『Rain』  
 
季節は夏真っ盛り。  
少年は額に流れる汗を拭きながら前に進む。  
彼の名はヴァル。ホウエン地方、ミナモシティ出身で今年19のポケモントレーナーだ。  
ホウエンのジムは紆余曲折ありながら一応制覇し、今は更に自身の見聞を広める為にジョウト地方で順調な旅の真っ最中。  
……の筈だった。  
数日前にヒワダタウンを出た後、道行く人達から北に大きな町があると聞かされたので、ひたすらに北を目指していた訳だった。  
ところが途中迷路の様に巨大な森にぶつかり、しかも自分が超弩級の方向音痴であったのが禍したのか何日もその中をぐるぐると回る事になってしまった。  
その為数日分は持つようにとっておいた食料はあっという間に底をつき、それ以外の物も次々に無くなっていった。  
但し近くに水脈を見つける事が多々あったので水だけは困る事は無かったが。  
直ぐに次の町に行けるだろうと考えていたので、鳥ポケモンを持っていなかったのが不味い判断だったと思いつつ、森から出る事が出来たのはほんの数時間前の事。  
早くポケモンセンターに行かねば自分もポケモン達もへばってしまう。  
しかし、一応そこに向け歩き続ける彼に暫く進んだ所でかなり残酷な立て看板がお出迎えをした。  
 
「なっ!……本日午後三時より明朝五時まで全面大規模改装につき回復システム及び宿泊施設のご利用をお断りさせて頂きます……」  
 
林を抜けた所、幾つもの低い丘陵が見える場所にある道の真ん中にそれはあった。  
彼にとって今一番の頼みの綱であるポケモンセンターが閉まっているというのだ。  
自分もつくづく運が無いと思わされる。  
通常ポケモンセンターは年中無休、24時間営業の方針且つ、ポケモン回復システム及び宿泊施設は改装や臨時の休みなんて事があっても、ほぼ交互に運営出来る体勢を取っている。  
それがよりにもよってどちらも臨時休業なぞ一生かかっても巡り合わないものだ。  
デフォルメされたジョーイさんとナースラッキーが一緒に軽く頭を下げている絵の載っている看板にはご丁寧に次の街、コガネシティのポケモンセンターへの行き方が書いてあったが、  
そこまで行けるかどうか今の自分の持ち物と相談しても、自分やポケモン達の体力的にも今のところかなり怪しいものがある。  
 
「参ったな……」  
 
すると水には困らない縁でもあるのか、直ぐ近くには底まで見えるほど透明度の高い水が流れている極小さな小川が流れている。  
こんな所で干乾びるのもなんなので取り敢えずポケモン達と一緒に水くらいは飲むことにした。  
 
「んぐ……んぐ……ぷはっ!……ああ、生き返る……」  
 
ヴァルは小川につけた顔を一気に離す。  
夏場のかなり高い気温にも拘らず喉をさっと通る水はよく冷えていた。  
側に居る彼の手持ちのエーフィ、キュウコン、サーナイトも彼に倣う。  
元が水タイプのミロカロスはいちいち飲むだなんて事はせずに直接水にすっと入る。  
一服の清涼剤を感じさせる風景画としては成り立つかもしれないが、目の前にある問題は依然として解決されたわけではない。  
元々ポケモンセンターのような施設をポケモンの回復以外にあまり当てにしてない彼にとって野宿するのは差し支えなかった。  
だが、食料だけは近くにショップも無いだけにどうしようもない。  
そしてこうしている間にも、夏の射す様な厳しい日差しは自分に降り注ぎ、確実に体力を奪っていく。  
完全に困り果ててしまいその場に横になったその時だった。  
 
「きゃあああっっっ!!!」  
 
横になっている土手の上、さっき位置確認の為に使った満開の向日葵畑の方から大きな声が起こった。  
はっとして身を起こしてから耳を澄ます。  
微かに聞こえるのは明らかに自分より年下な誰かが走っている音と、虫系ポケモンのものらしき羽音。  
逃げ続けているという事は対抗できるポケモンを持っていないという事らしい。  
断定は出来ないがポケモントレーナーではないという事だ。  
ヴァルはもう体は動かしたくなかったが、ポケモン達をボールに戻し向日葵畑の方向に向かった。  
 
