「もう……、イクときは言って下さいって念を押したのに……」
浴室の扉が開かれ、不快な表情を露にしたモノマネ娘が部屋へと戻ってきた。
髪の毛にまで白濁を浴びせられた為、それをすべて落とし切るのに
かなりの時間を費やしたらしい。
先に上がっていたオレに向かって、モノマネ娘の不満げな視線が注がれる。
「わりィ、わりィ。言おうと思ってたんだけど我慢出来なくてさ。
でもよ、おまえ、なかなか才能あるぜ。100年に1人の逸材だな!」
オレは、へらへらと愛想笑いを浮かべながら、モノマネ娘に、おべっかを使う。
しかし、これはさすがに、自分でも苦しいと感じた。
恐らく、すぐにでも罵声が返ってくる事だろう。
覚悟を決めたオレは、その瞬間に備え、固く瞼を閉じる。
「そんなに……、良かったでしょうか……?」
「へ?」
予想とはだいぶかけ離れた彼女の台詞に、自分の耳を疑ったオレは、咄嗟に目を見開く。
――まさか……、今の世辞に騙されたのか?
「――お、おう! おまえほど成長の見込める人間は滅多にいないぜ!」
確認の為、親指をグッと立てながら、もう1度褒めてみる。
「そうですか……。そ、そう言われると、なんだか照れますねぇ。えへへ……」
頬を軽く染め、嬉しそうに頭を掻く姿は、
どう考えても本気で喜んでいるようにしか見えない。
こいつ……、この程度でよく、ロケット団に入団出来たな。
――まぁ、それに関しては、オレが気にする必要など無いが。
それよりも問題なのは、コロコロと変化するモノマネ娘の性格だ。
コイツが、いったい、どういうつもりで性格を豹変させているのか。
風呂から上がった後も、その事ばかりが頭をかすめ、
落ち着いて、くつろぐ事も出来なかった。
ここは、なんとか真実を聞き出したいところだ。
「なぁ、ちょっと聞きたい事があるんだが――」
「はい? なんでしょうか?」
そこまで話したところで、オレは不意に口をつぐむ。
こんな事を尋ねたりして、再び豹変されたりしないだろうか……。
1抹の不安が、オレに発言をためらわせた。ハッキリ言って豹変時のモノマネ娘は苦手だ。
あの得体の知れない、深い闇のような囁き……。
アレを耳にしただけで、生気が吸い取られるというか、神経を削られるというか、
とにかく、言葉で説明するのが難しい、不快な感覚に襲われるのだ。
出来ることなら、この事には触れないで置きたい。――だが……。
そこでオレはモノマネ娘の方を、チラリと見やる。
「――どうしたんですか?」
彼女は腹部の前で手を組み、変わらぬ笑顔でオレの言葉を待っている。
不必要に引き伸ばすのは返って危険か。ここは賭けに出よう。
覚悟を決めたオレは、背けていた視線をモノマネ娘に戻し、その場で大きく深呼吸をした。
「単刀直入に聞くけどよ……、なんでおまえ、たまに声色変えて話すんだ?」
その瞬間、予想通り室内に沈黙が訪れた。別に取り分け長い沈黙という訳では無いだろう。
実際にはまだ、数秒と経っていない筈だ。
だが、この間が、オレにとっては、何分、何10分といった長い時間に感じられる。
現在、この静かな室内に聴こえるのは、時代を感じさせる振り子時計の音のみ。
その焦燥感を煽る音だけが、オレの脳内に、いつまでも木霊していた。
「――貴方には……、話しても良いかもしれませんね……」
沈黙が破られた瞬間だった。先程に比べると僅かばかり、声のトーンは低く感じられるが、
豹変という程のものでは無い。それに安堵を感じたオレはスッと肩の力を抜く。
モノマネ娘の頭を縦に振らせるには、もう少し手こずるだろうと思っていた。
しかし、予想に反して意外な程あっさりと、OKサインを貰えたので、
少々、拍子抜けしてしまった感はある。
もしかして、コイツの豹変には大した理由など無いのかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎるのも、至極当然の事に思えた。
「実はわたし、ポケモンと体を共有しているんです」
「――きょ……きょうゆう?」
オレは、モノマネ娘の突拍子もない台詞に、思わずオウム返しになる。
共有? 話しの出だしからして意味が分からないのだが……。
彼女は、そんなオレの様子を気にも留めず(気付いていないだけかもしれないが)
話しを進めてゆく。
「以前、わたしがシンオウ地方を旅行したときのことです。
そこで出会った、あるポケモンからこれを頂いたんですよ」
そう言って、モノマネ娘は懐から何かを取り出し、自分の手のひらの上に乗せた。
オレは彼女の傍まで近づき、その手の中を覗き込む。
そこにあったのは、吸い込まれそうな程の深き闇を湛えた、漆黒の石。
チェーンが付けられているのは、首に掛ける事を想定しているからだろう。
「これは……、宝石……ブラックオニキスか?」
「正解です! よく分かりましたね!」
「まぁ、物の価値を見抜けないと、やっていけねぇからな。裏の世界は」
しかし、ポケモンから宝石を渡されるなどという話しは、初めて聞いた。
なんだか、この先には、オレの知らない世界が広がっていそうな気がする。
「ブラックオニキスは、悪霊から身を守る石とも呼ばれていまして……。
他にも体の不調時、鬱状態にも効果があると言われ――と、話しが横道に逸れましたね。
――わたしに、ブラックオニキスを授けて下さったポケモンいわく、
この宝石は契約の証しなんだそうです」
「契約の……証し?」
「はい!
