小さく息を吸う。軸足を強く踏みしめる。手の中の球に一層力を込め、流れるように  
ワインドアップ。  
 見つめるのは18メートル先のミット一点。弓を絞るように右手を引き、渾身の力を  
込め、かつ鞭のようにしなやかに振り抜く。  
「よーっし、ナイスボール!」  
 小気味良いキャッチングの音がブルペン内に響く。構えられたミットに寸分違わず叩き  
込まれた硬球を、我が女房は満足そうに投げて返した。  
「う〜ん、久しぶりだと気持ち良いね」  
 肩を軽く二、三度回すと、今度はさっきより少し抑え気味に投球。体に込めた力が  
すっと気持ちよく抜けていくみたいに、ボールがミットに吸い込まれる。  
 練習試合で投げ込んだ後は全力での投球練習が禁止されており、今日はその解禁日。  
基礎トレや走り込みを中心にやらされ、しばらくキャッチボールで肩を温めてからの  
投球はすこぶる気分が良い。  
「ひゃー、今日も一段と球走ってますね。秋季大会終わってから、また速くなったんじゃ  
ないですか?」  
 近くの柱にくくりつけたゴムチューブで練習していた後輩の手塚が、汗を拭きながら  
感心した声を上げる。  
「どっちかというと、疲労が完全に抜けてきたからじゃないか?あんときの連投は  
さすがに堪えたろうし」  
 オレの球を受けているキャッチャー、保志は、オレのフォームや球筋を一球一球確認  
するように見ながら、手塚にそう返す。  
「まぁ、そうでしょうね。キャプテンの半分も投げてないオレっちでも、しばらく  
全身がパンパンでしたもん」  
 自分の二の腕や太股を叩いて"パンパン"に張っていた筋肉をアピールする手塚。  
「手塚には感謝してるよ。一年なのにあれだけ頑張ってくれて…お前がいなかったら  
間違いなく優勝なんかできなかった」  
「またまたぁ、おだてたって何も出ませんよ、キャプテン」  
 手塚はけらけら笑うと、再びチューブを掴んで上腕のトレーニングに戻った。  
 だべるのを止めて投球練習に集中すると、グラウンドの方で内外野に別れてのノック  
をしているのが聞こえてくる。あちらのかけ声や走る音もどこか軽快だ。こっちの  
バッテリー陣のどこか暢気な雰囲気といい、選抜出場がほぼ決まってチーム力もまとまり、  
野球部全体が良いムードになっているということだろう。  
 やや浮ついてるということでもあるけど、恋恋の野球部の努力がようやく身を結んだ  
感慨にみんなが浸っているわけだから、もう少しはこのままでもいいと思う。  
 まぁ、キャプテンの立場としては、最低でも選抜甲子園への本格的な練習に入るまで  
にはビシっと引き締めないといけないわけですが。  
 
 それにしても、よくぞ秋季大会で決勝まで進み、あのあかつき大付属を倒すまでに  
こぎつけたものだと我ながら思う。  
 女子校から共学に変わったばかりのこの学校に野球部を作り、甲子園を目指すとか  
本気で思っていた一年半前の自分は、正直無謀だった。というかアホだ。  
 ……ほとんど運、だよなぁ…。  
 たまたま同じクラスで野球経験者、オレが無理に野球に誘ったらついてきてくれた  
矢部くん。俊足、好守のセンター。  
 今オレの球を受けているキャッチャーの保志。はるかちゃんが連れてきてくれた  
コイツは偶然にも元シニアの捕手で頭も切れ、非常に頼れる奴だった。  
 加えて、その他のメンバーもはじめのうちから愛好会とは思えない練習量についてきて  
くれて、驚くくらいに上達した。まさにミラクルだ。  
 ……そして。  
 数ヶ月前まで、このブルペンを使っていた姿を思い出す。サブマリンというより、  
イルカが海面に跳ねるような滑らかで柔らかいアンダースローに、揺れるお下げ髪。  
 ――早川あおい。  
 女性初のプロ野球選手。規定の上でも体力の上でも不可能に近い夢を、真っ直ぐな瞳で  
信じていた女の子。  
 あおいちゃんがいたことが、うちのメンバーに不思議な活力を与えていたと思う。  
 彼女は実際、鍛えればプロにも通用するかもしれない変化球に制球力を持っており、  
何より、強くて純粋な意志の力みたいなものを持っていた。あの子を前にして、"不可能"  
なんて言葉はとても口に出せない。そんな魅力でチームのムードを作っていた。  
 女性でプロ野球選手になるのと、一学年で男子が9人いないようなチームで地区大会を  
勝ち抜くの、どちらが不可能か? 答えは簡単。両方、やってみなくちゃわからない。  
 そう思わせる力で、後者の方の不可能は、可能にしてしまった。  
 …でも。  
 内野手の守備練習でノッカーをしている女の子の方にちらりと目を向けて、複雑な  
気持ちになる。  
 早川あおいは、現在、恋恋高校野球部の選手ではない。秋季大会で優勝した時も、  
彼女はベンチにいた……背番号をもらえない、マネージャーとして。  
 それを思うと、勝ち抜いた秋季大会よりも、敗北することなく退場した夏の予選の記憶  
が鮮明に浮かび上がる。  
 控え選手もろくにいないチームで、一戦一戦相手チームを丁寧に分析し、全力で戦って。  
オレと、あおいちゃんと、まだ経験の浅かった手塚で繋いで。  
 そして、4回戦まで勝ち抜いて地元のメディアに新設野球部異例の快挙なんて  
取り上げられたところで、女性選手を試合に出した話が広まり、問題視されて出場停止。  
 あの時ほど悔しかったことは、今までの人生にない。  
 オレでさえそうなのに、あおいちゃんは、どれだけ悔しかったのだろう。どれだけ、  
オレたち部員に申し訳ないと思っただろう。想像することも出来ない。  
 
