「そーかそーか、白鳥学園相手に完封勝利か!よくやった!!」
お父様は大声で笑いながら、隣の席にいる羽和さんの背中を叩きます。口に飲み物を
含んでいた羽和さんは、危うく吹き出しそうになるのを耐えていました。
「いやー、こんな将来有望な青年を拾ってくるとは、ウチのはるかもなかなか
隅に置けないじゃないか。なぁ?」
「拾ってくるだなんて、そんな羽和さんを犬か猫みたいに…」
「おー、そうだった。倒れていたはるかの方が拾われたんだっけな」
「そういう問題じゃありません……」
なぜか私よりお父様に近い席に座らされてる羽和さんに目をやると、羽和さんも
観念したような苦笑いを私に向けています。私も笑い返して、いつもより豪華に
見える食事を早めに終わらせてしまうことにしました。
どうしてこんな光景が見られるようになってしまったのかというと、私が体調を崩して
倒れているところを羽和さんに介抱してもらい、お礼に自宅へ招いてお食事を
ご馳走した際に、お父様が羽和さんのことを大層気に入ってしまったのが事の始まり。
それ以来、今日のように練習試合などで早めに帰宅できる日は、お父様も仕事を
切り上げ、羽和さんを家に招く事を勧めてきて、こうやって一緒に夕食をとることが
多くなってしまったのです。
「ふむ、これを見ると、どうやら羽和くんがやや弱点にしていた左打者も
克服してきているようだな。不安だった右側の守備も失策が減っておる」
お父様は食事もそこそこに私の持ち帰ってきたスコアブックを開いて、勝手に
分析を始めています。
「お父様。食事中なのに野球の話ばっかり……」
「何を言うか。わしに野球に興味を持たせたのはお前じゃないか」
「それは……そうですけど」
注意した私に対してやや的はずれな言い返しをしてきたお父様に、少し言い淀みます。
確かに、お父様がここまで野球狂いになってしまったのは、中学に入ってからあおいの
影響で私が野球のことを調べ始めたのが原因なのです。
「ま、一試合投げ抜いて疲れておるようだが、安心したまえ羽和くん。今日は一流の
マッサージ師を呼んでいるからのう」
「あ、ありがとうございます……」
そのおかげで、野球選手である羽和さんにも少しはプラスになる対応をしてくれる
ということもあるのですが、何だか複雑です……。
「それじゃあ、お休みなさい。今日は色々ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ…」
「そうとも。いつでも我が家だと思って来ていいんだからな。あっはっは!」
お父様の用意した車で自宅まで乗っていってもらうことになった羽和さんを、家の前で
見送ります。
「じゃ、また明日」
「はい、さようなら」「また会おうぞ、青年」
羽和さんは私たちに笑いかけてから、車に送られて行きました。後には、ちょっとした
胸の奥の寂しさが残ります。
「いやー、あれだけ才能があるのに、謙虚で実に好青年だのう、羽和くんは」
「そうですね」
「うむ、叶わば我が家にも、あのような息子が欲しかったものだ……」
門をくぐって家の玄関へ向かいながら、お父様は誇らしげだけど、どこか寂しそうな
顔をします。私を産んですぐに亡くなってしまったという、お母様のことを思い出して
いるのでしょうか。
「無論、はるかだってわしが誇れる娘だがな。それに、彼がわしの息子になるという
望みはあながち夢とも言えないからのぉ」
「もう……」
「で、正直な話、どうなんだ、お前と羽和くんは?」
「残念ですけど、ただの友達です。私も彼も部活動が忙しいんです、お父様が期待する
ようなことはありません。せっかくうちに招待しても、今度はお父様と一緒だし…」
ちょっと恨みがましくそう言うと、
「何だ、遠慮してるのか。別に気にせんぞ。わしのまえでいちゃついても」
「私は気にします!」
相変わらずのお父様です。
「これからの時期は練習試合も練習時間も制限されるだろう。
少しはお前も羽和くんに唾つけられる時間も出来るんじゃないのか?」
「下世話な言い方しないでください。それに、甲子園行くような野球部にそんな甘いこと
言ってる余裕はありません」
「むぅ。では、こっちでトレーニングルームでも借りてやろうか。冬場は故障の心配が
大きいからの……羽和くんの為にスポーツトレーナーを雇うという手もあるな」
「それは願ってもない話ですけど……考えておいてくれると嬉しいです」
うちの野球部は部費も雀の涙で、グラウンドも設備も名門校とは比較にならないほど
見劣りします。あんまり親に頼りたくはないですけど、やっぱり好意は受け取っておいた
方がいいでしょう。
