「ときに羽和くん。羽和くんははるかちゃんとどこまでの関係なんでやんすか?」  
 いつもより何倍も長く感じた午前の授業が終わり、昼休み。トイレと移動教室以外席に  
座りっぱなしで気が滅入る中、唯一の楽しみと言っていい昼食の最中に、矢部くんが  
そんなことを聞いてきた。  
「どこまで、って言われても…別に、オレとはるかちゃんは付き合ってるわけじゃないし」  
「またまたぁ、憎いでやんす。あれだけ大事にされてて、何も無いとは言わせないでやんすよ」  
 オレと向かい合わせに座った矢部くんが、お弁当の箸をびしっとオレにつきつける。  
「はるかちゃんは誰にでも優しいでしょ。オレにだけ特別ってわけじゃないよ」  
「…これだから朴念仁は……後ろから刺されないように気をつけた方がいいでやんす」  
「矢部くん、今日は何だか妙に絡んでくるね……」  
 昨日、オレがはるかちゃんに送ってもらったからだろうか。  
「キャプテンがそんなんじゃ精神衛生上良くないでやんす。男ならビシッと決めて欲しいでやんす」  
「んなこと言われてもなぁ……」  
 確かに、オレははるかちゃんが体調を崩して倒れていたのを助けて依頼、何度も家に  
招待されて食事をご馳走になってるけど、それはあくまではるかちゃんのお父さんが  
野球をやってるオレを気に入ってるからだ。それに、食事に呼ばれていることは他の  
部員は知らないはず。  
「それとも何でやんすか。羽和くんははるかちゃんが気に入らないんでやんすか?」  
「そんなわけないでしょ。親切だし、気配りができるし、頭も良いし、マネージャーと  
しても有能だし、それに……可愛いと思うし」  
 それはそう思う。少し世間ずれしている以外は欠点らしい欠点が無いし、正直な話  
オレが身近に知り合った女の子の中では一、二を争うほど美人だ。そもそも、あんな  
良い子に彼氏がいない時点でおかしいと思うわけで……。  
「それだけわかっていれば十分でやんす。そのはるかちゃんが、何でフリーでいるのか  
考えてみるでやんす」  
「む……じゃあ、なんで矢部くんははるかちゃんにアタックしないのさ」  
 考えを読まれたみたいな矢部くんの指摘に、そう切り返す。  
「えっ!?あ、それはその、ホラ、はるかちゃんは惜しいことにおいらの絶好コース  
からボール半個分ほど外れているのでやんす」  
「ボール半個だったら打ちに行った方がいいと思うけど……」  
 野球に例えたせいでよくわからなくなってきた。  
「と、とにかく!怪我して練習できなくなったのを機会に、もうちょっと周りの人間に  
目を向けてみた方がいいでやんすよ」  
「うーん……」  
 何だか強引にまとめられてしまった。確かに自分も野球ばっかりで他の事をあんまり  
考えていなかったところはあるけど。  
「……羽和くんは目の上のタンコブでやんす。羽和くんとはるかちゃんがくっつけば、  
必然的にあおいちゃんは……」  
「ん?何か言った?」  
「何でもないでやすん!何でもないでやすんよ!」  
 矢部くんが策士の顔をしてぼそぼそ何か言ってたみたいだけど、よく聞こえなかった。  
 
 そして、放課後。一応野球部が練習しているグラウンドまで来たけど、当然自分は参加  
できない。ベンチに座って練習風景を眺めながらハンドグリップを握ってるわけだが…。  
「……つまらん」  
 10分もしないうちに飽きた。まだウォーミングアップのランニングしてるし。  
 あまり楽しくないランニングでも、できないと思うと無性に走りたくなるから不思議な  
ものだ。視線を落として、握力トレーニングをしている右手を見る。  
 ついさっき、矢部くんとはるかちゃんの話をしたせいだろうか。その手に、昨日車の中  
でのはるかちゃんの手の感触が思い出す。  
 ……そういえば、何であんなことしたんだろう。  
 ハンドグリップを左手に持ち替えて、右手を軽く閉じたり開いたりしてみる。  
 昨日のはるかちゃんは、何だか様子がおかしかった。落ち込んでたあおいちゃんに  
冷たかったり、車の中でも何かを考え込んでたり。会話の途中で急に手を握ってきたのもそうだ。  
 オレの怪我のせいで、混乱させちゃってた?  
