リトルから、シニアへ。そして、高校野球。
野球好きな親父の影響からか、幼い頃から、野球選手になりたいという夢に何の疑問も持っていなかった。でもそれは、ただの「きっかけ」。
俺は、真剣ににプロ野球選手になりたいと夢見ていた。
そして俺は天才とか怪物とか騒がれて、夢を現実にし得る力を持っていた。プロ野球選手への夢は、本当はもう手の届くところにあったんだ。
ーあの時までは。
…息が、苦しい。無理に動かした左足が痛い。起き上がる事なんかできない。もう、へとへと。
無理だ。もう無理。限界。
「…ね、水沢くん。無理しすぎよ。…もうやめよう。ね?」
言われなくてもそのつもりだよ、舞ちゃん。さすがにね。
「ぜぇ、ぜぇ…で、今の、タイム…どの、ぐらい?」
息が上がったまんま、元に戻らない。死にそうだ。
「えっと…9秒8、よ。」
ちなみに、コレは50メートルのタイム。
「回を増すごとに遅くなってるじゃないか…」
なんか舞ちゃんは呆れたように(実際、呆れたんだろう)はぁ…と大きな溜息をついた。
「当たり前だよ…もう、短距離20本目なのよ?それでこんなに速く走れるほうが凄いわ」
「限界まで頑張ったからね。」
そよそよと流れる風が、火照った体に気持ちいい。梅雨時なのに今日は天気も良いから、今俺が寝転んでいるグラウンドの土も少し、熱を持っている。だから、この涼しい風は本当にありがたかった。
「4月の短距離は13秒…今日の一本目は6秒8…」
「最近になって、やっと、治り始めたんだ」
風になびく髪を押さえながら、舞ちゃんも俺の傍に座り込む。
そっと、汗で額にまとわり付く俺の髪の毛をどかしてくれた…少し、くすぐったい。
少しの間、無言。俺は単に、喋れる元気があんまり無いだけだけど。
「…夏までに間に合いそうで、良かったね。」
そうささやいた舞ちゃんは、本当にうれしそうな…満ち足りたような顔をしている。
俺はもう、二年前に失った大切な夢や希望は、取り戻した。
「…絶対、また、連れってあげるから。」
なんとなく、立ち上がる。カッコいい事言うときは、カッコつけないと。…実際には、ふらふら立ち上がっても全然カッコよくなんか無いんだろうけど。
「ドコに?」
くすり、と舞ちゃんは笑う…わかってるくせに。
だから、俺もこう言うんだ。舞ちゃんの手をとって。
「お化け屋敷。」
やっぱり。そういうような顔をして微笑んで、舞ちゃんも俺の手を握り返す。
「お化け屋敷、ね。」
俺たちにしか通じない、秘密の合言葉。
「そして優勝旗をかっさらうのは、俺たちだ!」
「期待してるね。」
「おう!」
そうして、歩き出す。俺が舞ちゃんの手を引いて。
最後の夏まで、残り一ヶ月。
夏が終わるまでの、最後のデート。
「俺のリハビリにも付き合ってもらったんだし、今日は舞ちゃんの行きたい場所に行こう!」
「え!?…そうね、それじゃあ…」
俺たちは絶対、甲子園に行くんだから。そうすると、ずっとデートなんて出来なくなるから。
その間分のラブパワーとか、今日、全部充電しないとね。…まあ、何処に行きたいかって
「それじゃぁ…水沢君の家」
なんて言われるなんて、思ってもいなかったけどさ。
「甲子園…に、いたんだよな。俺たち。」
2学期も始まって、俺たちは少しだらけ気味になっていた。高校の勉強は難しい、野球部の練習のレベルも中学の頃より高い。
でも、気分が優れない理由はそれだけじゃない。むしろ、それはあまり関係なかった。
少し前まで夢のような場所にいたんだから。
夢から急に覚めてしまった感じが、何か中だるみのような嫌な感じになってしまっているんだ。
「オイラはベンチにも入れなかったから、何の感慨も沸かないでやんす。」
パンを頬張りながら、矢部君が頬を膨らます。可愛くはない。断じて。
「まあ、俺たちは一年生だし…しょうがないんじゃない?」
「フォローになってないでやんす。」
まあ、それはそうかもしれない。俺は結局、一年生ながら夏の甲子園で4番を打っていたんだから。
そういえば、甲子園とか俺がうかれていた時、矢部君は少し俺に冷たかったような気がしなくもない。
親友がベンチにも入れない中、片方がスタメン(しかも一番かっこいい4番)に選ばれたら、それは確かに溝にもなるんだろうけど。
「あはは…でも俺たちには、まだ何度もチャンスがあるんだから…石原さんには悪いけど。」
結局、俺たちは「常勝」帝王高校に勝てなかった。
「そうでやんすね。次はオイラ達が甲子園に行って、優勝旗を持って帰るでやんす。」
棒読みだね。矢部君、もしかしてその気無しか?
