常に恥ずかしいと思われるような台詞を次から次へと語っているし。  
でも、止めるつもりは毛頭ありません。  
 
「…それなのにあなたときたら、又さっきも『自分が付き合う資格の無い女だ』とか『自分だけが知らない俺の姿があるんじゃないか』とか…」  
「…」  
「これでは、まるで俺が朋美さんの事を愛してないみたいじゃないですか。」  
「…っ!?」  
 
『愛してる』。  
男が女へ、女が男へ気持ちを伝える為に使われる、最高の表現。  
 
「俺は、朋美さんが好きです。朋美さんを愛してます。」  
「…わ、わたしだって高坂さんのことを愛してますっ!  
…でも、でも…それでもわたし「俺は、」」  
 
珍しく強い口調で、俺の言葉に答える彼女。  
あなたが俺を愛してくれているというのに、それでも不安が消えないのであれば、  
 
 
 
 
俺がそれ以上の『愛している』という気持ちで、彼女の不安をかき消すまでのこと。  
 
「俺は、今も、今後も朋美さん以外の女性を好きになることはありません。  
だって、俺が好きなのはあなただけなんですから。  
あなたしか見てないんですから。」  
「…高坂さん…」  
「あなたが不安になるというのなら、全部俺が取り除いてあげます。  
朋美さんだって、これまでに数え切れないほど俺の気持ちを受け止めてくれました。  
『俺が何処かに誰かと行ってしまうのでは』という気持ちがどうしても消えないのなら、  
 
 
 
 
ずっと俺と一緒にいれば良いんです。」  
「…え…」  
「…あ」  
 
…ああ、しまったなあ…勢いに任せて言っちゃった。  
朋美さんも、俺の言葉が意図することが分かったらしく、顔を赤くしつつも『何が何だか信じられない』という感じにキョトンとした表情になっている。  
 
…こんな形でよりも、もうちょっと良いタイミングがあっただろうに。  
もうこうなってしまったら、この流れのままに。  
 
「渡したいものがあります。」  
 
腰を上げ、バッグの所に行って目当てのものを取り出す。  
そして、それを彼女へと指し出す。  
 
「…これって…え…」  
 
俺が手にしているものを見て、それでも信じられないといった表情の彼女。  
こうなったら、最後まで押し切ることに。  
 
…最後のは予定外のことだけど。  
 
「婚約指輪って奴です。  
どうか俺と結婚して下さい、朋美さん。  
俺とずっと一緒にいて下さい。」  
 
俺の顔と指輪のケースを何度も見比べる彼女。  
 
それが止むと同時に、彼女の表情がみるみる内に泣き顔へと変わる。  
そして、涙を流しながら俺に抱きついてきた。  
 
「私、私…  
高坂さん、私なんかで、私なんかでよければ…  
喜んでお受けしますぅ!」  
 
俺の背中に両腕を回し、肩越しに泣きじゃくる朋美さん。  
 
「高坂さん、高坂さぁん…」  
 
彼女の涙が収まるまで、しばらく俺もケースを持った手を背に回し、もう片方の腕で頭を撫で続けていた。  
…それにしても俺、今日朋美さんのこと泣かせてばっかり。  
 

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