 それだけじゃないような気がする。手際良く車を呼ぶところまでは、冷静だったし。  
 はるかちゃんがオレを自宅から送り迎えするっていう提案を、断ったから?  
 さすがにそれは野球部員にマネージャーがする手伝いとしてはやりすぎな気がするから、  
断っただけだ。彼女にあんまり頼りすぎないための、常識的な判断だと思う。  
「……うーむ……」  
 普段ならあんまり気にしないであろう事だけど、今日は矢部くんに変なことを言われた  
せいで妙に気になってしまう。  
 確か、はるかちゃんは部室にいるはずだ。行って、話してみようかな。  
 まだ慣れない杖を使って立ち上がると、右足をかばいつつ部室棟まで歩いていく。  
野球部と書かれたプレートがついているドアをノック。  
「はるかちゃん、いる?」  
「あっ……羽和さんですか?どうぞ」  
 ドアを開ける。ここに入るたびに思うけど、男臭いはずの野球部の部室なのに、文句の  
つけようがないくらい清潔に片づいている。話によると、野球部の部室ははるかちゃん  
が掃除や整頓してくれているおかげで、そこらの(女子中心の)運動部の部室より綺麗らしい。  
「ボール磨き?手伝うよ」  
「えっと……いいんですか?」  
「他にすることも無いからね。雑用任せっきりってのも悪いし」  
「すいません……じゃあ、お願いします」  
 汚れた硬球が詰まったカゴを前にして、はるかちゃんはボールについた土を落とす作業  
をしていた。オレも、てごろなベンチを引っ張ってきて腰を下ろす。  
「えっと、布巾は?」  
「これを使ってください」  
 見た感じ、はるかちゃんはいつもと変わらない様子だった。線の細い体に、流れる  
ように綺麗な長い髪。端正に整いながらどこか幼さも残した美貌の少女が、とても  
洒落てるとは言えないジャージの上下で野球部の雑用をこなすミスマッチ。いつのまにか  
見慣れてしまった、恋恋高校野球部マネージャー、七瀬はるかの姿がそこにあった。  
 やっぱり、昨日に限ってちょっと混乱してただけなのかな……?  
 そんなことを思いつつ、ボールをゴシゴシ磨いていると。  
「あの……言いにくいんですけど、汚れ、ちゃんと落ちてませんよ」  
 苦笑を浮かべたはるかちゃんに、そう言われてしまった。  
「えっ?あれ、そうかな?」  
 慌てて自分が拭いた分のボールを見てみると、確かにはるかちゃんが拭いたのより汚れ  
が残っている。考え事しながらやってたせいだろうか。  
「んー、はるかちゃんよりは握力あるはずなんだけどな……」  
「羽和さんだったら私の3倍はありますよ…。けど、力で擦るんじゃなくて、こんな風に  
泥を削り落とすみたいにするんです」  
 はるかちゃんはオレに見せるように手を近づけて、実演してみせる。白くて細くて  
滑らかで、爪の形も綺麗に整った指が、硬球の汚れを手品みたいに落としていく。  
 
「……羽和さん?」  
「え…?あ、ありがと。参考になった」  
 その様子を、ついぼーっと見入ってしまった。単純に見とれてたというのもあるけど、  
昨日のその手の感触を、また思い出してしまったから。  
 昨日オレの手に触ってきた時も、はるかちゃんの手は驚くくらい小さくて、柔らかくて、  
ほんのり暖かくて。とっさには何で触ってきたのか気がつかなかったくらい。  
 何というか、そもそもオレの手とは用途からして違うような気がする。素振りやら  
投げ込みやらでマメを作っては潰しを繰り返して、ゴツゴツのザラザラに固くなった手や  