 
「たすけてぇッッ!!」  
 
土手から上がると年端も行かなさそうな少女がこっちに向かって疾風の如く走ってきた。  
その2〜30m後方には軽く見積もって二十匹位の集団を成したスピアーがいる。  
この世界では幾ら小さい子供でもスピアーが集団で襲ってきた時の物騒さは分かっているものだ。  
なので、大方うっかり連中の縄張りに近づきでもしたのだろうとヴァルは結論付けた。  
とはいえ黙って見ている訳にもいかない。  
一度はモンスターボールに戻した手持ちの中から、虫タイプに対抗出来るポケモンのキュウコンを選ぶ。  
そこで気づかされたのは炎系の技のどれかを放つにせよ絶対に下に向かって放ってはいけない事。  
水系のミロカロスがいるとはいえ一歩間違えば向日葵畑に大損害を与える事になる。  
丁度その時息も絶え絶えに少女は自分の元へとやって来た。  
 
「君、後ろに隠れているんだ!」  
「うんっ!」  
 
短く命令しモンスターボールからキュウコンを繰り出す。  
中から出たキュウコンは生来の勇敢な性格もあってか、尾を完全に逆立てて相手を威嚇するポーズをとる。  
それを落ち着かせる様に首筋を上から下に撫でつつ、ヴァルは細かい命令を出す。  
 
「いいか。かえんほうしゃをするんだ。だがなるべく畑の外側に追いやってからにするんだ。  
それと下に向けては撃つな。なるべく集団で滞空している所を一気に撃ち抜け。」  
 
何処まで伝わったかは分からない。  
だがスピアー達に向かって鳴き声一閃、キュウコンは挑発する様に畑の外側に向かって走り出す。  
スピアー達はそれにまんまとひっかかり畑の外へと誘導される。  
その瞬間、キュウコンは一気に体を彼等の方向へ向けかえんほうしゃを放った。  
進化前のロコンの時から訓練し、リーグでは共に出場した同郷の好敵手(ライバル)に『地獄の業火』とまで形容された、それは瞬く間に群れの半数近くを真っ黒焦げにする。  
だがまだ半分が残っている。  
 
「キュウコン!あやしいひかり!その後にもう一度かえんほうしゃ!!」  
 
キュウコンが目から強力なあやしいひかりを放つと、残りのスピアー達はてんでばらばら滅茶苦茶な飛び方をし始めた。  
そこにもう一度キュウコンがかえんほうしゃを撃ち込む。  
攻撃を逃れたもの、こんがり焼けた後に目を覚ましたもの。  
キュウコンの攻撃に恐れをなしたのか全てのスピアー達は一斉に尻尾を巻き一目散に丘陵の向こうへ逃げていった。  
 
「くそっ、もう……だめだ……」  
 
その時にヴァルの体を襲って来た物は安堵感か、それとも耐え切れないほどの疲労感か、或いはその両方か。  
意識は段々と遠のいて行き、彼はその場にがっくりと膝を付きそのままその場に倒れこんでしまう。  
 
「おにいちゃん?!おきてぇっ!!おにいちゃん!!めをさましてぇっ!!」  
 
少女は必死に倒れ伏したヴァルの体を揺する。  
……極度の疲労と臨時の栄養失調で気を失ったとも知らずに。  
 
 
 
 
それは幼い頃の遠い思い出。五つ年下の妹と交わした約束。  
―俺はいつか絶対に全部のリーグ制覇してやるっ!―  
―うふふっ、それじゃああたし、こんてすとにぜぇんぶでてぜぇんぶゆうしょうする!!―  
九年後自分はそのリーグの内の一つ、ホウエン地方のリーグ制覇をした。  
そして妹は……その一年後に……  
 
ヴァルは目を覚まし、勢い良く体を起こす。  
また嫌な夢を見たものだと、片手で頭を抱えて目を閉じ、瞑目してしまう。  
心の何処かに封印していた筈の淡くなった記憶の断片。  
もう二度と紐解く事はないと思っていたのに……  
ふと気づけば彼は上に何も着ていなかった。  
外出着では当たり前だがベッドで横になる事なんて出来ない。しかしシャツくらいは……  
そこまで思ってから彼は周りを見回す。  
大きさにしてバスケットボールをやるコート位(420u)はありそうなそうな長方形をした広い部屋。  
高さはパッと見ただけでギャラドスが垂直に真っ直ぐ立てるだろう(6.5m以上)。  
そしてカビゴンまるまる一匹を余裕で飼えそうな雰囲気を持つ自分の眠っていた天蓋付きのベッドを始めとする数々の調度品。  
自分が巨人の国に来たかのような錯覚すら覚えたが、見たところ純然たる御屋敷そのものである。  
しばし唖然としてそれに見入っていたヴァルはベッドから出る。  
誰かがベッドに入る時に脱がせたであろう上着とシャツが大きな暖炉の近くにある椅子にかかっていた。  
シャツと上着だけを着て彼は部屋をゆっくりと出る。  
ともかくここの家主に事情を聞かねば。  
 