貴方はホウエン地方に伝わる神話、グラードンとカイオーガの伝説をご存知ですか?」
「――ええと、たしか……、大昔に陸地を広げたって言われてるのがグラードン。
海を広げたってのがカイオーガだったか?」
「その通りです! その2匹の古代ポケモンを鎮めるために、
古代人の方たちは2つの宝珠を使ったと言われています。
――熱き溶岩の咆哮を鎮めるは紅色の宝珠。猛る荒波を鎮めるは藍色の宝珠。
――このブラックオニキスには、その2つの宝珠と同じような役目があるそうなんです」
同じ役目……、ということは、ポケモンを鎮める力……。
「わたしと契約を交わし、体を共有したポケモンの名前は――」
その瞬間、オレの心臓は大きく跳ね上がる。
理由はすぐに分かった。先程、浴室で味わった、あの言い知れぬ恐怖に間違いない。
あの時は、その恐ろしさ故、モノマネ娘の話しを静止させてしまったが、
今回は、そういう訳にはいかない。自分から話しを振っておいて、
『怖くなったから、やっぱり聞きたくありません』では、示しがつかないだろう。
体から吹き出る脂汗の影響で目元が霞む。オレは、それを腕で拭い、
しっかりと絨毯を踏みしめる。
「――終わり無き悪夢……。終わり無き悪夢の……ダークライ」
「う……」
その名前を耳にした瞬間、視界が歪み、激しい目眩に襲われた。
そのまま、自分の体が前方に向かってグラリと傾くのを空気の流れで感じ取る。
次の瞬間、柔らかい何かがオレの体を包みこんだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
気がつくと、モノマネ娘に抱き止められていた。オレの両肩を掴み、全身に力を込めて、
体を支えてくれているようだが、いかんせん体重差がありすぎる。
モノマネ娘が沈んでゆくのを目にしたオレは、なんとか両足に力を入れ、
自分の体勢を立て直した。
「お体の調子、良くないんですか?」
モノマネ娘が心配そうに、オレの顔を覗きこんでくる。
「い、いや、少し目眩がしただけだ。続けてくれ……」
オレは心底驚いていた。
まさか、名前を聞かされただけで意識をかき乱されるポケモンが存在するとはな。
しかし、『ポケモンと体を共有』の部分だけは、いまだに納得がいかない。
そんな出来事が現実に存在しうるのだろうか? オレには到底信じられそうもない。
「それで……、おまえは自分が豹変する理由を、
そのダークライとかいうポケモンのせいだとでも言うつもりか?
たまにダークライの意識が表れて、おまえの意思とは関係無く、勝手に喋ると……」
「は、はい! その通り! お見事です!