指と比べると、はるかちゃんの手は不用意に触ったら壊れる芸術品みたいに見える。  
 ……芸術品といえば、そもそもはるかちゃん自体が"お人形さん"みたいな雰囲気を  
持っている。精巧な日本人形と西洋人形の良いところを合わせたみたいな。その髪から  
足の先までが一部の隙もなく上品にまとまってて、育ちが良いせいか、仕草や話し方  
なんかも優雅と言って良いくらいの気品すら感じる。汗と泥にまみれてボール追っかけて  
るオレたちとは、根本的な作りからして違うような女の子だ。  
 それでいて、誰にでも優しくて気が利いて、ちょっと世間ずれしていて危なっかしい  
という軽い欠点もある。文句の付けようがないくらい、魅力的な同級生。  
 ……矢部くんの言うとおり、オレはこの子のこと、好きなのかな……。  
 ただ憧れてるだけとも言えるし、同じ部の仲間として好きなだけとも言えるけど…もし、  
仮に、はるかちゃんと恋人関係になれるんだとしたら、それは非常に好ましい事に思える。  
 だったらそれは、好きってこと?はるかちゃんは、オレに対してどう思ってるんだろう。  
「……羽和さん、大丈夫ですか?さっきからなんだか上の空みたいな……」  
「あっ、う、いやいやいやいや、ごめんごめん、大丈夫であります、はい」  
 また、はるかちゃんを眺めて物思いに耽ってしまった。あんまり褒められるようなこと  
を考えていたわけじゃないので、非常に後ろめたい。  
 良く考えたら、もし、仮に、万が一、奇跡的に、オレとはるかちゃんが恋人になれる  
んだとしても、これから甲子園へ向けて猛練習始めようっていう野球部の中でそんな  
浮ついたことできるはず無いじゃないか。二兎を追うもの一兎を得ず。逆に、はるか  
ちゃんに対しても野球に対しても失礼だ。とりあえず忘れよう。  
 そう思い直して、ボール磨きに意識を集中する。  
 ……しかし、はるかちゃんを改めて"女の子"として見てしまったきっかけが彼女の  
手だというのは、スケベというよりかなりマニアックだ。反省。  
「……そういえば、今日あおいちゃんはどうしたの?」  
 ボールを半分ほど拭いたところで、あおいちゃんがグラウンドにもいなかったことを  
思い出して、聞く。  
「あおいですか?修学旅行の実行委員の会議に出るから、遅れるって言ってました」  
「へぇ、そんなのやってるんだ」  
「二年になってすぐのホームルームで、ジャンケンに負けて任命されちゃったんです」  
「あらら」  
 昨日の様子からちょっと心配だったけど、落ち込んで休んでるわけじゃなくて良かった。  
「同じクラスだったよね?今日、あおいちゃんの様子、どうだった?」  
 何気なく聞くと、はるかちゃんはなぜか、少し沈んだ顔になって。  
「…昨日よりはずっと普通にしてましたよ。私も昨日のこと謝ったら、わかってくれましたし」  
 少し言葉に詰まってから、そう返してきた。何だか、その返答が気になる。はるか  
ちゃんは、昨日あおいちゃんに対して"謝る必要がある悪いこと"をしたと思ってるって  
ことだ。  
 昨日から、あおいちゃんの話をするとあんまり良い反応をしないのは、それに関係する  
んだろうか。はるかちゃんとあおいちゃんの間に、何か溝みたいなものがある……?  
「ん……はるかちゃん。やっぱり、あおいちゃ……」  
「羽和さん」  
 あおいちゃんと、何かあったの?そう聞こうとしたところで、はるかちゃんに遮られて  
しまった。  
 

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