「おーい、羽和。どうした?棒球になってるぞ」  
「あ、ごめん」  
 よそ事を考えていた上、沈んだ気持ちになっていたのが投球にも伝わってしまった。  
こういうのはメリハリつけないとエースとしてもキャプテンとしても非常に良くない。  
「謝るこた無いけどさ……ま、いいや。ちょっと休憩しよう。何考えてたんだ?」  
 さすが女房役というか、保志はオレが考え事をしていたのに気付いたらしい。  
「ん……ピッチャーがオレと手塚だけで、甲子園でどこまで戦えるかってさ」  
 遠回しな表現にして、そう答える。  
「そうだな……手塚がもうちょっとスタミナつけてくれれば計画も立てやすくなるな」  
 暗に含んだ意味を受け取ったのかどうなのか、保志はチューブを引いている手塚に  
話を振る。  
「まじっすか、今でもオレっち、死ぬほど走ってるのに……」  
「足腰鍛えりゃ制球力も球速も上がるんだよ。お前はもっと伸びる余地があるから  
言ってんだ」  
「保志さんまでおだてるんですから……」  
 また、どこか軽い調子のやりとりになる。多分、二人とも気付いていてあえて言わない  
んだろう。『早川あおいがいたら、かなり継投の幅が広がるのに』って。  
 秋季大会では、かなりの無茶をやった。一戦一戦全力投球で、しかも連投につぐ連投。  
それは元から選手が少ないのに加えて、あおいちゃんが抜けたから起きた事態。  
 それでも、いや、だからこそ、自分の力で甲子園を勝ち取ることができない  
あおいちゃんの為に、チームの為に、気力を振り絞って戦って、そして勝った。  
 けど、そんな精神論というか根性論が何度も通用するとは思えないのが甲子園だ。  
「ま、今考えても皮算用にしかならんよ。当面の目標は、チーム力の向上。これのみ!」  
「そうそう。試合の相談は、監督のいるところでしてちょうだいね」  
 綺麗にまとめた保志の後ろから、いつのまにか現れた女性が声をかける。  
「あ、監督。チーッス!」  
「「チーッス!」」  
 我が野球部の監督、加藤理香先生に、帽子を脱いで挨拶。今日は仕事が詰まってるから、  
少ししか顔を出せないという話だった。保健室にいるときの白衣のままで、ちょっと用事  
の合間に抜けてきたっていう様子だ。  
「どう?羽和くん。ちゃんと言いつけ守ってから投げた?」  
「ええ、もちろん。肩も軽くなって、絶好調ですよ」  
 言いつけというのは、十二分にアップをしてから投げ込みを始めること。スポーツ医学  
の知識があるこの人が監督になってくれたおかげで、練習効率もグンと良くなった。  
「……うん、力も入りすぎて無くて、良い感じね。今日はまだ仕事があるけど、練習が  
終わったら保健室に来なさい」  
「はい」  
 オレの投球を2,3球眺めてから、監督は満足そうに頷いた。  
 みんな、甲子園へ向けて野球に真剣になってる。感傷的になっても良いことは無い。  
 ……頑張ろう。それから、頑張れ、あおいちゃん。  
 ノッカーを続けている女の子の方へもう一度、意識だけを向けてから、全身の力を  
込めて球を放った。  
 

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