ダークライさんは、わたしの意思とは関係無く、自由に表れることが出来るんですよ。
先程、わたしはいつもと違うテンションで喋りましたが、
あれもダークライさんだったんです。
彼女は、いざとなったら、わたしのことを守って下さるんですけど、
そのお礼として、わたしはダークライさんに体を提供しているんです。
ちなみに、どちらの人格が出ているときでも、お互いに意識はあるんですよ。
就寝時や気絶しているときを除いて」
そこまで聞いて、オレはようやく理解した。
思い返せば、最初に豹変した時点で気付くべきだったのかもしれない。
たった今、モノマネ娘の中身に対する、オレの結論が出た。
ルックスは、こんなにも優れているのに、本当に惜しいことだと思う。
オレは、おぼつかない足取りでフラフラと電話機の方へと向かう。
そのまま受話器を手に取り、適当に番号を押してみた。
「ど、どうされたんですか?」
「待ってろ。今、医者を呼んでやるからな」
「――え……? ――ちょ、ちょっと、ちょっと! わたしは正気ですよぉ!」
モノマネ娘が、慌てふためきながら、オレの腕にすがり付いて来た。
「チッ、電話線、切られてんのか」
何度ボタンを押そうとも、まったく反応を示さない電話機に向かって舌打ちをする。
「それはそうですよ。貴方は捕虜の身なんですから」
まぁ、もっともな見解だ。オレは諦めて受話器を元の場所へと戻す。
「おまえ、ポケギアくらい持ってんだろ。貸してくれ」
「ま、まさか本気で病院に連絡を?」
「なワケねーだろ。知り合いに、今の状況を報告すんだよ。
ここを出るための助けになってくれるヤツがいるかもしれねぇし。
あんまり期待は出来ないけどな」
「――やっぱり……、ここから脱走する、おつもりなんですか?」
「当たり前だろ。こんな所にいたら、命がいくつあっても、足りゃあしねぇ」
「そう……ですか……。――でも、その後、ロケット団の本部に戻るということは――」
「あるわけねぇだろ。なに言ってんだおまえは……」
ロケット団の総帥であるサカキが、伝令を使い、辞令を寄越したのだ。
それは明らかに正式な解雇。この状況で本部へ帰還しようとも、
すぐさま叩き出されるのが関の山だ。なによりオレのプライドが許さない。
ただの強がり……。そう言われてしまえば、反論する術も無いが。
「でも、わたしがサカキ様に陳情すれば――」
「有り得ないな。おまえ、闇梟の中では、どれくらいの地位だ?」
「……え……えぇと……。したっぱ……です……」
俯き加減で言いにくそうに答えるモノマネ娘。予想通りだ。
「そんな地位に置かれてる人間が、トップに陳情だなんて無謀にも程があるだろうが。
ヘタすりゃ、おまえの印象が悪くなるだけだ。やめとけ、やめとけ」
オレは手をひらひらと振り、モノマネ娘をあしらう。
なに考えてんだコイツは。オレがロケット団に復帰したところで、どんな得がある。
この不信感を持って、サカキの元へ戻る事など出来ない。
それくらい冷静に考えれば分かるはずだ。
「なぁ……。おまえは、なんでロケット団に入ったんだ?」
「え?」
「ロケット団は知っての通り、ポケモンを使い、悪事を働く組織だ。
おまえみたいな、他人の身を気遣うような人間には、もっとも相応しくない場所だぞ」
ずっと不可解だと感じていた。オレがコイツに出会ってから、まだ1日と経っていない。
そんな短い時間を過ごしただけにも関わらず、
いつの間にか、オレはコイツの人柄を好いていた。
思いやり、慈しみ、親愛……。孤児院に入れられて以来、
ずっと味わうことの無かった優しさを、今日1日で、たっぷりと浴びせられた気がする。
これ程までに幸せを感じさせてくれるような人間が、
ロケット団の一員とは、あまりにも似つかわしくない。素直にそう思ったのだ。
「――やっぱり……、内側から変えてゆく必要があると思ったんです」
少女はポツリと呟いた。
「人が悪事に身を染める過程は色々とありますけど、
きっとそれは、絶望や憎しみによるところが大きいと思うんです。
だから、そんな人たちの心の闇を払うことが出来れば、きっと今までの行いを悔いて――」
「もういい。聞いたオレがバカだった」
そう言ってオレは、ソファーに深く腰を下ろした。
決して、コイツの考え方が気に入らないだとか、そういう意味での振る舞いではない。
たどたどしくも紡ぎ出された彼女の言葉。その1つ1つが、とても純粋だと感じたからだ。
話しの内容は稚拙で愚直。こんな考え方の人間が犯罪組織の一員など、
一般人は、なにかの冗談だと思うだろう。
「ど、どういう意味でしょうか?」
モノマネ娘は、自分の意見を馬鹿にされたと思っているらしく、
厳しさを湛えた眼で、こちらを睨んでくる。
その、どこまでも真っ直ぐな、濁り無き青い瞳から伝わってくるのは、
純粋に人の幸せを願う信念。
その、あどけない容姿からは想像が出来ない程の、
大きなものを彼女は背負っている。オレが、それに気付かされた瞬間だった。
「まぁ、その話しは、ひとまず置いといてだな――。――ん?」
オレが口にした台詞は、扉がノックされる音により、最後まで紡がれる事なく四散した。
突然の出来事に、オレたちは、ほぼ同時に扉のほうへと目を向ける。
「おまえに面会だ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、ナツメの声だった。
ヤツに対する恐怖感を拭い去ることの出来ないオレは、条件反射の如く、身をすくめた。
しかし、今は他に気にすべきことがある。オレに面会だと? いったい誰が?
胸中に不安を抱えたまま、静かに次の言葉を待つ。
「キクコ殿。どうぞこちらへ」
――キクコ……だと?
その名前を耳にした瞬間、陽光が差し始めていたオレの心に、再び黒雲が掛かってゆく。
それほどまでにヤツの存在は、オレにとって、不吉の象徴なのだ。
額から流れ出た1筋の汗が頬を伝ってくる。
「まさか……、こんな場所で再会することになるとはな……」
扉が開錠される音に耳をそばだてながら、オレは静かに対面の瞬間を待ち続けた。