「でも、あんまり羽和くんばかり贔屓しちゃダメですよ。彼だってあくまで野球部の一員
なんですから」
「なんだ、お前は贔屓しないのか?」
妙に真面目な顔になって、そう切り返されてしまいました。
「えっ…?」
「男は何だかんだ言って独占欲が強いからのう。自分を特別扱いしてくれる女子で
ないと、いつまでも心を留めてはおけんぞ」
「そう……なんですか……?」
からかうようなお父様の口調に、何だか不安になってきます。私だって羽和さんに
好いてもらいたいけど、立場上他の部員より特別贔屓するわけにもいきません。
「はっは、青春だなぁ、のうはるか?」
お父様は高笑いして私の背中を叩くと、何が楽しいのか鼻歌なんか歌いながら
さっさと家に入っていってしまいました。
「……ふぅ」
部屋に一人になると、少しのぼせてしまっている頭に色んなものが浮かんできます。
勉強にも集中できなくなって参考書を閉じると、私は机の脇に置いておいた
スコアブックを手に取り、開きました。
先攻、恋恋高校。先発投手、羽和。一回の裏、先頭打者4球目でセカンドゴロ。
二番打者5球目で三振。三番打者、3球目でショートフライ。三者凡退。
記録を見ているだけで、今日の羽和さんの投球の姿が鮮明に浮かびます。
ページをめくれば、前の練習試合の記憶も。その前の試合の記憶も。……それに、
羽和さんが一番頑張った、秋季大会決勝の記憶もありありと思い出せます。
「格好良かったなぁ……」
今日の試合、7回裏、二死一三塁で相手打者は4番。コーナーいっぱいを突いた
変化球で追い込んで、ランナーを睨みつけてからクイックモーションで速球。
見事な三振で後続をシャットアウト。会心の笑みを浮かべてのガッツポーズ。
弾むような足取りでベンチに戻ってきて、私の差し出したドリンクを
『ありがと!』って本当に嬉しそうに受け取ってくれて……。
…………(記憶リピート中)。
はっ。ちょっとアッチの世界に行ってしまいました。多分今の私、緩みきった
夢見る乙女の顔になってます。恐ろしくて机の脇の姿見に目が向けられません。
ふぅ。もう完全に胸がどきどきしてしまって、勉強どころじゃありません。
私しかいないとわかっているのについきょろきょろ部屋の中を見回してから、鍵付きの
引き出しを空けて日記帳を何冊か取り出します。
高校に上がってからつけている日記。その中でも最近のもの中身は、ほとんど
羽和さんに関係することしか書かれていません。野球部で撮った写真の中から羽和さんの
ものだけを焼き増して貼り付けて、その日の気持ちを思うままに綴ってあります。
自分でも読み返して赤面するくらい、蛍光ペンをフル活用してあってカラフル
だったり、無闇にハートマークが散乱してたり、妙なイラストが描いてあったり……。
……コレの存在が誰かに知れたら、私は家宝の剣で切腹して死にます。
それくらい恥ずかしい代物なのですが、私の高校生活でいちばん大事な思い出が
詰まっています。
一番古い日記を開きます。まだ恋恋の野球部が愛好会だった時のもの。あおいに
マネージャーをしてくれって頼まれたばかりのこのころは、メンバーも羽和さんと
あおいと矢部さんしかいなくて、ただの草野球好きの集まりみたいな雰囲気でした。
貼られている写真や書かれていることも、野球愛好会全般に関してのものです。それも
そのはず。そもそもこの日記は野球愛好会の記録のために書き始めたものなのですから。
でも、その記録の中で愛好会が発展していく……特に羽和さんがぐんぐん伸びていく
過程で、ページの中には羽和さんだけが写った写真や、羽和さんのことを書いた文章の
比重が次第に大きくなっていくのがわかります。
この日記は、羽和さんが野球選手として成長していく記録で……そして、私が
一人の人を好きになっていった記録でもあるのです。
真ん中の方の日記までを斜め読みしたところで、ページをめくる手が重くなりました。
貼りつけてある写真の中に羽和さんとあおいが一緒に写っているものが極端に
少なくなり、代わりに羽和さんと私が一緒に写っているものがどんどん増えていって
いるころです。
……それは、友達よりも気になる男の人を優先してしまったということで。その人と
一緒のグラウンドで汗を流しているあおいに妬みを感じてしまったということで。
初めて自分で意識して、ひとを好きになったのだとわかった時で。
そのころの、甘いけどどこか切なく膨らんでいく想いと、親友であるあおいへの
罪悪感を思い出してしまったから。
「羽和、さん……」
合宿の時に撮った写真の中の、屈託のない笑み。貴方は、こんな私の気持ちに気付いて
くれますか?
