京の夏は暑い。着物の下の素肌がじりじりと蒸されるようで、沙夜は思わず息をついた。
普段ならこんな時間を埋めてくれる琴の稽古も、この暑さではままならない。額から滴る汗が、大事な琴を汚してしまう。
お花をはじめ、同僚たちは夜の仕事に備えて、大部屋で昼寝をしている。沙夜も眠ってしまえば、
暑さも所在無さも忘れてしまえるのだが、そうできない理由が彼女にはあった。
リーーー…ン。
路地裏を行く細い風が、窓際の風鈴を揺らしていった。
せめて音だけでも涼をと、風鈴をくれた優しい少年は、ここ数日姿を見せていない。
今日こそは、もしかしたら。
はかない期待を、幾度裏切られても持ちつづけてしまう。
以前は、こんなことはなかった。ほんの数日会えないことぐらい、いくらでも我慢できた。
彼も自分も、我儘を言える立場ではない。今もそれは分かっているのに。
あの日からだ。
『沙夜にあげる』
髪に挿した簪に、そっと手を伸ばす。その仕草が癖になっていると、朝方お花にからかわれたばかりだ。
もう日が暮れる。沙夜はしゃんと立ち上がり、風鈴を外して、障子を閉めた。
落ち込みそうになる心を、無理にでも奮い立たせる。会えないことを恨みに思うような女にだけは、なりたくなかった。
『待つのも楽しみ、そう思わな、いっとうええ顔で会われへんえ』
歌うように言っていた、美しい天神。物静かな優しい恋人が死んだ日に、姿を消した彼女を、沙夜は今でも
尊敬していた。
いつかは。きっと明日は。一番の笑顔で会える。
「沙夜」
畳を滑り始めた沙夜の足が、ひたと止まった。
あの声、待ちわびた声。
振り返れば、障子の向こうに、見慣れた人影がある。
四方八方に伸びたツンツンの癖っ毛、しなやかに成長した手足。
「沙夜、俺だよ、沙夜」
沙夜はもつれそうになる脚を懸命に抑えて、障子へと駆け寄った。
待っていて、あとほんの少しだけ。私はここにいます。
この時ほど、声の出ない自分をもどかしく思うことはない。
両手で障子を開け放つと、暮れかけた日の光が、沙夜の室の畳に溶け出した。
沙夜の表情は、笑顔のまま凍りついていた。
そこにあるはずの、愛しい人の姿を探して、つぶらな黒い瞳が宙を泳ぐ。
「ドウシタノ?…沙夜、俺のコト忘れちゃった?」
くっくっと笑う、狂気に歪んだ銀の瞳。
脱兎のように駆け出した沙夜の前を、二人の少女が塞いだ。
4つの漆黒の瞳が、何も映していないかのように暗く、沙夜を睨めつける。
後ずさる沙夜の体を、鉄之助の姿をした「誰か」が抱き止めた。
「怖がらなくてイイよ、可愛い沙夜…今日からお前モ、そいつらと同じ、俺のネコなんだから」
恐怖に身を捩ることさえできない沙夜の痩躯を、黒い手が愛しげに撫でた。
ぬばたまの闇に落ちる意識の中で、沙夜は、待ち焦がれた愛しい名さえ忘れていった。
***
「そんなカオするなよ、贓(ひかがみ)」
奥に控える異形の男に向かって、鈴は笑ってみせた。
「ネコを一匹増やしたダケだろう?なぁ、お沙夜」
名を呼ばれると、お沙夜は行為を止め、鈴に向かって顔を上げた。そうして意思を感じさせない人形の瞳で、幸福そうにニコリと
笑う。従順なネコは、頭を撫でられただけで、また奉仕を始めた。鉄之助の名を呼びかけたくて仕方がなかっただろう、
小さな舌が、己の自身を這う度、鈴は言い知れぬ快感を覚えた。
命じられるままに鈴の腰に跨り、細い腰を揺らす沙夜に、銀色の瞳が嘲笑を浮かべる。
「鳴かないネコっていうのも、乙なもんだ…なァ、鉄」
変わり果てた恋人の姿を見たときの、仇の顔を思い浮かべて、鈴は楽しげに笑った。
終