部屋の外はかなり長い廊下が続いていた。  
壁にかかっている振り子付きの大きな柱時計を見ると、指している時間は午後五時を五分ほど回っていた。  
あの小川のある辺りに辿り着いたのが午前十時頃だったことから七時間は眠っていた事になる。  
夏の夕方にも関わらず、外は夕立でも近いのか真っ黒な雲が垂れ込めている為に殆ど光量は夜に近い。  
そして幾分明かりが少ない為か廊下の端がはっきり見えず、ちょっとしたホラーハウスの様相を呈している。  
ゴーストポケモンが影からお迎えですよと言わんばかりだ。  
更に夏真っ盛りなのに廊下も自分のいた部屋も異様なほどにひんやりとした空気に包まれている。  
エアコンが効いているかそれの替わりになる氷系のポケモンでもいるのかなとちらと思った。  
が、エアコンでは機械音が確実にするだろうし、ポケモンの技では対人としては危険すぎる。  
ともかく先に進まねば事は進展しない。  
部屋の戸をそっと閉め5〜6歩歩き始めた時だった。  
突然外で轟音が鳴り響き窓から閃光が走る。かなり大きな雷が近くに落ちたのだ。  
そして光が止むと同時に外ではバケツを引っ繰り返したかのような大雨が降り始めた。  
最初の雷に驚いていたヴァル。  
後ろから何物かが殆ど足音もたてずに近づいている事に全く気づかなかった。  
 
「!!!…………あー、貴方がこの家の家主さんですか?」  
「いえ……私はこの家で執事をさせてもらっているデイビッドという者です。奥様より貴方様のお迎えを言いつかって参りました。」  
 
そこにいたのは割合小柄な白髪の老人。  
カチッとしているスーツを着ている辺り生真面目な性格だなとヴァルは思う。  
 
「奥様?旦那さんは今家にいないんですか?」  
「旦那様は現在仕事でカントーに出張中でございます。明日戻るご予定ですが。」  
「あ、そう……ともかくその奥様が待っている所に連れて行ってもらえませんか?お礼の一言も言いたいですし。」  
 
するとその執事は穏やかに笑って一礼する。  
 
「それはどうも……此処ではなんですから私について来て下さい。」  
「あっ……分かりました……」  
 
そう言うと執事はくるり180度向きを変え歩き出す。  
ヴァルはその後をついて行く事にする。  
外では依然として雷が鳴り響き、雨だれが窓を激しく叩いていた。  
 
 
 
「娘の危ない所を助けて頂き、本当に有り難う御座います。」  
「いや、そんな……自分は悲鳴が聞こえたから咄嗟にその場に向かっただけで、人として当然の行いをしたまでです。」  
 
ヴァルは元いた部屋と同じくらい大きな応接室にいた。  
天井からはたった一基でン十万円はしそうなシャンデリアが吊るされ、部屋の中をこうこうと照らしている。  
体がそのままずぶずぶと沈みこんでしまいそうな柔らかい大きな三人がけのソファの真ん中にしゃっちょこばった形でヴァルは座っている。  
反対側には、冴えた青のワンピースと真っ白なショールを身に纏った30代始め頃そうなショートカットの髪形をした女性が、同じ様なソファに座りつつ彼に優しい笑みを浮かべていた。  
こうしていてもまだ信じられない。  
まさか助けた少女の父親がオーキド博士の一番弟子に当たる人物だったとは。  
目の前にいるのはその当人ではないと気づいていながらも、体がどうしても固まってしまう。  
ヴァルがメイドによって目の前に出された温かいアップルティーを一口啜ると、相手側が話を続ける。  
 