彼に惹かれていく過程を思い返してしまったら、それは抑えきれなくなって。私の中の
"女の子"が、じわじわと全身に広がっていきます。
真剣に野球に取り組んでいる彼のことを思いながら、こんな不純な気持ちになるなんて、
いけないって思うのに。ううん、そう思うほど、私の体と心が熱く火照ってしまう。
「ふ……ぁ……羽和さん……羽和、さんっ………」
堪えきれなくなって両の太股をぎゅっと閉じると、じとっとした感覚。ただ、写真を
見ていただけなのに。
お父様は色々と邪推しますけど、私は羽和さんと何回か一緒にお出かけしたくらいで、
恋人関係どころか手を繋いだことだってありません。
思いを溜め込むだけで。ぶつけることもできなくて。こうやって、汚らしい行為で
少しずつ逃がすくらいのことしかできなくて。
「は……ぁ……ふ…ぁ、はぁ………ぅんっ……!」
足の間に右手が伸びるのを止められない。太股に手が触れたただけで罪悪感が全身に
広がる。指先が湿り気を帯びた下着に触れると、何か重い禁忌を犯したような感覚さえ
襲ってくる。
私が貴方に気持ちを伝えたら、貴方はどんな顔をしますか?貴方のことを思ったら、
綺麗な感情だけじゃなく、こんなはしたない高ぶりまで感じてしまうと言ったら。
幻滅しますか?普段の君からは想像も出来なかった。そんな風に思いますか?
違います。普段の私が、猫を被ってるんですよ。努めて、『良い子』の私でいるんです。
本当は、貴方に私だけを見て欲しくて。私だけに笑いかけて欲しくて。私に触れて、
抱きしめて欲しいって、そう思っているんです。
指が、下着の中に入り込む。既にじっとりと湿っているそこに指をあてがって、
ぬるりと上に擦り上げる。顎が上がって、くぐもったような声が喉から漏れる。足指の
先までがふるふると痙攣して、座っていることさえ辛くなる。
それに、もっと。今、私がしているようなこと。いやらしいところ……恋人にしか
触れさせないところ。胸とか、大事なところとか。そこにも触れて欲しい。
大きくて、マメの痕が重なった手で、私のぜんぶを知って欲しいって、思うんです。
「はぁっ……はぁっ……ん……ふ、ぅ………ぁんっ……!」
いやらしい。私、いやらしい。ごめんなさい……一人でこんな惨めなことして、
恥ずかしいと思いますよね。でも、この指が貴方のものだったら。貴方に背中から
抱かれて、鼓動や吐息を感じながらはしたないところを弄られたら。今とは比較に
ならないほどに、私、いやらしくなると思います。
身体が浮き上がりそうになる感覚を覚えながら、服の上から胸に触り、先端のあたりに
指を這わせる。すぐにそこは張りつめたように固くなって、甘い痺れを与えてくる。
力が入らなくなった上半身を持て余して、机の上に突っ伏す。肩から落ちた髪が、
机とそこに広げられた日記のページの上に広がる。私が、自分の体の中で一番自信がある、
長いストレートの髪。
「ふ……あぁっ……ゃあっ……あぁっ……!」
頬がページに触れて、間近に迫った視線の先に、羽和さんの写真。私が貴方を思って
こんなことしてるなんて全く知らない、純粋な笑顔。
それと目が合ってしまった瞬間。最後の数段を登り詰めるみたいに、身体の奥から
熱いものが込み上がってきて。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
声を上げないように歯を食いしばった全身に、電流でも流れるみたいに暴力的な
恍惚感が走り抜け、四肢がふるふると震える。感覚だけがどこかに飛んでいって
しまったみたいに、体に力が入らなくなる。
「ぁっ……は、ぁ………」
甘い脱力感に支配されながらその波が退くのを待っていると、目の前の羽和さんの
笑顔が滲み、なぜか目尻から零れた涙が、ページの上に染みをつくるのがわかりました。