でもまあソレに突っ込むと喧嘩にも発展しかねないし、とりあえずスルー…すると、会話が続かない。
何か良い話題を探していると、矢部君の方が問題提議してきた。
「そういえば水沢君、最近舞ちゃんと仲良いでやんすね。」
不意打ちをくらって、牛乳を吹いた。「きたないでやんす」と矢部君も顔をしかめるが、俺はそれ所じゃない。
ツボにハマって、普通に鼻から牛乳だったりムセたり。
「…まあ、もともと幼馴染で仲良かったからね。再会したのは高校になってからだけど」
その一言が出るまで、数分かかった。一応、舞ちゃんとはもう付き合ってるんだけどみんなには内緒にしている。とりあえず。
「うらやましいでやんす」
飛び散った牛乳を片す俺を横目に、ガンダーチップスをパリパリやりだす矢部君。
「あ、俺にも一口」
「裏切り者の水沢君にはあげられないでやんす。」
「な!!」
その時までは、平和だった。いつものように矢部君とお昼を食べて、いつものように練習をして。
そして、いつも通り舞ちゃんと一緒に帰る途中に、それは起こった。
「今日の練習も、疲れたー!」
うん、と大きく伸びをしながら、舞ちゃんとてけてけ歩いて帰る。
「最近、水沢君元気無いみたいだけど…大丈夫?」
元気なら、有り余ってるけどね。
「…まあ、確かに気が抜けちゃってる感じはするかな。甲子園で使い切った気合は、まだ充電中。」
時間帯的にわりと薄暗いけど、夕焼けが視界の端に映っていた。なんとなく舞ちゃんから目を逸らして、そっち側を向く。
「…そういえば、この前行った遊園地、楽しかったね。」
舞ちゃんが気を利かせて、話題を変えてくれた。舞ちゃんも気付いているのかもしれない。
練習は真剣にやってるけど、最近の俺が野球に熱くなりきれていない事に。
「そうだね、でもジェットコースター二連続で乗るのはちょっと…」
「え〜!スリルがあって楽しいじゃない」
普通の人にはそれを楽しむの、無理だと思うよ。
楽しくおしゃべりをしながらさしかかった、大通り。向こうからトラックが来ていたけど、歩道の信号は青。
タタタッと楽しそうに、舞ちゃんは小走りに渡りきる。
練習で疲れきっていた俺は何の注意もしないで、ゆっくりと横断歩道を渡る。青信号だったし。
半分ぐらい渡り切った所で、舞ちゃんが異変に気付いた。
「水沢君!」
キイイィィィッ!!
その叫び声は、トラックのとんでもなく耳障りなブレーキ音で、掻き消えて…
「なっ…!」
避けよう、とか思っても体はほとんど動かない。体は恐怖で動かなかった。
一歩も動く事もできないまま、迫り来るトラックに対して目をつぶる。
140キロで迫ってくる危険球の恐怖とは、比べ物にならないぐらい怖かった。
ドンッ!
鈍い音が、体に響く。
衝撃で跳ね飛ばされる。空に浮いている時間が、妙に長く感じた。
ズザザザザザァァァッ!!
何かに引きずられるように勢いよく俺の体は転がって、塀か何かにぶつかって止まった。
その後の事は、よく覚えていない。全身痛くてたまらなくて、、それに頭が朦朧としていた。
視界の隅に、少し赤く染まったアスファルトや真っ赤に染まった自分の腕が入ってくるけど、かすんで見えていてよくわからない。
自分を呼ぶ舞ちゃんの泣いている声や、集まってきた人たちのざわめきを感じながら…
俺の意識は、一度そこで途切れた。