「此処に来るまでに見たとは思いますけどポケモンセンターは今閉まっていますわ。どうでしょう?今日はこちらにお泊りになっては?」  
 
カップが一瞬ヴァルの口から離れる。  
ちょっとおかしい……幾ら自分の子供を助けてくれたとはいえ、引き止める人間がいるだろうか?  
ポケモントレーナーというのはこの世界では基本的に、自身で道を切り開いていく存在として認知されている。  
ポケモンセンターという施設もあるがそれはあくまでポケモン側に問題が出た時だけだ。  
周りの一般人は彼等に冷たくしているのではなく敢えて突き放しているのだ。  
ヴァル自身にもポケモントレーナーの友人がいるが、今の自分の様な状態になったという話は聞いた事が無い。  
尤もこんな状態こそそうそう起こりえない話だが……  
にっこりと笑った女性を少しの間だけ怪訝そうに見つめた彼は、気を取り直し自身も笑って対応した。  
 
「奥さん、ご厚意は非常に有り難いのですが、僕はポケモントレーナーです。野営する為の道具は持っていますし、次のコガネシティに行く事ぐらいは出来ます。今降っている雨があがったら直ぐに出発しますから御心配なく。」  
 
その言葉には嘘が入っていた。  
持っている食料と装備ではコガネシティまで行ける確率は恐らくゼロに近い。  
だが確かにヴァルは女性を安心させる一言を言ったつもりだった。  
しかし女性は表情を一切崩す事無くその言葉の対応をした。  
 
「私は純粋にお礼がしたいんです。何もやましい事は考えていませんわ。それに、今降っている雨は通り雨ではないですよ……?」  
 
同じ表情のままいちいちやましい事と断るのが怪しさを醸し出してはいた。  
が、これは高名な人物とお近づきになる事の出来る一種のチャンスと考えたヴァルは一つの結論を出した。  
 
「ではお言葉に甘えさせていただきます……」  
 
 
目の前に大皿小皿を含め幾つかの料理が並べられていく。  
そして自分のいる所の真ん中にある皿の両脇に数種のナイフとフォークが並ぶ。  
あの応接室で紅茶を何杯か頂いた後、もう少し休んだらどうかと言われたので更に二時間ほど仮眠を取る事にし、それを女性に告げた後最初にいた部屋に戻った。  
それからきっかり二時間後、あのデイビッドという執事がやって来て自分を起こしに来た。  
訊けば夕食の支度が出来たとの事。  
食堂まで案内しますと言われたのでついて行き、今の状況がある訳である。  
その食堂は先程の部屋より一回り大きかった訳だが。  
野営でのいつも食事は一品だけの自炊物に限っており、また種類の少ない食器で済ましていた為にどうすれば良いかわからない。  
女性は自分の目の前で粛々と食事を進めていく。  
ふと自分の隣にいたあの少女が、ヴァルが何にも手につけてない事に気づき、服を引っ張って自分に注意をひきつけた後、こっそりと耳打ちする。  
 
「そとがわからつかうの。」  
「あっ……分かった。」  
 
慌ててヴァルは外側のフォークとナイフを取る。  
その様子を女性は微笑ましげに見ていた。  
自分が助けた少女にこんな形で助けられるとは……それを静観していた女性もなかなか味な真似をするじゃないか。  
彼はふっと微笑んで食事を始めた。  
 
 
食後、手短にシャワーを浴びたヴァルは何とも言えない表情で元いた部屋に戻る事になった。  
というのも、着ていた服をメイド達が勝手に洗濯していたからである。  
流石に呆れてどういう事だと詰め寄る彼へ説明の替わりに渡されたのは、暗緑色をした一着のナイトガウン。  
彼女達が言うには彼が食事とシャワーを済ましている間に何かないかと探してやっと間に合わせたという事。  
おまけに奥さんはその時に彼の荷物の事情を知ってしまったらしく、風呂場からガウンを着たものの頭から雫を垂らしたままの彼に妖艶な笑みを浮かべながら、  
すれ違い様に『ゆっくりしていって良いのよ……』と言った。  
とはいえ全くゆっくりも出来なければ落ち着く事も出来ない。  
そして今はもうあと数分で日付が変わろうかという時間。  
部屋にある彼の持ち物は完全に整理されていたので、今更彼自身がどうこうしても無駄に散れるだけだ。  
ふと窓の外を見ると雲が晴れていき、大きく丸い月が高い夜空に輝いているのが見えた。  
見ろ、一過性の雨だったじゃないか……彼は一人ごちる。  
と、同時に優しさを向けられているにも拘らずホント自分は素直じゃないなと思ってしまう。  
昔から親にも言われていた事だ。  
丁度窓際まで来たその時後ろでドアの音がした。  
ふとその方向を振り返ると、少女の母親がバスケットか何かを抱えて戸口に立っていた。  
ヴァルはその方向を少し冷めた目で見た後再び視線を窓の外に戻す。  
 
「眠れないの?」  
「枕が変わるとあまり直ぐに寝付けない性質(たち)でしてね。……何しに来たんですか?」  
 
不本意にぶっきらぼうな言い方をするヴァル。  
彼女は少し悲しそうな表情になるが、直ぐにドアを閉めそのまま何も言わずに彼の元へ歩み寄る。  
 
「天国との往復切符を渡しに。」  
「ハァ?……何ですかそれは?からかってるんですか、俺を。」  
「からかってなんかいないわ……切符はこれよ。」  
 
そう言って彼女は腕に下げていたバスケットの蓋を開ける。  
中には氷水の入ったステンレス製の入れ物があり、その氷水にボトルワインが浸されていた。  
 
「ちょっと……俺は未成年ですよ?」  
「うふふ……こんな所でそういう考えは野暮ったい物よ。それに明日……もう今日かもしれないけど、お祝いしたい気分なの。」  
「……何を?」  
 
そう言うと彼女は窓の真正面に行きうっとりするような目で月を見つめる。  
 
「あの子の誕生日を。」  
 
そういう事かとヴァルは納得する。  
しかし自分は今とてもではないがそんな雰囲気には到底なれない。というのも……  
 
「そうですか。じゃあ、……俺も言わせていただきますけど、明日……いえ今日は俺にとって大事だった人の命日です。」  
「えっ?」  
 
拍子抜けしたような声がヴァルの耳に入ってくる。  
ギョッとした表情の彼女を放っておいて、彼は外の月に目を向けたまま一人で話し始めた。  
 
「今から八年前に不治の病で急逝した妹の……ね。初めて見に行ったコンテストで会場中を魅了したポケモンコーディネーターに見惚れたあいつは、自分もいつかポケモンコーディネーターになって世界中のコンテストを制覇してやるって息巻いていたんです。  
……けれどあいつがコンテストを生で見たのはそれが最初で最後。それから一週間もしない内に家の中で倒れて入院……度重なる手術や投薬にもめげずにいつか舞台に立てると強く信じてました。でも快方に向かう事は無く……」  
 
そこで彼は言葉を一旦切る。  
そうでもしなければ話し続ける事など出来はしない。  
 
「コンテストの会場にいた時にお互いに誓ったんです。自分は全国リーグ制覇。あいつは全国コンテスト制覇ってね。丁度今夜みたいな月夜に……」  
「そう……御免なさい。私ったら何も考えずに浮かれてしまって……」  
 
女性はバスケットを床に置き目を伏せる。  
 
「いや、俺こそ大人気無かったと思いますよ。……何むきになってんだか、俺……」  
 
ヴァルはそう言うとベッドに身を投げる。  
女性はベッドの端に腰かけ優しい口調で話し始めた。  
 
「埋めてあげましょうか?その寂しさと悲しさを。」  
「えっ?」  
「切符はあれ一つじゃないのよ。」  
 
そう言うと女性の指が大きめに開いたヴァルのガウンの胸元の中心を辿る。  
ヴァルの背中を高圧電流が来たかのような感覚が襲う。  
女性はなおも続ける。  
 
「私もね……最近までずっと病気療養が続いていたわ。夫やあの子にも会えなくて寂しかったもの。それで……やっと家族が一緒になれたと思ったら、今度はあの人が仕事で家を空ける事が多くなった……」  
「ちょっと……何やってるんですか?!怒りますよ。本気で怒りますよ!大体!旦那さんは今日戻ってくるんでしょう?!こういう事を求めてるんならもう少し待ったって……!!」  
「もう待ち過ぎたわ!ずっと寂しかった……体が疼いてどうしようもなくて一人で慰めもしたけど逆に気がおかしくなりそうだった!!」  
 
明らかに不貞行為に及ぼうとする女性を必死で制止するヴァル。  
しかし女性はヴァルに馬乗りになるような姿勢を取り、絞り出す様な涙声で事に及ぼうとする。  
 
「お願い!娘の命を助けてくれたんだからこれぐらいはしたいの!……今晩だけで良いのっ!……あなたを感じさせて……どんな形でもいいからぁっ……!」  
「奥さん……」  
 
駄目だ駄目だ駄目だだめだだめだダメダだメダだめ…………  
その時ヴァルの内心で何かがぷつりと静かに切れる。  
必死でかけていた自制心だと気づくのにそう時間はかからなかった。  
 
「分かりました……但し一回こっきりだけですからね……」  
 
 
 

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